※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.52掲載の前半を抜粋したものです。


 雪解けを迎え、春を祝う祭りも終わり、新緑の季節がやってきた。

 避暑のための客が顔を見せる夏まではまだ時間があり、一年で最も喧騒と狂乱に満ちる冬の時期も遠い。次の季節に向けた村中の建物の補修や改築はひと段落ついていて、村のどの湯屋も静かだった。

 自分が勤める湯屋『狼と香辛料亭』も例外ではない。客はいないし、湯屋の主人のロレンスは村の寄合に行っていて不在だし、その妻のホロも珍しくついていってしまった。多分、寄合とは名ばかりの酒盛りなのと、季節が良いので色々と御馳走が並ぶからだろう。炊事場を取り仕切る女性、ハンナも、山に茸やら山菜やらを採りに行っている。そんな具合なので、朝から一通り働けば、昼前には手持無沙汰になってしまっていた。

 こういう時こそ神の教えを学ぶために神学書を紐解くべきなのだろうが、時間はあり、それ以上に湯もたっぷりある。ハンナが作り置きしてくれた昼食を摂る前に、誰もいない湯船に浸かり、青い空の下でため息をついていた。あまりにも心地よく、静かな時間だ。

 側には最近飲みつけている甘い蜂蜜酒も置いてある。怠惰への罪悪感と共に一口すすって天を仰げば、そこには綺麗な青空が広がっている。

 これ以上なにも望むことはなく、神学書を開くよりもよほど神の説く幸せに辿りつけそうな、そんな気さえした。

「ああ……」

 ずっとこんな時間が続けばいいのに。

 勤労と勤勉の自戒など脇に置き、怠惰な感情に身を任せた、その直後だった。

 兄~様~!

 そんな声が遠くから聞こえた気がした。

 一瞬、転寝でもしていて夢の中で聞いたのかと思ったが、再度、はっきりと聞こえた。

「兄様ー!」

 どうやら、川に遊びに行っていたミューリが戻って来たらしい。『狼と香辛料亭』の主人であるロレンスと、その妻であるホロの一人娘で、自分のことを兄と呼んで慕ってくれている。年の頃は十二か三か、早ければそろそろ嫁に行こうかという頃合で、そのことを考えると少し寂しい気がしないでもない。

 とはいえ、最近はそのことが逆の意味で気がかりでもあった。

「湯のほうにいますよ!」

 そう声を向けると、ほどなくぱたぱたと足音がして、ミューリが浴場に現れた。

「いた! 兄様ー!」

 ミューリはこちらを見るや、ぱっと顔を輝かせた。

 母親とそっくりの顔立ちで、目の色も同じだが、二人は笑い方が全然違う。ホロの笑みにはゆっくりと蜂蜜で煮詰めたような柔らかさがあるが、ミューリの笑顔は夏の太陽そのものだ。

 眩しくてキラキラと輝いていて、時折、すごく暑苦しい。

「兄様! ねえねえ! 見てこれ! すごいでしょ!」

 ミューリは両腕で抱えていた籠を揺すり、小走りに駆けてくる。服がびしょぬれなのは、大方川遊びに夢中で何度か川の中に落ちたのだろう。

 生傷が絶えないし、幼い頃からなに一つ変わっていない元気さと無邪気さ、その笑顔には、こちらも釣られて笑ってしまうような魅力が満ちている。若さと天真爛漫さの底力を感じさせられることも、たくさんある。

 だが、いつからだろうか。

 その笑顔が、少し怖くなったのは。

「ミューリ、そんなに走ると――」

 足を滑らせますよ、と言いかけた時だった。

 夢中で駆けてきたミューリは湯船の縁で無理に止まろうとして、見事に足を滑らせていた。

「あれ?」

 そして、抱えていた籠ごと湯の中に突っ込んだ。

「……」

 水しぶきを頭からかぶり、前髪から雫がしたたり落ちるその向こうで、ぶくぶくと泡が立っている。十二か三の年頃の少女と言えば、裁縫や料理の習得にせっせと励み、笑う時は歯を見せず、はにかむようにして小首を傾げるのが良い、とされている。そのどれもが、ミューリからは縁遠い代物だ。

 実の妹のように世話をしてきたミューリが嫁に行くのは寂しいが、最近はむしろ、嫁の貰い手があるのだろうかと不安になる。ため息をつき、なかなか上がってこないミューリを引っ張り起こそうかと思い、ふと気がつく。

 湯の中を、なにかが動き回っていた。

「ぷわっ!」

 ミューリがようやく湯の中から顔を上げた。

「ミューリ、あなたは一体――」

「兄様! ぼさっとしてないで!」

 こちらを見もしないミューリは、湯の中を睨みつけてなにかを身構えている。

 そして、おもむろに湯の中に頭ごと腕を突っ込むと、今度はすぐに顔と腕を上げた。

「この……おとなしくしろー!」

 叫ぶミューリの手の中で、丸々太ったヤツメウナギが踊っていた。

「あ、あ、逃げちゃう、逃げちゃっ……きゃあっ!」

 すぽん、とミューリの手からヤツメウナギが逃げ、変な姿勢で追いすがっていたミューリは再び湯の中にひっくり返る。

 どうやら、湯の中をうごめいているのは、ミューリが川で捕まえてきた獲物らしい。少し離れた場所では、大きな鱒が熱い熱いとばかりに水面から飛び出していた。

 ばちゃばちゃと湯の中で暴れるミューリと魚たちの攻防を前に、大きく息を吸って、吐きだした。

「ミューリ!」

 穏やかで平穏な時間は、あっという間に消え去ったのだった。



 そんな話をすれば、魚を刺した串を炭が赤々と熾っている囲炉裏に立てていたその人物は、くつくつと笑っていた。亜麻色の髪の毛と赤い目を持ち、顔立ちはミューリと瓜二つ。背格好も似ているし、どう見ても年の頃は十四かそこらで、黙っていれば可憐な少女以外の何者でもない。しかし、その笑い方には、妙な迫力がある。多分それは、恐ろしく長い時を生きてきた経験ゆえの凄みなのだ。

 ミューリの母であるホロは、人ではない。囲炉裏の火に照らされた壁には、大きな三角の耳と尻尾の影がある。賢狼ホロと呼ばれ、かつては神と崇められていたような、麦に宿り何百年と生きる狼の化身だった。

「笑い事ではありません。湯治客のいない時期で助かりましたよ」

「なに、湯の中に魚がおれば、酒のつまみを取りに行く手間が省けるではないかや」

 ホロは楽しそうにそんなことを言っていた。

 ミューリが湯の中にぶちまけた魚は、湯の中から生きて助け出せたものは樽に水を張って生かしてあるが、残りは茹ってしまっていた。捨てるのも忍びなく、かといって村の者たちに振る舞うのもどうかと思ったので、いくらかは捌いて燻製にして、残りは塩焼きにして食べることにした。

 鍋にしなかったのは、それ以上茹でるのがなんとなくかわいそうな気がしたからだ。

「で、そのたわけはどこ行ったんじゃ?」

 魚に塩を振りかけていたホロは、指についた塩をちろりと舐めながら言う。

「ロレンスさんに叱られて、薪割りをしています」

 するとホロは、じうじうとうまそうな音を立てながら焼ける魚から、視線を上げた。

「ふむ?」

 次いで、頭の上の大きな三角の耳をひくひくと動かしている。何百歳と歳上で、しかも湯屋の主人の妻たるホロではあるが、その耳とふさふさの尻尾は、憚らず言えば、とても可愛らしい。自分がかつて幼かった頃など、一度ならずその尻尾にしがみつかせてもらったりした。

「どうしました?」

「うむ。その割りには静かだと思ってのう」

 湯屋には客もおらず、静まり返っている。鼠のあくびさえ聞こえそうなほどだ。

 文字どおり獣並みの耳の良さを誇るホロが言うのだから、その静けさは意味深だ。

「ロレンスさんが見張っているはずですが……」

「わっちの宿六はしこたま酒を飲んでおったからのう。寝ておるのやもしれぬ」

 そう言うホロも、だいぶ飲んでいる。

「ちょっと見てきます」

 立ち上がると、ホロが呼びとめた。

「うむ。あ、ついでに炊事場に寄って、干し葡萄を水に漬けておいてくりゃれ?」

「干し葡萄?」

 振り向くと、ホロが目を輝かせ、尻尾をわさわさと揺らしていた。

「南に出かけた誰かからの土産だそうじゃ。寄合で分けてもらってのう。そのまま食べても甘くてうまいが、浸るくらいの水に一晩つけて、その水を使ってパンをこねて焼くと、それはそれは甘くてうまいパンが焼けると聞いたんじゃ」

 食に関して、ホロはミューリよりも子供っぽい。

 だが、干し葡萄のパンは、確かにおいしそうだ。

「コル坊も甘い物が好きじゃろう? 水に漬ける前に、少しなら食べてもよい。わっちの名において許そう」

 ホロとロレンスの二人に出会った頃の、まだ幼かった自分の呼び名を呼ばれ、少し面映ゆい。

 もっとも、長じてさえ、苦い麦酒よりも甘い蜂蜜酒を好んでいるのだから、子供扱いされても仕方がない。

「ありがとうございます。いただきます」

「頼みんす」

 ホロはひと言言うと、もうその関心は魚の焼け具合に向けられている。そんな様子に小さく笑い、建物の裏手に向かった。

 真っ暗な廊下を歩いてもやはり静かで、物音一つしない。薪割りをしていればぱかんぱかんと音がするはず。薪置き場は炊事場の隣なので、先に炊事場を覗いてみた。

 ただ、ホロの言っていた干し葡萄は見当たらない。もしかしたらロレンスが、干し葡萄を餌にミューリに薪割りをさせているのかもしれない。そう思い、外に出て薪置き場を覗いてみた。星と月明りに照らされたそこでは、丸太の山にもたれかかり、主人のロレンスが眠りこけていた。

「……ロレンスさん」

 呆れて呟くと、んご、と一瞬ロレンスの息が止まり、また静かな寝息をたてはじめる。見た目は出会ったばかりの頃を髣髴とさせる若さだが、年々酒が弱くなっていると自嘲していて、それは大袈裟なことでもないらしい。

 そして、ミューリの姿は無い。ロレンスの身体に毛布をかけてあるのは、ミューリがそうしたのだろうとはわかる。もちろん、父親たるロレンスへの娘からの気遣い……と思いたいが、多分、これ幸いと薪割りを抜け出したことを怒られないようにという策だろう。

 ロレンスは男親の哀しさか、娘のミューリに強く出られた試しがない。

「しかし、どこに?」

 晩御飯の前にホロとロレンスが帰って来て、事の顛末を知ってそのまま薪割りを命じられていたので、ミューリは腹を空かせているはずだ。その顔立ちと赤い目のほかに、食い意地もホロから受け継いだミューリが、ご飯を食べずに寝るとはとても考えられない。

 そう思っていたら、ロレンスの寝息の向こうから、ぱちゃぱちゃと水の跳ねる音がした。

「湯のほうか」

 薪置き場から少し行けば、湯屋の建物から伸びる石畳の渡り廊下に突き当たる。

 それを辿れば広々とした露天の浴場に辿り着くが、浴場の前で、すでにミューリの残した痕跡を見つけていた。

「……この脱ぎ散らかす癖も何度言ったら直るのか……」

 ため息交じりにぼやきながら、脱ぎ捨てられている衣服を拾い集めていく。一つずつ丁寧に畳み、最後に腰帯で包むようにまとめていると、浴場の仕切りの向こうからミューリの声が聞こえてきた。

「ほらほら、頑張って~」

 なにをしているのか、随分楽しそうだ。もしかしたら他所の湯屋の子供たちが来ているのかもしれない。いずれも名だたる悪戯小僧だが、ミューリはその中でも群を抜いていて、自然と親分格になっている。

 しかしこんな時間になにをしているのか、と仕切りを回り込んで、ぎょっとした。

 あまりのことに、まとめていたミューリの衣服を取り落としてしまった。

「あははは! ん?」

 と、素っ裸のミューリがこちらに気がついた。

 星と月明かりは、蝋燭の灯りよりもよほど明るくその場の様子を照らしだしていた。灰に銀粉を混ぜたような父親譲りの髪の毛と、同じ色をしたふさふさの尻尾を揺らしたミューリが、湯船の縁をぐるりと取り囲む石の上に、裸で堂々と立っている。

 乙女の羞恥など欠片もない、ということはこの際おいておく。ホロの血を受け継ぎ、普段は隠している人ならざる獣の耳と尻尾が丸出しなのも、まだ許せる。

 あるいは、ミューリが右手にしっかりと持っている麻袋と、中から取り出したばかりと思しき干し葡萄を左手に山盛り握っているのも、なんとか目をつぶろう。

 問題は、ミューリの見ていた先。

 湯船の真ん中にある小さな中島の上で、熊が二頭対峙していることだった。

「ミューリ……な、なにを……?」

「あはは、兄様! いいところに!」

 くるりと身を翻したミューリは、軽快な小走りで駆け寄ってきて、遠慮会釈なく胸の中に飛び込んでくる。

 細身で華奢で、身長は頭一つ分以上違うのに、ミューリにはお転婆で増幅された若さがある。

 なんとかその勢いを受け止めると、小言を言うより早く、ミューリが顔を上げた。

「ねえねえ、兄様! 見てみて、あれ!」

 満面の笑顔でそう言って、麻袋を握っているほうの手で、中島を指差した。

「な、なにをしてるんですか? というか、それはホロさんたちのお土産の干し葡萄では?」

 ミューリはその指摘に、あっ、という顔をして自分の手元を見たが、すぐに笑顔になった。

「えへへ。兄様も食べる?」

「ミューリ!」

 叱りつけると、ミューリは肩をそびやかして耳を伏せ、目を閉じる。

 しかし、干し葡萄は離さず、こちらが手を伸ばして取り上げようとしたのも、ひらりと躱してしまう。

「もう、兄様、大きな声出さないでよ」

 不満げな物言いに頭痛を覚える。なにから怒ればいいのかわからなくなりそうだったが、とりあえず、目下問いたださなければならないのは、中島で睨みあっている熊だ。

「それより、あれはなんですか」

 ニョッヒラは山奥の村なので、村の中であっても色々な動物と遭遇する。村の中心部から外れ、ほとんど森の中に居を構えている湯屋に至っては、むしろ彼らの縄張りの中に住んでいるようなものだ。その中でも恐れられるのが、狼と熊だった。これが普通の湯屋でのことなら、村を挙げての大騒ぎになっている。

「あれ? あれはねえ、この干し葡萄が食べたいって言うから、勝負に勝ったほうにあげるって言ったの」

「……勝負?」

「うん。噛みつきと爪は無し。怪我したら危ないもんね。先に湯に落ちたほうが負け」

 狼の化身であるホロと、その血を引くミューリはどうやら森の獣と意志の疎通が図れるらしい。まるでお伽噺だが、そのお伽噺に、残酷とも言えるくらいの無邪気さをたっぷり注ぎ込むのが、ミューリなのだ。

「い、いや、あんな熊二頭にとっくみあいをさせたら……」

 あの中島はロレンスのたっての要望で、楽師が優雅に演奏したりするために協力してせっせと石を組んで作ったものだ。文字どおりの汗と労苦の結晶だが、当然、人が乗ることしか考えていない。熊が二頭睨み合い、ぐるぐるとまわって互いの出方を窺っている時点で、すでに端の辺りが崩れ始めている。あれで取っ組み合いなど始まったら、結果は目に見えている。

 だが、止めようにも自分の言葉を熊が聞くとも思えない。

 ホロに助けを求めるべきか?

 そう思っていたら、裸のミューリが干し葡萄を掴んでいる左手を高々と掲げた。

「ほーれ、これが食べたければ己の強さを証明するのじゃ!」

 母親の口調を真似しているのか、そんなことを言う。

 そして、二頭の熊は食欲の他に己の誇りもかけているらしく、互いに毛を逆立てんばかりに牙を剥いた。

 頼む、やめてくれ。

 そう声をかける間もなく、ミューリは言った。

「勝負……始め!」

 ごおおおお、と地鳴りのような雄叫びと共に二頭の熊が取っ組み合う。その凄まじい膂力は湯船の湯を波立たせ、中島は恐れおののくように震えている。

 ぼちゃん、ぼちゃん、というのは石が崩れて湯に落ちる音だ。

 二本足で立った熊が、互いに押し合いへし合いしている様を為す術もなく見つめていたら、いつの間にかミューリが隣に立っていた。

「ねえねえ、兄様」

 いつからか、兄様と呼ばれると、若干の恐怖を覚えるようになった。

 星と月明かりに照らされた、銀と氷の彫刻で作られたような裸のミューリが、可愛い笑顔でこちらを見上げている。

「兄様は、どっちが勝つと思う?」

 底抜けの無邪気さ。

 そして、ほどなく中島の一角が崩壊し、熊が二頭諸共、湯船に落ちたのだった。



2016年11月10日更新の『狼と甘い牙 後編』に続く。
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