◆◆第二幕◆◆


 グランドン修道院の図書館入り口の扉の上方には、牙を剝いた悪魔の彫像があって訪問者に睨みを利かしている。この先、地獄、ということではなく、図書館に悪意を持って侵入し、蔵書を盗まないようにという警告のためだろう。あの手この手で本を盗む聖職者同士の話は、底意地の悪い貴族たちのお気に入りだ。

 吞気なジャドはしげしげと悪魔を下から見上げていたが、俺は買い付けに来たのであって盗みに来たわけじゃない、と必死に胸中で言い訳をしていた。

 そして、そんな入り口をくぐって石造りの無骨な図書館に一歩足を踏み入れて、すぐに気がついた。

「空気が、綺麗?」

「他の建物と違って、念入りに掃除がしてある。そこの机も見ろよ。台帳が置かれてて、インクも乾いてないし、ペンの羽根もくすんでない。律義なもんだ」

「台帳……訪問者名簿か」

 固く扉を閉ざしていたのに、来客用の名簿があるということは、それなりの立場の人間が来たら開けるつもりだったのだろうか。どんな人物の名前が並んでいるのか気になったが、ひとまず背中の少女を置かないと、貧弱な俺の体力の限界に達しつつあった。

「けど、ジャド。こんなところで生活してるって本当なのか? 修道院なんだから、もっとちゃんとした宿舎とかがあるんじゃないのか?」

 背中から落ちそうになる女の子を何度も背負いなおしながら、そう言った。

 世界に始まりがあるように、修道生活というものにも開祖がいて始まりがある。世にあるほとんどの修道院は、六百年前に偉大なる賢者が定めた戒律にのっとって生活し、建物の配置も概ね定められている、と本で読んだことがある。それに、普通の修道院には、巡礼者用の宿舎があるはずだ。

 なにもこんなところで寝起きしなくても、と思っていたら、ジャドが回廊沿いの一室の扉を開けて待っていた。

「たぶん、ここで寝起きしてるんだと思うぜ。ベッドとかあるし。けどなあ」

 と、ジャドは中に向かって顎をしゃくる。この図書館は、建物の雰囲気的に、聖堂を改装したものではないかと思えた。そうなると、その部屋は位置的に、聖典を筆写したりする筆耕室だが、筆耕室にベッド? と疑問符が浮かぶ。ただ、ジャドが口ごもるのはまたなにか別の理由のような気もした。

 一体なんだろうか、と訝しむ間もなかった。

「……なんだこれ?」

 やはり元々聖堂だったようで、筆耕室と書かれた銅板が張られた扉を抜けると、とても明るく広い部屋だった。外に面した壁には大きな硝子窓があって、ものすごく金がかかっているのがわかる。広さもなかなかなもので、大きな判型の本を十分に広げられる机が六個や七個は簡単に入りそうだ。しかし、今そこには書き物机と書見台が向かい合わせに二つ置かれているだけで、残りの空間には筆耕室とはまったく関係のない物が置かれていた。まず目を引くのは、大きな硝子窓の下に備え付けられたベッドで、その脇には腰の高さほどの物入れがあり、燭台と聖母像が置かれて簡易の礼拝台になっている。

「図書館って本読む場所じゃないのか?」

 ジャドが言った。

 ただ、それはベッドがあるからそう言ったのではない。

 なぜかここには、羊毛の塊や、ばらばらになった熊手なんかがあった。他にもなにに使うのか不明な木材と、その木材を切ったり削ったりしたと思われるノコギリや、槌に鑿がある。

 しかし、鑿は錆びているし、ノコギリは折れている。それに、その側には焦げた石やら、細く裂かれた草の束までが、まとめて置かれている。

「なんか……まとまりのない部屋だな」

 ジャドの言葉が実に的確に部屋の様子を表していた。

 一応筆耕室らしいところといえば、書見台と書き物机があることと、そこに大きな本が広げられたままになっていて、写本の最中だったとわかること。

 俺は部屋の様子に面食らいつつ、背負っていた女の子をジャドの助けも借りてベッドに寝かせ、一息つきながら改めて部屋を見る。

「なんか、この部屋、妙な感じがしないか?」

「妙って、これ以上妙なことがあるかよ」

 雑然とした物置と化しているので確かに妙なのだが、俺の言いたいことはちょっと違う。

「そうじゃなくて、この部屋で最近暮らし始めたって感じじゃないよな」

「まあ……どうやらここが無人になったのは二ヶ月前らしいからな。住み心地がよさそうなここを住居にしたんじゃないか?」

 面倒そうにジャドは言うが、それは明らかにおかしい。

「あの子一人で、どうやってこんなベッドとか物入れとか置くんだよ。書見台や書き物机を動かすのだって無理だろ」

「なら、最初から住んでたんだろう。うちの商会だって、小僧のうちは、物置やら廊下やら、空いてるところで寝かされるだろ」

「そうだけど、俺たちが小僧時代に住んでた場所思い出せよ。土の床の廊下の奥だぞ。こんなに調度品が良いものか? しかも、窓は全部硝子でこんなに明るいんだ。個室で、こんな環境だったら、皆が住みたがるだろ」

 喋りながらもう一つ気がついた。

「そう、一番おかしいのはここが個室なことだ。六百年前に定められた修道院の戒律には、集団生活が基本とあった。商会だって、個室が貰えるのは親方たちだけだろ。なのに、ここにはベッドが一つしかない。どう見てもこの子は特別扱いだ。たぶん……身分の高い子なんだよ」

「……なるほど」

 ジャドは、ベッドで苦しげな顔で目を閉じている女の子を見て、首を捻る。

「とはいえ、実際のところ、何者なんだ? こいつ」

 そう聞かれると、俺も困る。部屋をぐるりと見回してみるが、ジャドがおもむろに戸棚に手を伸ばしたので、俺は慌てて止めた。

「お、おい。仮にも女の子の部屋で勝手に家探しはまずいだろ」

 ジャドはきょとんとした後、からかうように笑った。

「騎士道精神だな」

「そ、そんなんじゃ……」

 俺が鼻をこすると、ジャドは付け加える。

「匂いは嗅いでたのに」

 心臓に、殴られたような衝撃が走る。

「なっ、ばっ、あ、馬鹿、あれは違うって!」

「いいよいいよ。色んな趣味の奴がいるよ。むしろ、本が恋人のお前が現実の女にもちゃんと興味があって俺は安心したよ」

「だ、だ、だ、黙れ、ジャド! 野良犬!」

 俺が摑みかかっても、体力仕事のジャドに敵うわけがない。軽くあしらわれてぎゃあぎゃあ騒いでいると、ふっとジャドが視線を逸らした。

 その手に乗るかと、ここぞとばかりに四つに組んだ手に力を込める。

 その直後だ。

「う……あ、え?」

 俺の耳に、真横から綿毛を突っ込まれたみたいに、女の子の声が飛び込んできた。

「だ、誰? あ、あなたたち。なんで? え?」

 見れば、小僧を装っていたあの子が、目を覚ましていた。しかも、そうしてみるとあの見すぼらしい体格が、途端に儚さと柔らかさの相まった、華奢で可愛いものに見えてくる。口調もだいぶ作っていたらしく、動転していて話し方が素になっている。

 それはいかにも女の子で、俺は途端にあがってしまう。昔に読んだ宮廷儀礼の本にはなんとあった? そうだ、確か、淑女を前にした時の紳士たるもの……。

「いや、あの、ぼ、僕たちは……」

 と、俺がしどろもどろで言うと、ジャドが乱暴に俺の手を振り払う。

「おら、離せよ」

 そして、大仰な様子で服を整え、大上段にこう言った。

「あの異端審問官相手に無茶してあんたが気絶しちまうから、ここまで運んでやったんだよ」

「え?」

 その疑問符は、女の子と共に俺もジャドに向けていた。

 運んだのは俺だよな?

「そ、そう、なの?」

「おうよ」

 ジャドが答えると、女の子は自分の間抜けさを悔いるようにきつく目を閉じていた。

「ま、勝手に入ったのは悪いと思うが、女をそのままにしておくのは俺の倫理に反するんでね」

 図々しすぎる、と俺は苦々しかったが、ジャドは堂々としたものだ。

 そして、女の子はやっぱり良いところの出らしかった。

「一応……礼を言っておくわ」

 町の浮浪児では、こうはいかない。

「おう」

 ジャドは鷹揚にうなずいているが、運んだのは、確かに、俺だ。

 そうだよな? とジャドを見るが、頭から無視された。

「で、あんた、名前は? この修道院の小僧のふりしてたな? それに、ここはごちゃごちゃしてはいるが立派な作りの個室ときてる。集団生活が基本の修道院で、あんただけ特別扱いってわけだ。一体何者なんだ?」

 それも俺が気がついたことなのに……と、俺はジャドの横暴を見つめていた。これが世に聞く、自己主張をして戦い続けなければならない商人たちの図太さというやつなのか。工房で本にかじりついてぐねぐねしている自分が、いかに世間知らずか思い知らされる。

「いっぺんに聞かないで……」

 少女はまだどこか悪いのか、眉根に皺を寄せてきつく目を閉じている。頭痛を堪えているみたいだ。

「名前は?」

 しかし、ジャドは容赦しない。女の子も、ジャドの性格を感じ取ったらしい。

 嫌そうにため息をついてから、降参するように言った。

「……クレア」

「それだけか?」

「……?」

 クレアと名乗った少女が、怪訝そうにジャドを見る。

「あんた、貴族だろ? 本名は?」

「なっ……なんで、それ、を」

「なんでだって?」

 ジャドは自分の耳の穴に小指を突っ込み、言った。

「俺はなんだってお見通しだ!」

 おい! と思ったが、クレアはジャドの言葉を信じきっているようだ。

「……ただの使い走りだと思ったのに……」

「ジーデル商会お抱え商人のジャドってもんだ。ようやく自己紹介できたんだ、覚えときな」

「……」

 クレアはベッドの上で、戦に負けて敵城に幽閉されている姫さながら、力なく口を割った。

「クレア……クレア・エル・カラディーゾ=シャリーニョ」

 長い。第一印象はそれだが、同時に、やっぱりただの小娘じゃない。カラディーゾはどこかの地名だったはず。名前の間に地名が入るということは、その地方を支配する家柄だ。町中だったら、俺たちみたいな下っ端が会話をしていいような身分ではない。

 ただ、同時に俺は胸が高鳴りもした。クレアが本当に貴族なのだとして、この部屋に住んでいるのならば、作業途中の写本はクレアが作っていたことになる。つまりは、本が読める可能性が高いというわけだ。もしかしたら、もしかして……と、固唾を飲む。

 本の話ができるかもしれない。

 俺はその可能性にそわそわしていたが、すぐに頭を振る。写本の制作は文字を写すだけなので、実は写本を作る人の中には文字が読めない人間が多い。変に期待して外れた時のことを考えると、冷静になるべきだった。

 それに、ジャドのせいで雰囲気が硬い。どうやって話を切り出そうかと逡巡していると、ジャドが「ふうん」とつまらなそうに鼻を鳴らした。いかにも横柄な態度に、クレアは次になにを聞かれるのか、嫌そうな、思いつめたような顔をしていた。

 口を挟むなら、今だ。

「お、おい、ジャド」

 俺は後ろから、ジャドの脇腹を突ついた。

「そんな尋問みたいなことするなよ」

「尋問なんてしてねえよ。けど、勝手にここに住み着いた物乞いだったりしたらまずいだろ」

「誰が物乞いよ! 無礼者!」

 口調こそ上品さが窺えるものだが、あの小僧の扮装の時にも見せた目つきは生来の気の強さゆえだったようだ。ジャドをなだめて穏やかな会話の雰囲気を作り、そこから本の話を切り出そうとしたが、およそそんな雰囲気ではない。

 ただ、俺はクレアの迫力に思わずのけぞっていたのに、ジャドはそよ風に撫でられた程度にしか顔を動かさず、静かに言った。

「怒ると可愛い顔が台無しだぜ」

「なっ」

 クレアはあまりのことに言葉を詰まらせていたし、俺もジャドのあからさまな物言いに呆れ返る。余計、火に油を注ぐだけだろ……と思っていたら、目を疑った。

 クレアが、頰を赤くしてうつむいていた。

「はっはっは」

 ジャドが大笑いすると、眉をつり上げたクレアが、もみ殻の詰まった枕を放り投げてくる。

 荷揚げ場では、俺よりも重い荷物を放り投げたり受け取ったりしているジャドだ。あっさり受け止めてしまう。

 そして、ひょいと俺に手渡してきた。

「な、なんだよ、俺は雑用係じゃないぞっ」

 ようやくそこだけ主張すると、ジャドはにっこり笑って、言った。

「匂い嗅ぐなら今だぜ」

 俺はびくりと体が震え、反射的にクレアを見てしまう。

 軽く流せばよかったのだ、と気がついたのは、俺と目が合ったクレアが、なにかを悟ったように目を見開いたからだ。

「な、な、な、なに? なにを、するつもりなの?」

 狭い部屋に女が一人、男が二人。しかも、広い敷地に助けを求められる相手はいない。

 クレアはようやくそのことに気がついたらしく、壁に背中を押し当て、狭いベッドの上で後ずさろうとする。

「いや、ち、ちょっと待って! 違うよ、おい、ジャド!」

 俺はジャドの胸倉を摑むが、ジャドはゲラゲラ笑っている。女の子の前でこんな恥をかかされたのは生まれて初めてだ。

「なにが違うんだよ、フィル。クレアが気絶している間にしてたことを、正直に神に話すべきだぜ」

っ……!」「っ……!」

 声にならない叫び声が、確かに二つ上がった。

 一つは俺のもので、もう一つはクレアのものだ。

「あ、あれは、そうじゃなくてっ!」

「でも、しっかりクレアちゃんの匂いを嗅いでたじゃねえか」

 事実は事実なので強く出られない。けれども、事実なだけで、真実からは程遠い。

 俺が泣きそうな顔でクレアを見ると、クレアは俺のことを気持ちの悪い虫でも見るかのような目で見ていた。

「もおおお、聞けよ! 聖ルミナリオス! 隠者パンドルス! シデオン、ハミリギオス!」

「なんだよそれ。むきになるなよ、好きなんだろ? いいじゃんか、どんなことでも、はっきり伝えてこそ実るものなんだぜ」

 ジャドは俺の肩を抱くように叩いてくる。もしかして意地悪じゃなくて、親切のつもりでやってたのか? 俺は恥ずかしさと怒りと混乱と呆れで、今にもなにかを吐き出しそうだった。

「……聖人、伝?」

 そこに、ふと、涼風のようにクレアの声が割って入った。池に頭から落ちて上も下もわからずもがき続けていたような俺は、ついに水面から頭が出て、叫んだ。

「そう! そうです!」

「聖人伝? それがなんなんだよ。気絶してる女の子の首筋の匂いをくんくんすることになんの関係があるんだ?」

 せっかくこちらの真意が伝わりかけていたのに、クレアは自分の首筋に手を当てて、こちらが見てわかるくらいの鳥肌になっていた。確かにちょっと気色悪いかもしれないけど、そんなに嫌がらなくてもいいじゃないかと泣きそうになりつつ、俺は自分の名誉のためになんとか踏ん張った。

「お前はちょっと黙れ! そうです、その聖人伝です!」

「……」

 クレアはなお俺のことを警戒するように見ていたが、少しだけ顔を背けると、考え込むように顎を引く。そして、横目に俺を見た。

「も、もしかして……隠者の、芳香?」

 俺は、教養のある女の子の素晴らしさに、歓喜の雄叫びを上げたかった。

「そ、そう! それ! それなんです! 決してやましいことではないんです!」

 必死に弁明するのは、本当のことだからだ。絶対にやましいことではない。あくまでも知的好奇心に駆られてのことで、なんら神に隠し立てするような類のことではない。

「隠者の……?」

 一人置いてきぼりにされていることが気に食わないのか、ジャドが不機嫌そうに言う。

 返事をしたのはクレアだった。

「厳しい断食をした聖人の伝記には、必ずある記述よ……。天から神の御使いが降りて来る頃になると、聖者の体から甘い芳香が漂ってくる、と言われている。修道院でも没薬とかを焚いて、それっぽい気分に浸ることがあって……私も……気にはなっていたけど……」

「そうです! それです! でも、身近に断食をしているような人なんていなくて……けど、どうしてもいつかそれを自分で確かめてみたいと思っていて……それで……」

 俺は必死で訴えた。

「だから、その、やましい気持ちがあったわけじゃないんです……」

 ほとんど泣き落としに近いくらいに訴えた。嫌われたら本の話ができなくなってしまう。

 そして、その必死の訴えは、クレアにも通じたのかもしれない。

 クレアは少しだけ自分自身の服の襟の匂いを嗅ぐそぶりを見せてから、こう言った。

「……あまり、信用できないけど……」

「本当です!」

 あらんかぎりの声で叫ぶと、ジャドが俺の肩に腕を回した。

「まあ、悪い奴じゃないぜ?」

「こ、こ、こ、この馬の尻野郎!」

 ついに勘弁ならぬとジャドの尻を蹴飛ばしたが、相変わらず笑うだけだった。

「はぁ……まあ、いいわ。言い訳にしては、妙に凝ってるもの」

「!」

 これが聖母様か、と一瞬勘違いしかけたが、クレアは冷たく俺のことを見た。

「でも、それ、返して欲しいんだけど」

「あっ!」

 クレアの枕を抱えたままだった。慌てて手渡し、身の潔白を示すように素早く下がった。

 クレアは枕を受け取ると、数瞬、汚いなにかが付いていないか確認するようなそぶりを見せつつ、やがてすがりつくように抱きしめた。

 そうしているとまるっきりか弱い女の子だが、目つきはあの小僧の時そのままだ。

「で……あなたたちはなんなの?」

 ジャドは笑うのをやめて、小さく肩をすくめた。

「俺はさっき言ったとおり、ただの商人。もう長い付き合いだろ?」

「それは知ってる。でも、そうじゃなくて」

「こいつはフィル。書籍商見習いだ」

 ジャドに紹介されて俺は慌てて姿勢を正したが、クレアはさらに訝しげな顔をした。

「書籍……商? 本は作るもので、売るものじゃないでしょう?」

「俺は霧を売る仕事って呼んでるよ。本が好きだから、未知の本を買い付けて商売できれば本も読めて儲かって一石二鳥っていう子供みたいな発想だ。なんとか言ってやってくれよ」

「……」

 それだけで色々察したのか、クレアがなにか、哀れむような目を向けてくる。虫を見るような目も嫌だったが、こっちはなお辛い。それに、ジャドまで一緒になって哀れんでくるので、俺は本当に泣きそうだった。

「い、いいんだよ! 俺はこの修道院の図書館にある未知の本を買い付けて、書籍商になるんだよ!」

「頑張れよ」

 ジャドに励まされると、背中が横に曲がりそうなくらい心が傷つく。

「悪いけど」

 と、クレアが冷たく言った。

「ここの本は売りものじゃない」

 交渉事の経験なんて皆無の俺でも、クレアの意志の固さはすぐにわかった。

「もちろん……簡単に売ってくれるとは思って──」

「売ることは、絶対、ありえない」

 仮に腕力で勝てても、きっと隙を見て喉笛を嚙みちぎられる。それくらいの気迫がこもった視線を向けられ、俺は後ずさりかけた。

 だが、他のことではどうしようもない俺でも、本に関することなら、命を懸けたっていい。

 喧嘩になれば本の話はできなくなってしまうが、最優先は本の買い付けだ。

 簡単には引き下がらないぞとクレアを睨み返すと、クレアも当然迎え撃ってくる。

 互いに一歩も引けなくなっていると、ジャドがふと言った。

「そういや、あの異端審問官どうした?」

「え」

 声を上げたのはクレアだった。

「クレアのこと引っ張り出して扉をこじ開けたあれ、完全に慣れてたよな。ろくなもんじゃないぞあの男。それに、本ってあれだろ? 宝石とか使ってることもあるんだろ? 大丈夫かな」

 ジャドが吞気に語る横で、クレアの顔から血が音を立てて下がっていく。

 そして、慌ててベッドから下りようとして、毛布と枕につまずいて頭から落ちそうになっている。積荷みたいにジャドが受け止めるが、クレアは鬱陶しそうに押しのけようとする。

「落ち着けって」

「お、おち、落ち着いてなんか!」

 ベッドから転がり落ち、ジャドの肩を借りながら立ち上がって、部屋を飛び出して行った。

 俺とジャドもその後を追いかけて行くと、クレアは回廊を出入り口のほうに向かい、外に出るのとは逆の方向、聖堂だったら信徒たちが集う大広間につながる扉を開けた。すぐに中に飛び込み、俺たちも遅れて中に入る。

 その時の衝撃といったらない。

 そこにはジャドも圧倒されるような林立する黒い書架と、その書架に群がる蝙蝠のようにびっしりと並ぶ本。

 その壮観に言葉を失った俺は、クレアのことなどすぽんと頭から抜け落ちて、無意識にふらふらとそのうちの一冊を手に取っていた。余計な装丁が省かれたただの羊皮紙の束のようであり、草稿のような無骨さすら感じられる。

 だが、一頁めくった瞬間に、それがどれだけ貴重なものであるか理解できた。

 著者名は聖アンブロシウス。表題はどこにもないが、名前は聞いたことがある。雀にも説教をしたといわれるほど熱心な聖職者で、熱心にすぎて異端を疑われたこともあるらしい。けれど、その最大の理由は猫や雀に神の偉大さを説いたせいではない。猫や雀にすら説教をするほど神に忠実であったのに、神は常に私に対して無言であったのはなぜなのか、と問うたからだ。

 アンブロシウスはその問いに、神の奥ゆかしさと、死後に報われるために褒美は取っておかれているのだ、という結論を出したらしい。

 もしも本当なら、正直に生きたところで理不尽な不幸に見舞われることが少なくないなか、アンブロシウスの結論は実に心強い味方といえる。実際、彼は病気に苦しむ人々の守護聖人になっていた。ある意味、希望を体現する聖者の一人といえるだろう。

 ただ、アンブロシウスの立てた問いは、うがった見方をすれば神への疑念にも直結しかねないから、本人は聖人に列せられているのに、その著作の閲覧はほとんど禁書の扱いと同じになっていた。教皇庁図書館に放り込まれていた俺ですら、読んだことがない。その名は、本の中の引用でしか見たことがなかった。

 それがまさか、こんなところでお目にかかれるとは。

 俺は歓喜に打ち震えながら固唾を飲んだが、ふと気がつく。ここにはまだ膨大な蔵書がある。

 たまたま手に取ったこれだけが貴重だと考える理由があるだろうか? いや、ない!

 俺は顔を上げ、この図書館には他にどんな本があるのかとクレアに問いただそうとして、思い出した。クレアを追いかけてここに来たんだった。

 慌てて本を戻し、書架の群れの中をまっすぐに貫く通路に出た。すると、その真ん中あたりで、クレアはへなへなと座り込んでいた。ジャドも呆れたように肩をすくめている。

 遅れて二人の横に立つと、あの黒い異端審問官は、天井の小さな採光窓から入る光の下で、おとなしく本を読んでいた。教会の信仰と権威の正しさを断頭台でもって示して回る黒衣のまま、胡坐をかいて、満面の笑みで、俺たちのことになんてかけらも気がついていない。俺は、そうだよな、と思う。ここには、素晴らしい本が多すぎる。

 そんなことを思っていると、さすがにアブレアも人の気配に気がついたらしい。

「あ」

 と声を上げて、こう言ったのだ。

「目録貰えますか?」

 そして、また本に戻ってしまう。およそ、本をこそこそ盗み出して持ち去ろうというような小細工をするようには見えない。きっと、この男が本を所望する時は、この修道院ごと乗っ取るようなことをするだろう。

「なんなのよ……」

 拍子抜けのあまり腰が抜けてしまったようなクレアは、もしかしたら、少しだけ泣いていたかもしれなかった。



 そもそも、よく考えれば、ジャドの荷馬車がなければ分厚い本を抱えてここから運び出すのは至難の業だ。それに、奇矯の異端審問官コレド・アブレアは、今のところ本を読むのに夢中らしい。

 放っておいても問題なさそうだったので、俺たちは再度クレアの部屋、改装された筆耕室に戻って来た。目下重要なのは、この修道院の状況だ。俺もアブレアに劣らず書庫に大いに未練があったが、本の買い付けに関わるこちらのほうが重要だと、後ろ髪を引かれつつついて来た。

 クレアはやはり育ちが良いらしく、筆耕室に戻ると自然な流れで俺とジャドに葡萄酒を振る舞ってくれた。なにかの香草と水で割ってあるらしく、やや不思議な香りがした。俺は酒が得意じゃないし、書庫のほうが気になって仕方がないので舐める程度だったが、ジャドは一気にがぶがぶ飲んでいた。

 ただ、ジャドはなにかを考えているのか口を開かないし、クレアは疲れきったようにベッドに腰掛けている。

 互いに相手の出方を窺っているのだろうが、俺はやはり、どうしても視線が本に向かう。

「これ、さ、全部自分で筆写してるの?」

 クレアは、ベッドの上から面倒くさそうな視線を向けてくる。

「だからなに」

「え、いや……」

 あまり好意的ではない視線を向けられただけで怯んでしまうが、本に対する好奇心は堪えきれないげっぷのようにせり上がってくる。

「こ、これって……あれ、だよね。哲人ナピクルスでしょ?」

 すると、クレアが意外そうな顔をした。

「へえ……わかるの?」

 俺は、その反応にたちまち嬉しくなってしまう。

「ゆ、有名な一節だし。けど……その、修道院でナピクルスなんて読んでていいの?」

 そこに、礼拝台の聖母像や戸棚に嵌め込まれている細工物を眺めていたジャドが口を挟む。

「なんで? それも卑猥なんか?」

「……違う」

 半目に睨んでそこだけははっきり言うと、クレアは小さくため息をついていた。

「まあ……普通はいい顔されないんじゃないかな」

 俺は確信した。クレアはきちんと本を読めて、その内容もしっかりと理解している。

 教養を持った、女の子。それは妖精や幻獣の類だと思っていた。

 俺は、生まれて初めて目にする存在を前に、嬉しくて足が地面から浮きそうだった。

「表題は、『幸せの探求の書』、だったよね」

「良い表題じゃないか」

 ジャドの的外れな言葉にもイラつかない。いつもなら邪険にするところだが、笑顔で間違いを訂正する。

「だと思うだろう? でも、修道院はこの罪深い我々を救いたまえ、と願う場所だ。悔悛の意を示して必死に神様にとりなしてもらってる横で、幸せを追求するような本を読んでたらまずいじゃないか」

「……うーん? でも、教会で祈った後で、居酒屋に繰り出したりするじゃんか」

「罰当たり」

 クレアの蔑みに、ジャドはなぜか嬉しそうだ。

 俺はちょっと興を削がれたが、本の話ができる嬉しさに溶けてしまいそうだ。

「なにより、これは太古の多神教の時代の本なんだよ。中には禁書扱いにしているところがある。それでも教会の大半で、文法を学ぶ本として黙認してる。とにかく文章が素晴らしいんだ。これ以上推敲しようのない文章があるとすれば、まさしくこれだ。後世の詩人や神学者が、もっとも引用する本のひとつに数えてもいい……」

「へーえ?」

 ジャドはもちろんかけらも興味がなさそうだったが、語れるだけで嬉しかった。

 しかも、クレアがまじまじと俺のことを見ていた。

「あなた……本当に商人? 町で暮らしていたこともあるけど、そんなこと知ってる人には会わなかったわ。地位のある人間でさえ、ほとんどが無知で粗野だったのに」

 女の子にじっと見られると、それだけで顔がむずむずする。それに、俺はようやく気がついた。クレアは怒っていないと、清楚な雰囲気でとても可愛い。しかも、今はその大きな目に、深い教養の色が感じられて、なおのこと魅力的に感じられる。

 しかも、そんな子が、自分の本の話に感心してくれている!

 俺は有頂天になって、胸を張っていた。

「ま、まあね! これでも一応、書籍商見習いだから!」

 けれど、俺がそう言った途端、クレアはふいっと視線を逸らして、素っ気なく言った。

「あっそ。役に立たないことばっかり知ってるのね」

 鯨を仕留める銛で、胸を貫かれたような気がした。そのまま石像のようになっている俺のことをジャドが笑っていたが、睨み返す気力もない。

 クレアは、本が嫌いなのかもしれない。修道院では読み書きの練習が強制され、写本の制作はものすごい忍耐と苦痛を要するので、苦行として課されるとも聞いた。

 そういう環境なら、本が読めるだけで好きではない、ということもあるのだろう。

「けどまあ、ただの色欲におぼれた下衆じゃないみたいね。そこだけは安心した」

 喜ぶべきところなのかどうかわからない俺は、はあ、とため息をついて肩を落としていた。

 すると、その頃にはようやくジャドが考えをまとめたらしい。

 いつもの調子でこう言った。

「で? クレアお嬢様はなんでこんなところに一人でいるんだ?」

 ずばりと核心に切り込む。

「教会の裏は見たけどな。疫病か?」

 気遣いのかけらもないが、ではどうやって聞けばいいのかなんて俺にもわからない。

 クレアはまだ塞がっていない傷を指で押されたような顔をしたが、口をつぐみはしなかった。

「そのとおりよ」

「残ったのは一人なのか?」

 クレアはすぐにうなずかず、じっとジャドを見た。あの、小僧の時の目で。

「だったら、どうなの?」

 不意に筆耕室の中の空気が硬くなる。ジャドも、無言でクレアを見つめている。ジャドは俺と同い歳で、クレアは俺よりたぶん歳下かせいぜい同い歳なんじゃないかと思う。

 なのに、二人の沈黙はひどく大人びている。

「お前さんは、どうして欲しいんだ?」

 先に口を開いたのは、ジャドだ。

「なんかお願いしたがってるって面だ」

「……」

「それに、金を要求してたしな」

 現実的な話に、ようやく俺は息を吹き返す。俺やジャドは、あのクレアの装っていた小僧が、修道院から逃げ出したくて、その路銀を手に入れようとしているのでは、と推測した。

 しかし、今のクレアを見る限り、単純にそういうことでもなさそうだった。

「言いたくなければいいが……俺たちを必死に中に入れまいとしたのは、修道院のこの現状を隠したかったんだろう? まあ、ばれたら大騒ぎだろうな」

 ジャドがそう言った瞬間だった。

「それを、やめて、欲しい」

 ベッドに座っていたクレアは、ジャドを睨みつけていた。

「はは、脅されているみたいだ」

「そうよ」

 クレアが言うと、ジャドは笑顔のまま、動きを止める。ジャドと本気の喧嘩をしたのはもう何年も前だが、その時の独特で懐かしい感覚が蘇る。

「俺は師匠に叩き込まれたんだ。物事を円滑に運びたければ、どっちの立場が上か、常に見極めろってな」

 クレアが怯むように顎を引くが、一歩も引かなかった。

「私がどうして、あんたたちみたいな下賤の者に飲み物なんて振る舞ったと思うの?」

「は?」

 ジャドが、手にしていた木の器を見る。

「歓待についても戒律が定めているけど、下賤の人間をもてなせ、とはない」

「……まさか……」

 ジャドの顔が引きつるなか、クレアの目はますます冷たさを増していく。

「本には薬について記されたものがある。もちろん、毒についてもね」

 俺は慌てて木の器を手近な場所に置いた。そうしたところで無意味なのだが、手に持っているよりはましだと思った。

「強力な下剤よ。放っておいたらたぶん、ひからびて死ぬわ。でも、止める方法もある」

「この……」

 ジャドは出されたものはすぐに平らげる。器は空だ。

「でも、黙っていてくれればいい。それだけでいい」

 懇願するだけの聖女ではない。策を巡らし、強引にでも自分の望むものを得ようとする。

 そもそもが、小僧を装ってまで修道院の内情を隠そうとしていた娘なのだから。

「……だ、黙ってるだけでいいのかよ」

 素直に折れるのが嫌なのか、ジャドがそんなことを言う。しかし、口調に覇気はなく、俺もなんだか尻のあたりがむずむずする。

「そう。ここの内情が知られたら、私は困る」

「け、ど……隠し、きれないぜ」

 それは、不穏な感じのする腹の具合もまた同じだ。なんの下剤か知らないが、山ほど本を読んできた俺には心当たりが多すぎる。スズランなんかの毒草か? 黒いライ麦の毒か? それとも、アンチモンの鉱石を砕いた粉末か? いや、あれは下剤じゃなくて嘔吐剤だったか?

 俺はジャドを見る。ここのことを隠すくらい、別にいいじゃないか。

「隠しきれなくてもいい。でも、もう少し時間が欲しい」

 俺たちの腹にも時間がなさそうに思える。

「ジャド……」

 その名を呼ぶと、ジャドも不安げに俺を見た。目を逸らしたのは、悔しげに負けを受け入れるそぶりだった。

「隠すだけでいいの。何ヶ月か……ううん。あと一ヶ月でもいい」

 ここには月に二回、ジャドが荷物を運び込むだけだ。異端審問官の問題はあったが、あいつこそ本を読ませていればどうにでもなりそうな気がした。

 そして、ジャドも同じ結論に達したようだ。

「わかった」

 苦しげに、呻くように言った。

「だがっ」

 嚙みつくように歯を剝いた。

「理由を言え。お前がどこの貴族か知らないが、俺たちは神をも畏れぬ大ジーデル商会の一員だ。ジーデル商会は貴族の横暴になど屈さないっ!」

 単に女の子に負けてなるものか、という町暮らしの小僧の見栄なのだろうが、あの巨大な組織の一翼を担う者としての誇りも垣間見えた。

 なにより、この期に及んでなお意地を張るところに、尊敬の眼差しを向けてしまう。

「……げ、下剤の解毒薬を出さないわよ」

 クレアの抵抗を見るや否や、突然ジャドが俺を振り向き、ぐんぐん近づいて来た。

「な、なんだ?」

「来い!」

 そして、俺の肩に腕を回すと、すごい力で引っ張って、あろうことかクレアに向かって倒れ込んだ。

「きゃあっ! な、なにするのよ!?」

「話せ! 話さないと、お前も一緒にくそまみれにしてやる!」

 俺とジャドの間にクレアが挟まる形で大騒ぎだ。俺はといえば、女の子の前でくそなんか漏らせるかと大慌てだったが、ジャドにがっちり肩を組まれていて抜け出せない。そのうえ、クレアが俺とジャドの間に挟まった形で暴れているせいか、クレアの髪の毛が顔に当たり、おそるおそる匂いを嗅いだ時とは比べ物にならないくらい良い匂いがして、眩暈がしそうだった。

「やめて! 下衆! 下郎!」

「なんとでも言え! さっさとしないと、くそまみれになるぞ!」

「ああ! もう! 噓よ!」

「なにがだっ!」

 ジャドが聞き咎める。

「噓! 下剤なんて噓!」

 がばっとジャドが起き上がる。

「騙しやがったな!」

 ジャドが怒鳴るが、クレアも燃えるような目でジャドを睨みつけている。

「人をどうこう言えるような立場なの!?」

 正直、毒を盛ったと噓をつくクレアもクレアだが、くそまみれにしてやると言って押し倒したジャドもひどすぎる。

「あんたもいつまでそうしてるのよ!」

 俺はそれでようやく、まだ自分がクレアの横に寝ていたことに気がついた。弾かれたように起き上がり、ベッド際から床に落ちた。まるで、酔っ払って他人の家のベッドで寝ていた間抜けな商人の話のようだ。

「でも、言質は取ったわ。まさか、ジーデル商会は、一度口にした約束を反故にするみっともない人の集まりじゃないわよね」

「ぐっ」

 ジャドが呻く。言った言わないの水掛け論にすることは容易だが、ジャドの性格的にそんな情けないことは無理だろう。

 二人が険悪に睨み合う中、俺は尻をさすりながら、よろよろと起き上がった。

「ね、ねえ」

「なんだよ!」「なによ!」

 睨み合ったままの二人から、怒鳴り声を向けられただけで俺は怯んでしまう。

 情けないと思いつつ、所詮は本の世界にしか生きてこなかった紙魚に等しいのだ。

 とはいえ、紙魚は紙魚なりに、思うところがある。

「事情があるなら、それを知ったほうが、こっちも協力できることがあると思うけど……」

 それに、詳しい事情がわかれば、この状況から書籍を買い付けられるかもしれない。

 なにせこの修道院に残されているのは、この目の前のクレア一人なのだから。

「お金を必要にしてたのも、なにか理由があるんじゃないの?」

「……」

 クレアはジャドを睨みつけたまま無言だったが、こっちの話を聞いてなにか考えているのは気配からわかった。

 だからじっと黙って待っていると、やがて嫌そうに目を閉じ、大きくため息をついた。

「喋ったら……協力してくれるの?」

「場合によるっ」

「ジャド!」

 またややこしいことになりそうだったので俺が注意すると、ジャドは腕を組んでそっぽを向いた。勝手にしろということだ。

 クレアは苦しそうに迷っていたが、結局、隠し立てしたところで状況は悪くなるだけだと思ったのだろう。あの門扉をこじ開けられた時点で、クレアの立場は圧倒的に不利なのだ。

「わかった。喋る」

「最初からそうすりゃいいんだよ」

「でも、協力しなかったら」

 クレアの底冷えする声と視線が、俺とジャドを捉えた。

「どうするんだ? 今度こそ下剤でも盛るか?」

 クレアは、疲れたように笑った。

「そんなまどろっこしいことしないわ」

 ジャドはどうだか知らないが、俺はナイフを手にしたクレアに勝てるとも思えなかったので、降参するように肩の高さに手を上げる。

 ジャドは不服そうだったが、血を見るような事態になるのはまずいと思ったのだろう。

「黙ってるって約束だけは守ってやる。それ以上協力するかどうかは、話を聞いてからだ」

「……はあ」

 クレアはため息をついて、言った。

「暖炉の明かりと葡萄酒が欲しい……」

 やっぱり貴族のお嬢様なんだな、と俺は思ったのだった。