一晩の野宿を経て、早朝にジーデル商会が居を構える港湾都市、リュスティアに帰って来た。
まだ夜も明けきっていないのに、市壁の前にはすでに大行列ができていた。なにかを売りに来た遠方の商人、近隣の農民、巡礼者、聖職者、遍歴職人たちなどだ。市場が開く鐘が鳴るまでは市壁の通行はできないのだが、ジャドが駆る荷馬車はてくてくと順番待ちの列の横を進んでいき、ジーデル商会の特権証書を見せて通過した。
ジャドはいつものことで得意げですらなかったが、俺は誇らしさで胸がいっぱいだった。
そして、市壁を越えるとそこは外界とはまったくの別世界で、とにかく人と物であふれていた。
一隻が入港すれば、二週間は荷物を降ろすだけで手いっぱい、と言われる遠隔地貿易用の船が毎日入港するのだ。港は荷降ろしの男たち、荷を数える役人と商人たちに、荷を運ぶ荷馬でごった返している。荷物の見張り番の小僧どもが血走った目で辺りを見回しているのは、盗人を恐れてのことではない。もっと恐ろしくてしつこい、商品を一刻も早く買いたくてせっかく梱包した荷物を解こうとする商人たちに目を光らせているのだ。
他にも、入港した船を修理する職人や、これから出港して行く船の設備を点検する職人たちが輪になって朝の打ち合わせをしており、その周りでは修理や点検のための資材を運び込む者たちが、自分たちの雇い主に好かれようと、より良い置き場所を巡って同業者と争っている。さらに彼らの間を、パンやら焼肉やらの歩き売りの商人たちが、おこぼれを狙う野犬と放し飼いの豚と鶏を引き連れてうろうろしている。
そういう喧騒の真っただ中に、ジーデル商会はあった。
港に面した通りは一分の隙もない石畳で、立ち並ぶ商会はすべて巨大な船舶を所有する大富豪が支配していた。ジーデル商会の大ジーデルも例外ではなく、町の運営を取り仕切る三十人委員会に名を連ねている。
高貴な身分のお方なので、喧騒の港側にはめったに現れない。港の反対側には表通りと称される上品な道に面した屋敷があるので、そっちにいる。彼ら旦那衆は喧騒から離れた場所で、恭しく絹の敷かれた場所で、貴族相手に交渉をするのだ。
ジーデル商会の巨大な商いのおこぼれに与る鼠と変わらない俺とジャドは、もちろん、港側から商会に戻った。
「じゃあな、気を落とすなよ」
帳場の前で馬車から降ろされた俺は、ジャドにそんな慰めを貰ってしまった。
ジャドのほうもあの小僧からの申し出を受けて、これは金儲けの機会だとばかりにあれこれ画策していただろうに、少しも落胆した様子がなかった。
ただ、それは決してジャドが鋼の意志を持っているから、というだけではないはずだ。ジャドは積荷をあちこちの町に運んで行く仕事を任されているので、自然と大小様々な好機がいくらでも巡ってくるのだろう。
だから一つ二つが御破算になったところで、痛くもかゆくもなく、また次なる好機を求めて次の町に行くだけだ、というところだろうが、俺にはそういう機会が皆無だった。
喧騒の中に消えて行くジャドを見送り、大きくため息をついた。
腐っていても仕方ないので、さっさと仕事場に戻ることにした。それに、商会は港に負けず劣らず大騒ぎだ。数日前に、大量の商品を買い付けた遠隔地貿易船が無事に戻って来たからだった。
帳場ではひっきりなしに運び込まれる商品がうずたかく積み上げられては、机に並んで座っている帳面記入係の前を右から左に通過して行く。それを目で追うのは、売ってくれるまで梃子でも動かない、と決意している出入りの商人たちで、基本的な構図は港と変わらない。違うのは、帳場には港と異なって屋根も壁もあるので、彼らの大騒ぎがわんわんと反響して頭が割れそうなところだろう。
文字を書ければあの帳場台に座って仕事をするのが普通だが、あそこに座れば尻から根が生えてくると言われるくらい、激務で知られている。それに、商会にとって重要な職務だから、万が一そこに組み込まれてしまうと、今後異教徒との戦が終わって書籍商が復活したとしても、転身することが難しくなる。
考えても仕方のないことだと笑われるかもしれないが、俺は書籍商につながるあらゆる可能性を追求したかった。
ただ、文字を読み書きでき、しかも商会が信用できる人材は貴重なのだ。今も帳場を預かるフィチーノから、俺に向けてちらちら視線が向けられる。いつでも弟子入りを待っているぞ、というものと、忙しすぎるから手伝え穀潰し、というものが入り交じっていた。
贅沢者だとそしられようと、その視線は俺を夢から現実に引き戻す恐ろしい蜘蛛の巣だ。
俺は逃げるように喧騒の渦の中を駆け抜けて、表通りに面した屋敷に通じる廊下を歩いていく。途中、炊事場の前を通りがかると、早朝の仕事を終えた連中に振る舞う朝飯の良い匂いがしてきた。それは朝の戦に参加した者たちに向けたご褒美だ。
良い匂いに鼻をひくつかせていると、山盛りの焼きたてパンを載せた大きなざるを抱えた女の子が飛び出して来た。
「うわっ!?」
「ほら、どいてどいて! あらなによ書籍商さんじゃないの。一つ食べる?」
白い布を頭に巻き、細い腕をあらわにしながら厨房で立ち回る少女たちにすらからかわれる。
「結構だ!」
胸を張って断ると、厨房の女の子はくすくす笑いながら帳場のほうに走って行った。
けど、書籍商さん、というのは悪くない呼称だ。そこだけは自分に都合よく解釈して、先を急いだ。
途中、中庭があって果樹やら香草やらが植えられている区画があるが、この季節は寂しい感じがする。そのうえ、今は倉庫に入りきらない商品の一時置き場になっていて、実に殺伐としていた。
その中庭を越えると、石造りの階段が待っている。港から町の中心部に向かって坂になっているので、結構な段差がある。商会の表玄関などは、建物にしてさらに一階分、上がらなければならない。
なので、俺が表通りに面した「絹の敷かれた屋敷」に入れるといっても、その絹の敷物の下の部分にあたる場所だった。
そこは商会お抱えの職人たちが集う特殊な工房の集まりで、商会が扱う品々の鑑定や修復を行っている。町の職人に仕事を任せないのは、品物が高価すぎることが多々あるからと、職人組合と商人組合がたびたび衝突するからだった。もしも職人組合と商人組合の町を二分する争いの最中、大貴族が買う予定だった宝石細工を町の職人に渡していたら、と考えれば身の毛もよだつ恐怖だろう。
そういうわけで、大きな商会は必ず自前の工房を構えている。
主力は宝飾品を一手に扱う金細工師と銀細工師で、他にも革細工や木工職人がいて、それぞれが商会にやってくる高価な代物の見栄えを良くしたり、運送で破損した箇所を直したり、これからの運送に耐えられるようにしたりしている。
毎日膨大な量の商品を扱うため、ここでは仕事があふれ返っている。
どの工房もすでに職人たちが働いていて、不規則に金属や木を叩く音が聞こえていた。そのしっかりとした音は、堅実に実績を積み重ねる、現実の音だ。霧を売る仕事見習いの俺は、ちょっと居心地が悪い。こっそり足を忍ばせて歩き、この工房群の中で一番奥に位置する、隅っこの部屋の前に向かった。
その部屋の扉には、銅製の板が掲げられ、堂々と記されている。
──神の知恵とご加護があらんことを
書籍商が活躍していた時代は、この部屋も活気に満ち、稼ぎとしても商会の屋台骨の一つとして堂々と数えられていたらしい。しかし、それは何十年も前のことで、今は親方一人、見習い一人の寂しい場所だ。訪れる者も滅多にいない。
そして、そこが俺の仕事場兼住居で、この商会を通り過ぎるすべての書籍が立ち寄る場所であり、また、俺が夢へとつながる糸を必死に手繰り寄せている場所でもあった。
「ただ今戻りました」
俺が挨拶すると、部屋の奥で本の塊が動いたような気がした。それは見間違えともいえるし、そうでもないともいえる。文字どおり背の高さにまで積み上げられた羊皮紙の束の中で、大きな丸い背中がゆらゆら揺れているからだ。
採光用の硝子窓の外にぶら下がっている燭台では、まだ蠟燭の火がついている。どうやら一晩中ここで作業をしていたらしい。蠟燭が外にあるのは、煤で本を汚さないためと、紙のある場所で蠟燭を使って仕事をしてはならない、という町の防火規則から逃れるためだ。
「師匠」
俺が呼びかけると、ゆらゆら揺れていた背中が急に止まり、膨らんだ。
そして、にょきっと太い腕が二本、天井に向かって伸び、牛のような欠伸が聞こえてきた。
「ぐふう。もう朝か?」
師匠が立ち上がると、屈強な傭兵も道を空けるほどの巨体があらわになる。
この部屋に運び込まれる本を貪り食って肥え太る、そういう生き物みたいだ。
「帳場のほうではそろそろ朝食ですよ」
「ふむう」
俺の師匠であり、本にまつわることならばできぬ作業はないボッチョ親方は、伸ばしっぱなしのもさもさの髭を手でつまんでいた。細かい仕事をするせいか、しかめっ面が張り付いていて、恐ろしく見た目が怖い。仕事が減り続けているせいで何度も閉鎖されそうになった工房を守れたのも、他の商会幹部をこの強面で黙らせたからだともっぱらの評判だ。
俺が弟子入りを望んだ時も、それはそれは恐ろしい形相で撥ねつけてきたが、夢への熱意が恐怖に打ち克った。
ボッチョ親方が俺のことを認めてくれたのは、きっとそれが一番大きな理由だと思っている。
「今日の朝飯はなんだ。ニンニクと炒めて、雪のように岩塩をまぶした牛の脇腹肉だといいんだがな」
唾を飲み込んだのは、うまそうだと思いつつ、こんな朝から食べたら吐くかもしれない、という二重の意味だ。
ただ、徹夜明けは明らかに体が拒否しているのに、なぜか猛烈に脂ぎったものが食べたくなる。
そして、この親方は体が拒否しない類の人間であり、このへんもまた豪傑らしいところだ。
「……お望みなら、厨房に言って作らせて来ますが」
「うん? む、ぐ……いや、やめておこう。また腹がでかくなってな。こうもでかいとそろそろ作業台を腹の形に切り抜かねばならん」
「有名な神学の博士様でもそういう人がいるでしょう」
飽食は罪なはずなのに、矛盾の多い教会だ。
「うむ。だが、連中は腹に一物も二物も持っているからああなるんだ」
ばっさり切って捨てるボッチョ親方は、腹をさすりながら、辺りを見回していた。
俺は、その沈黙の合間に、覚悟を決めて口を開いた。
「あの、親方、任されていた仕事の話なのですが──」
「おおそうだ、お前に伝えておくべきことがあったのだ!」
と、俺は言葉を遮られた。
まるで、グランドン修道院の件に触れたくないかのようだ。
だが、その理屈はわかる。どうせ駄目なのはわかりきっているから、そのことについて話して、またぞろ俺が文字どおり嚙みつく勢いで食い下がるのを懸念しているのだ。うまくはぐらかし、時間を空けて、うやむやにする。それから、頃合を見計らって、言うのだろう。
ほら、お前には一時の夢を見せてやっただろう、だがこのご時世に書籍商などできんのだ。だから、おとなしくもっと堅実で、商会の役に立つ仕事を一から始め、これまでの恩に報い……云々。
俺の頭の中では、そんなやり取りが数年先の分まで勝手に作られていた。
そして、それらすべてがあまりに強力な説得力を持っているがゆえに、一度その流れに乗ったら二度と出られないこともわかっていた。
なので、直後に親方の言ったことが、しばらくわからなかった。
「修道院に向かうのと入れ違いで、お前に会いに来た人がいてな」
それはどうせ、俺を押し込むどこかの親方の……。
「名前をなんといったかな。ほれ、何年も前に、お前をここから連れ出した変な異端審問官だ」
「え?」
俺はびっくりして、顔を上げた。
「まったく、あのペテン師め。町で行われる教会の公会議に参加するために来たついでらしいが……どの面下げてやって来たんだかな! 読み書きのできる賢い子供を寄越せば教皇庁とつながりができるだとかいい加減な妄言でたぶらかしよってからに。もっとも、教皇庁とのつながりが欲しくて鵜吞みにした大ジーデル様も大概だがのう!」
ボッチョ親方はぶっとい腕を振り回しながら言った。
あの異端審問官は、六年前のあの日、ある意味俺の命を救ってくれた。商会の蔵書を読んだだけで世界のすべてを見てしまったと思い込み、絶望していた俺に、まったく新しい世界を見せてくれたからだ。
しかし、もちろんそれは彼の本来の目的ではなかった。あの異端審問官は、自分が教皇庁の図書館に入り込みたいがために、その口実として、奴隷労働の人材をかき集めていたのだ。俺や、俺みたいな読み書きのできる子供たちは、鼠や蜘蛛が這い回る日の光が一日中届かない教皇庁の巨大な図書館に放り込まれた。そこは長い歴史の中では地下墓地や牢獄としても用いられたりしたような場所で、陰気な作りの地下の廊下はどこまでもどこまでも続いていた。そこで黴だらけの本の掃除や、どこから迷い込んだのかまったく想像もつかない鳥や犬の死骸を片づけたり、あとはひたすらに本の目録を作らされた。本物の奴隷のように、鞭を持った屈強な男が見張っているということこそなかったが、文字どおり果てを見ることがなかった迷宮のような図書館に閉じ込められ、ほとんどの仲間が心を病んでいなくなった。
俺が最後まで耐えられたのは、そこには読んだことのない本が無限にあったからだ。俺は本があるだけで幸せだった。
だが、心は耐えられても、体が最後には耐えられなくなった。日の光のほとんど届かない図書館の最奥部で、石壁にくりぬかれた穴に人骨と共に置かれていた古代の詩編を手にしたまま、死体同然で倒れているところを、たまたま肝試しに来た若い助祭たちに発見され、助けられた。俺がそこで働いているなんてほとんどの人間が知らないか、知っていても忘れていて、どこから潜り込んだのだと騒ぎになったが、結局は商会に送り返された。俺は三年ぶりに太陽の光を浴びたが、商会に戻っても半年近く寝込むことになった。
そこに至ってようやく事の真相を知ったジーデル様は、俺の手を取って自らの軽率な判断を深く謝罪した。貴族に列せられるような人でありながら、実に謙虚で慈悲深い人だ。
俺が商会の中でほとんど穀潰し同然でいられるのは、ボッチョ親方の庇護だけではなく、このことがあったせいで、ジーデル様が特別に計らってくれているからだろう。
それで、俺を騙して連れ出した当の異端審問官はどうしていたかというと、俺たちと同じようにあの暗い図書館を這い回って本を漁っていたのだが、ある日ふっつりいなくなった。後から思えば、貴重な書籍を読むだけ読んで満足したので、俺たちを放って外の世界に戻ったのだろうとわかる。最低の下衆野郎といえばそうなのだが、俺はあまり憎めなかった。
なぜなら、図書館であいつを見かけた時はいつも、本当に楽しそうに本を読んでいたからだ。
そんな男が、俺をまだ覚えていてわざわざ訪ねて来た。
俺は、まばたきすら忘れた目で、親方を食い入るように見つめていた。
「そ、それで?」
「うむ。それで、お前が書籍商になると息巻いていると知ったら、大笑いしておった」
だから、お前もいい加減目を覚ませよ、と暗に言われているような気がして、俺の顔がぐうっと歪む。
「それと、お前が向かった修道院の話をしたらな、すごい食いつきようだったぞ」
「え?」
「どうも、あの修道院はなんたらいう貴族の蔵書を保有しているらしくてな……。なんにせよ、あやつの本への熱意は昔のまま……いや、儂の腹よりでかくなっておるようだった」
「……」
俺をこの商会の書庫から連れ出し、無限の書籍の世界に叩き落とした張本人。
そして、その男は、俺以上の本狂いらしい。
「で、うちがそこへの納品義務を負っていると知ると、ひたすら食らいつかれてのう。終いには大ジーデル様も根負けされてな、面倒だから、好きにさせろと」
「……というのは?」
俺が窺うように上目遣いで見たのは、なんとなく、ボッチョ親方の嫌そうな顔つきから話の流れが見えたからだ。
「うむ……。お前」
と、ボッチョ親方は憤懣やるかたないとばかりに腕組みをしてから、言った。
「二週間後にあの変人を連れて、もう一度修道院に行って来い。文字が読める小間使いが欲しいとのことだ」
よもやの僥倖だった。
「だが……深入りするなよ。またぞろ口車に乗ったら、今度は何年閉じ込められるかわからんぞ」
ボッチョ親方は親身になってそんなことを言ってくれたが、俺は細かいことはなにも考えていなかった。もう一度あの扉を叩く機会が訪れたことで、頭がいっぱいだったのだ。
だから、俺は全力で返事をした。
「はい!」
そして、ボッチョ親方は対照的に、深いため息をついたのだった。
書籍の売買は絶望的に行われないが、修復や運搬の依頼ならばなんとか細々だがある。
蔵書家は本の貸し借りを行って、互いに写本を作り合って蔵書を増やしていく。その時に本の見てくれが悪いと沽券に関わるので、豪勢に金をかけるといった按配だ。たまに、貸し借りする双方から本が届き、相手より豪華にしてくれということもある。
俺は不器用すぎるので金細工やらの作業はほとんど手伝えないが、修復に必要な職人への指示の伝達や、誤字修正のために羊皮紙の上の文字を削るといった下働きをしていた。
そして、その合間を縫って、顧客の本を読んでいた。
当然、こんなことを何十年続けたところで、なにかの一人前になるということはない。ずっと下っ端のままだ。しかも、仕事そのものがいつまであるかわからないときている。
ジャドや同輩が着実に商会の中で地歩を固めるのを見ていれば、山羊飼いの息子から王になったウーズワースが著した希望の書、『黄金の国』を盾にしても防ぎきれないほどの現実が襲ってくる。仕事後の読書にいそしんでいる間にふと我に返る瞬間があって、泣きそうになることがある。このままでいいのか? 本当にいいのか? と。
だが、もう一度あの修道院の扉を叩くことができる。屈するのはその後でもいい。
それに加え、もう一つ。あの、俺よりも本に狂っていた男にもう一度会うことができる。会ってなにかを言いたいわけではないが、会えばなにかがわかるのではないかと思ったのだ。
彼のように、頭のてっぺんから爪先までどっぷり書籍に浸かった生活とは、一体どういうものなのか、と。
しかし、それから二週間、件の異端審問官には会えなかった。俺と入れ違いに商会にやって来て以降、一度も商会に顔を出さなかったのだ。町で行われる高位聖職者たちの公会議に合わせて町にやって来たというから、公務が忙しいのかと思っていたのだが、聞けば町にいる好事家や教会の書庫を片っ端から覗いていたらしい。
さすが、俺のようななにもわからない子供を利用してまで教皇庁図書館に足掛かりを得て、自分の読みたい本を読み漁ったらさっさとどこかに行ってしまった男だ。
なにも変わっていないんだな、となぜか妙な懐かしさを覚えていた。
だから、修道院に行く当日、再会は感動的にはならないだろうが、俺は妙に顔がにやついてしまう変な期待感にそわそわしていた。
「少しは落ち着けよ」
準備万端、御者台の上で異端審問官を待っている時、ジャドが何度も言った。
「修道院は逃げやしない」
「うるさい」
初めてあの異端審問官に出会った時、俺は右も左もわからない子供だった。
ただひたすらに圧倒され、翻弄されただけだったが、目が開いた今ならば。
もう振り回されるのでなく、俺が、あいつを、読んで中身を貪ってやる。
そんな興奮に、握り拳をがじがじ嚙んでいた。
「しっかし……遅えなあ……」
ジャドがため息交じりに言う。
「市場の開く鐘が鳴っちまうぜ」
町の動きはすべて鐘の音で決められている。市場を開く鐘が鳴ると同時に市壁の門も開かれ、町は一気に目を覚ます。街道があるといっても軍隊用の二頭引きの荷馬車がゆったり進める程度の幅員しかなく、そこに山ほどの荷馬車や旅人が一斉に出て行くので道は容易にあふれ返る。
そうなる前に、大きな商会の特権で、市壁をくぐり抜けてまだ空いている街道をすいすいと行く予定だったのだが、肝心の異端審問官が来ない。
「ぬ~……ちょっと、使いを走らせて来る」
納品の途中では、一人でなにもかもを判断しないとならない。ジャドはぱっと御者台から降りると、軒先を箒で掃いていた幼い小僧を使いに走らせた。
そして、しばらく後、俺とジャドは大慌てで出立することになる。
異端審問官の宿泊先と、市壁の門兵に話を聞きに行った小僧は、とんでもないことを言った。
黒衣の異端審問官様は、夜が明けるのも待ちきれなくて出発してしまったとのことです。
「お偉いさんの気紛れってやつには参るんだよ!」
ジャドはわめきながら荷馬車を疾走させたが、がたがた揺れる荷馬車の荷台で、俺はなぜか敗北感を抱いていた。それは不思議と心地の良い敗北感で、きっとあの時の感覚と似ていた。百十四冊の本を読んで世界を知ったと思っていたのに、世界には十万冊以上もの本があると知った時のような。
あの異端審問官は相変わらず。いや、当時以上に奇矯が激しくなっている。
コレド・アブレア。
俺は、にやつく顔を抑えるので精いっぱいだった。
おおよそ六年ぶりの再会は、もちろん感動的にはならなかった。
そのことを予測してはいたけれど、実は、もう少し劇的なものを予測していた。
同じ本好きとして、汲めども尽きせぬ会話をできるのではないか。
そんな、子供みたいなことを思っていた。
「……」
「……」
「……」
だが、誰も、なにも喋らないとは思わなかった。
街道を爆走させ、アブレアの後を追いかけるのはさほど難しいことではなかった。地平線の彼方に立っていてもわかるような黒衣を身にまとっているうえ、本を読みながら歩いている人間などあまりに目立つ。素っ裸で歩いているほうが逆に印象に残らないくらいだろう。
道行く人すべてが知っていたし、何人かはこちらが聞くまでもなく、こんな変な人とすれ違ったと楽しげに語っていた。
俺とジャドが彼に追いついたのは、昼過ぎのことだ。ジャドが荷馬車の速度を落として横に並んでも、林檎をかじりながら本を読みふけっていた。なんとなく、神が与えてくれた知恵の実さえも、そういうふうに読書しながら貪り食っていそうな雰囲気だった。
ジャドがジーデル商会からの人間であると告げると、アブレアは顔を上げ、ものも言わずに荷台に飛び乗って来た。俺が挨拶をする隙すらない。何年かぶりの再会でもあるし、一応、小間使いとして呼ばれたのだが、かけらも関心を払ってもらえなかった。
そして、重そうな荷物を投げ出し、自分が横になる隙間を無理やり作ると、すぽんとおさまって、それきり微動だにしなくなった。それがよくできた石像でないとわかるのは、時折、頁をめくる際に手が動くからだ。当然、こちらからも声などかけられる雰囲気ではない。
でも、俺の中では質問が渦巻いていた。その本はなんですか。町ではどんな本がありましたか。今までにどんな本を見てきましたか。教皇庁の図書館ではどんな本を探していたんですか。
たまに黒衣のフードから覗く顔は、相変わらず異端審問官には見えなかった。優男で、童顔で、背は高いけれど、ひ弱な俺でも喧嘩に勝てそうなくらい体は細い。
けれど、本に没頭している姿は凄まじい迫力だった。
何者も寄せつけない。
そこに声をかけて許されるのは、あらゆる知識の源である、神だけのような気がした。
そんな具合だから、晩飯もジャドが用意する前に一人だけさっさと袋の中からパンを取り出し、ぎゅうぎゅうに口に詰め込んで葡萄酒かなにかで流し込んでいた。ジャドすら目を丸くする行儀の悪さだが、それは行儀の悪さというより、食事を憎んでいるような雰囲気があった。
たぶん、食事をすると眠くなるからであり、眠気は読書の大敵だからだ。
俺はアブレアのことが理解できたので、とても嬉しかった。
日が暮れても蠟燭に火をつけ、平然と本を読み続けている。焚き火の側で読まないのかと思ったが、焚き火は炎が揺れて読みづらいらしく、不機嫌そうに荷物の陰に隠れていた。
俺とジャドは目配せだけで会話して、夜は早々に眠った。
目を覚ますとすでにアブレアは本を読んでいたので、夜通し起きていたのかもしれない。さもなくば、眠りに落ちるまで読み続け、ふと目を覚ました機を捉えて読書を再開したのだろう。
「着きましたよ」
丸一日ぶりくらいに、人の声を聞いた気がした。
ジャドは馬車を停めるが、荷台のアブレアは少しも動かない。
俺が荷台から降りると、ジャドに腕を引っ張られて石壁の側に連れて行かれた。
「どうすんだあれ」
声を潜め、持て余すような視線をジャドが荷台に向けている。
だが、そんなことを聞かれてもわかるわけがない。
「それに、いきなりあんなの連れてって大丈夫かね?」
「さあ……。でも、黒衣の異端審問官ともなれば、調査目的で各地の修道院の書庫を自由に開けられると聞くよ」
正邪省と呼ばれる、異端かどうかを吟味する教皇庁の機関に所属すれば、この世のどんな場所にでも神の名の下に入ることができるらしい。
ただ、六年前はお膝元の教皇庁図書館に入れなかったあたり、単なる噂なのかもしれない。
「だったら、俺たち要らなくないか?」
「あくまで噂だし。あとは単純に、歩いて来るのが嫌だったんじゃないかな」
ジャドは、さもありなんという顔をして、ため息をついた。
「ただ、動く気配すらないよな……お前の師匠だろ? ちょっと声かけてこいよ」
「ええ!? いや、別に師匠じゃないし……」
「同じ本好き同士だろ? 肉屋と魚屋だって、サイコロ遊びの時は仲が良くなるだろうが」
「そんな無茶な」
俺とジャドが声を押し殺してそんなことを言い合っていると、不意に荷馬車のほうで動きがあった。
二人揃って盗み食いが見つかった時のように硬直して、そちらを見た。
「ふわぁぁ……おや、着きましたか?」
見た目どおり、記憶どおりの軽薄な口調だが、只者でないことくらいわかっている。
俺はジャドをぐいと前に押し出した。てめぇっと小さな声で言われたが、体が大きくすでに一人前なのだから、その責任を果たしてもらうべきだと思った。
「おお、立派な修道院ですねえ」
「あ、えっと、はい、グランドン修道院です」
「そうですか。では、正邪省から審問官が来たと伝えてください。扉が開いたら、荷馬車ごと図書館の前までお願いします」
言い終えると、アブレアは自分の荷物の中から別の本を取り出していた。どうやら、たまたま本を読み終えたので顔を上げたらしい。その一連の行動があまりにも滑らかすぎて、疑問や意見を差し挟む余地がない。
しかし、だとすれば、やはり噂どおり、異端審問官の職名があれば、どこの修道院も門扉を開けて招き入れざるを得ないのだろうか。
もしもそうなら、これでグランドン修道院の蔵書を拝むことができるし、司書とも交渉ができるかもしれない!
俺は期待に胸膨らませ、ジャドの肩を叩いた。
「だってさっ」
振り向いたジャドは、怒りたいのか笑いたいのかわかりづらい顔だった。
「ジーデル商会です! いつもの品を納めに参りました!」
二週間前と同じやり取りで、再び扉が開かれた。
顔を見せたのもあの時と同じ小僧で、ジャドの後ろに俺を見ると眉をひそめたが、怒鳴りも扉を閉じもしなかった。
「組合参加のための儀式みたいなもんだな」
町の職人組合に入る時は、親方の工房の前で三日間座り続けなければならない、というしきたりがある。今ではほとんど形だけだが、断られても断られてもその工房の弟子になりたい、と願った熱心な職人の話から慣例化されているのだ。
ただ、商品を運び、販路を広げる役目も担っているジャドのような職業においては、日常で当たり前に使う方法なのかもしれない。現に、二週間空けていることもあって、敵意も少なくなっているように見えた。
「先日は、突然失礼しました」
もちろん、謝ったのは俺のほうだ。いきなり怒鳴られ、突き飛ばされても、商人ならば笑顔で頭を下げろ、というのが先輩商人の教えだった。
小僧は無言のままそっぽを向いている。フードを目深にかぶり、口元を布で覆っているので表情はほとんど見えないが、不機嫌さがローブの内側からにじみ出ている。
ジャドはさっさと積荷を降ろし始めているようだったが、俺はアブレアに言われたことを実行する前に、少しだけ欲が出ていた。
アブレアのことを伝えればすんなり扉が開くのだろうが、その前に、自分の力で開くかどうかを試したかった。古の書籍商のように、通い詰めた先の修道院の扉を開き、門外不出の書籍に巡り合う、という冒険の空気に、片鱗でもいいので触れたかった。
ただ、まず、なんと言えばいいものか。
俺がもじもじしていると、小僧のほうが先に口を開いた。
「院長様は、会わない」
断定的な物言い。
「司書なんて、いない」
取りつく島もないとはこのことだが、司書、という言葉で俺は確信した。
ジャドも司書の単語を知らなかったように、それは誰もが知るありふれた職名ではない。その特別な単語を知っているのは、まさしく修道院の中に司書がいるからに違いない。
そこをとっかかりにしようと思って、ふと気がついた。
「……あなた、どこか悪いのでは?」
小僧とはいっても、君呼ばわりするのも迷ってあなたにしたが、小僧がびくりとしたのは決してその呼称に驚いたわけではないだろう。
自分が扉に苦しげに寄りかかっていたことにも気がついていないようだった。
慌てて体を門扉から離すと、反対側にふらついて今にも倒れそうだった。
「あ、ほら、やっぱり──」
「入るな!」
鋭い一喝が飛んだ。まるで手負いの獣だった。
よそ者を中に入れるなと厳命されているのか、とにかく小僧の態度は頑だった。
俺は事を構えるつもりなどさらさらないので、うなずいて二歩後ろに下がる。小僧は油断なく俺を睨み、たったそれだけのことで荒く息をついていた。
「落ち着いて。なにもしませんよ」
「中に、入るな……」
小僧はもう一度繰り返した。
「わかりました。けれど、今日はちょっと事情が違いまして」
「……?」
ただ立っているだけでも辛いのか、小僧は遠くの物を見るように俺を見て、門扉にまた手をついていた。
「実は、この修道院の蔵書を見たいという──」
「まだですか?」
声が、後ろから聞こえてきた。
「我が正邪省の名を告げても扉を開けないとは、なんたる信仰心の欠如」
振り向くと、コレド・アブレアが立っていた。慌てて口上を述べようと、小僧に向きなおる。
すると、その殺伐としていた目が驚愕に見開かれていた。
「扉を開けなさい。蔵書を確認します」
アブレアがそう言った直後だった。
「────っ!!」
小僧が実力行使に出た。その細い体で重そうな扉を力の限りに引いて閉じようとした。俺がなにかを言う間もない。
だが、自分の中の誰かが思い切った行動に出た。体が無意識に動き、後先考えずに扉の隙間に足を押し込んだのだ。
ごんっ、とすごい音がした。
「んああああ、痛ってぇー!」
「でかしました!」
俺はその瞬間後ろに引き倒され、その上をアブレアが影のように飛んだ。いや、そういうふうに見えるほど、黒衣を身にまとった細身のアブレアの動きは素早かった。俺が足を挟んで確保した隙間から長い腕を伸ばして小僧を摑み、そのまま無理やり体を滑り込ませると、肩と背中で扉をこじ開けた。
その一連の動きには、こういうことをやり慣れた人間ならではの滑らかさがあった。
「だ、だめっ、入るな! 入らないで!」
小僧が妙に幼いような口調でわめくが、アブレアは小僧を敷地内から引きずり出し、容赦なく放り投げた。軽そうな体が俺の上を飛んで、地面に倒れ込む。乱暴すぎるが、さすが異端審問官、と思わなくもない。
俺はその頃になってようやく起き上がる。足に痛みはあったものの、折れてはいない。
黒衣の男の足音はどんどん遠ざかっていく。小僧は背中をしこたま打ちつけたらしく、乾いた咳を繰り返していた。
「だ、だめ……入らない……で……げほっ、ごほっ……」
無駄な抵抗をするからだ、と冷たく思う一方、あまりにも哀れで、結局そっちのほうが勝った。この小僧がこんな目に遭っている原因の一端は、俺にもあるからだ。
「なあ、大丈夫か?」
「入ら……ない……」
起き上がれもしないようで、這うようにアブレアの後を追おうとする。
「あ、おい!」
だが、小僧は震える手を伸ばしたまま、その場に突っ伏してしまう。
俺は今度こそ迷わず飛びつき、抱きかかえていた。
直後、その軽さとローブの下の細さにぎょっとした。
「お、お前、飯ちゃんと食ってるのか?」
思わずそう言ってしまった。その間にも、小僧はうわごとのように、入ってはならない、というような意味のことをかすれた声で呟いていた。
そのうえ、立てもしないのに追いかけようとするので、俺は慌てて止めた。
「お、ちょっと落ち着けって……え?」
そして、後ろから羽交い締めにした瞬間だった。
「なんか、今、柔らかいものが……」
「おい」
と、声をかけられて俺は我に返る。
「荒っぽいことするなあ。異端審問官殿は自由すぎるな」
ジャドだったのだが、俺はなにかひどく悪いところを見つかったようにどきどきしていた。
いや、まさか、でも、そんな。
そんな言葉が頭の中をぐるぐる回り、ジャドにも生返事だ。
「けど、こんだけ騒いでても誰も来ないのは妙だな」
それは、アブレアがずんずん中に入って行ったので、皆そっちに気を取られているのでは、と思ったが、ジャドは続けて言った。
「いや、そうでもないか」
「?」
俺と小僧をまたぎ越え、敷地内に入ったジャドは、腰に手を当ててため息をついていた。
「どうなってんだ?」
ジャドはそんなことを言って、さらに中に入って行った。
俺もついて行こうとしたのだが、いつのまにか腕の中の小僧が静かになっていた。気絶してしまったのか、ぐったりしている。
まさか死んでやしないだろうな、と怖くなり、フードと口布を剝いだ。
「あっ!」
俺は驚きの声を上げたが、周りに誰もいないので、沈黙が降りるだけだ。
そして、夢のように覚めるわけでもなかった。
俺の腕の中にいたのは小僧ではない。髪の毛をフードの中に押し込んだ、瘦せこけた少女だった。
自分と背丈がほとんど変わらないのに歳下に見えたり、慌てた時の口調が幼いように感じたのは、女の子だったからだ。
「……なんで、修道院に女の子が……」
そのこと自体もそうだし、小僧と思っていた少女の素顔を見て、俺はもっと大きな疑問を抱いていた。
「この子……もしかして貴族じゃないのか?」
生まれは顔に出る。美しく貧しい娘、というのはもちろんいるが、気品というものはまた別なのだ。この少女には、商会で時折見かける貴族と同じ雰囲気があった。
「けど、それなら、なんでこんな格好で……」
あんな荒んだ目をしていたのか。
それに、痛々しいほどに瘦せこけている。
まるで、何十日も断食しているかのようだった。
「これじゃあ、本物の隠者みたいじゃないか……それとも、わざと断食して……ん? 断、食?」
と、ふと、俺は本で読んでいた事柄を思い出す。断食をしている人間というものは、やがて甘い香りを発するらしい。ジャドが興奮していた本にもそういう記述があった。
「……」
こんな機会はそうそうない。それに、薄汚れた野郎なら躊躇するが、女の子なのだ。
俺は静かな辺りをつと見回し、腕の中でぐったりしている少女の首筋に鼻を近づけてみた。
薄汚れているのに、町で見かける浮浪児のような匂いはしない。寒いからかな、と鼻をこすって、もっと鼻を近づけてみる。柔らかそうな髪の毛が鼻に当たり、ふわふわとした香りが漂っている。それはなんというか、どこか、日向ぼっこをしている時の犬か猫のような……。
「なにやってんだお前?」
「うおっ!」
俺は背筋を伸ばし、叫んでいた。
「あ、いや、これは──」
「あー! なんだよ、女の子かよ!」
「ち、ち、ち、ちょっと待て、誤解だ、これには訳が」
しどろもどろに弁解する俺に、しかし、ジャドはほとんど関心を持っていなかった。
女の子にも興味がないようで、困ったような顔で、修道院の敷地内を見返していた。
「なんなんだよ、参ったなあ……」
そして、頭を搔いた。
「ジャド?」
俺が尋ねると、ジャドはため息をついて、俺のほうを見た。
「来てみろよ」
「?」
怪訝そうな顔をしてみせても、ジャドは、来い、と手招きするだけだ。俺は立ち上がろうとして、腕の中の女の子のことを思い出す。置いておこうかとも思ったが、それが憚られるくらいに弱々しく、結局抱きかかえてジャドの横に立った。
その直後、嫌でも気がついた。
「あっ、これって」
「俺たちが運び込んだ荷物だな」
そこには、ジーデル商会から届けられたはずの食べ物やらが、山積みになっていた。
「二ヶ月分くらいだな……。寒いから腐ってもいないし、雨にも降られてないから虫もわいてないみたいだ」
甕の蓋を開けて香りを嗅ぎ、軽く飲んでいた。葡萄酒のようだ。
「くっそ、うめえなあ」
「お、おい、ジャド。人に見られたらどうすんだ」
ジャドは俺を見ると唇をすぼめた。
「人なんかどこにいるんだ?」
「いや、でも」
と、俺は改めて周囲を見回してみた。
そして、ジャドの言葉の理由がなんとなくわかった。いや、はっきりとわかった。
「こんな時間でも建物はどこも木窓が閉じてる。庭も掃除はされているが手入れが追いついてないって感じだ。それに、雰囲気だよ。人のいない場所ってのは、なぜかそういう雰囲気があるんだ」
中庭は長方形で、入り口から真正面に大きな二階建ての石造りの建物があり、左の奥のほうには鐘楼がある教会が立っている。右側には飼い葉などが散乱していて、元々厩だったと思われる建物があるが、動物の姿はないし、長く使われていないように見えた。
その厩の奥のほうにも建物がいくつかあり、畑らしき場所もあった。
そして、ジャドが言うように、その所々で刈りきれなかったらしい草が枯れていたりする。
「人がいないのはわかったけど、じゃあ、なんで人がいないんだ?」
「……」
俺の質問に、ジャドは答えない。
その代わり、甕を置くと、小走りに駆けて行った。
「あ、待てよ!」
俺の言葉など聞いていない。俺は仕方なく、少女を抱えたまま広い中庭を歩いて行った。
いくら軽いといっても、人は人。それに、俺は非力な書籍商見習いだった。だんだん疲れてきて、危うく落としそうになる頃になってようやく、中庭に面した一番大きな建物にたどり着いた。扉の前の石段に座らせ、壁にもたれかけさせてから、荷馬車の荷台に毛布でも掛けて置いておけばよかったんだと後悔した。
そして、これだけ騒いでいても、やはり誰も出て来ない。
「……本当に無人なのか?」
試しに扉に手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。
「失礼、します」
一応そう言ってから開けてみた。中は裕福な修道院に相応しく、石畳に緋色の絨毯が敷かれていた。無人であると一目でわかったのは、白い埃がうっすらと積もっていたから。
「……」
俺は、扉を閉めた。ちょっと怖かったのもある。この修道院が無人だとして、どうしてこの少女だけここにいるんだ? という謎があるせいだ。
俺はそれで、呪われた修道院の伝説を思い出した。修道士が次々と悪魔に襲われ、生ける屍としてさまよい続け、暖炉の穴は地獄とつながる番犬の口で、生前戒律を破っていた者たちが血の涙を流し、番犬の牙に背中の肉を抉られながら、そこを出たり入ったりしている。
まさか、こいつはそのうちの一人で、ここを訪れた間抜けを誘い込むための……。
「フィル」
「うわあああああああ!」
悲鳴を上げて飛び退いた。見れば、ジャドが目を点にしていた。
「でかい声出すな、馬鹿」
「じ、ジャドか」
恥ずかしくなる余裕すらなかった。
「な、なあ、ジャド、ここって」
と、言いかけるのを制して、ジャドは手招きした。
「来てみろ」
「……」
「誰もいない理由がわかる」
そう言われ、渋々ジャドの後について行こうとして、少女のことが気になった。
「すぐすむ。ほら、来いよ」
ジャドはさっさと歩きだす。俺はもう一度少女を見て、結局自分の上着を脱いで掛けてから、ジャドについて行った。ジャドが向かったのは、教会の裏。
そして、そんな場所になにがあるかなんて決まっている。
「これは……」
たくさんの、墓だった。
「不細工な墓標だが、書いてあるのは、日付と名前だろ?」
「そう、だな……。死んでいる日が近い人たちばかりだ。奥から順に埋めていったのかな。最後の日付は……二ヶ月と一週間前だ」
ジャドは言った。
「疫病だな、きっと」
「疫病?」
「師匠や先輩連中に何度か聞いたことがある。小さな集団だとこういうことがたまにあるらしいんだ。同じ井戸から水を汲んで、同じ鍋で飯を食い、どうかすると同じ部屋で寝起きするからな。丸ごと病でやられちまうんだと」
「じゃあ、あの女の子は……」
「ここが無人なのをいいことに住み着いた浮浪児か?」
ジャドの意見に、俺は同意を示さない。町中ならともかく、ここは人里離れた修道院。
それに、いくつもおかしな点がある。
「浮浪児なら律義に荷物の受け取りになんて出ないだろ。仮に知恵を働かせてジャドを欺こうとしたのだとしても、なんというか……もっとやりようがあったんじゃないか? 敵意丸出しなら、最初から応対に出ないほうがましだ」
加えて、ジャドは気がついていないみたいだが、あの女の子の顔立ちには気品がある。目つきはともかく、なにか事情があって修道院にいる人としか思えなかった。
「なら、単純に生き残りだな。生き残りだとして、運がいいのかどうかはわからんが」
「生き残れたのなら奇跡じゃないか」
「そうか?」
ジャドは視線を墓地に向けていた。俺も釣られてそちらを見て、気がついた。この寒々しく、不細工な墓標ばかりが並ぶ墓なのだ。そこで、一人で死体を埋めている少女の姿を想像してしまった。あんなに瘦せ細った体で、ぼろぼろの手で穴を掘り、墓標を立てるのはどんな気持ちなのだろう。
そう思って見れば、墓標に記された字は、恐ろしく震えていた。
「まあ、浮浪児だとしたら、あんなに瘦せてる理由がわからんからな」
ジャドは、腕を組んで、忌々しげに言った。
「生き残りだったらわかる。単純に辛くて食えなかったんだろう」
辺りは静かで、物音一つしない。
「どうする?」
俺が尋ねると、ジャドは頭を搔いてため息をついた。
「とりあえずあの子から話を聞くしかないだろ。それから商会に連絡して、これからどうするのか相談しないと。あの異端審問官殿になにか常識的な解決を期待できるとは思えない」
「……そうだな」
俺は少女の元に戻り、ジャドが敷地内を探索し、この少女が生活しているらしい場所を見つけてきたので、運んで行った。
そこは、俺がたどり着きたくて仕方がなかった、図書館だった。