ホロがターニャを連れて外に行き、ロレンスが腕まくりをして地下室に向かったので、エルサもあまり気が乗らなかったが、古い城砦の中を見て回ることにした。

 歴史というのは羊皮紙に記されることもあるが、壁に絵として残されることもある。ヴァラン司教領の聖堂ではまさに絵として残っていて、どう見ても不可解だったそれにも真実が記されていた。あるいはこっそり祠のようなものが残されていて、大蛇が祀られていたりすれば話は早いのだが。

 エルサはそんなことを思いながら建物の中を散策し、見慣れた日々の農村の暮らしの残滓を確かめるばかりとなった。

 そこは人が住んでいないので家具がなく、がらんとした部屋の隅には麦わらやらが寂しく残されている。壁のあちこちに彫られた燭台も長らく使われていないようで、埃がたっぷり積もっていた。

 二階や三階に上がったところで状況はあまり変わらず、村の祭りや寄り合いで使うのだろう、普通の家ではまず持て余す巨大な鍋やらがしまわれているくらいだった。

 がたつく木窓を開けて外を見れば、中庭をぐるりと取り囲む防壁のせいで視界が悪い。

 かつては異教徒との戦場であり、戦火に見舞われたこともあるのだろう。

 そんな人と人との争いの中を、巨大な蛇が我関せずと歩く様を想像して、エルサはつい笑ってしまう。

「勇者ウォラギネ。あなたは本当に蛇を倒したのですか?」

 その蛇のせいで、物流が滞っていたという。

 この建物はがっちりと石壁に四方を囲まれているが、大蛇の大きさというのがホロたちと似たような基準なのだとしたら、脱皮の際に残った皮を剥がそうと体をこすりつけるだけで簡単に崩れ去ってしまうだろう。

 教会に残されていた伝記には、剣を振り上げて首に突き立てたのだという。

 よしんば勇者ウォラギネが異教の神を討ち取れるほどの膂力の持ち主だったのだとしても、賢狼と呼ばれた狼や、禿山にせっせと木を植えていた気のいい栗鼠と知り合った身としては、剣を突き立てる前にできることがあったような気がする。

 彼らは決して、話しの通じない相手ではないのだから。

 木窓を閉じて部屋を出て、階段を降りている最中にふと頭にひとつの考えが降りてきた。

「それとも……あの狼夫婦と同じ、とか?」

 エルサはその可能性に思い至り、やや驚いた。もしも蛇の化身と勇者ウォラギネが心を通わせていたのなら、奇跡の演出などたやすいものなのだから。

「ロレンスさんはその可能性を見越していたのでしょうか」

 賢狼ホロの真の姿を見たことがあるエルサとしては、あの手の存在に人が立ち向かって、力で勝てるはずがないという確信がある。もう何年も一緒にいるロレンスならばなおさらだろう。

 だとすると、蓋然性が高いのはどんな事態かと詰めていけば、そこにたどり着くのは難しくないのかもしれない。

 大蛇と勇者ウォラギネは恋仲か、あるいは友人同士で、この土地の伝説は作られたものだと。

「……すでに町でその手の話を聞いていたとか、いかにもあり得そうですね」

 間抜けそうに見えるのは最愛の妻の横にいるときだけで、実のところ抜け目のない男なのだ。

 そしてもしも勇者ウォラギネによる大蛇討伐の伝説が作り話であるのなら、ロレンスが平気な顔でこの土地の特権を手に入れようとするのも合点がいく。

 むしろ自分たちと同じような存在がいたのだとホロに示せれば、あの塞ぎがちなところのある狼には良い知らせかもしれない。

「しかし」

 と、エルサは中庭に出て、だいぶ色がついて夕刻が迫りつつある日差しの中を歩きながら、両腕を組む。

「そのことをロレンスさんたちが確信することと、木材商人たちを説得することは別問題のはずなのですよね……。どのように市井の人々を説得するつもりなのでしょう」

 問題は、ロレンスたちが真実に気がつくだけでは不十分なことなのだ。大蛇を巡る伝説を木材商人たちに納得させ、関税は正しいものだと説得させなければならない。そして頭蓋骨のようなわかりやすいものがあったのなら、司教が自身で木材商人たちを黙らせていたはず。

 ならばロレンスはなにか決定的な証拠を手に入れたと考えるべきなのだが、皆目見当もつかないし、そんなものがあるというそぶりも見せていなかった。

 獲物を追い詰めたと思ったら、袋小路の論理の道の先からふっとその姿が消えてしまう。

 ロレンスは一体、なんの尻尾を掴んでいるのか。

 あるいは、掴んだと思い込んでいるだけなのか?

「ホロさんの協力が得られていないのですから、特殊な方法ではないはずなのですが」

 理屈がはっきりし、論理の筋道が美しくまっすぐ伸びていることに喜びを感じる性格のエルサなので、うまく説明できないことがあるとどうしても気になってしまう。

 足元を見つめながら思考に没頭して歩き回っていたら、いつのまにか城砦の外に出てしまっていた。

 テレオの村ではこういうとき、大体顔を上げると子供を連れた夫が呆れ顔で笑っている。

 けれどもその村からずいぶん離れたサロニアの平原には、秋の色に染まった草に腰掛けている少女の姿だけが、ぽつんとあった。

 子供の湿った小さな手の感触を思い出しながら、エルサはホロに歩み寄った。

「ここの麦畑はいかがですか」

 エルサが隣に立ってもちらとも視線を向けないが、人の目がないのをいいことに露わにした狼の耳は、相槌を打つようにぱたぱたと動いていた。

「ロレンスさんは、この光景をあなたに贈りたいのでしょうね」

 見渡す限りの黄金色の海。

 平野生まれのエルサは、ニョッヒラのような狭苦しい場所よりよほど好きだ。

「喜んであげたらどうですか?」

 無邪気に、と付け加えようとしてやめたのは、意固地になるかもしれないと思ったから。

「たわけ」

 ホロは短くそう言ったものの、言葉に力が感じられない。

 ぱたぱたと草地を叩く狼の尻尾も、不機嫌にしては切れがない。

 エルサが黙って側に立っていると、ホロは大きくため息をついてから口を開いた。

「色々残そうとしてくれるのは嬉しいがのう」

 ホロは立てた膝の上に頬杖をついて、不貞腐れた女の子のように麦畑を見つめている。

「残されすぎも困りんす」

 贅沢な悩み、とも一瞬エルサは思ったが、助司祭の言葉を思い出した。

「管理が大変だそうですからね」

「まったくじゃ、あのたわけは……」

 と、ホロは立てていた膝を下ろし、胡坐をかいた。

「わっちならば尻尾の一振りで麦を豊作にできると思っておるんじゃろう」

「できないのですか?」

 その問いに、ホロはようやくエルサを見て、睨みつけた。

「できるに決まっておるじゃろうが」

 ならば、と言いかけたが、問題はそれだけではないのだ。

 そうやって豊作にしたところで、何十年か後、収穫の様子を眺めていた歳若い少女が立ち上がって城砦に帰っても、かつての伴侶の姿はない。

 エルサはそう思ったのだが、ホロの口から続けられた言葉はもう少し現実的なものだった。

「麦は育てて終わりではありんせん。人が走れば疲れるように、土も使えば疲弊しんす。大雨が降れば土地から肥沃な土が流れていくし、水路は簡単に壊れてしまいんす。そういったことまでわっちには対処できぬ。日照りならばなおさらじゃし、刈り取った後の麦のこととなるとわっちゃあもはや完全に無力じゃ。麦を高値できちんと売れるのか、それとも性悪な商人やらに騙し取られるのか、そのすべての世話を焼くことはできぬ。人の世の仕組みは、面倒で複雑なんじゃ」

 麦の育成と麦畑の経営はまた別もの、と賢狼は理解しているのだ。

「湯屋を空っぽにするわけにもいかぬじゃろうし、不肖の娘はあのたわけにそっくりなところがあってのう。なおさら土地の管理のような細かいことは無理じゃろう」

 一人娘のミューリは今では聖女などと呼ばれているようだが、どうも世に流布している評判とは少し違うらしい。ロレンスとホロの娘とは、どんな少女なのだろうか。

 エルサは想像して、なぜか笑えてきてしまう。きっと眩しいくらいに屈託のない少女なのだから。

 そして、エルサは思ったことをそのまま口にした。

「幸せな悩みですね」

 ホロの胡乱な視線を感じたが、エルサは微笑みながら麦畑を見やり、ようやくホロのほうを向いた。

「違いますか?」

 麦畑に混じればすぐに見分けがつかなくなりそうな髪の毛を、そよ風に揺らしたホロは唇を尖らせた。

「違わぬ」

 けれども出てくるのは、大きなため息だ。

「酒と二日酔いの関係に似ておるがのう」

「何事もほどほどが一番です」

「まったくじゃ!」

 ホロはそう言って、ごろんと横になる。

「愛されすぎるのも、辛いものでありんす」

 照れも衒いもないし、実際に愛されすぎだとエルサは思う。

 それこそ、近くにいるだけで笑ってしまうくらいに。

「ターニャさんに任せたら、案外うまくやれるのでは?」

 エルサは思いつきを口にしてみたものの、すぐに思い直す。

「いや、人が好すぎるとうまくいかない気もしますね」

「んむ。あやつは山で木を相手にしておるのが向いておる。ほれ、開けた場所では不安そうじゃろうが」

 体を起こしたホロが顎をしゃくれば、道に迷ったようにとぼとぼ歩くターニャの姿が見えた。

 ターニャはホロとエルサに気がつくと、ぱっと顔を輝かせて両手を振ってきた。

「蛇はいないということでしょうか」

 手を振り返しながら、エルサはホロに聞いた。

「まずおらぬ。きっと古い昔でもそれは変わらぬ」

 栗鼠のターニャはころころ転がるように駆けてきて、こちらがどうだと聞く前に首を横に振った。ホロはターニャをねぎらいつつ、手を貸してもらって立ち上がっていた。

「まったく、あのたわけはなにを企んでおるのか」

 ホロの積極的な協力が得られなければ、人の世の外の手がかりを得るのは難しいはず。仮に手を借りられたとしても、動かぬ証拠を突きつけねば商人たちの説得はおぼつかない。

 そして、そのことはホロ自身もよくわかっているだろうから、エルサと同じ疑問に行きついているのだ。

 蛇がいるという目はそもそも薄いが、仮にいたとして、それを一体どうやって証明するつもりなのだろうか?

「地元の人たちに話を聞いたら、なにかわかるでしょうか」

「ふうむ……」

 ホロは頭巾をかぶり直し、尻尾を服の裾の下にしまう。

「あのたわけの暑苦しさはともかく、あのたわけの思惑が見抜けぬのは賢狼の名折れじゃ」

 それは勝ち負けの話というより、隣に立っているのに同じ景色が見えないことに対する不平のようにエルサには聞こえた。

 この狼は、伴侶とずっと連れ添って、同じ景色、同じ空気、同じ時間を過ごしたいのだ。

 そのことにあの如才ないロレンスが気がついていないとも思えないのだが、現に二人はこうしてばらばらになって過ごしている。

 そのホロは、ターニャのふわふわの髪の毛にくっついた、麦わらだの枯草だのを仕方ないなとばかりに取ってやっていた。人懐っこいターニャは、純粋に嬉しそうにされるがまま。

 その様子に、エルサは自分がホロたちと出会ったばかりの、まだ年若い娘時代に戻ったような気がしてしまう。

 この歳になってなにを今更と思いつつ、ホロたちにはそういう無邪気な空気を作り出す不思議な雰囲気がある。

 エルサは自嘲気味の笑顔で小さくため息をつくと、自分もまたターニャの髪の毛に手を伸ばす。教会にいた娘たちが編んだ下手な髪の毛を解き、手早く綺麗に編み直していく。

 ホロは手際の良さに感心し、ターニャはご満悦だ。

 娘時代に戻ったような時間を半ばくすぐったく過ごしていたところ、ホロがふと首を伸ばしてあらぬ方向を見た。

「むっ?」

 ホロはきょろきょろと視線を巡らせ、最後には城砦の入り口へと顔を向けた。

 そして、たちまち顔をしかめていた。

「なんじゃあの面は……」

 嫌そうなホロの口調は、乙女三人のいる場所に無粋な男がやってきたから、ということかもしれない。なにか紙きれを手にして手を振るロレンスは、ひどく上機嫌で笑っている。

 その様子は、その男を生涯の伴侶と決めた者からすると、こちら側が大人にならざるを得ないような不安とため息を誘う、あまりにも少年らしい無邪気さなのだった。



★2021年10月8日更新の『狼と香辛料 狼とかつての猟犬のため息≪第七部≫』に続く。