クラジウス騎士団。

 この世で知らぬ者はないと言われるほどの権勢を誇る、金と軍事力の塊のことだ。

 元は教会が主導した、東方の失地回復運動──失われた聖地を取り戻せ、という宗教的軍事行動の落とし子だった。

 聖典の書かれた約束の地、クルダロス。そこは永いこと異教徒に占領され、蹂躙されていた。

 教皇フランジヌス四世はその事実を見過ごせぬとばかりに立ち上がるや、当時の希代の神学者、アメリアの聖ジルベールの神学理論を用いて土地の奪還を教理的に正当化した。言ってしまえば略奪に、神のお赦しを得たのだ。

 その戦いは開始されて以来、二十二年経つ今でもなお続いている。

 たくさんの人間が、教会の紋様の入った鎧に身を固めたり、あるいは体に紋様を刻み込み、東方へと向かった。また、剣を持つ者だけでなく、聖典の書かれた約束の地で死にたいと願う、杖を持つ者たちも巡礼の旅に出た。

 クラジウス騎士団の前身であるクラジウス兄弟団は、そんな戦いに赴く者や巡礼に赴く者たちを泊め、癒す、聖地へと続く道の途上にある病院のようなものだった。

 だが、はるか遠方の地にあるそこでは、病や怪我が原因で斃れる者が少なくなかった。

 彼らはその場で遺言を残し、すべての財産を兄弟団に託して死んだ。

 クラジウス兄弟団はそれらの遺産で裕福になり、裕福になれば自分の財産を守るために独自の武力が必要になる。やがて、優しき修道士が敬虔な信者の最後の施しを受け取るだけだったそこは、いつしか貪欲な騎士が積極的に富を追い求める組織になった。

 今では教会の総本山である教皇をもしのぐと言われる資金力と信徒を持ち、圧倒的な数の騎士を抱えるクラジウス騎士団を止められるものはこの世に存在しない。

 その喧伝がいくらかは大袈裟にしろ、少なくともクースラは四度の死罪を教会から言い渡され、四度とも助かっている。損得勘定に長けた騎士団から見て有用なうちは、教会といえどもクースラを火刑に処すことは難しいということだ。

 こちらも、従うのが得であるうちは、騎士団所属の錬金術師として腕を振るう理由があるだけのこと。クースラは、どうしても「マグダラの地」に行きたかったのだ。

 そのためには錬金術師として研究を続けるしかなく、研究のためには莫大な資金と豊富な材料と、長い年月、それに、危険から守ってくれる権力が要る。騎士団の庇護の下でなければ、まず無理なことだろう。

 だから、本来ならば騎士団には従順な羊のように仕えるべきなのだ。聖人の骨を炉にくべて精錬の結果が変わるかどうかを試すのは、自殺行為に等しいし、お払い箱にされる可能性だって十分すぎるほどにあった。

 ただ、牢から解放された後、この寒い季節に北の町グルベッティを目指すクースラは、馬車の中で老騎士とのやり取りを思い出していた。フリーチェの死と、そして、あの老騎士の顔。

「へっ」

 クースラは、苦笑する。

 くべ損なった。

 たぶん、いけたはずだ、と思う。聖人の骨を炉に放り込み、良い鉄に仕上がるかどうかを試しても、助かったはずだ。フリーチェを殺されて、錯乱していたから。傷心で、訳がわからなくなっていたから。その言い訳とこれまでの自分の実績で、ぎりぎりのところを通せたはずだった。

 そうでもなければ、あんな危ない橋、渡るはずがない。

「……千載一遇だったんだがなあ」

 クースラは短く言って、小さく息を吸った。

 鉄の精錬の際、骨をくべると結果が変わるというのは本当にあることだ。骨の代わりに石灰を加えることもある。

 ただ、老騎士の言葉も多少は図星だった。フリーチェはいい女だったし、密偵かもしれないと薄々わかっていてもあの無邪気な笑みは可愛かった。久しぶりに、一緒にいて楽しいと思える相手だった。

 それでも、ではそこまで悲しいのかというと、クースラは自分のことなのに自信がなかった。

 もともと、錬金術師はすべてが流転し、この世のすべては変化しうると思っている。人は死に、世は移り変わり、古いものは新しくなる。そうであればこそ、鉛だって金に変わりうるし、馬鹿げた夢だって現実に変わりうるのではないか、と考える。

 万物は流転し、留まらない。

 その変化を信じ、追いかけ、金属を錬り続けるゆえに、〝錬金〟術師なのだから。

 そして、旅路もまたいつか終わる。尻の肉が擦り切れそうになった頃、ようやく馬車が止まり、御者が「着きましたよ」と旅程で初めて口を開いた。

「……っ」

 クースラは十日ぶりに馬車から降りて、とにかく伸びをした。

 人に見られることまかりならず、というわけで、十日間ずっと馬車の中だった。

 ただ、読むべき書物や書簡だけは山のように与えられたから、尻の痛さ以外に苦痛はなかった。なんとなれば、もうしばらくこのままでもいいと思っていた。

 外は寒いが晴れていて、空気は冬独特の澄んだ匂いがする。

 朝市はとっくに終わっているような時間で、近隣の村から来たのだろう農夫が、牛を連れてのんびりと帰途に就いているのが見えた。穏やかで、変化といえば季節の移り変わりだけで、家に帰れば家族の待つ平凡な人生の象徴だ。

 ある日言い寄ってきた女が密偵で、ようやく好きになれたと思ったその矢先、ほんのわずかに目を離した隙に惨殺されるような人生では決してない。

 クースラは別にそのことを、羨ましいとか、悲しむべきことだとは思っていなかった。たぶん、人よりも感情が鈍いのだと思う。フリーチェのことはとても残念だし、生き返ってくれるのならそれに越したことはない。でも、クースラはフリーチェの死を目の前にして、取り乱しすらしなかった。思ったことは、この死を冶金に生かすとしたら、どうすればいいだろう? ということだけだった。

 だから、フリーチェのことを思い出して胸がうずくのは、それが原因なのだろうと思う。きちんと悲しめなかった。取り乱しすらしなかった。そのこと自体が、ある意味で辛いのかもしれなかった。

 ないものねだりだな、とクースラは人知れずため息をつき、市壁の検問を抜ける。クースラ自身はもちろん、積み荷も検められないのは、騎士団からの特権状があるからだ。グルベッティの町は、参事会員のほとんどが強引に騎士団に買収された町だ。市壁を構え、独立した都市であることを誇りにする古くからいる人間からすれば、面白くないはずだった。

 だから普通は嫌な顔をされるものなのだが、さっさと通してくれたのはクースラが錬金術師だとすぐにわかるからだろう。良識ある町の人間からすれば、錬金術師と関わるより、異端の人間と手をつないで歩いたほうがましなことなのだ。

 クースラは十日間座りっぱなしの体をほぐすために、馬車の横について歩いていく。

 分厚い市壁は、その中に守衛が寝泊まりする施設がすっぽり入るほど。たぶん市壁の中は廊下になっていて、弓矢や投石機が山ほど積まれていることだろう。お飾りでなく、油が塗られ、あるいはまだ血のこびりつくものが。

 錬金術師が呼ばれるのは、そこに解決すべき問題がある証拠だ。

 特に、冶金関連はろくなものがない。

 金銭的な問題か、さもなくばもっと直接的に、強化した斧で叩き割りたい頭蓋があるからだ。

 ただ、クースラが市壁を抜けて軽く口笛を吹いたのは、町の活況がそれほどだったからで、まず規模からしてグルベッティはそれまでクースラがいた町とは比べ物にならない。

 港に注ぎ込む川は水量が豊富で、そこに架かる橋は三つとも四つとも言われている。

 そして、市壁をくぐれば、そこは噂に違わぬ盛況ぶりだった。荷馬車や荷物を積んだラバの数も多く、鶏を詰めた籠を満載にした荷車もちょうど目の前を通って行った。自分の体よりもでかい荷物を背負っているのは、頭に頭巾を巻き、目元がひどく日焼けした連中だ。たぶん、雪が降りしきる山の上を越えて来た行商人の一団だろう。背負っているのは森で取れる毛皮か、琥珀、蜜蝋といったところだろうか。彼らはようやく足が取られる雪の中から這い出したと思ったら、町の中に来てげんなりしたことだろう。道には馬やラバの糞が降り積もり、そこをさらに雪崩のように放し飼いの豚やどこかから逃げ出してきたのだろう鶏が歩き回っている。

 もちろん、うろつくのは動物だけではなくて、壁に寄りかかりながら通りを見回している不穏な輩も多い。スリ、強盗の類から、商売女に、領主から命じられ、領地から逃げ出した逃亡農民を追って来た捕吏もいるだろう。手の中で貨幣を弄んでいるのはもぐりの両替商だ。これは旅人が多くて、景気のいい場所にしかいない連中だから、ある種の縁起物かもしれない。もぐりの両替商が袋叩きにされていないのは、いちいち取り締まらなくてもいいほど大量の人が両替商の存在を必要としていることを示している。

 クースラは、上品な人間ではない。

 どちらかといえば雑多なほうが好きで、賑やかな雰囲気は大好きだった。

 しかも、この町には港があり、中心部はそっちのはず。

 市壁の入り口からこの賑やかさなら、港付近はもっと混沌としているはずだった。

 そして、クラジウス騎士団はこの町を根底から支配している。

 その紋様があれば、誰もクースラのやることに文句をつけられない。

「いいね」

 クースラは胸の内のもやもやを入れ替えるように埃っぽい猥雑な空気を吸い込んで、にんまりと笑う。

 呼び込みの小僧も、商売女も、もぐりの両替商も声をかけてこないのは、クースラの立ち居振る舞いが一目でそれとわかるほど、周りから浮いているからだろう。

「で、どちらに?」

 口を開いたのは、御者だ。

 それにしたって、クースラの顔を見ない。

「さあ。迎えが来るはずなんだがね」

 御者はふんとも言わないが、手綱を握る左手は指が半分なく、帽子と髭で隠れた横顔には、耳の斜め後ろにまで続く大きな切り傷の痕がある。騎士団で長く戦役に就き、引退した人間だろう。クースラの護衛というよりも、クースラが逃げ出した時に追いかけて殺すための人選に見えた。

「……っ」

 そして、そんな御者がふと顔を上げた。

 野の莵のように、この雑踏の中、自分たちに向けられる視線にすぐに気がつくのだ。

 手綱を振り、馬を十字路の角に向ける。

 そこには痩せぎすの男が一人立って、ニヤニヤ笑っていた。

「無事だったなあ」

 間伸びした喋り方は、そいつの癖。ぼさぼさの長い金髪をだらしなくくくり、無精髭は剃るか伸ばすかはっきりしろと言いたくなる。それでも、クースラのことを見て笑みを向けてくるのは、世の中でこの男くらいのもの。クースラもまた、つい口元を歪めてしまった。

「お前が言うのかよ。そっちこそなんで生きてるんだ?」

「神の御加護かねえ」

 修道院長を毒殺など、まかり間違っても見逃してもらえるはずがないのに、ウェランドはこうして生きている。あの老騎士が言うように、錬金術師は魔法使いだ。

「そっちはどうやって逃げたんだよお。聖人の骨を炉にくべたって聞いたよお」

「火はつく前だった。それに、お決まりの逃げ口上だ。聖人の骨を炉にくべても神罰が下っていないのは、聖人様が寒がっていたからだって」

 ウェランドは歩き出し、つま先を見ながら肩をすくめている。

「そっちは?」

「俺? 毒殺してないからだよお」

「……つまり?」

「つまり、あのデブが散々飯を平らげた後、俺がふらりと食卓に姿を現して、目の前で笑顔で小瓶を振って見せたのさあ。そしたら、顔を青くして、死んでしまったというわけさ」

 クースラが看守をからかった手口の、たちの悪い最たるもの。

 もっとも、それで死ぬというからには、向こうにもなにか心当たりがあったのだろう。

「なんでそんなことをした?」

「俺の女に言い寄ってたんだよお」

 それしかないだろ? というような目を向けられるが、クースラは聞かざるを得ない。

「女子修道院の院長だろ?」

「だから、修道女にね。女子修道院の院長が女とは限らないよお」

 クースラが肩をすくめたのは、聖職者の退廃と共に、籠の鳥のはずの修道女と縁を結ぶウェランドが相変わらず見事だったから。

「あのデブは他にもろくでもないことをしてた。俺は人助けをしたんだよお。修道院の修道女が揃って助命の嘆願さ。だから、お咎めなし。修道院では俺は英雄扱いさ」

「お前は昔から上手だね」

「クースラがへたなんだよお」

 密偵に言い寄られてころりと落ち、挙句それをあっさり殺されたクースラは肩をすくめて、通りすがりの鶏を蹴っ飛ばした。

「しかし、驚いたよねえ」

 ウェランドは歩きながら、のんびり言った。

「まさかクースラが同じ工房に来るとは」

「こっちの台詞だよ」

「騎士団の懲罰牢では何度か会ったけどなあ?」

 クースラも出たり入ったりだが、ウェランドのほうもそれに劣らずで、時折顔を合わせていた。

「だが、工房に一緒にいたのはいつだ?」

「ええーと……もう、あれが五年前とかかな? 懐かしいよお」

 五年前、どっちも過去の自分を思い返せば、苦笑いしか出てこないような糞餓鬼だった。

 互いに喧嘩ばかりして、知恵がつき始めたら工房から盗んできた毒を相手の飯に盛った。

 けれど、師匠が自分たち糞餓鬼以上の屑で、卒業の暁にウェランドと二人で毒殺を企て、水銀を使った毒の飯を半分食わせたところで御用になった。

 ばらばらにひっ立てられる最中、またな、と手を振ったら、笑顔で振り返されたのを今でも覚えている。

「クースラはあの時から、涙もろかったよなあ」

「お前いつも言うな。それは自分が涙ぐんでたからだろ?」

「へーえ?」

 ウェランドは肩をすくめついでに、ひょいと飛び上がって踵を返した。

「それより、さっさと首吊り役人に挨拶して、工房に行こう。楽しみでよう」

 首吊り役人とは、錬金術師が工房を構える町で、一切の采配を担う人間のこと。

 日々の作業に使う物資の手配はもちろん、錬金術師たちが教会の一派に異端の烙印を押されて火刑台に連れて行かれるのを助けるところまでをも担う。逆に、騎士団にとって不都合だとなれば平気で教会に売り渡すところだし、時には暗殺だってする。

 彼らは文字どおり、生殺与奪の権限を持つ。

 だから、首吊り役人。

 首切り役人ではないのは、錬金術師は首切りなどという平民向けの生ぬるい刑罰を受けられないからだ。火刑はすぐに死ねるから楽なほうで、基本的には犬と一緒に逆さまに吊るされて、苦しむ犬に噛みつかれ、引っ掻かれながら、三日とか四日をかけて死に至る。

 クースラは、顔が勝手に歪まないように注意しないと、と自分に言い聞かせながら、ウェランドに聞き返した。

「あれ、まだ工房に行ってないのか?」

「行ってない。積み荷だけ先に運ばせておいたけどね。今日の朝、騎士団の輜重隊と一緒にここに着いたんだよう」

「ついさっきなわけか」

「そうだよお」

「一人で行けばよかったのに」

「そんなことできるかよおー」

 殊更語尾を伸ばして、馬鹿にするように言った。

「相棒」

「ぞっとするね」

「ひどい奴だよおぉぉぉおおぉぉぉぉ……」

 犬の遠吠えの真似をするのは、クースラが牢の見張りをからかったのと同様の、ウェランドの好きな振る舞いだ。戦場から近いために、傭兵や盗賊まがいの騎士といった荒くれ者を見慣れた町の人間でさえ、ぎょっとして足早に歩き去る。

 錬金術師。

 忌み嫌われる、外法の輩。

 若さの抜けないうちは、そんな世間の評価に暗く笑って凄んでいたものだ。

 今ではすっかり丸くなって、せいぜいが看守をからかう程度だった。ウェランドは見習いの時そのままに、平気で人を殺しているらしいが。

「だが、工房に行くのは賛成だ。鉄を溶かすように、体の凍えを溶かしたい」

「外から見た感じでは、いい具合だったよお。さすが戦の最前線」

 クラジウス騎士団がその資金と軍事力を今最も傾けているのがこの北の地であり、拠点の一つがこの最北の港町グルベッティになる。もっとも、最北というのは騎士団にとって、という意味なのだが、騎士団すなわち世界であるという認識を笑うような勇気ある輩は、なかなか今の世の中にはいない。

 そんな中、前線の近くに工房を構えたいと願うのは、欲深い錬金術師たちの多くの夢になる。なぜなら前線はたくさんの木炭をくべられた炉みたいなもので、戦に勝つためにあらゆる融通が利くからだ。

 無尽蔵の資金。優先的な書籍の配分。地元の職人や鉱山への権力行使。他にも、秘匿された禁書の閲覧権限と、枚挙にいとまがない。

 ウェランドと二人で、という条件がなければ、狂喜していたことだろう。

「しかし、グルベッティの工房に前までいた奴はどうしたんだ? こんないい工房を明け渡すなんて、馬鹿だな」

 クースラが馬糞を避けながら言うと、ウェランドは昨日の天気のように言った。

「死んだらしいよお」

「へえ? 事故か」

 軒先につながれた犬の口は血で真っ赤だ。朝方に猟に出たのかもしれない。もちろん、町をうろつく生き物が相手なのだろうが。

「いや、なんか町中で殺されたらしいんだよね」

 クースラはしばらく馬糞の列を避け、返事をしなかった。

 よくあることだとは思ったが、一つ、気になったことがあった。

 今回の配置は、騎士団側に懲罰的な思惑がある。

「もしかして、二人ってのはそういうことか?」

「うーん……俺もそう思ったよお。品行方正じゃない俺たちがこんないい場所に送られるなんて、絶対裏があるからねえ」

 ウェランドはがりがりと頭を掻きながら、つまらなそうに歩く。

 道端の石ころですら、割ったり削ったり観察したりして楽しく遊べるウェランドだから、つまらなそうな顔をしている時は、すなわち不機嫌な時だった。

「一人じゃまた殺されるかもしれないから、二人なら心強いだろうって?」

 二人はそれから沈黙し、クースラはぐるりと首を巡らし、ウェランドは小石を蹴った。

「錬金術師は舐められたらおしまいだ」

「はは。あの糞師匠の唯一の教えだなあ」

 二人の向かう先は、首吊り役人の屋敷になる。

 五年前を思い出して、少しだけ肩を怒らせた。

「びびんなよ?」

「こっちの台詞だよお」

 誰かとそんな軽口を叩きながら歩くのはそのまま五年ぶり。

 噛み潰そうとしても噛み潰しきれない懐かしさに顔が歪む。

 道行く人たちは飛びのくように道を開けたのだった。



「聞いているよ。毒殺と暗殺が得意だって」

 純金の文鎮で羊皮紙を押さえた男は、執務机でさらさらとペンを走らせながらそう言った。

 しかも、その文字を書く優雅さたるや見ていて飽きないほどのものだが、どうしてその馬鹿でかく丸っこい手で器用に文字を書けるのか不思議な感じさえする。

 クラジウス騎士団グルベッティ輜重隊隊長、アラン・ポースト。

 戦働きをする連中のために、食い物や酒や、あるいは必要な物すべてを調達し、輸送するのが輜重隊の役目だし、多くの輜重隊は実際に戦場で働いている。

 だが、騎士団上層部のそれは一味違う。

 騎士団が行う神の代理行為のために、という大義名分を振りかざし、商会にまじって商いをする。資金力と情報網は市井の商会の比ではないから、儲けだって同様だ。なにせ、どこかで戦が起きればどっと商人たちが儲けを目指してやってくるのに対し、騎士団はそもそもその戦を自分たちで起こすかどうか決められるのだから。

 目の前にいるアラン・ポーストは、グルベッティ周辺を流れる金という血液のすべてを牛耳っているに等しい。儲けは莫大で、儲けと同じくらい太らせた体を、自分の腹の形にくり抜いた机になんとか押し込めて、仕事をしていた。

「暗殺なんてまさか。私こそ、恋人を暗殺されたばかりですが」

「毒殺なんてめっそうもない。毒なんて使わないですよお」

 部屋の真ん中に立たされたクースラとウェランドはそれぞれそう答えて、視線もまたそれぞれであらぬほうに向けていた。

「いや、非難しているわけではない。評価しているんだ」

 互いに、へえ、とすら言わなかった。

 ウェランドは欠伸をしているし、クースラは爪の甘皮をいじっていた。

「そういう振る舞いも悪くない。堂に入っている。第一印象は一回しか相手に与えられないからな。上役に最初に舐められたら後に響く」

「……」

 クースラがウェランドにちらりと視線を向けると、ウェランドもまたクースラを見ていた。

 互いにため息をつき、姿勢を正してきちんと前を向いた。

「そして、種が割れたと思ったところで従順なふり、か。及第点だ」

 ポーストは羊皮紙を側に控えていた執事に渡し、顔の中でひどく小さく感じる目をしぱしぱとさせ、目頭を揉んでいた。

「相手に花を持たせ油断させて、後々足元をすくう。いいね」

「そうやって扱いづらい上役だと認識させて、頭を押さえつける?」

 クースラが天井を見たまま言うと、ポーストはでかい体を揺すらせるように笑った。

「それくらいでないとな。騎士団にはそういう人選を頼んだ」

 少しだけ、真面目に聞こうかと思う。

「……というと?」

「自分の身は自分で守れ」

「毒殺と暗殺で?」

 ポーストはにっこり笑うが、目だけが笑っていない。

「攻撃は最大の防御。私が軍務で覚えた唯一のこと」

 クースラは今度こそ、演技ではなくウェランドと顔を見合わせる。

 なにか予想以上に面倒そうだぞ、と。

「お前たちの前任者は、トーマス・ブランケットという男だった。四十に手が届くかどうかの優秀な奴だったが、死んだ」

 それがまるで、花が枯れたかのような言い方だったので、クースラは口を開く。

「ポースト閣下のお膝元での凶行、だったとか」

 町を牛耳っていてなんたる様だ、と遠回しに言ってやる。

 もちろん、その程度の挑発で怒るような人物なら、今その椅子に座ってはいないだろう。

「まったくそのとおりだ。犯人も未だ捕まっていなくてね」

「へえ?」

「意外だろう? この町の裁判権をなんとか取り返したい教会の連中も、血眼になって探しているが見つからない。錬金術師の死は、常に信仰上の問題に直結する。異端の証拠でも見つかれば、私の失脚を狙うにはいいきっかけになりそうだからな」

 騎士団はその頭上に神を頂くが、教会の長たる教皇を頂いてはいない。

 独立の軍と資金と、独自の信仰すらを持つと言われる所以だ。

 どこの町でも、管轄権を巡って教会と騎士団は対立している。

「だから、どこの誰が、なんの目的でトーマスを殺したのかまったくわかっていない。事故、酔っ払い同士の喧嘩、強盗、辻斬りか、はたまた、錬金術師に対する偏見からきたある種の魔女狩り、あるいは、教会側がトーマスの錬金術の結果を欲しがったか、寝返りを強要したが断られたか、さもなくばすでに寝返っていたが用ずみになったので消したか……その他、諸々。敵がわからなければ、対策の立てようがない。城に閉じこもるわけにはいかんしな」

「我々の身を守るなら、牢につなぐという方法がありますよ」

「それは私よりも上位の人間がすることだ。それに、私は働かない人間が嫌いでね」

 クースラは肩をすくめ、茶々を入れて失礼しました、とばかりに手で先を促した。

「現状、町の鉄事情は最悪だ。グルベッティ以北の戦況は悪くないが、確認されている北方の鉱山の多くが異教徒の手にある。南で精錬、武具を製造しても、向こうは労賃が高いうえに、途中で取られる関税が多すぎる。他にも運ばなければならん物はたくさんあるしな。小麦、ライ麦、大麦、葡萄酒、明礬、大青……騎兵連中の乗る馬がドカ食いする燕麦も輸入しなければ賄いきれん」

「つまり?」

 言葉尻ひとつを捉えられて、永久に失脚をすることがあり得る立場の人間は、結論を口にするまでが長い。

 だが、錬金術師の人生はそれを待っていられるほど長くない。

 クースラが口を挟むと、ポーストは一瞬口をつぐんでから、どことなく楽しそうに笑う。

「つまり、この町には冶金技術に秀でた錬金術師を置いて鉄の生産量を上げなければならんが、前任者の死が不可解である以上、後任の人間をほいほいと連れて来るわけにはいかない」

「要するに、私たちは捨て駒というわけですね」

「戦場でもそういう連中は必要不可欠だ。大局で勝ち抜くには、必要なことだからな」

 よし、死んでこい。

 そういう命令を何度も出してきた人間だけが見せられるのだろう、不気味なほどの落ち着きがそこにはあった。

 ただ、クースラもウェランドも、抗弁しようとは思わない。

 それは、立場が弱いからではない。

 もっと単純に、錬金術師はそんなことを気にしないからだ。

「じゃあ、死なない限りは戦場にいられるわけですか」

「話が早い。しかも、死地より帰った戦士は必ず英雄になる。見返りが安いとは思わんよ」

 戦場近くの工房には、無限ともいえる予算がつく。本来ならばクースラたちのような若くて素行不良の錬金術師が配置されるような場所ではない。

 もしもそこにいたいのなら、それ相応の危険を引き受けろ。

 至極当たり前の話というわけだ。

「まあ、この町は私の管理下だ。そうそう蛮行を何度も繰り返させはしないし、環境はこちらで最大限整える。頑張ってくれたまえ」

 ポーストが目を細めて相手を見ると、それはまるで墓に埋められる死体を見下ろす時のように見えた。自分以外はすべて自分のための道具、と考える権力者特有の目だ。

 好きではないが、行動原理がわかりやすくて、そういう意味ではある種の信頼が置ける。

 クースラとウェランドは騎士風の敬礼の真似事をして、「かしこまりました、閣下」と言う。精いっぱい馬鹿にしたつもりだが、鷹揚にうなずかれてしまった。相手のほうが一枚上手らしい。

「ああ、そうだ」

 と、クースラとウェランドが部屋から出ようとした時に、ポーストが呼び止める。

「君たちには謝らないといけないことがある」

「?」

「最大限私も努力したんだがな、どうにもならないことがあった」

「なんです?」

 クースラの言葉に、ポーストは答えた。

「工房に行けばわかる。まあ、毒殺と暗殺が得意なら、どうにかなるだろ」

 二人は小さく肩をすくめた。

「……失礼します」

 ウェランドが扉を開け、クースラがそう言ってから、外に出た。

 廊下には書類を抱えた部下がずらりと列をなしていて、全員が緊張に顔を強張らせている。

 自分で文字が読み書きできる権力者相手には隠し事ができないからだ。

 王や領主が高転びするのは、大抵が手紙の代筆を任せる書記官の裏切りによるものだったりする。隠しておきたい戦の失敗や秘密を、どうしても書記官には隠せないからだ。

 逆に言えば、あのポーストは自分の秘密をいくらでも隠し、ねつ造して報告することができる。

 さすが戦場の近くはおっとりした老騎士が采配を振るっているような場所ではないらしい。

 この建物もこの町を牛耳っていた大商会から接収したもののようだが、たぶん接収したのは建物だけではなかっただろう。表通りに出れば、権勢を誇示するための騎士団の旗が、地平線の向こうの誰かに見せるかのように高々と掲げられている。

 建物のすぐ目の前にある広場には、この町の独立を示す裁判刀を持った雄々しき男性のブロンズ像があるのに、それがすっかりかすんでしまっている。

 罪人の首に誰が刀を振り下ろせるかで、その町の支配者が決まるものだ。

 なのに、騎士団は勝手な権限で錬金術師をこの町に呼び寄せ、参事会はその威信を賭けて人々の出入りを取り仕切っている市壁にて、その荷を検めることもできない。

 そして、その不可侵な存在のクースラとウェランドは、ポーストの一存によって生きるか死ぬかを決められる。権力の階梯は、高く、同時に、重いのだ。

 クースラとウェランドの二人はそんな旗と見張りの間をくぐり抜け、町の活気と昼の日差しに目を眇めた。

「どう思う?」

 クースラは、ポーストの前でも口数の少なかったウェランドにそう尋ねた。

 別に人見知りをするわけではないが、ウェランドはああいう連中の前ではあまり喋らない。その代わりに、ずっと相手を殺すことを考えている。

 と、五年前の糞餓鬼時代に聞いたことがある。

「あれだけでなにもわかるわけないよお」

「まあな」

「けど、それは鉱石だって同じだよ。神はどの金属も、純粋な形で埋めなかったからねえ」

「つまり?」

「つまり、これまでやってきたとおりにするだけさ」

 ウェランドは唇の端をつり上げながら、そう答えたのだった。



 賑やかな町の市場で昼飯をすませてから、クースラたちは工房に向かった。

 これだけ賑やかな町なのに、必ずどこかにはひっそりとした空間がある。クースラたちが歩いていたのは空き家が立ち並ぶ区画で、そこを抜けると急に視界が広がった。

 眼下には広がる町の様子と、遠くに海も見渡せた。

 素晴らしい景色。

 これでどうしてこの辺りは賑やかではないのかと思ったら、それは崖上の特等席に、でんと錬金術師の工房があるからだろう。

「贅沢な工房だよねえ」

「トーマスってのはよっぽどだな」

 戦というのは結局のところ勝たなければなにも意味がない。

 だとすれば、勝つためにはなんでもして、勝った後にあれこれ考えればいいということになる。錬金術師の生み出す技術一つで戦況がひっくり返ることがままあるとすれば、前線に近い工房ほどわがままを通すこともできる。

 そういう話を聞いてはいたが、目の当たりにするとやはり驚きは禁じ得ない。

 ウェランドがにまにましながらクースラを手招きするので、工房の建物の脇に行って崖を見下ろして、さすがのクースラも仰天した。

「専用の水車?」

「しかも、水はこの地面の下を流れてる。わざわざ暗渠を作ったとしか思えない。まあ、さすがに水を独り占め、というわけにはいかなかったみたいだけどねえ」

 ウェランドの言葉に従って崖下に目をやれば、そこから港に向かっては、数基の水車が回っている。粉屋か縮絨工か鍛冶屋か石工かはわからないが、とにかく水車を必要とする者たちがその水車の周りに軒を連ねている。

 水車の力強さは水の力強さで決まり、水の力強さは往々にして高低差で決まる。

 その工房は崖に沿って建てられていて、今クースラたちが立っている場所を一階とすると、地下二階分くらいまで建物がある。水車はその一番下にあり、暗渠から流れ出た水の力強い流れをすべて一身に受け止めることができる。

 クースラはこれまで、水車などの大規模な設備は職人組合と揉めながら共用のものを利用していた。それからすれば、これだけで涎が出るほどの贅沢だった。

「炉も立派だ。町中でこんなでかい炉を作るなんてねえ。水車が隣にあるから、なんとか許されたんだろうけど」

「火事になったら全部水で押し流すのか」

「下の人たちが災難だねえ」

 ウェランドは呑気に言っているが、実際のところ呑気なのだろう。

 ウェランドは錬金術師の中でもいかにも錬金術師らしいところがある。

 自分の目的以外にはあまり細かいことを気にしない。それどころか、大きなことですら気にしないところがある。世間の基準に照らせばかなり緩いと自覚しているクースラですらそう思う。あるいは、そんなことを気にしている時点で、自分は錬金術師としては少し神経質なのかもしれない、とクースラは思うのだが。

「しかし、あのデブのおっさんが謝るようなことってなんだ?」

「うーん……なんだろうねえ……俺にも予想ができないよお」

 水車から視線を上げ、見晴らしのいい景色を見ながら言った。なにも問題はなさそうで、万事うまくいきそうな雰囲気すらがこの日当たりの良さにはある。

「単なる脅しかもな。それより、中に入ろう。寒い」

「うん。そうしようかねえ」

 別にこれが見納めというわけでもないが、あまりに見晴らしがよくて、クースラは名残惜しく崖上からの景色を振り返ってしまう。

 そんなことをしていたからだろうか。

 ウェランドが真鍮製の鍵を回して工房の中に入るのに続いたら、急に足を止めたウェランドの背中にぶつかった。

「おい、なんだよ」

 クースラは毒づき、そして、部屋を見た。

 石垣を木で補強したようながっしりとした建物の地上部分は、壁という壁にびっしり物が収まった、神経質さをギュッと濃縮したような部屋だった。決して汚いというわけではないし、おそらくこの状態を維持するには大変な労力が必要だったろう。

 しかし、そんなことでウェランドが足を止めるとも思えない。

 そう思った直後、異質な声が耳に届く。

「ようやくご到着ですか」

 その、今にも押さえつけられていた「物」が雪崩を起こしそうな部屋の中に響いた一言は、凜として鐘の音のようだった。

 口調というものには思いのほかたくさんの情報が含まれるもので、たった一言であってもそれは変わらない。声の感じから体格や顔の形がある程度わかり、発音の仕方でどこの地方のどの階級にあるのかが大体わかる。もちろん喋り方の調子から、きつい性格か穏やかな性格かもわかり、機嫌の良し悪しまでわかることだってある。

 それらすべてを考え合わせれば、クースラの目の前にいるそいつは、声の感じから推し量れるそのままの姿だった。それが、それでもなお目をこすってしまったのは、とても信じられなかったからだ。

 錬金術師の工房で、こいつはなにをしているんだ?

 足首まで隠れるローブを身にまとった、ちんちくりんの修道女は。

 ローブの縁取りは騎士団お抱えの修道院の紋様。

 迷い込んだわけでは、ないだろう。

「お前、なんだよお」

 二人でいる時は口をつぐみ、話すのを相方に任せて自分は相手を殺すことだけ考える、と豪語したウェランドが口を開く。しかも口調は友好的なものではない。

「ウル・フェネシスといいます。騎士団から派遣されました」

 ヴェールを頭からかぶった白づくめの少女は、人形のようだ。作り物めいた緑色の目と、まっ白い前髪のせいかもしれない。白金と違わぬ色合いの髪の毛は珍しくもないが、ここまで白いのはなかなか見ない。

「私は、あなた方の監視役です」

 しかし、フェネシスはクースラたちのことなど気にも留めず名乗ってから、ようやく立ち上がる。椅子に座っていても立ち上がってもあまり頭の高さが変わらないのは、椅子に座ると足が着いていないからだ。

 子供。

 だが、その目はひどく理知的で、本物の匂いがする。

 どう出る?

 クースラは、ウェランドの斜め後ろからその横顔を盗み見るが、ウェランドは表情を消していてわからない。

「あなた方、神の道より外れし者の行動は、逐一上に報告いたします。神の教えを忘れることなく、神の秩序を乱すことなく、神の威光を汚すことなかれ。以上の三つを頭に刻み、騎士団のため、神のために働いてください」

 まるで修道会の入会儀式だが、恐ろしいのはフェネシスと名乗った修道女が、本気の目をしていることだ。

 この年頃で変に頭の良い少女は、狂信という病とびっくりするほど相性がいい。

 視野が狭く、直情的。

 ポーストはおそらくこのことを謝っていた。世の中には、戦う人、祈る人、耕す人と三種類あるように、騎士団も権力構造は一枚岩ではない。

 騎士団に雇われる錬金術師は、そのほとんどが武器や攻城技術に関わる性質上、戦う集団の一部門に属している。しかも様々な物資を必要とするために、基本的には輜重隊にぶら下がっていた。

 だが、目の前のフェネシスは明らかに祈りの集団の先兵だ。修道女であることからして、騎士団内部の聖歌隊の人間だろう。もちろん、教会の聖歌隊とは訳が違う。教会の聖歌隊は静かな教会の中で神のことを賛美するが、騎士団の聖歌隊は血と怒号が飛び交う戦場で神のことを賛美する。

 信仰の質と、方向性が違う。もっと陰険で、権力主義的だ。常に戦の集団の権勢を侵食しようと虎視眈々と狙っている。ポーストの失墜を狙う者は、教会だけではなく身内の人間にも大勢いるというわけだ。森で傷を負えば、覇者たる狼ですら他の動物の餌食になる。騎士団の「備品」たる錬金術師を殺されたという傷の匂いを嗅ぎつけて、グルベッティの権力をポーストから横取りする機会を窺いに来たのだろう。

 その上話がややこしいのは、同じ騎士団に属しているにもかかわらず、そもそも聖歌隊の人間は錬金術師を敵視していることだ。

 神に盾つく存在は、なんであれ地上から消え失せろと、聖歌隊の連中は本気で思っている。

 毒殺と暗殺で身を守れというのは、こういうことかと納得する。

 トーマスは誰に殺されたかわからない。

 それは、敵が身内にいる可能性すらあるということだ。

「お返事は?」

 フェネシスが、顎を引いてそう尋ねる。

 幼い頃、近所の教会で糞尼に仕置き棒で頬を張られた時のことを思い出す。

 こいつは、最初が肝心だ。

 クースラがそう思い、口を開こうとしたその瞬間のこと。

 ウェランドがすっと前に歩み出て、手を伸ばした。

 握手。

 そんなまさか、というのは相手も同じだったらしい。意外そうな顔をして、それでも右手が自然に伸びていた。それが人間の反応というものだ。

 だが、ウェランドの手はそのまま相手の手を素通りし、ぺたり、と目的地に到着した。

 フェネシスとやらは、ウェランドの手を目を丸くして追いかけていた。

 自分の胸に当てられ、わし、と遠慮なく五指を突き立てたその手を。

「ふうん?」

 ウェランドは首をかしげ、目当ての物がなかったような、そんな顔をしている。

 そして、もっと確かめようともう一方の手を伸ばそうとした瞬間だ。

 フェネシスがウェランドの手を振り払って平手打ちを繰り出した。

「ふん」

 ウェランドはひょいと体を反らしてそれを避ける。

 フェネシスが無表情なのは、平手打ちを避けられたからというより、事態に頭がついていっていないからだろう。クースラだって、ウェランドの行動に呆気にとられていた。

 平手打ちは、ほとんど反射的なもの。

 なので、あっさり避けられると体の平衡を保てずに、ぐらりと揺れて、ウェランドの胸に肩が当たる。

「──っ!」

 それでようやく我に返ったらしい。

 ウェランドの胸を押し、逃げようとしたその刹那。

 ウェランドの手がフェネシスの細い腕を掴み、あまりの力の差にフェネシスの体ががくんと揺れる。

「な、にを──」

 と、フェネシスが抗議の声をどこまで上げられたのか、クースラは聞き取れなかった。

 自分の胸を押して逃げようとする修道女の腕を掴んだウェランドは、残る手でまだ幼い少女の口を覆うように顔を掴んだのだ。クースラが思わず息を飲むほど、ウェランドの手の中にすっぽり収まる小さい顔だ。

 そして、ウェランドは目を見開いているフェネシスの顔を無理やりぐいと引き寄せて、その目を覗き込むようにしながら言った。

「ここは錬金術師の工房だよお。子供がうろついてると、とても、危ない」

「っ! っ!」

 ウェランドは細身に見えるが、冶金作業でその体はそこいらの傭兵よりも鍛え抜かれている。フェネシスがどれだけ暴れたって、びくともしない。

 フェネシスが口を覆われ、見開いた目を一瞬も閉じられないのは、閉じた瞬間に首の骨を折られるかもしれない、という本能的な恐怖があるからだろう。

 ウェランドはそれ以上言葉を重ねずに、じっとフェネシスの目を覗き込んでいる。フェネシスが必死に体をよじろうとしても、本当にかけらも動かさない。

 やがてフェネシスは、暴れるというよりも、恐怖で体を震わせ始めていた。

「ふんっ」

 最後につまらなそうに鼻を鳴らし、ウェランドはフェネシスの顔から手を離す。

 目を見開いたままのフェネシスは後ろによろめき、数歩は耐えたが、すぐに腰が抜けたようでその場にへたり込んだ。

 クースラは、そこでようやく、ウェランドの視線に気がついた。

「俺は工房に行くから、後は任せたよお」

 そして、さっさと階段を下りて行ってしまった。

 クースラがハッと我に返った時には後の祭り。

 人心掌握方法の基礎の基礎だ。

 一人が標的に圧倒的な畏怖や徹底的な嫌悪感を与えれば、もう一人は逆に親しくなりやすくなる。監視役と名乗ったのがこいつの運のつき。その瞬間に動かなかったのがクースラの運のつき。

 悪役はウェランドに取られ、面倒な善役を押しつけられた。

 ただ、だからといってなんのためらいもなく少女の胸を揉んだうえ、かけらの慈悲も見せずに脅せるウェランドの精神構造に恐れ入る。

 クースラは、呆れるほかない。

 それに、今更取り返しはつかない。ため息を必死に飲み込み、自分の役目を受け入れるしかない。陰険な祈りの連中が監視として寄越すということは、この哀れな少女は自分の意思とは関係なしに、この工房の監視をやらされるはずだろうからだ。

 こんな目に遭わされても、きっと明日も明後日も来るだろう。

 うまく懐柔しておかないと、まともに作業なんてできなくなる。

 だが、その相手の面倒くささは、考えるだけでうんざりした。

 クースラは、すぐに動けなかった自分が悪いと言い聞かせ、声も表情もなくただただ涙を流す修道女の側にしゃがみ込んだ。

 小さな悲鳴みたいなものを上げて、フェネシスとやらは後ずさろうとした。

「大丈夫か? あいつはちょっと、頭がおかしいんだ」

 それが長い長い慰めの、最初の一言だった。