◆◆第三幕◆◆


「なんで俺が薪割りなんて……」

 と、ぶつぶつ言っていたが、ジャドは手早く薪を割って、今はほとんど使っていないらしい修道院の一番大きな建物に運び込む。そこには食堂があり、日も暮れかけていたので、話を聞きながら食事、ということで、その準備をすることにしたのだ。幸い、食材については高級なものが有り余っている。

「それでパンなんて作るの?」

 練った小麦粉を入れた平鍋を手にした俺を見て、クレアが眉をひそめた。暖炉にはすでにジャドのおこした火が入っている。

 大きなテーブルと椅子がいくつもあるが、ジャドとクレアは暖炉の前に毛布を敷いて床に座っている。たまに掃除をしていたらしく、今すぐにたくさんの客が来ても大丈夫そうに見える。

 ただ、そのせいで、余計にここが無人なのだと意識させられた。クレアが普段は図書館に引きこもっているのもわかる気がする。あそこは、きっと往時から常に静寂と沈黙が支配していただろうから、修道院が無人になってしまったということを意識しなくてすむのだろう。

「パン焼き竈に火を入れるのは大変だし、種無しパンだよ。小僧時代に、積荷からこぼれた小麦粉を集めて、商会の暖炉でよく作ったんだ」

「お嬢様の口には合わないかもしれないがな」

 ジャドが嫌味を向けると、クレアは迎え撃つように半目で見つめ返す。

「約束の地クルダロスを出る我らに、神のご加護あれ」

「あ?」

 ジャドが怪訝そうな顔をして聞き返すので、俺は苦笑した。

「ジャドはちゃんと聖典なんか読んでないよ」

「あら、これは失礼」

「ああ?」

 約束の地クルダロス。そこを異教徒に奪われたのは、もう千二百年は昔のことだ。

 その時、神の子羊たちは大慌てで逃げ出さざるを得なかった。そのために吞気にパンを発酵させることもできず、ただ小麦粉を水で練って焼いたものを腹と頭陀袋に詰め込んで飛び出した。

 クレアが口にしたのは、その故事の一節だ。

 修道院なら、その故事に倣って少なくとも年に一回は、この貧者のパンを食べる。

 クレアは時に応じて聖典を引用するあたり、本が嫌いでも聖典の話ならしてくれるかもしれない。聖典注解書や神学書はもちろんそこいらの司教様よりも読んでいる。

 書架で見かけたアンブロシウスの話でも振ってみようかと思っていると、ふとクレアは言った。

「でも、どうせなら塩とバターがあるわ」

 クレアは立ち上がり、食堂から出て行った。その背中を見送って、ぐだぐだ考えてないでさっさと話しかければよかったと後悔する。

「塩とバターか。その塩漬け肉も、かなりいいもんだからな。豪勢な飯になりそうだ」

 修道院に納品されるようなものだから、町中ではとても俺たち下っ端が食べられるような品質ではない。この小麦粉も、ちゃんと発酵させて職人が焼けば、ふかふかの真っ白なパンになるはずだった。

 俺は小麦粉を練りながら、ジャドに言った。

「というか、ジャド。クレアをいちいち怒らせようとするなよ。事情があるんだろうし、こうやってもてなそうとしてくれてるんだから」

 もちろん、俺が本を買い付けたり、本の話をしようとする邪魔にもなる。

「ああ? お前は子供だなあ。全っ然、わかってねえ」

「……な、なにがだよ」

 もしかして、下心を見透かされていたのかと思って動揺すると、ジャドは屈託のない満面の笑みを向けてくる。

「美人は笑ってるより、怒ってる時のほうがいいんだよ。目つきなんか、ぞくぞくするね」

 そして、いしししし、と歯の間から笑いを漏らす。

 その欲望への忠実さを、素直、と称賛するべきかどうか俺は数瞬悩んでから、馬鹿なことだとため息をついた。俺は、わかりきっていることを口にした。

「笑ってるほうがいいに決まってるだろ」

「そうかあ?」

「そうだよ。あんなむすっとしてちゃ、一体どこが可愛いんだ……よ……」

 言葉の最後は尻つぼみになって、暖炉からの明かりが届かない廊下の暗闇の中に消えた。

 戸惑った鼠が、暗闇の中に立つクレアの足元を避けて逃げるように。

「あ、いや、その」

 慌てたのは、きっと、誤解を受けるような一部分だけ聞かれたからだ。

「別に気にしないわ」

 と、クレアが言った。

「あんたたちみたいな下賤の者に好かれようなんて思ってもいないから」

「いや、そういうわけじゃ……」

 俺の言い訳は、ずかずかと食堂に入って来て、乱暴に床に置かれた木皿の音でかき消された。

 そこにはたっぷりのバターと、塩の入った壺が置かれていた。

「むすっとして可愛げがなくて悪かったわね」

「うっ……ジャドっ……!」

 俺は喉の奥から絞り出す呪詛と共にジャドを睨んだが、ジャドは口を押さえて笑っている。クレアはつんとそっぽを向いて座っているし、言い訳したい気がありつつも火に油だと思った俺は、がっくりしながら食事の準備を続けるしかなかった。

 ジャドめ、いつか覚えてろよと、恨みと共にバターと塩を練り込んだ小麦粉を、平鍋に薄く延ばして張り付ける。それから、暖炉の隅に寄せた炭火の上に少し灰を載せて火力を調節し、平鍋を置いた。後は、串かなにかでぷくぷくと膨らむ泡を割りながら焼けるのを待つだけだった。

「……簡単にできるのね」

 バターのおかげで芳醇な香りが漂い始める頃、それで機嫌を直したのか、ぽつりとクレアが言った。

「昔は、暖炉の壁に直接張り付けて焼いてたけどな」

 昔から一度だって手伝ったことのないジャドが、誇らしげに鼻をこする。

「砂漠の隠者もそうしてたって本で読んだから……真似してみたら、思いのほかうまくいって」

「ふうん」

 どんな本で読んだの? という質問を期待していたが、クレアはジャドと俺を見比べて、小さく肩をすくめただけだった。

「さて、俺はパンよりこっちだからな。いい葡萄酒もあることだし」

 ジャドは暖炉の火加減を見て、いそいそと別の鉄鍋を炭の上に置く。大人がすっぽり二人は入れそうな大きな壁暖炉なので、それでもまだ余裕がある。

「肉を焼くの?」

 余らしているのならなにを食べてもいいだろうと思っていたのだが、クレアの言い方には嫌そうな響きがあった。

「肉食禁止なのか? 納品されてるのに?」

 肉食の禁止は絶対のものではなく、修道院の厳しさによる。グランドン修道院はジャドの言うとおり納品に肉が含まれているので、絶対禁止ではないのだろう。

 それで俺は、クレアの細さに思い至った。あまり調子が良くなくて、肉は重すぎるのかもしれない。俺だって、病気で弱っている時にはニンニクと肉の脂の焼ける匂いは嗅ぎたくない。

「……別に、自由に食べれば」

 クレアはそう言って、再び立ち上がるとどこかに消えた。ジャドはクレアがいなくなると、俺を見て首をすくめていた。

 そして、ジャドは特に気にせず肉を焼き始め、じうじうと脂の弾ける音がし始めると、なんともいえない食欲をそそる香りが立ち込める。

 そんな折り、クレアが戻って来て、手には塩漬けの鰊が二尾あった。口から串を通し、それを無言で暖炉の入り口に突き立てる。

「なんだ、単に好みの話かよ。まったく、お嬢様だなあ!」

 ジャドはそんなことを言っているし、クレアは無視している。

 でも、俺はまったく逆だと思った。

「もしかして、隠者の庵を訪れた三人の修道士の話?」

 たちまち、クレアが驚いたように俺を見た。

「気を遣わなくていいよ。少しは食べたほうがいいかもしれないけど、調子が悪かったら無理しないで。昔の医者も、パンと少しのオリーブの油と、温めた葡萄酒だけのほうがいいと本に書いてるし」

「……」

 クレアは俺のことをしげしげと見て、目を逸らすと大きなため息をついた。

「変な奴」

「んなっ、なんでだよっ」

「ふん」

 町中を行く背の高い馬車の座席から、道行く人間を蔑むような貴族の娘。そのくらいつんけんした横顔なのに、俺は怒り切れなかった。なぜなら、クレアがわざわざ魚を持って来たのには意味があったからだ。

 高名な隠者の砂漠の庵にやって来た三人の修道士。隠者は客をもてなすために、普段は戒律のために食べられない食材を使い、ご馳走を作って振る舞った。だが、三人の客の内の一人は、戒律ゆえに、と言って袋から炒っただけの豆を取り出して食べ始めた。残された二人の修道士は、自分たちも戒律に従うべきか、それとももてなしを受けるべきかと気まずくなった。すると、高名な隠者はこう言った。

 戒律は人を正すために作ったのであり、それを見せびらかすために作ったのではない。

 よく見ればその姿は、六百年前に修道院を作った賢者であった……云々。

 クレアは、自分だけ貧者のパンをもそもそ食べていれば、俺たちが気づまりするだろう、と思ったに違いない。目つきは殺伐としてつんけんしているけれど、本当は優しくて気の利く子なのだ。

 そんな子と楽しく本の話ができればなあと、俺はパンに浮いた泡をいじいじと潰す。

「うーん、うめえなあ!」

 だが、そんな気遣いなど露ほども気づいていないジャドは、焼き上がった塩漬け肉を嚙みちぎり、特級の葡萄酒で流し込む。あまりの屈託のなさに、俺は逆に感心するほどだ。悩みは湧いて出てくるものではなく、自分で見つけてしまうものというのは、確かに本当かもしれない。

 俺もジャドを見習ってナイフで肉を刺し、脂の甘さに身を委ねた。

 しばらくは飯のうまさに夢中になっていたが、ふと背後からひんやりとした空気が漂ってきて、後ろを振り返った。そこには静かな食堂がある。かつてそこを賑わしていた修道士たちのいない、無人の空間だ。

 すっかり日も暮れて気温がさらに下がっているので、やたら背中に冷気が絡みつく気がするのは単にそのせいなのだろう。

 しかし、食堂の様子を見ていると、漂う冷気が死者の手の冷たさのように感じられてならず、俺は食事に戻りながらもついつい、背後を気にしてしまう。

「幽霊なんかいないわよ」

「う」

 クレアに指摘され、ぎくりとしてしまう。

 臆病者、と女の子に言われて、傷つかない男などいない。

 でも、わざわざ言わなくてもいいじゃないか、と俺はクレアを少し恨んだ。

「散々探したけど、見つからなかったから」

「え」

 そしてその一言で、俺を馬鹿にする以外に別の意味があったのだと、気がついた。

「……ごめん」

 後ろを振り向いたら、死んだはずの修道士が立っているかもしれない。

 それは俺にとっては恐ろしいことでも、クレアにとってはそうではない。

 むしろ、喜ばしくて、何度も強く願ったことなのだ。

「別に。もう諦めたわ」

 平鍋から取り出した、平べったくてもちもちの種無しパンをちぎって、クレアは少しずつ口に運ぶ。むぐむぐとパンを嚙む姿は、運命への恨みつらみを反芻しているようにも見えた。

「疫病だった……って?」

 俺は、恐る恐る尋ねた。クレアが小僧の時の目つきで俺を睨み、俺のことを殴ろうと拳を振りかぶった……というのは勘違いで、閉じた目を開けると、俺の前に置かれていた葡萄酒を手に取っただけだった。

「意気地なし」

「ぐ」

「もっと言ってやってくれよ」

「……」

 俺は二人にへこまされて、冷めた種無しパンのようにしおれていた。そういえば意気地なしのことを種無しともいうな、とか冷静に思ってしまうくらいに。

「そうよ。疫病」

 葡萄酒を思いのほか豪快に飲んだクレアは、そう言った。

「ここにやって来た旅の修道士が持ち込んだの。ここに来た時点で体調が悪くて、三日後に死んだ。それからよ。ばたばたと皆が高熱で倒れて、黒く焼けただれたように死んでいったの」

「……それって……」

 口に出さなかったが、黒死病では。

 罹患すれば十人に九人は死ぬ、絶望的な病。

「お前は平気だったのか?」

 ジャドの問いに、クレアは皮肉げな笑みを浮かべた。

「私が血の涙を流す、青白い顔をした死体じゃなければそのはずよ」

 当てつけかよ……と俺は塩漬け肉を嚙みちぎって憂さを晴らした。

「実を言うと私も病にかかったの。二週間以上高熱で苦しんで、もう駄目だと思ってたけど、どういうわけか生き残った。信仰心でいったら、下から数えたほうが早かったのに」

 喋りながら、クレアは葡萄酒の入った瓶を傾けて、中に視線を落としている。

 そこに解けない謎が沈んでいるような、なにか納得がいっていないような顔だった。

「高熱が引いて、ある朝目が覚めたら、なにもかもが決定的に違っていた。修道院は沈黙の掟があるからいつも静かだけど、それは静寂とは違う静けさだった。夏は終わっていたけれど、よく晴れていて、少し暑いくらいだった。ずっと寝ていたせいか、世の中はこんなにも明るいんだって、日差しにくらくらしたのを覚えてる……」

 クレアの視線が逸らされると、手にしていた葡萄酒の瓶も、力なく床にことんと置かれた。

「誰もいなかった。正確に言うと、もう誰も起き上がれなかった」

 もしも、同じことがあの商会で起きたらどう思うだろう。

 ある朝目が覚めたら、自分以外のすべての人間が、死んでいる。親しい人も、好きな人も、苦手な人も、恩のある人も、誰もかも。

「看病してもらった分、必死に看病したわ。医学書の類も何冊かあったし。でも、無駄だった。死の舞踏、そのままの光景よ」

 骸骨と踊る、高貴な人、町の人、子供、老人まで。死は万人に、等しくやってくる。

「櫛の歯が欠けていくような毎日だった。知ってる? 病はなぜか夜に人を苦しめていくのよ。暗くなると、闇が人の上にのしかかり、胸が押されるように呻き声が漏れてくる。でも、どうしようもなかった。闇の重さを少しでも取り除くために、蠟燭に火をつけて、灯りの続く限り祈り続けるしかなかった。それで、力尽きて眠りに落ちて、目が覚めると静かな朝がきてるのよ。少なくとも、死は彼らの苦しみを取り除いてくれた。そう、思うしか……」

 クレアの言葉が詰まり、鼻をすする音がする。俺は胸が痛むが、安易に手を伸ばしていいものかどうかわからなかった。俺はそんな不幸には遭遇しなかった。なのに訳知り顔で同情するのは失礼ではないのか? 別れへの慰めを記した本についての知識は山ほどあるが、どれも不適切に思えて仕方がなかった。

 けれど、肩を縮め、立てた膝の間に顔をうずめてしまったクレアを放っておくこともできない。

 やきもきしていると、ジャドが立ち上がった。

 そして、クレアの横に座りなおすや、乱暴にその頭を抱いていた。

「や、やめてよ! 気安く触らないで! あなたになにがわかるの!?」

 予想どおりクレアが泣き声混じりの怒声を上げて身をよじるが、ジャドは離さなかった。

「なにもわからねえけど、少なくとも俺はここにいる」

「なっ……」

 クレアが言葉に詰まり、暴れるのをやめた。

「どれだけ嫌な奴だって、墓標の下に埋まっちまえば喧嘩もできないだろ。いつかあの野郎をぶっ飛ばしてやるって思ってれば、大抵の辛いことには耐えられる」

「……」

 クレアはジャドを、呆けたような顔で見上げた。

「長い航海に出る先輩の商人らに聞いた話だ。生きて帰れるかどうかわからない船出の時、思い出すのは好きな人より、嫌な奴のことだって。あいつが安穏と生きてるのに、俺が死んでなるものかってな」

 クレアの頭を、小さな女の子のようにぽんぽんと叩き、ジャドは笑った。

「少なくとも俺は、ちょっとやそっとじゃ死なないぜ。どれだけ嫌がられたって、必ず、月に二回、ここに来てやる」

 人の嫌がることが大好きなジャド。

 でも、それは裏返しなのだ。

 相手のことを理解していなければ、相手がなにを嫌がるかもわからない。

「な、なんなのよ……」

 クレアは力なく言って、ジャドを嫌そうに突き放す。今度はジャドも無理に抵抗せず、クレアを放す。けど、ジャドは優しそうに笑っていたし、クレアは顔を隠すようにうつむいていて、照れているようにも見えた。

 俺はその光景に、息をするのも忘れていた。ジャドがいつの間にか大人の男になっていることに気がついたからだ。荷馬車を任されているのは、背が俺より高いからだけじゃない。ジャドはすでに立派な一人の男で、数万冊の本を読んだ俺よりよほど世の中のことを身につけていた。

 ジャドの堅実さに、俺は自分の大きな夢で対抗していた。けれど、ジャドが悲劇に泣く女の子を慰める一方、俺はそのきっかけすら摑めないでいた。

 男として敗北感を抱くのに、これ以上のことはちょっとないだろう。

「まあ、そんだけすごいことを経験してたら、目つきも殺伐とするだろうな」

「大きなお世話よ!」

 ジャドのからかいにクレアが嚙みつくが、本気な感じがしない。たった一瞬のことで心を許しているのが、簡単に見て取れた。

 本ばかり読んでいる間抜けには入り込めない、現実的な男女の空気だった。

「けど、外に助けを求めなかったのはなんでだ? そうしたら、お前も少しは辛さが減っただろうに」

 恥ずかしげもなく言えてしまうのがジャドだし、クレアも怯みつつ、嫌そうではなかった。

「それは……」

「言わないと、ここでくそするぞ!」

 下剤を盛った、という噓に対する当てつけだ。

「食堂でそんなこと言わないでよ馬鹿!」

 ジャドはげらげら笑い、クレアは疲れたようにため息をついていた。なんだか、もう何年もそんなやり取りを繰り返している、幼馴染みのようだ。

「院長様にも、早く出て行くようにと言われたわ」

「……それは」

 と、ジャドが急に気遣うような顔を向ける。

 クレアはそちらを見て、気が抜けたように言う。

「生きている院長様よ」

「おお……いや、悪いな」

「なによ、気持ち悪い」

 その時初めて、クレアが柔らかく笑った。やっぱり、その笑顔はものすごく魅力的だった。

 怒っている顔より何百倍もいい。親しげで、どこか理知的な姉みたいな優しさのある笑顔に、ぱっとその場が輝いたようにすら見えた。

「お、初めて笑ったな」

「えっ」

「可愛いじゃんか」

 ジャドの無粋な指摘に、クレアは目を見開いて顔を赤くした。その直後には、ヤドカリが身を隠すように、たちまち笑顔を固い無表情の下に隠してしまう。

「……」

 それから、威嚇するようにジャドを睨む。

「俺はそうやって怒ってる顔のほうが好きだけどな」

 屈託なく言われ、クレアは逃げ場を失ってしまう。あたふたした後、ジャドの肩を怒ったように叩いてそっぽを向く。ジャドは相変わらずあけっぴろげに笑っていた。

「んで? 院長様がなんだって?」

 ジャドは気にする様子もなく、肉を嚙みちぎりながら話の続きを無造作に促す。

 クレアのほうも慣れてきたのか、あるいはそんな無造作加減が逆に心地よいのか、どこか割り切ったように話し始めた。

「院長様は、最後まで私の心配をしてくれた優しい人だった。院長様は、ここが疫病で荒廃したとなれば色々面倒事が起きると仰っていたの。一人生き残っていれば、あらぬ誤解も招くだろうって。だからそうなる前に早く出て行けって言ってくださったけど……そんなことできないわ。ここには皆が……眠っているのだもの」

 昔の思い出を見つめているのか、クレアの目から険が消える。

「でも、ずっといるつもりはないんだろ?」

 ジャドは言った。確かに、クレアはあと一ヶ月でいいからここの秘密を守って欲しい、と言っていた。

「そうね。本当はいたいけど、無理だから」

「そういうものか? 食い物は有り余ってるじゃないか」

「人はパンのみにて生きるにあらずよ」

 聖典から引用されて、ジャドは嫌そうに顎を引く。

「修道院は孤立した島じゃないもの。いつか必ずばれる。特に、私は元々ここに無理言って置いてもらっていた身だからね」

「それは、女なのに気性が激しすぎるから、男だけの修道院にって意味か?」

「殴ってやりたいけど……半分くらい当たってるかな」

 ジャドが無邪気に笑うと、クレアも仕方なさそうに笑っていた。

「お父様がね、親しかったここの院長様の元に、実家の蔵書と一緒に私を預けたのよ」

「え」

 その言葉を聞いて、思わず俺は声を上げてしまう。

 二人の視線が向けられて戸惑ったが、この時とばかりに尋ねた。

「じゃあ……あの図書館の本は、クレアの?」

 その問いに、クレアはうなずいた。

「そうよ。全部ね」

 なら、やはりこのクレアを口説き落とせさえすれば、本が買えるのだ。それにクレアがあまり本に執着していないらしいのも、寂しいことではあるが逆に助けになる。

 俺がその可能性に打ち震えていると、ジャドが言った。

「けど、ここって女子禁制じゃないのか。いいのかよ」

「何事にも例外はつきものってこと。それに、色々他にも理由があったし」

「理由?」

 ジャドが尋ね、クレアはうなずいた。

「私の家が治める領地は、山を挟んですぐ異教徒の土地だった。だから、小さい頃から戦争ばっかりでね、危ないから、領地の城と町の屋敷を行ったり来たり。でも、三年前のことよ。お父様は異教徒との大きな戦いがあるからってあれこれ準備をして、私を町の屋敷からここに押し込んだの。自分が死ぬかもしれないって考えてたから、町に私一人を残しておくのが不安だったんでしょう」

「まあ……お前、黙ってたら美人だからなあ。そらあ、父親としては不安にもなるだろうな」

 顎に手を当て、しげしげと見つめながらジャドは言う。

 クレアは嫌そうなそぶりを見せつつも、満更でもなさそうだ。

「町の有象無象に私がなびくなんてありえないけどね」

「言うねえ」

「ふん。でも、有象無象じゃないのもたくさんいるわけ。特に、私は一人娘だから領地が欲しくてたまらない独身の貴族連中とかの良い的なのよ」

 そういう話はよく聞く。力づくで十代の若い貴族の娘を娶った六十歳の老貴族なんてのは、よく教会で非難される最たるものだ。

「お父様に万が一のことがあったら、私は野原に取り残された兎みたいになっちゃう。疥癬だらけの醜い毛並みの狼だろうと、この世の中で狼は狼、兎は兎。私は権力争いの道具になるなんてまっぴらごめんだから、結局この石壁の中に入った。でも、ここが疫病で大変だった時に、万が一のことが起こっちゃったのよ」

 珍しくジャドが言葉に詰まる。もちろん、俺も何も言うことができない。

 けれどクレアは特に気にしたふうもなく、昨日の天気を話すように、言った。

「お父様は異教徒との戦で戦死。私はここに置き去り。まあ、そういう時のために二十年分の寄付を先にここにしてたから、すぐ困るってことはなかったけど」

 ジャドが仰せつかっている役目のこと。

「でも、石壁の外では無慈悲に物事が進んでいったみたい。お父様は立派な人だったから、隠し子もいなかったのね。お母様は私を産んですぐに死んじゃったし、血族は皆、異教徒との戦で死んじゃった。そんな状況で、唯一の血縁の私は石壁の中で、形の上では永遠の信仰生活に入ってしまっている。異教徒との戦の最前線ってこともあって空白の土地にはできなかったんでしょうけど、王様に取り入った別の貴族が、さっさと我が家の領地をさらっていったらしいわ。つまり」

 クレアは、冗談みたいに肩をすくめた。

「私には帰る場所がない。守ってくれる人もね」

 世間からの目を遮ってくれる、背の高い石壁に囲まれたここだけが、クレアの隠れ家なのだ。

「ほ、他の修道院に行くとか、は?」

 俺が思わず口にすると、クレアはなにもわかっていない子供に向けるような、無知を優しくたしなめるような笑みを向けてきた。

「疫病でここが大変になっても、院長様は他の修道院に助けを求めなかった。それと同じ理由」

 どういうことだ? と戸惑っていると、ジャドがため息交じりに言った。

「弱みを見せるとまずいってことか。地位と権力のある連中ってのは、聖職者だろうと腹黒いのばっかりなのか?」

「ここの院長様は例外だったけど、そのとおり。助けなんて求めたらあっという間に食い荒らされるって言ってた。だからなんとか自分だけでも回復して修道院を立て直すんだって、皆が死んでしまってからも最後の最後まで病と闘っていたけど……結局、役立たずの私だけが残っちゃった」

 クレアは、疲れたようにため息をついた。

「身寄りも、財産もない私のような小娘が、別の修道院に行くなんて、とても現実的じゃないわ」

「本があるじゃんか。それならこいつに売ってやれよ」

 ジャドの無思慮と無遠慮もたまには役に立つ。俺は胸中で歓声を上げた。

 期待を込めてクレアを見ると、クレアは種無しパンをちぎりながら言った。

「修道院ではなにひとつ私有できない規則になってるのよ。あの図書館にある蔵書もそう。さっきは絶対に売らないって言ったけど……本当は、売れない、のほうが正しい」

「は? どういうことだよ。お前の家のもんなんだろ?」

「もちろん、心情的には今でもあの本はお父様のものだと思ってるし、院長様ともいつか事が落ち着いたら元に戻すって約束だったはず。でも、それは院長様とお父様との個人的な約束であって、建前上は寄進の形なの。蔵書も、二十年間納入される物資も、羊皮紙の上ではすべてこの修道院のもの。私が処分を勝手に決めたり、それらを抱えて別の修道院に行こうと思ったら、間違いなく大問題になる」

「とはいったって、咎める連中はみんなもう墓の下じゃないか」

 ジャドの物言いにも、クレアはすっかり慣れたらしい。

「わかってないわね。さっきも言ったけど、修道院って孤立しているようでそうでないのよ。修道院同士には縦のつながりがあって、母娘関係になってて上下関係が厳しいの。たぶん、寄進なんかで大金が絡むからでしょうね。実際、ジャドが持ってくるのは贅沢品ばっかりでしょ?」

「おお……確かにそうだな。しかも、二十年分だからな」

 それだけで、すごい金額になることは確かだった。

「だから、ここの母修道院は、ここの修道院の財産も把握しているはずよ。財産目録や、所有権を記した羊皮紙の束は、母修道院にあるんじゃないかしら。それを見ながら、毎日楽しそうにお金の勘定をしてるんでしょうね。くそったれの商人みたいに」

 可愛い顔をした女の子が、どこか楽しげにくそったれと言う。

 にこやかに笑っているだけが女性の魅力じゃないのだと、ジャドの言うことが少しわかった。

「というわけで、私はここの財産をどうこうできるわけじゃないの。そうする時は、修道院の権威に挑戦する時ね」

 俺はそれ以上なにかを言うこともできなかったし、ジャドも同様だった。腕力でどうにかなる話ではない。毛皮の外套を翻し、宝剣を腰に馬にまたがる者たちが、ペンと権威でどうこうする類のものだ。

 暖炉の中の薪の燃える音だけが小さく響く。

「そういうわけだから、ここが疫病で全滅してるとなったら、間違いなく母体の修道院から人がやって来る。女子禁制のはずの場所に私はいられないから、追い出される。寄付もたっぷり搾り取った後だし、私の家にはもう領地なんてないから確実ね。次にやって来る院長様が、それでも私をここに置いてくれる心優しいお方であるように祈るのは、死んだ人が生き返りますようにって祈るのと同じくらい無茶だわ。せいぜい、妾にされるのが関の山じゃないかしら。幸い、美人らしいし?」

 ぎょっとして、クレアを見た。

 俺たちも身寄りがなく、商会に拾われた身で、もしも商会から追い出されれば路頭に迷う。

 それにしても、クレアのような運命になることはない。

 どれだけ強がっても、この無慈悲な世の中で、女の子は女の子なのだ。

「だから、なんだっけ。本の買い付けだっけ?」

 急に話を振られ、俺は背筋が伸びる。

「それは私がいなくなってから、母体の修道院の院長様に言って。意地悪じゃなくて、私にはどうしようもないことなの」

「う、うん」

 思わずうなずいたが、同時に疑問が脳裏をよぎる。自分の家の蔵書をそんなに簡単に諦めるつもりなのだろうか、と。

 クレアはあまり本が好きではなさそうだが、なにより蔵書はなくなってしまった実家の形見なのではないか。

 ただ、その疑問を口にする前に、クレアが言葉を続けた。

「だから、もう少しだけここのことを黙っていて欲しい。ずっとは無理だとわかってる。ただ、もう少しだけ……」

 いつまで? とは問わなかった。その質問に、希望のある答えは望めないからだ。

 クレアがお金を必要としていたのも、小僧が逃げ出そうとする路銀を求めているのと同じことだったらしい。いざ修道院を出れば、そこは荒々しい嵐が吹き荒れる世界だ。そこで身を守ってくれるのは、輝かしい金貨だけ。

 だから、クレアがもう少し待って欲しいと言う気持ちもよくわかる。絶対にそうとは認めないだろうが、単純に、外に出るのが怖いのだろう。

 しかし、それを笑うわけにはいかなかった。クレアはなにも悪くないし、なんの後ろ盾も持たないまま外に放り出されるのがどういうことか、俺たちは町に暮らすからこそよく知っている。

 いつもは軽口ばかりのジャドも、真剣な顔つきで床を見つめていた。

「ぼ、僕……いや、俺は、構わないよ」

 さっきの後悔ではないが、俺が先に言うと、クレアは俺を見て、力なく微笑んでくれた。

 でも、それはただの気休めにもきちんと礼をするべきと考える貴族の義務的な笑顔だった。

「まあ、俺も構わないが」

 ジャドは言って、嫌そうに唇を尖らせた。

「けど、この先どうするか決めてるのか?」

 クレアは視線だけを向けて、無言で首を横に振った。

「だよなあ」

「ねえ、うちの商会なら一人くらい入れないかな」

 俺が言うと、クレアとジャドの二人から視線を向けられる。

「俺たちが思いつくのってそのくらいだよな」

「で、でも……」

 と、困惑するクレアに、ジャドが笑って言う。

「それに、少なくともフィルよりかは、クレアちゃんのほうが使えそうだし」

「なんだよそれ!」

 抗議の声を上げるが、自分でもそんな気がしないでもない。

「まあ、うちの商会は常に人手不足だ。仕事くらいある。選り好みは……できないだろうがな」

「か、覚悟はしてる」

 ジャドの軽口にどんな奴隷労働を想像しているのか、思いつめたような顔でうなずいている。

「ま、その手を見れば、仕事が辛くてもすぐには逃げ出さないってわかるぜ」

 クレアは慌てて手を膝の下に入れて隠す。手がぼろぼろなのは、なにかの作業で酷使したせいなのだろう。最後に院長が死んだのが二ヶ月ほど前だとすれば、それからずっと一人で生きていたことになる。やらなければならないことはたくさんあったはずだ。

 ただ、自分の膝の下に手を隠したクレアは、ちょっといじけた女の子みたいな居住まいになっている。そのクレアが、うつむいて小さく呟いた。

「ここを、出ないといけないのね……」

 疫病がすべてを奪っていってしまったが、楽しい思い出もたくさんあったのだろう。

 俺もジャドも、クレアの呟きに気がつかないふりをするくらいの配慮はできた。

 それに、クレアの呟きは他人事とも思えなかった。自分もいつかこんなふうに書籍商になることを諦め、霧の中から現実に戻る日がくるかもしれない。

 俺は頭を振り、そんな考えをどうにか追い払った。

「しかし、商会に戻ったらクレアの勤め先を探してもらうってのはいいとして、当面の問題はあいつだよなあ」

「……あいつ?」

 聞き返したのはクレアだ。ジャドはひどく真剣な面持ちで言った。

「あの異端審問官だよ。あいつが隠蔽に協力してくれるとは限らない。だったら、どうする?」

 いっそ殺しちまうか? とか言い出しそうな口調だったが、それへの返事には、その場にいた全員が驚いた。

「私も賛成ですよ」

「おわっ!?」

 ジャドが一番驚いて、飛び上がった。内心、やっぱり不穏なことを考えていたのかもしれない。

 ただ、暗闇からぬっと現れたコレド・アブレアはかけらも気にしていない。たまたま来たのか、それとも聞き耳を立てていたのか、ぬるぬるとした独特の歩き方で入って来て、子供みたいにしゃがみ込むと焼いた塩漬け肉を一切れつまむ。どうするのかと見ていたら、大きく開けた口にひょいと放り込んでしまう。

「ふむ、ふむ……うまいですね。もうないのですか?」

「焼けばあります、けど……」

 アブレアを前にすると、ジャドも敬語になる。一筋縄ではいかない、という意味では、これ以上の人物を、俺も知らない。

「もう一切れ欲しいですね」

「……」

 言われたとおりに肉を再び焼くジャドに満足げにうなずき、アブレアはクレアを見た。

「あなたは賢い。愚かな小娘でしたら、ぐるぐるに縛ってさっさと放り出そうかと思っていたところですが……まあ、あなたのお父様がわざわざあのような蔵書を選んで残すくらいですからね」

「え? 選ぶ?」

 怪訝そうに聞き返したのは、クレアだ。

「家にあった蔵書の、すべてを持ってきたはずですけど……」

「おや、そうですか」

 アブレアは意外そうな顔をしてから、ううむとなにかを考えるように顎に手を当てた。

「ということは……なるほど。いや、私が口にするのは野暮でしょう。少なくとも、あなたのお父様の学識は確かなものだ。戦など無意味なことで失ったのはとても惜しいことです」

 昔もそうだったが、アブレアはいつも一方通行だ。

 一人で考え、一人で納得し、次にいってしまう。

「ただ、私はここに異端審問に来たわけではありませんし、なによりここの蔵書は素晴らしい。修道院の財産がどうこうなんてのも聞き飽きた話なので、関わりたくないです。少なくとも、私があそこの本を読み終わるまでは積極的に隠蔽に加担しましょう」

 少なくとも、と言い添えるところがこの男らしいと俺は思った。

「というわけで」

 アブレアは、言った。

「蔵書の目録はないんですか?」

 こいつは本物だ、と、その場にいた全員が思ったのだった。