※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.53掲載の前半を抜粋したものです。
毎日掃除をしても部屋の隅に埃が溜まるのだから、年単位でほったらかしの納屋が散らからないわけがない。村の行事で急に必要になった手回しの石臼を探しに来たのだが、一向に見つからなかった。
「おかしいなあ……捨てるはずもないし、ハンナさんが使っていないなら、ここにしまうはずなんだが」
ロレンスは体を起こして頭を掻いて、埃っぽい納屋の中からいったん外に出た。
「見つからないのかや」
納屋の前にある切株に座っているのは、格子模様の大きな毛織物を肩から羽織ったホロだった。亜麻色の髪をゆったりとした三つ編みにして、長いスカートを穿いておとなしくしていれば、まだ幼さを残した若い新妻に見える。
しかし、ホロは見た目ほど若くないし、毛織物の下からは、同じ色をした獣の尻尾が覗いている。防寒用の毛皮ではなく、本物のホロの尻尾であり、その持ち主は御年数百歳の狼の化身であった。
十数年前に行商をしていたロレンスと知り合い、旅路の果てに、北の地のニョッヒラという温泉地で夫婦に収まったのだ。
「石の匂いで探してくれ……というのも無理だよな」
ホロは狼の化身だけあって頭には大きな三角の獣の耳があり、鼻も犬並みに良い。山で落とし物をしても見つけてくれるくらいだが、石臼は難しそうだ。
「ぬしが毎晩石臼を抱いて寝ておれば、できたかもしれぬがのう」
「浮気をしたら、そんな目に遭いそうだ」
苦しむこちらの姿をじっと見ながら酒を飲むホロの姿が、容易に想像できた。
「たわけ。ぬしが浮気などしたら、さっさと八つ裂きにしてやりんす」
背中を丸めて膝の上に頬杖をつき、にっと牙を見せる。
ただ、ホロはこんなことを言いながら、いざそうなったらきっと怒るよりも悲しむだろう、とロレンスは思う。そして、泣かれたほうが八つ裂きにされるよりもよほど辛いだろうとも。
「肝に銘じておこう」
「ぬしの小さい肝に銘じられればよいがのう」
ホロはそう言って立ち上がると、ひょいと納屋の戸口に立って、中を覗きこんだ。
「ものだらけじゃな」
「湯屋を構えて十年だからな。色々溜まるさ」
「ふむ。確かに、あれこれ見るとそれぞれ思い出すのう」
納屋には斧や鋸や金槌など普段から使うものもあれば、客の忘れ物や預かりもの、あるいは壊れた椅子の部品やらもある。どれもこの十年を意味づける代物ばかりだった。
「この網も……ミューリが小さい頃にベッド代わりにしておったものじゃろう?」
壁にぶら下げてあった、埃まみれの網に指を触れてホロが目を細めていた。
ゆりかご代わり、というよりかは、元気なミューリは放っておくとどこでなにをしでかすかわからなかったので、どうしても手が離せない時は網に入れてぶら下げておいたのだ。
娘のミューリもホロの血を立派に引いて、獣の耳と尻尾が生えている。当時はふさふさの尻尾が体と同じくらいの大きさだったので、網の中にいると罠にかかった仔狼そのものに見えた。
月日が流れるのは、早いものだ。
「昔はこんな小さいのにすっぽり入っておったんじゃなあ」
「立派にすくすく育ってくれたよ」
その一言がため息交じりになってしまうのは、身長が倍に伸びたら、元気さは四倍になってしまったから。
「ん、というか、そうか」
「うむ?」
「ミューリの奴が時折納屋をいじくり回してるだろ。勝手に持ち出してなにか悪戯に使ったのかも」
ホロはきょとんとこちらを見つめ、くくっと笑う。
「いかにもありそうじゃな。一時、膏薬作りがお気に入りだったからのう」
その辺の草やら茸やらをとにかく集め、石で潰して団子にしては悦に浸っていた。なにが彼らをそうさせるのか、村中の子供たちが夢中になっていた。
「飽きて片付けるのが面倒で、山のどこかに埋めておるかものう」
「……聞いてみるか」
今度ははっきりため息をついて、扉に手をかけた。
「ほら、閉めるぞ」
納屋の中を物珍しそうに見ていたホロは、その一言にこちらを見る。
そして、おとなしく倉庫から出ようとしたその時、ふと一角に目を奪われていた。
「どうした?」
「うむ……なんか、思い出しそうに……」
ホロはそう言って、木の板でできた棚の上の小物類に手をのばす。どれも埃やら黴やらで、もはや輪郭がわからなくなっているような代物だ。その内のひとつを手に取って、埃を払い、服の端で拭うと、出てきたのは小さな硝子の小瓶だった。
「ああ、そうじゃ」
その小瓶を見るや、ホロは小さく笑う。
「これは……石臼を見つけるのは至難の業かもしれぬのう」
「ええ?」
一体なんなのかと聞き返したが、直後にロレンスも気がついた。
そして、口角が勝手に上がる。もちろん、それは苦笑いだ。
「そうか、思い出したぞ」
「この小瓶は昔の旅で手に入れた物じゃろう? ミューリがこの小瓶をここで見つけて、いつもの好奇心でわっちらを質問攻めにしたことがあるじゃろ」
ホロはそう言って、小瓶の栓に手をかける。
その直後、記憶の蓋が開いた。
この小瓶を手に入れたのは、ホロと出会って、二度目の春のことだった。
行商は渡り鳥のようなもの。北は雪国から、南は海の青い暖かい地方まで、東西南北に年単位で移動する。町商人たちのように縄張りと人間関係に縛られることもないし、気楽といえばそう。唯一の難点は親しい仲間ができないこと、どこに行っても余所者であり続けることだろう。死ぬ時だって、たまたま立ち寄った村か、あるいは路傍で人知れず朽ち果てるのみ。積み荷を運んで村にたどり着けば、それはそれで歓迎されるが、決して仲間にはなれない。
気楽さと孤独は、分かち難いものらしい。
だから、御者台の隣に座る誰かを手に入れれば、夜の寂しさは埋められても、幾分気楽さは減るのを我慢しなければならないのは、道理だったのだ。
「ぬしよ、なぜ東に向かうのかや」
そんな声が、後ろから聞こえてくる。三日前まではにこにこと御者台の隣に座っていたのに、そこからはずっとご機嫌斜めだった。
原因は、分かっている。
「説明しただろ」
手綱を握ったまま、振り返りもせずに、ロレンスはそう言った。
風はまだまだ冷たいが、日差しは日に日に強くなる春の頃。二人は背の高い草がどこまでも続く草原の道を進んでいた。後ろの荷台の上でホロがむくれているのが、ロレンスには気配でわかる。多分、怒りで尻尾も膨らんでいる。ため息をつくのは、ホロの我儘に呆れているからではない。
「俺だって西の町に行きたかったよ。もう三週間も旅暮らしだ。奮発して羊毛の詰まったベッドの部屋にして、心行くまで葡萄酒を飲みたい。朝寝坊して、窓を開けて昼飯を食べながら、賑やかな町の通りを眺めてのんびりしたいさ」
だが、二股に分かれた道で、ロレンスは荷馬車を東に向けた。
なぜならロレンスは行商人であり、東に顧客がいたからだ。
「ぬしはそういう大切なものすべてをなげうって、金儲けばっかりじゃな!」
「ああそうさ。金貨が大好きだ。おお、麗しのリュミオーネ金貨!」
ロレンスがわざとらしい大声で言い返すと、背後からホロの唸り声が聞こえてくる。
ホロも仕方ないとわかっているのだろうが、いったん町で休憩するという期待を持ってしまったのがまずかったのだろう。
「だが、行商で何年も付き合いのある修道院の、その院長様に頼まれたら向かわざるを得ないだろう? しかも、家の都合で小さい頃から修道院に入れられていたのに、これまた急に呼び戻されて領主に就かされたような、不運な子羊の様子を見に行ってくれという頼みだ。俗世のことなどなにも知らず、右も左もわからないで困っているだろう新米領主とお近づきになれるかもしれないうえ、力になれるかもしれない! 商人なら誰だって行くだろうし、行かない奴は……商人じゃない」
数々の冒険を経て、もう危ない目に遭うような大仕事は引き受けない、とホロに約束しはしたが、これはそこに含まれず、かつ、うまみの大きい珍しい仕事だ。
対価は休息がやや遠のく程度で、それだけで領主の知己が得られるのだから、利益しかない。
ホロは渋々とだが、すでに納得していたはずなのに、なおも言い募った。
「ぬしよ」
ホロの低い声は、怒っている証だった。このままだと真実本当に怒らせて、夜寝る時にその暖かい尻尾を毛布の中に入れてくれなくなるかもしれない。
春とは言え、夜の野宿はまだ冷えるのだ。
「ああ、わかってる。わかってる。その分の埋め合わせはするよ」
「……」
返事がないので、ため息を挟んでから、付け加えた。
「これから向かう先は、小さいとはいえ、一応は領主の館だ。それなりのもてなしは期待……」
と、そこまで言って言葉が途切れたのは、首筋に生暖かい息を感じたからだ。
ホロはその獣の耳で、人の嘘を聞き分けることができる。
ロレンスの言葉の中身を感じ取るくらい、朝飯前だろう。
後ろから首に噛みつかれる前に、諦めて振り向いた。
「わかった。約束する。領主の館に向かったとして、この行商人風情がとけんもほろろだったら、近くの村に行く。そこでしっかりと金を使う」
羊毛と絹のベッド、とはいかなくとも、藁束の詰まったベッドに屋根のある部屋。それから潰したての豚や鶏か、悪くてもこの季節なら野菜や茸のごった煮にありつけるだろう。そろそろ葡萄も栽培できるくらいに南下してきたから、葡萄酒だってふんだんにあるはずだ。
「もう冷たい麦粥と、腐りかけた麦酒とはおさらばだ」
半目に睨みつけてくるホロは、それでもしばらくこちらを見つめていた。
そして、ようやく大きなため息をつくと、最後にふんと鼻を鳴らす。
「それと、なによりもまずぬしは水浴びじゃ」
「えっ」
ロレンスは驚き、思わず自分の服の匂いを嗅いでしまう。まだ全然大丈夫だろうと思っていたのだが、直後にはっと思い至る。ホロが町に寄っての休憩を欲していたのは、もしかしてこれが原因だったのかと。
「寒い夜にわっちの尻尾で暖を取りたければ、もう少し身ぎれいにしてくりゃれ。蚤やら虱やらがついてはかなわぬからのう」
ホロはふさふさの尻尾の手入れに余念がない。傭兵が磨き上げた剣や鍛え上げた肉体を誇るのと同じように、ホロは尻尾を誇りにしている。
今にも虫が湧きそうな旅の連れに必死に我慢していたが、ついにそれも限界ということか。
「……そんなに臭くないだろ……」
ロレンスは、一応の抗議をする。一人旅の頃なら気にもしなかったが、ホロと旅をするようになってからはそれなりに気を付けている。
しかし、裁判権はホロにある。
「わっちのほうがいつまでも芳しい花の香りじゃから、ぬしは気がつかぬだけじゃ」
鼻に手を当てて、そんなことを言っている。確かにホロはいつもほんのりと甘い香りなのだが、そのからくりはロレンスだって知っている。
「尻尾の手入れに使ってる油のおかげだろ。高かったんだからな」
ホロはじろりと睨みつけてくる。
「たわけ。わっちゃあ元々こんな感じじゃ!」
「……はいはい」
言い争うだけ不毛なので、ロレンスは前に向き直り、手綱を握り直す。たとえ油のおかげとはいえ、今もそよ風に乗って柔らかな甘い香りが鼻をくすぐってくるので、悪いことはない。
しかし、こんな匂いだったろうか?
そう思っていたら、ホロもすんすんと鼻を鳴らして、辺りを見回していた。
「むう、なんか急に甘い匂いがするのう。菓子でも焼いておるのかや」
「いや、これは……」
と、話していたら、草原の間の道が大きく曲がり、その先の土地が見えて、納得した。
「ほほう」
ホロの驚いたような声も、むべなるかな。
「ぬしよ、すごいのう!」
まるで線を引いたように植生が一変し、見渡す限り、紫色の絨毯が広がっていたのだった。
「じゃが……何事も過ぎたるは及ばざるがごとしじゃな……」
ロレンスはそうでもなかったが、鼻の良いホロは花畑の間の道を行く間中、鼻を塞いでいた。
それに香りに引き寄せられてか、蜂もすごい。
おそるおそる紫色の花畑を抜け、黒ずんだおんぼろの水車がぎしぎしと音を立てながら回る小川を渡った先に、ようやく目的の村はあった。事前の情報では、ハディシュ、という名らしかった。
小さな村だというのは、家と家を繋ぐ道が細いことですぐにわかる。嘘か本当か、村の道というのは村人が死んだ時に、棺を担いで運ぶだけの幅がとられていると聞く。沿道に立って死者を見送る人もいないようなところでは、荷馬車で通ればはみ出すほどに狭い。
それに、目を引くのは家と家との距離だった。
「ここの村の連中は仲が悪いのかや?」
ロレンスと出会う前までは、パスロエという村の麦畑に何十年、あるいは何百年と潜んでいたホロなので、村の事情ならそれなりに詳しい。
ハディシュの村人の家は、隣の家の戸口に立つ者の顔も見えないほど、互いに離れている。
「その割りには道が綺麗だ。草が刈られて、踏み固められている。鶏の数も多い」
村人同士の仲が悪ければ、家畜を盗んだ盗んでないでとっくにもめ事を起こしているから、放し飼いにはしない。
甘い風の吹く村を眺めていれば、のどか、という言葉以外が見当たらなかった。
「なにか事情があるんだろ。あれだけ草原が広がっているのに、ろくに開墾されていないのも不思議だしな」
市壁に囲まれた都市はどこも人口過密で、肥沃な大地があれば明日にでも鋤を担いで畑に出たいと望む者は多い。
「土地の王が悪い輩で、皆逃げてしまったのではないかや? わっちらも逃げるべきではないのかや?」
この期に及んでもなおそんなことを言う。
「その可能性がなくはないだろうが、院長様の話では、新しい領主の座に就いた人物は実に信仰心の篤い人だそうだ。意地悪はされまい」
「……ふむ」
とはいえ、信仰に篤いと聞いて、ホロは嫌そうな顔をしていた。
「確かあれじゃろ。連中は炒った豆と水で日々をしのぐんじゃろう? 食卓についてもまるで誰かが死んだみたいに、押し黙って、陰気に……」
粗食を旨とし、沈黙の戒律を守るのが立派な修道士だ。
もちろん、ホロの自堕落な生活とは決して相容れない。
この数日ぐずっている理由のひとつだろう。
「そんなところに行くくらいなら、ほれ、あそこの家はどうじゃ。軒先に玉ねぎと鱒の干物がぶら下がっておる。庭には鶏と豚がおるし、菜園の土は真っ黒じゃ」
ホロが指差したのは、千年後もそのままの形を保っていそうな、ずんぐりした藁ぶきの屋根がうずくまった犬のように見える家だ。確かに、寝床はちくちくする藁のベッドだろうが、食事だけはおいしそうだった。材料は畑で直接採れるので、酒もたっぷりあることだろう。
「だが、修道院の修道士全員が堅物なわけじゃない。ましてや、辺鄙な寒村を治めているとはいえ、立派な領主の家系の人物が入るような修道院だ。炒った豆と玉ねぎで歓待、ということはないだろう」
それに、領主の館で寝泊まりすることそのものに意味がある。一度宿泊を許されたなら、次もまた許されるからだ。信用というものは、そうやって積み上げていく。
そう説明すると、ホロは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「しかも相手はいきなり俗世に放り出されてまごついている若い領主だと言う。うまく取り入れたら、俺たちが店を開く時にもきっと力になってくれるだろう」
損得尽くめの物言いだとは自覚しているが、もちろん相手に損はさせないつもりだ。
物の相場を知らない新領主に付け入って荒稼ぎを企む怪しげな商人がいたら、片っ端から追い出してやる。
「ぬしは……もうよい!」
ホロはついにそんなことを言って、荷台で丸くなってしまった。
だいぶ機嫌を直してくれたと思ったのに、旅の疲れからかどうにも怒りっぽい。
しかし、修道院に立ち寄るまではそうでもなかった気がする。そんなに西の町に行きたかったのか? と奇妙な感じもした。
なんだろうか、と思っていると、ちょうどホロが指差した家から、ぞろぞろ人が出てきた。
背の低い禿頭の老人を先頭に、村人と思しき男連中が数人だ。一様に難しい顔をして、額を集めて話している。中には大袈裟に天を仰いだり、首を大きく振ったりしている者もいる。
それから、全員が家の中の様子を窺っていた。
「ホロ」
小さく、肩越しにその名を呼ぶ。荷台で不機嫌のあまり丸まってはいるが、ホロならその耳で彼らの会話が聞こえているだろう。赴いた先でなにか揉め事が起きているのなら、把握していたほうがいい、とはホロも理解しているはず。
「ふん」
しかし、ホロからの返事は鼻を鳴らす音だけだった。そんなに不機嫌なのか、と驚いて振り向くのと、家の前でたむろしている者たちがこちらに気がつくのはほとんど同時だったらしい。
視線が自分に集まるのを感じて前に向き直ると、全員がこちらを見つめていた。
「どうも」
荷馬車を適度な距離で止めて、ロレンスのほうからそう言った。
「皆さんお揃いで。春の祭りの御相談でしょうか」
不穏な感じになど欠片も気づかない間抜けです、とばかりに笑顔で声をかける。
村人たちはやや戸惑いがちに互いに目配せして、結局は小柄な老人に視線を向けた。
「旅の商人さんかね。うちの村の祭りは夏ですよ」
朗らかな愛想笑いを向けてくる。どうやら、この老人が村長らしい。
ロレンスが御者台から降りると、村人の何人かは荷馬の顔をしげしげと見て、良い馬だ、とかなんとか呟いていた。ホロは荷台で丸くなっているので、誰も気がついていないようだ。
「ええ、普段はもっと北の行商路を回っているのですが、頼まれごとを引き受けまして」
「頼まれごと?」
「こちらの領主様が新しく代替わりなさったとか。その古い知己の方が、自分の代わりにご挨拶に伺って欲しいと」
領主のことを口にした途端、村長の後ろにいる者たちの間で、意味深な目配せがあった。
農作業に忙しいはずのこの時期、昼間から集まっているのはどうやら領主が原因らしい。
「ほほう。ということは、領主様のいらした修道院の?」
「はい。院長様の命により」
なにが原因で村人と領主が対立しているか知らないが、とにかくそんなことには気がつかない振りをした。自分は用事を済ませに来ただけだと、とぼけた笑顔で主張する。
「つきましては、領主様のお屋敷がどちらにあるかお聞きしたく」
市壁の中に住む都市貴族とは違って、田園領主の屋敷はどこにあるのか余所者にはわかりにくい。なんにせよ道案内を頼むつもりだったのでそう尋ねると、村長はちらりと肩越しに後ろの者たちを振り向いた。
「それはちょうどよかったですな」
そう言うと、家の前にたむろしていた村人たちが、さっと入口前を開けた。
「用事がありまして、領主様はたまたま当家に。商人さんのことをお伝えしましょう」
村長が言うと、村人たちの間を抜け、家の中に入る。
すると、ほどなく戻ってきて、後ろに人がついて来た。
「こちらの商人様です」
村長が手で示すその後ろに立つのは、長躯で、肩幅が広く、胸板も分厚い大男だった。髭は野生の羊を思わせる力強さで胸元までこんもりと膨らみ、二の腕の太さは脚が生えているのかと見紛うほど。服には権威を示す毛皮の縁取りが為されていたが、山賊の頭領にしか見えない。
もちろん、屈強な修道僧はいくらでもいるし、老け顔の者も大勢いる。
しかし、どう見たって年齢は五十を超えていて、手の指の太さと爪の形が、隠しきれない長年の労苦を示している。
これが、修道院長の言っていた、修道院から突然実家に呼び戻され、領主の座に就いた迷える子羊だと言うのか?
じろり、と本当に音がしそうな勢いで動いた目が、頭上からこちらを見つめている。
ロレンスが言葉もなく立ち尽くしていると、ふと、その大男は後ろを振り向き、横にどいた。
「え?」
そして、その陰から出てきたのは、赤い髪をひっつめてお下げにした、綺麗なおでこの少女だった。
「あなたが、イヴァン修道院からの使いの者ですか?」
丈の長いローブにはほとんど刺繍もなく、質素なつくりだが綺麗に織られた亜麻布だとわかる。首から提げている飾りも、涙の形をした琥珀だった。
なにより、隣にいた大男が、窮屈そうに体を折り曲げている。
だとすれば、答えはおのずと決まっているのだが、あまりにも唐突過ぎて頭の中でうまくつながらなかった。
「どうされました?」
そう尋ねられ、ようやく我に返る。この人物が、領主なのだ。
普通ならば家督は長子の男子が継ぐはずだが、他にいなければそういうこともある。それに、ロレンスはようやく思い出した。長いこと付き合いのある修道院だったので、完全に失念していた。俗人は中に入れないからと、いつも門の外でやり取りしていたので気に留めてすらいなかった。だが、あそこの正式名称は、こうだ。
聖イシオドルス兄弟団付属、イヴァン“女子”修道院。
家の事情で修道院に入れられていたのは、遺産相続権が拡散するのを防ぐためと、嫁資を用意することができない貴族が娘を厄介払いする常套手段。
右も左もわからない上、大変な目に遭っていないかと院長が胸を痛めるのは当然だろう。
そして、どうして修道院を経由してから、ホロがずっと不機嫌だったのかも理解した。
「あ、いえ、失礼しました」
ロレンスは背筋を伸ばし、懐から修道院長の手紙を取り出した。
「こちらが、院長様からの手紙です」
手紙を受け取るその娘は、少女と呼んで差し支えない。領主としての振る舞いがわからないのも、ロレンスの手から直接手紙を受け取ろうとしたところから明らかだった。
インゲン豆の莢を割っただけで赤くなりそうな華奢な手が手紙に伸びようとしたのを、横から岩をも砕きそうなごつい手が制した。少女はびくっとしていたが、ロレンスは驚かない。高貴なる者は、見ず知らずの下賤の者から直接物を受け取らないのだから。
「あ、ありがとう、ございます」
下男と呼ぶより、家臣と呼んだほうが良いはずの大男から手紙を受け取り、少女はロレンスに向けてなのか、それとも大男に向けてなのかわからない曖昧な感じで礼を言った。
ただ、さすが修道院にいただけはあって、手紙を開ける手には躊躇いがなかったし、手紙を読む速度は速かった。院長からの温かい言葉でもあったのか、頬をほころばせる様は、日の当たる庭で聖典を繙くのが似合うようなあどけなさだ。
修道院では仕入れをけちりにけちり、ついに町の商人たちが音を上げて、代わりにどんな些細な儲けでも働く旅の行商人に納品を任せるような院長が、心配して気に掛けるだけのことはある。
ロレンスは、幼い領主の綺麗なおでこと茶色の目を見て、静かにため息を呑み込んだ。
ホロは、これをずっと怒っていたのだ。
女子修道院なのだから、年若い娘が実家に戻ったことくらいすぐ察して然るべき。そこに喜び勇んで赴くとはどういう了見なのだ、と怒らないほうがおかしかった。
ホロの尻尾の上に腰を下ろして踏んづけたまま、ずっと気がつかなかったわけだ。
荷台で荷物の振りをしているホロのほうをちらりと振り向いて、この後のことを考えるとやや気が滅入った。
「ロレンス、さん?」
そこに、不意に名前を呼ばれて我に返る。
「はい」
年若い女領主は、手紙にロレンスの名を見つけたらしかった。
「クラフト・ロレンスと申します。行商人をしております。院長様には長い間お世話になっておりまして」
「ということは、修道院のパンがおいしいのは、ロレンスさんのおかげだったのですね」
親しげな口調と、柔らかい笑顔。大男が隣でまばたきもせず、威圧するようにこちらを見つめ下ろしている気持ちが痛いほどわかる。
修道院から出て来たばかりの、無垢な少女だった。
「パンをおいしくするのは、パン職人と、神の祝福ですよ」
そう謙遜すると、若き領主はくすくす微笑んでいた。
「それはそうと、お手紙には旅の同行者がいらっしゃるとありますが」
幼い領主の目が、ちょっと不安げに荷馬に向けられたのがわかり、笑いそうになる。
「失礼をご容赦いただきたいのですが、荷台で伏せっています。長旅が応えたようで」
「まあ、それは」
目を見開いて驚き、わたわたと手紙を畳み始めた。
「それでは、すぐに館のほうへ」
誤魔化しの嘘をついたことが心苦しくなるくらい、真剣な顔つきだった。
「ですが、領主様はなにか御用の最中だったのでは」
ロレンスが言うと、赤毛の少女は慌てて周りを見回したが、すぐにその顔が哀しげな笑みに変わる。
「いえ……ひとまず、終わりましたから」
その言葉に、視界の隅にいる村人たちの何人かが、やれやれとばかりに肩から力を抜いているのがわかった。少女は巻いた手紙を大男に手渡すと、失礼、と言って、事の推移を見守っていた村長の前に立った。
「この件については、また後日ご相談いたしましょう」
「仰せのままに」
村長は恭しく頭を下げるが、よそよそしい。
若き領主は気がついているのかいないのか、こちらを促して歩き出す。馬に乗れないのか、徒歩で館に戻るらしい。ロレンスは御者台に飛び乗り、手綱を握って、領主とその斜め後ろにぴったりついて歩く大男を追いかける。振り向けば、村人たちがやれやれという仕草をしながら、村長の家に入って行くのが見えた。村長はしばらくこちらを見送っていたが、やがて家に戻って行った。
一体なにを揉めているのだろうか。
そう思いつつ姿勢を戻したら、先頭を行く少女が振り向いてこちらを見つめていた。
「気になりますか?」
困ったような笑みと共に、そんなことを言われた。
数瞬迷ったが、踏み出すことにした。
「院長様からは、領主様のお力になるようにと」
おそらく手紙にもそう書いてあるはずだ。
領主、と呼ばれた少女は困ったような笑みのまま、振り向いて立ち止まる。
「領主様、はやめてください」
「では、どのようにお呼びすれば?」
そう言うと、少女は「あっ」と自分の口を押さえていた。
「すみません。自己紹介がまだでしたね」
こほんと咳払いすると、胸に手を当てながら言った。
「アマーリエ・ドラウシュテム=ハディシュと申します。当地の七代目の領主になります」
信じられませんけれど、とは、小声で恥ずかしげに付け加えた言葉だ。アマーリエが修道院に入れられていたので、先代領主にはきちんと跡取りとなる息子がいたはずだ。先代とその息子が同時に亡くなったということは、なにかの事故だろうか。
アマーリエがそのことに落ち込んでいる、というふうに見えないのは、アマーリエが気丈な娘というわけではあるまい。多分、物心ついたころには修道院にいて放っておかれた、というのが真相だろう。
「では、ドラウシュテム様?」
「修道院では、アマーリエと呼ばれていました」
仰々しい家名もあまり好きではないらしい。
ただ、領主を名前で呼んでいいものか、一応大男に視線を向けると、諦めたような目を向けられた。この寡黙な家臣とアマーリエの間で、すでに一悶着あったのだろう。
「では、アマーリエ様」
「様も堅苦しいですが……」
「アマーリエ様」
大男が初めて口を利いた。アマーリエは大男を見て、こちらもなにがしかの妥協点が二人の間であるのだろう。渋々と頷いていた。
「では、それでよろしくお願いします」
「畏まりました」
ロレンスは恭しく頭を垂れておいた。
「それで、私はアマーリエ様の俗世のペンになるように、と院長様に命じられたわけですが」
剣はそこに大男がいる。
アマーリエは再び道を歩きだし、露骨に大きなため息をついていた。
「はあ……。まったく、嘆かわしいお話なのですが」
そう切り出し、館に着くまでの間、回りくどくてまとまっていないが、結局のところ単純な揉め事をロレンスに説明したのだった。
ドラウシュテム家のお屋敷は、お屋敷というよりかは、少し豪勢な農家という感じだった。
寒村を支配するだけであれば、領主とは名ばかりで、自分たちも畑仕事に精を出さなければやっていけない。ドラウシュテム家には厩の他に羊小屋があり、ため池では魚が飼われているようだし、鶏や豚が中庭で草をついばんでいた。そのすべてを、あの大男が管理しているのだろう。
ただ、質素ではあったが全体的によく手入れがされていて、過ごしやすそうな館だった。
これが小山の上に築かれた要塞や小城だったりすると、狭い場所で領主とその家族と家臣団がぎゅうぎゅうになって暮らしていることもある。領主として楽な生活を送っている者というのは、数の上から見れば圧倒的に少数なのだ。
館に着くと、大男、名をヤーギンというらしいアマーリエの家臣が、客室を調えてくれた。
アマーリエたちも昼食をまだ食べていないらしいので、用意している間、休憩して欲しいとのことだった。
通された部屋は土の床で、屋根を支える梁がむき出しの田舎風の部屋だったが、やはり掃除は行き届いているし、ベッドの藁も新しかった。固い荷馬車の荷台に慣れた身には、十分すぎるくらいの贅沢といえた。
「ふう。これで少し休憩できるな」
館に着いて、ようやくホロは荷台から姿を現したが、その修道女姿にアマーリエは嬉しそうだった。ただ、旅のための方便としてその格好をしていると知ったら、がっかりしていた。
まだ気持ちは修道院のほうにあるのだろう。
一方、アマーリエは修道院で培った倫理観に照らし、ロレンスとホロを同室にすることに対していささかの懸念を抱いているようだった。なので、ロレンスはホロとはこの行商が終わった後、店を構えて結婚するつもりだと伝えてある。
嘘ではないのに、なぜか嘘をついている気がしてしまうのは、なんとなく現実味がないからかもしれないし、そう言っておけばホロの機嫌も少しは良くなるだろう、と期待してのことだったからかもしれない。
部屋に通され、荷物を置く間もなく、ホロはベッドに倒れ込む。
そして、言った。
「たわけが」
ロレンスは部屋に備え付けの長持に荷物を詰めて、そちらを振り向いた。
「ぬしは、困っておる雌がおったらどこにでも向かって手助けするのかや?」
お人好し、というよりも、浮気者、という語感が強かった。
「いや、それはだな」
ロレンスが言い訳しようとすると、ホロは枕に顔をうずめて長い長いため息をついてから、横目にロレンスのことを見る。
「黙りんす」
黙れと言われたら黙るしかない。
ロレンスがおとなしく口を閉じると、ホロは大きなため息をついて、ローブの下の尻尾をばさばさ言わせた。その顔は、怒っているというよりも、疲れ切っていた。
「はあ……。じゃが、ぬしが気の利かぬ阿呆じゃと怒っておったら、まさかそもそもこの土地の王が雌であることにすら気がついておらぬたわけじゃったとはのう」
村長の家から出てきたアマーリエが領主であることに驚いたのは、すっかり見抜かれていたらしい。
「ぬしは途方もない間抜けじゃな」
「領主は男って思い込んでたんだよ」
ロレンスが言うと、ホロはぷいと反対側を向いてしまう。
ただ、それは拒絶というよりも、もっと別のなにかだ。
ロレンスも負けじとため息をついた後、ホロの寝ているベッドの隅に腰かけた。
「お前が不機嫌だった理由がそこにあったとは、全く気がつかなかった」
「……」
ホロはこちらを見てくれないが、フードを外した頭の上の獣の耳は、こちらに向けられている。賢狼の三角の耳は、人の嘘を聞き分けられる。
しばらく耳を揺らしたのち、ゆっくりと頭を動かして、こちらに向き直る。
「ふん。わっちがなぜ不機嫌になるんじゃ? ぬしは浮気をできるほど肝が太くないじゃろうし、ましてや、ほかの雌からモテるほど器量が良いわけでもありんせん」
辛辣なことを言われているはずなのに、ロレンスは笑うのを堪えるので必死だった。
ホロは、女子修道院から実家に呼び戻された世間知らずの娘のため、勇んでハディシュに向かうロレンスの様子にやきもきしていたらしい。なにかあるはずもなかろうに、妙なところで心配性なのだ。
そうしたら、当のロレンスはその領主が女であることにすら思い至っていなかった。
そんな取り越し苦労の後の、その台詞。
可愛くないわけがない。
ロレンスは、ホロの頭に手を伸ばし、柔らかい亜麻色の髪の毛を梳いた。
「そうでしょうとも」
自分の相手をしてくれるのは、心の広い賢狼様ただひとり。
見え透いていても、いかにわざとらしかろうとも、そういう体裁が大事なのだ。
「ただ、俺が困っている女の子を颯爽と助ける場面を見るのも悪くないと思うが?」
耳をひくひくさせながら頭を撫でられていたホロは、目を閉じたまま笑う。
「……たわけが」
この寄り道に苛々しつつも、強硬に反対しなかったのは、きっとそういう理由だ。
お人好しという部分ではホロも自分と似たり寄ったりだとロレンスは思っているし、自分が誰かを助ければ、ホロもそれを誇りに感じてくれるだろうと思っている。
憚りなく言えば、格好良く思ってくれるはずだ、と信じている。
口に出せば鼻で笑われ、ぼろくそにけなされるだろうが、それでも最後には期待するような目を向けてくれる気がする。そして、うまくやったらきっと、褒めてくれるだろう。
わさわさと音を立てていたホロの尻尾が、やがて静かになる。
数瞬の沈黙。
ロレンスがホロの頬に口づけをしようと身をかがめたら、ぱちんと頬を両手で挟まれた。
「水浴びしてからじゃ」
それから、ぐいっと押しのけられてしまう。
「……そんなにひどいか?」
ロレンスは服の匂いを嗅いでみるが、自分ではわからない。
ただ、姫がそう言うのだから、従うほかない。
「それに、ぬしには仕事があるじゃろうが。なんだか面倒そうなことじゃったが、大丈夫なのかや? わっちの前で、無様を晒すわけではあるまいな?」
荷台でふて寝していても、ホロは話をきちんと聞いていたらしい。
というようなことを言ったら、きっと怒って夜に尻尾を抱かせてくれなくなる。
「お前の能力ならすぐに解決できるかな」
そう言うと、ホロはふんっと鼻を鳴らして枕を抱いた。
「わっちゃあ犬ではありんせん」
ロレンスは肩をすくめ、ベッドから立ち上がった。
「手回しの石臼を探すこと自体は、難しくないよ」
道すがらアマーリエから聞いた村人との揉め事は、村の水車の修理を発端にしたことであり、つまるところ金の話だった。
水車は長いこと修理をされておらず、職人を呼んでみてもらったところ、かなりの金額が必要になるらしい。元々調子が悪かったのに、領主交代のごたごたで放置されている間に完全に壊れてしまったらしい。水車は基本的にその土地の権力者の物だが、ドラウシュテム家には自力で修理できるだけの資金がない。それに、水車は村人が利用して利用料を徴収することで運用されるものだから、アマーリエはヤーギンの助言を受けて、至極あたりまえの解決策を思いついた。水車の設置費用を村人から徴収しようと。
しかし、当然村人たちの多くは反対する。全員が同じだけ水車を必要としているわけではないからだ。水車の設置で得をするのは、手広く畑を持っている家か、羊を多く飼う家になる。
あるいは、若い働き手がいない家なども、お金を払って水車を使えたほうが楽になる。ほかならぬドラウシュテム家も、税や地代として麦を納められたりする以上、水車をとても必要とする。
一方で、水車の利用料で浮いた部分は、ドラウシュテム家の金庫に入るのではなく、橋の修繕や、道の整備に使われる。だからこれまでは村人たちは麦を粉にする時などは、必ず水車を利用すること、と決められていた。
だが、貴重な現金を徴収される村人からしてみれば、できれば水車は利用したくない。
そこで先代の領主の時代から、村人たちは水車を利用しなくても済むように、手回しの石臼をこっそり拵えていた。
アマーリエは、その不正を正すべく、直談判に赴いていたというわけだ。
「その石臼とやらがあるせいで水車を利用してくれないのなら、確かに石臼を取り上げるのは道理な気もするがのう……。じゃが、なんというか」
「四面四角。真面目なんだな」
「ぬしとは大違いじゃな」
ホロを見やると、笑顔で小首を傾げている。
「ぬしは柔軟じゃ、という褒め言葉でありんす」
甘噛みは機嫌が直った証拠でもあるので、肩をすくめるにとどめておいた。
「で、ぬしはあの小娘に手を貸すのじゃろう?」
「貸すよ。理はアマーリエさんのほうにあるしな。だが……」
「じゃが?」
「お前も聞いてただろ。水車はほぼ毎年、火に巻かれる」
アマーリエの説明がなんだかわかりにくかった最大の原因であり、村人たちが腰を据えて反対しているのもそこに大きな理由があった。
「にわかには信じられぬがのう」
水車は川に建てられて、川には水が流れている。しかも夜間に蝋燭でも使わない限り、失火の危険はほとんどない。
だが、水車を遠目に見た時、確かに妙に黒ずんでいた。あれは水黴ではなく、焦げだという。
村の家が極端にまばらに建っているのも、そこに起因しているらしかった。
「あの花畑が、夏になると野火を起こして一面火の海とは……わっちの暮らしておった地方では聞かぬ話じゃ」
油分を多く含む草花ではたまにあることで、春に花を咲かせて夏に結実すると、夏の日差しに照らされて発火し、焼け野原で発芽するというはた迷惑な性質をもっている。もちろん他の草花は火で根こそぎにされるので、一度その種類の草が繁茂すると一面を支配されてしまう。
この村の不幸は、そんな花がある日なにかの偶然で根付き、繁茂してしまったことだ。
アマーリエが言うには、祖父の時代にはなかったものだし、近隣の地域で根付いているのはハディシュ村の近くだけらしい。
「そして、川によってようやく火の勢いは止まるが、迫った火によって水車はじりじりと炙られ、劣化が進む。しかも昔は野火の度に家が燃え、木材を大量に必要としたせいで、近くの森はすべて草原に変わってしまった」
「家が離れておるのも、全滅を防ぐ知恵とはのう」
人が少ないのは、家を建てる資材を供給してくれる森がなくなってしまったのと、村の面積の半分をあの紫色の花に取られてしまったからだという。
「立て替えた水車を長持ちさせるには、夏が来る前に花畑の花を極力刈り取る必要があるが、忙しい季節だから村人たちは協力したくない」
「水車が無ければその苦労もなし、というわけかや」
しかし麦は粉に挽かなければパンにできないし、手で挽くにはあまりにも時間がかかりすぎる。それは大局的に見れば、村人の生産性が落ちて、税収が落ち、村の経済がしぼんでいくことを示している。水車があれば、その時間を節約して、村人たちは畑をより多く耕すことができる。余剰の作物は町で売り、様々な買い物ができるようになる。それは高台の上から見れば、村人たちのためになることでもある。
そのことをアマーリエに説明したのはヤーギンらしく、そのヤーギンは先代の領主から教わったそうだ。先代は、名君と呼んでいい類の人物だったらしい。
とはいえ、正論がいつも受け入れられるわけではないので、こんなことになっている。
「ヤーギンさんが腕力で手回しの石臼を取り上げることもできるだろうが、できれば避けたいだろう。禍根を残すからな。それで、アマーリエさんが直接出向いて、村人たちに自主的に石臼を差し出してもらおうとしていたってわけだ」
「ふむ。じゃが、ぬしが隠してある石臼を見つけて召し上げたら、結局同じではないかや?」
ホロは特になにも考えずにそう言ったらしい。
答えるロレンスは、ちょっと皮肉な感じに笑っていた。
「違うよ。ヤーギンさんもアマーリエさんも、この地でずっと暮らす。だが、俺は旅の行商人。村の災いはすべて、旅人がもたらすものさ。俺がアマーリエさんに入れ知恵した形にして、村人の怨嗟は俺が引き受ける。そして、俺が村から出れば、恨まれた人物はこの地からいなくなる。アマーリエさんはそんなこと思いもしてないだろうが、ヤーギンさんのほうは俺の使い方を先刻ご承知って感じだった。だからこんなにいい部屋を用意してくれたんだろう」
一ヶ所に居着くことのない行商人は、一ヶ所に居着かないことに価値を見出される。必要な物を村にもたらし、必要でない物を村から持ち出してくれる。そして、そういう扱われ方は麦の豊穣を司る神と呼ばれていたホロにも覚えがあるはずだった。
神は村人の一員にはなれず、豊作の時は崇められても、不作の時は責められるし、他のあらゆるどうしようもないこともまた、神のせいにされる。やり場のない怒りを仲間の村人に向けることはできないが、余所者のせいにしておけば丸く収まるからだ。挙句に、必要なくなれば崇めることすらしなくなる。
その結果、ホロはロレンスの荷馬車に潜り込んだ。
考えてみれば、自分とホロが出会ったのは、似たような使い方をされる道具が、他に置き場所がなく同じ場所にしまわれたということなのかもしれない、とロレンスは思う。
ただ、ロレンスは己の仕事の運命を不幸とは思わない。
そのおかげで、ホロと知り合えたのだから。
「そんな顔するなよ」
ロレンスは苦笑し、傷ついたような顔をしているホロの、小さな鼻をきゅっとつまむ。
「今は御者台でその重荷を分かち合ってくれる者がいる。それ以上になにを望む?」
「……たわけ」
ホロはロレンスの手を払い、嫌そうに言った。尻尾だけが、そわそわとしていた。
「じゃが、本当に見つけられるのかや? いざとなれば、わっちが狼になれば石臼についた麦粉の匂いから見つけられるやもしれぬが」
そう言うホロにロレンスが向けたのは、今度こそ得意げな笑顔だ。
「悪知恵勝負なら負けないさ」
ロレンスが胸を張ると、ホロはきょとんとしてから、くすりと笑う。
「浅知恵の間違いじゃろうが」
「手厳しい」
ロレンスが肩をすくめると、ホロは握っていたロレンスの人差し指に自分の人差し指を絡みつける。ホロは意外に乙女なのだ。
だから、紳士を自認するロレンスは一応こう言っておく。
「まあ、楽しい仕事じゃないだろうから、石臼を回収する場にはついてこなくてもいいぞ」
ホロは笑顔のままロレンスの手を自分の口元に引き寄せると、牙を見せる。
「わっちゃあぬしのめそめそした顔を見るのが好きでのう?」
「ほう、それは気が合うな」
ホロの耳と尻尾が、ぱたぱたっと揺れた。
「たわけ」
首をすくめて笑うホロは、ロレンスの手に口づけをする。
そして、手を離した。
「では、ぬしの仕事ぶりを見せてもらうかや」
ほどなく扉がノックされ、ヤーギンが呼びに来たのだった。
2017年1月10日更新の『狼と花弁の香り≪後編≫ 』に続く。
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