クースラが工房へ戻って来ると、ウェランドは地下階で天秤に金属類を載せてなにかを量っていた。
「職人はどうだったい?」
「問題ない。職人組合は騎士団にべったりだ。見ろ、これ」
作業台の上に羊皮紙を置くと、さすがにウェランドも目をぱちくりとさせていた。
「へへえ。職人の誇りも捨てて、利を取るか」
「誇りは新天地に一番乗りして縄張りを築いてからでも取り戻せるからな」
「騎士団は欲につけ込むのがうまいからねえ」
ウェランドは言いながら羊皮紙をぱらぱらとめくり、そして、興味なさげにぐいと押した。
「まあ、前任者のトーマスが、なにかを聞き漏らしているとも思えないけどね」
「ほう?」
今度はクースラが聞く番だ。
「工房に残された諸々を少し調べてみたけど、鉄塊は恐ろしい純度だったよお。俺が前の工房から持って来た基準鉄より純度が高い。へこむよお。しかも、この辺で採れるのは単純な砂鉄じゃない。硫黄や不純物の多い質の悪い鉱石だ。もしもそこからあの鉄を取り出していたのなら、もはや魔法だ。絶対に市井の職人がどうこうできるような話じゃあない」
「魔法……」
「悪魔の御業だね。神ですら、その衣を剥がされるような。もう、あれは……」
ウェランドは、天井を見ながら言った。
「マグダラの住人だったかもね」
「っ」
クースラは息を飲む。錬金術師にとって、マグダラは特別な単語であり、その誰もがそこを目指して突き進む場所だ。
ウェランドはクースラよりも錬金術らしい錬金術師だから、特にその単語には重きを置いている。そのウェランドが言うのだから、冗談ではない。
「あのデブのポーストが、聖歌隊に目をつけられているのに、ここをいったん閉鎖して整理しなかった理由はたぶんこれだ。これだけの純度の鉄を生産できれば、あの男の評価は跳ね上がるだろうからねえ」
「だが、その方法がどこに残されているのか見つけられていないってわけか」
錬金術師の中には、自分の成果を羊皮紙にではなく、建物のどこかに残す者が少なからずいる。自分の身になにがあるかわからないし、政治的な理由で消される可能性だってある。暖炉裏、屋根裏の梁、床石の裏。その上、暗号で書かれているかもしれない。
「方法さえわかってしまえば、聖歌隊の横槍なんか無視してここの工房そのものを取り壊したうえで別の場所に工房を作り、手厚く保護しながら鉄を大量生産できるからねえ。それをしていないということは、そういうことだ。もしかしたら、建物そのものが重要な暗号を解く鍵になるかもしれないからねえ。そして、トーマスはやっぱり腕に見合った用心深さを持っていた」
「ふうん?」
「残された記録をざっと見たけれど、しっかり暗号で記されている」
錬金術師にしか通じない符号や、占星術の知識で目くらましをかける。
「これが神への冒涜のものだとはちょっと思えないけれど……とにかく一つの冶金の結果が、その後の文書の暗号に用いられている構造になっているみたいでさあ。一つ前進するたびに、前の結果を使って暗号を作って、成果を横取りされにくいようにしたんだなあ。だから、たぶん、あの凄まじい純度の鉄を作り出した直後に殺されたんだろうね。結果をきちんとまとめる間がなかったんだ」
「つまり……それは……」
クースラが呻くと、ウェランドは口元に皮肉な笑みを浮かべながら、うなずいていた。
「あの純度の鉄を生み出す方法に辿り着くには、トーマスの辿った試行錯誤の道のりを初めから辿る羽目になるねえ。並みの連中じゃ、できない。だから、俺たちも単なる捨て駒ってわけではないらしいよお」
心地よい自負心。
自分の命が懸かっている場所で自分の力を試されるというのは、戦場以外ではなかなか味わえない興奮だ。
それに、錬金術師としても、興奮する理由がある。
「魔法の正体を知れるなら、どんな過程だろうと望むところだ」
「んっふふふ」
ウェランドは笑い、密談をするようにテーブルの上に乗り出していた体を起こし、軽く伸びをした。
そして、「けど」と言う。
「あのデブ、ポーストが毒殺と暗殺の技術で身を守れと言ったのは大袈裟ではないのかもしれないねえ」
そんな台詞を、明日の天気の話でもするかのように言う。
クースラは少し視線を巡らし、肩をすくめた。
「どんな理由であれ、殺されるに足るほど優秀な錬金術師だった」
「だろうね。強すぎる傭兵は、敵だけでなく雇い主にも殺される。寝返られたら厄介だからねえ。教会がこの技術を手に入れたら……と思うこともあるかもしれない。鉄の生産を牛耳られたら、異教徒との戦いで教会に後れを取るのは必至だ」
「敵が多いな。覚えてられるかな」
クースラは冗談めかして指折り数えていく。
「この人選は元からきな臭かった。期待に違わぬというわけだよお」
ウェランドは、スンと鼻を鳴らし、無精髭をぞりぞり撫で、片目だけを開けて言う。
「よーく周りを見回すことだ。誰よりもねえ。ずっと工房にこもっていると、町が敵に占領されたことにも気がつかない」
「アウリピデスの故事かよ」
古代の帝国で大発明家と呼ばれた、錬金術師の祖みたいなアウリピデスという男がいた。
彼は実験に没頭するあまり、風呂の中でなにかを思いついたら裸のまま奇声を上げて町を走り抜けたと言われている。その死に方も、地面で幾何学の問題を解いていたところを、雑兵に斬り殺されたというものだ。町を占領した敵の雑兵に名を問われた際に、思索の邪魔をするなと激昂して食ってかかったというのだから、擁護のしようもない。
千年以上前の男の話が今も残っているのは、そこに学ぶべきことが多いからだろう。
この時代、錬金術師はそんな馬鹿では務まらない。
「あのお嬢様もな、明らかに不自然だ」
クースラがフェネシスについてのことを話せば、ウェランドの見解も概ね一致した。
「クースラの懸念は正しいと思う。あの体の強張りは、演技じゃ無理だと思うんだよねえ」
しかし、ウェランドの言葉に、クースラは疲れたようにそちらを見る。
「……それがわかるほどあんなことばっかりしてんのか」
「うん? そもそも取りつく島もない相手には、有効だよお? しばらくはずっと俺のことばかり思い出すようになるからねえ。怒りでも、恐怖でも。で、俺のことばかり考えるようになったら、こっちのものだ。あとは、誠意を見せる。簡単に転ぶ。もう、あんなふうに強張らない」
それを誠意と言ってのけるこいつは、人としては屑なのだろうが、男としては尊敬すべき相手なのかもしれない。
「だが、やはり捨て駒の可能性は考えすぎではないってことだな」
「そうだねえ。なにせ男二人の工房だよお。そもそも修道女を置くことが間違ってる。力づくでどうにかされる可能性は否定できない。クースラはそういうの嫌いそうだけど」
「お前は獣だよ」
「まさか。好きな者を好きなように愛でるだけのことさあ」
クースラはその考えが獣だと思うのだが、あまり分別くさいのも軟弱者だと思われそうで、それ以上追及しなかった。
「もっとも、なんにせよあの子の担当はクースラだからね。任せたよお」
クースラはウェランドを睨むが、どこ吹く風という顔をされる。
「誰かさんに押しつけられたからな。きっちりやりますよ」
「そう願うよお。明日からやることが山積みだ。工房をちょろちょろされちゃ邪魔だからねえ」
ウェランドは立ち上がり、腰に両手を当てて、辺りを睥睨した。
「ここは錬金術師の工房だ。俺の帝国だよお」
「俺は?」
クースラが尋ねると、ウェランドは肩を揺らして笑ったのだった。
翌日、クースラが出かける準備をしていると、工房の前をうろつく人の気配を感じた。
ただ単に前を通り過ぎただけの奴なのか、中を窺っている奴なのかは、経験からわかる。
完全に後者だが、それにしては手際がお粗末すぎた。
追い払うのも面倒でそのままにしていたのだが、鎧戸の隙間から中を覗き込んできた時に、逆に視界の端で誰だか確認してやった。
クースラはその時平静を装うのがとても難しかったし、程なくしてノックされた扉を開けた時は、なおさら難しかった。
扉の前にいたのは、つんとした澄まし顔のフェネシスだ。
中にいるのがクースラなのかウェランドなのか計りかね、まごまごしていたのだろう。
全部見通されていたと知ったら、どんな顔をするだろうか。
部屋に入れてやって、自分の顎の下を通る小柄なフェネシスを見下ろしながら、そんなことを思っていた。
「これは……なにを?」
平静が装いである、とばれているなどとつゆほども思っていないらしいフェネシスだったが、ローブの上にさらに羽織っている外套を脱ぐ間もなく、テーブルの前で呆気にとられていた。
「この工房の前任者の手順の再現をね」
知られてまずいこともないだろう、と思い、クースラは真実を言う。へたに誤魔化して事実と違うとばれた時のほうが厄介だ。騙すべきところ以外で嘘をつくとろくなことにならない。
「……はあ」
ただ、フェネシスの返事は曖昧だった。目の前には、様々な色や形の石や粉が小皿に取り分けられ、広げられた羊皮紙の前にいっぱい並べられている。その羊皮紙にも器具の絵や、星の絵、それに厳めしい文字が書かれ、ぱっと見には魔術的ななにかにも見えるだろう。
しかし、魔術的な儀式にはもう少し格式というか、様式美的なものがある。
フェネシスがなんと言っていいのかわからない顔をしていたのは、テーブルの上がなにか怪しげな様相を呈しているというよりも、これから山ほどのお客さんに向けてお菓子かなにかを作ろうとしているように見えたからだろう。
「くしゃみはするなよ。舞い上がった粉を吸ったら死ぬかもしれない」
「はっ」
フェネシスはそれで慌てて袖口で口を覆っているが、クースラの様子を見て、眉をひそめた。
「あなたは平気なのですか?」
くぐもった声に、クースラは返事をせず肩を揺らして笑った。
「……そういう嘘はやめてください」
「くしゃみをするなというのは本当だ。一晩かけて綺麗に粉にしたものが多いからな。またやりなおしになったら、ウェランドが火かき棒を持って下から上がってくるぞ」
「っ……。注意します」
ウェランドはよい手綱として機能している。
「それで……あなたはなぜそんな恰好を?」
クースラの説明を聞き、物珍しそうに机の上のものを眺めていたフェネシスは、外套を身にまとったクースラを見て不思議そうな顔をしている。
「これから市場に行くからな」
「え?」
「必要なものがいくつか足りないし、市場に行けば便利なものが色々手に入るかもしれない。ウェランド一人残すのはちょっと不安だったんだが、いい見張りが来てくれて助かったよ」
クースラが笑顔でフェネシスにそう言うと、フェネシスのほうは反対にどんどん顔が青くなっていく。
「あ、あの? え?」
「事前に注意だけしておく。卵の腐ったような匂いなら、まだ大丈夫。だが、石を砕いた時のような独特の匂いがして、炉の煙突から黒い煙が立ち上ったら息を止めろ。それから、すぐに外に出て、輜重隊の本部に走れ。瀝青を燃やしている可能性が高い。工房を案内した時に説明した、死神の手が伸びている可能性がある。吸い込むと匂いも味もないのに人が死ぬ。すぐに人を呼んでウェランドの暴挙を止めろ。つまり、この町が死の町になるかどうかは……お前次第だ」
クースラが真顔でフェネシスの肩にポンと手を載せると、まさしくそれが死神のものであるかのように、フェネシスの目がぎこちなくそれを追う。
「じゃあ、頼んだ」
クースラは言って、身を翻して出口に向かう。
少しは耐えるかと思ったが、クースラが身を翻した瞬間に、フェネシスの手がクースラの外套を掴んでいた。
「……」
クースラが足を止めて振り向くと、フェネシスは我に返り、慌てて手を離す。
だが、置いて行かないでくれ、と目が言っていた。
「なんだ?」
聞き返すと、びくりと体をすくませた。そのくせ、今にも不安と恐怖に押し潰されそうなフェネシスは、たった一言が口にできない。
それは多分監視役としての見栄なのだろうが、表情を取り繕う余裕もない。この工房にウェランドと二人で残されるのが、それほど怖いのだろう。
もちろんクースラはフェネシスが怖がると思ってそうしたのだが、その様を見ると嗜虐的な喜びを通り越して、哀れになってきてしまった。
断頭台に向かう恐怖におののく姿と、夜中に厠に行くのを怖がっている姿は確かに違う。
しかし、厠に行くのを怖がっているのだって、驚かしすぎて粗相をされては後始末に困る。
クースラは小さくため息をついて、言った。
「それとも、俺を見張れと言われているのか?」
「っ」
フェネシスは文字どおり藁にもすがるように、その言葉にうなずいた。
クースラが精いっぱい嫌そうな顔をすると、フェネシスは監視役としての威厳を少し取り戻したらしい。溺れる最中に底に足がついたような顔をして、ひねり出すように言った。
「あなたを見張れと、言われました」
緑色の目が不自然なほどに揺るぎない。
クースラは肩をすくめて、「好きにしろ」と答えたのだった。
グルベッティは、昔から続く港町だった。まだ教会と異教徒が真正面からぶつかり合うこともなく、互いに互いを尊重し合っていた時代からあるという。
しかし、今やここは異教徒との戦いの最前線へと向かう橋頭堡であり、神の正しさを異教徒どもに知らしめる強力な象徴であった。
町を少しぶらつくだけで、傭兵や騎士の多さに目を見張るし、刹那的な生き方をする彼らのおこぼれに与ろうとする享楽的な店が多い。その一方で、ここには教会でじっとしていられず、戦場でこそ自分の信仰を試すべきだと考える血の気の多い聖職者たちもいる。
朝から楽器を奏で、酒を飲みながら札遊びをする連中の横で、遍歴の説教師が旅立ちの準備をしている様などなかなか見られるものではない。
ただ、クースラはそんなごった煮のような雰囲気がとても好きだった。
ここではどんな悪行も善行となりうるし、その逆もしかりだ。
他の町では悪行と眉をひそめられる金儲けだって、ここでは異教徒を討伐するための資金稼ぎとして正当化される。それどころか、その当の異教徒との取引だって、利益が上がることはすなわち異教徒から金をむしり取ることだとして、評価される。
ありきたりななにかに、少しだけ違う状況をまぜ合わせると、見慣れぬ結果が飛び出してくる。それこそ錬金術師のなすことであり、ここは町そのものが錬金の大窯のようなものだった。
半ば罪人としてここの工房に送られたクースラとウェランドだって、ある種の好機の前にいるといえた。鉄火場ではすべてがひっくり返りうるのだ。
「それで、どちらに行くんですか?」
フェネシスがそう言ったのは、荒くれの傭兵たちが、樽の上に置いた酒瓶めがけてナイフ投げをして大騒ぎをしている様を眉をひそめて眺めた後だ。
ついさっきまであんなに怯えていたのに、と指摘したら、きっと顔を真っ赤にして噛みつくように反論するに違いない。
「市場だよ。聞いてなかったのか?」
クースラの冷たい視線に、工房での忌まわしい記憶が蘇ったのかもしれない。
しかし、ここはお天道様が照らす往来であり、怯えるものはなにもない。
「き、聞いていました。ですが、市場にも種類があるかと思いますので」
これくらいわかりやすく見栄を張ってくれていると、からかい甲斐がある。
「大市の類じゃない。常設の普通の市だ」
「な、なるほど? それで、なにを買われるんですか? 呪術の材料を?」
幾分調子を取り戻してきたようで、頭を撫でてやりたいくらい生意気な口調で聞いてくる。
「タライいっぱいの牛の目玉とか、籠いっぱいのイモリとかな」
「っ」
クースラの言葉にフェネシスは立ち止まる。
クースラが振り向くと、急に止まったフェネシスに職人らしき男が後ろからぶつかって、小さくて白い塊が前のめりに転んでいた。
「嘘だよ」
「……嘘をつくのは神への冒涜です」
見栄は嘘に入らないのかと言いたくなるが、依怙地な様子で膝を払うフェネシスを見て、クースラは面倒なので黙っておいた。
「そんなもの買いやしないし、そもそも売ってない。とりあえず必要なのは、小麦、ライ麦、燕麦と、鶏の卵に山羊の乳、あとは濃い葡萄酒と……」
クースラが指折り数えていくと、隣でフェネシスが思い切り訝しげな顔をしている。
「食事の準備ですか?」
錬金術師は飯など食わぬとでも言いたげな顔だ。
クースラは肩をすくめ、言う。
「全部実験に使うんだよ」
「……」
「ああ、それと牛の糞に馬の糞、鳩の糞も買っておかないとな」
「……そ、それも、実験に?」
「いかにも」
「……」
からかわれているのかなんなのか、自分ではもう判断のしようがないとばかりに途方に暮れたフェネシスは、疲れたように聞いてくる。
「そんなもの、売っているんですか?」
修道院で祈りに暮らすフェネシスには、牛の糞も目玉も似たようなものなのだろう。
「ああ。牛糞と馬糞は乾かせば燃料になるからな。その手の店が取り扱っている」
「……鳩の糞は?」
「普通は皮なめしで使う。皮なめしって知ってるか?」
クースラが尋ねると、フェネシスは答えない。答えない時は、知らない時だ。
「こうやって皮を剥いで」
「ひぃっ」
クースラが指でフェネシスの頬を撫でると、飛び上がらんばかりに驚いている。
空を仰いで声なく笑うと、頬に手を当て呆然としていたフェネシスは、我に返って顔を真っ赤にしていた。
「とにかく皮を剥いで、その生皮が腐らないように加工する。それをなめしといって、その時に鳩の糞を使うんだよ。だから、皮なめしの工房か、染料なんかを取り扱う店に置いてある」
だったらそう言えと涙目で睨みつけてくる。
「そして、これら全部は鉄の精錬で使う」
「どうせそれも嘘でしょう」
フェネシスは吐き捨てるように言って、なんで自分はこんなところにいるんだとばかりにそっぽを向いた。
からかいすぎたかもしれない。
「牛糞や馬糞は、鉄のしなやかさを増す時に使う」
クースラはまず、そう言った。
「鳩の糞は、牛糞や馬糞がそういう効果をもたらすのなら、ついでに試してみようということだ」
「……」
フェネシスはそっぽを向いたまま。
クースラは構わずに続ける。
「鶏の卵は、卵白と殻を使う。殻は粉にして炉に放り込むと、鉄の不純物を取り除くことができる。卵白は、葡萄酒の濁りを取り除くために使う」
「……葡萄酒、の?」
クースラが一人続ける説明に、相槌を打たずに無視し続けることもできなかったらしい。
元々、人を気遣う性格なのかもしれない。
「綺麗にした濃い葡萄酒は、腐らせて酢に変える。酢は金属類を溶かすからな。試薬として使う」
「……む、麦は?」
「ああ。卵の殻は白いだろ? 卵の殻で精錬の結果が変わるなら、同じ白い粉なら麦粉はどうだろうってことで使うんだよ。割と効果があるが、卵の殻には劣る」
クースラの説明に、フェネシスはなんと言っていいのかわからないような顔をしている。
からかわれすぎて、疑心暗鬼になっているのだろう。
「鉄の精錬過程を知ってるか?」
「え? ……そ、それくらい、知っています」
「へえ」
ちょっと嘲り気味に言ってやると、フェネシスはクースラを睨む。
「石を焼き、溶けたものを集めて、鉄にします」
正解だろう? とフェネシスは背筋を伸ばし、小さな胸を張って澄ましている。
「概ね間違っちゃいないが、世の中はもう少し複雑だ」
「う……」
「砂鉄なら、そんな感じでもまあまあの鉄が作れる。焼いた木炭の上に砂鉄を振りかけていって、溶けるのを待つ。純度を上げるには、表面に浮いた不純物を捨てればいいだけだ」
「……そ、それで?」
「複雑になるのは、鉄が鉄以外の物をやたら含んでいる場合だ。その時は、過程が面倒になる。たとえば鉛が多い場合、ひとまず塊を熱すると、先に溶けやすい鉛が溶け出して、ごつい綿みたいな鉄の塊が残る。それを取り出して冷やし、ハンマーで均等に砕いてから、水の流れに晒す。水に晒すと、そこに含まれる鉱物の重さによって、早く沈んだりゆっくり沈んだりして、層を成す。そうして鉄だけを可能な限り選び出し、また炉に入れて溶かす。その時に、木炭を一緒に入れたり、葉の付いた生の木を入れたり、また鉛を入れたりする。鉛を入れるのは、鉛のほうが先に溶けるから、まだ含まれている不純物を一緒に溶かして出すためだ。木炭や木を入れるのは、そうすると純度が上がるからだ。卵の殻や、石灰を入れる場合もある。石灰は……やっぱり白い石だ」
クースラが肩をすくめると、フェネシスは曖昧にうなずく。
「加熱は大体日の出から夕方まで続ける。その際の木炭の種類、加熱の仕方、時間でも結果が左右される。待っている間、時折表面に浮いた不純物をかき出して捨てる。最後に、溶けたものを取り出して、冷ます。ここから剣や防具を作るにはさらに鍛造や火入れという工程が必要で、硫黄やその他の不純物があるとまたさらに温度や添加物の内容が変わるが、概ねこんなところだ」
こんなところだ、と言われて、聞き入っていたフェネシスははっと我に返ったらしい。
「た、多少、複雑ですね」
「そう。種がわかってもなお、複雑だ」
クースラが言うと、フェネシスはまたしても曖昧にうなずく。
「なにか質問が?」
尋ねると、フェネシスは顔を上げるが、すぐに困ったように顔を背けてしまう。
「お前は俺の監視役だからな。監視役との間には、情報の交換と、信頼が必要だ」
「……」
横目にクースラのことを見るフェネシスの瞳には、どの口で信頼と言うんだという猜疑と怒りの光があったが、視線を戻したフェネシスの横顔はやっぱり迷っていた。
そして、フェネシスは疑問を胸に留めていられるほどおとなしい娘でもないらしい。
「どうせ嘘をつかれると思って質問します」
「ひどい偏見だな」
「神への冒涜は、どの段階で行うのですか」
クースラの軽口を無視するかのように言ったフェネシスの言葉は、クースラの口をつぐませるのに十分だった。
「あなた方錬金術師は外道の輩。神に唾し、世の秩序を乱し、悪徳に耽っている。そう聞きました」
「それで?」
「そ、それで、私が監視役として来たわけですが……」
フェネシスが喋っている間に二人は市場に辿り着き、活気にあふれるそこはそれ以上に物であふれていた。クースラは今晩の夕食の材料を買いに来たわけでもないし、転売目当ての行商人でもない。
目についた必要なものを買っていき、あっという間にちょっとした荷物になる。
フェネシスに麻袋を向けたら反射的に受け取っていたが、途端に顔をしかめたのは馬糞牛糞の詰め合わせだったからだろう。
「あ、あなたという人は本当にっ……!」
フェネシスは怒ったようにそう言ったが、どこかほっとしているようでもあった。
というのも、質問を買い物で遮られ、言葉を続ける間もなく次々店を移動する間中、フェネシスは少し不安そうにしていたからだ。率直すぎる質問に、クースラが怒ったのではないか、と気にしていたらしい。
自らが外道と呼ぶ、錬金術師に対し。
「さすが戦場の近くだな。こんな店があるのか」
そして、クースラは差し掛かりざま、露店の前で足を止めた。
フェネシスは手元の糞の詰まった麻袋も嫌だし、クースラのことも気になるし、といった顔でついて来ていたが、その露店を見ると驚くように目を丸くしていた。
「ただ、こんなふうに並んでるとありがたみがないな」
苦笑するクースラの言葉に、フェネシスはぎこちなく口元を歪めている。
大量の聖具が並ぶ露店の前で立ち止まったクースラに気がつき、奥から店主が出て来た。
「やあやあなにかご用かな? どれも南の大司教区で聖別された逸品だ。おや、食材の買い出しかね? だったら、この陶器の壺をお勧めしよう。ここに水を注げばどんな汚れた水でも清めてくれる。その水で洗えば、どんな食べ物でも異教徒が触れた食べ物なのではないか、なんて心配しないでいい。今なら一つで二〇キュール。二つなら三六キュールでどうだ」
「だとさ」
クースラが嘲るような調子で後ろのフェネシスに話を向けると、店主がうっと唸る声が聞こえた。当のフェネシスは怪しげな効能を謳う罪を咎める気力すらないようで、むしろどうしたら乾燥させた糞の詰まった麻袋から体を離せるのかに真剣だった。
「あ、いや、騎士団の修道女の方がいらっしゃるとは……へへ」
この町にいる者なら、ローブの縁取りの模様を見ただけで、騎士団所属とすぐにわかる。
クースラは店主のごますりなど無視し、ざっと店に並ぶ物を眺めていた。
真鍮製の燭台や、錫で作った水差し。鉄の杯に、純銅の聖櫃もある。
錬金術師にはなかなか見ていて飽きない品揃えだが、その中でも目を引くものがあった。
「それは?」
「は? あ、こ、これですか」
店主が慌てて手に取ったのは、店の奥の棚に置かれていた、手のひらに収まりそうな聖母像。
「こちらは、グルベッティにて騎士団が特別にあつらえられた聖母像でして……」
「純銀だろう、これ」
くすんでいて、一見すると化粧石かなにかを削っただけの粗悪な代物に見える。
しかし、店主の手から奪うように手に取れば、石とは違う手応えだった。
「いくらだ?」
クースラが尋ねると、店主は一瞬言葉が理解できなかったように間を置いた。
「あ、あの、実はこれは売り物ではありませんで」
「ん?」
「あのう、ちょっと前に、一度売り出されていたこれを回収するとお達しがありまして。教会との兼ね合いだとか……」
クースラは手元の聖母像を見て、店主を見る。
「騎士団が右の乳房、教会が左の乳房とはよく言ったもんだ」
「へへえ」
店主は修道女を前に笑っていいものかと困っている。
教会も騎士団も神を頭上に仰ぐのに違いはないが、その仰ぎ方には少なからぬ違いがある。
崇める各聖人ともなればてんでんばらばらで、本当に同じ教えの下に生きているのかと真面目に問うのが馬鹿らしくなる。
そんな中、互いに揃って崇めたてまつるのが、この聖母という存在だ。
二つの勢力が「聖母の愛」を取り合うその様を、市井の人間は乳房を取り合う双子の赤子の争いと嘲笑する。
「それで? どうして、回収されたはずのものがここに」
「え、ええ、倉庫に紛れ込んでいたのを見つけたんですが……返しに行こう行こうと思いつつ、忙しくて……」
「ふうん」
クースラが話を聞きながら造りを眺めていると、ふとフェネシスの視線に気がついた。
「まだお人形さんが恋しい年頃か?」
意地悪げに言うと、たちまちむっと口を引き結んで、頬をぷっくり膨らませている。
「あなたのような者に聖母様を抱かせるのは──」
「ならやるよ」
「あ、え、え?」
放られた聖母像をフェネシスは慌てて受け止める。
ただ、慌てたのは店主も同じだ。
「あの、それは売り物では──」
「手付金だ」
言って、クースラは金貨を置いた。
慌てていた店主は、商人の性か、どうしても金貨に目を奪われる。
「それに、騎士団に返すんだろう? 俺たちは騎士団の者だ」
その言葉で我に返った店主は、ようやく顔を上げる。
「いや、でも……」
「俺の名はクースラという。錬金術師だ」
店主は顔を強張らせ、黙りこくった。
「その名を出せば、向こうもなにも言いやしないよ。足りない分も払ってくれるだろうさ」
店主は困り果てた後、救いを求めるようにフェネシスを見たが、フェネシスにもどうしようもない。それに、聖母像はしっかり胸に抱き留められている。
クースラが「そういうことで」と歩き出すと店主はなにかを言いかけるものの、頭を掻くだけで追いかけてはこなかった。フェネシスは戸惑ってしばらくまごまごしていたが、結局店主に頭を下げた後、クースラを追いかけてきた。
「あ、あの、本当に?」
「構わんだろ。それに、お人形さんはよく似合ってる」
「っ……」
フェネシスはやっぱり馬鹿にされていると憤慨をあらわにするが、聖母像を返しに行こうとは言い出さない。
しばらく黙ってついて来た後、結局こう言った。
「お人形ではなく、聖母様です」
慈しむように胸元の聖母像を見ながら言うフェネシスに、クースラはなんでもいいとばかりに肩をすくめていた。
仮にあの店主がポーストの元に行き事情を訴え、ポーストが足りない分の代金を立て替えたとしよう。ポーストはクースラに文句と一緒に聖母像を返せと言うだろうが、そうしたらクースラはフェネシスにあげたと言うつもりだった。フェネシスは祈りの集団に属するから、ポーストは返還の請求をその上役に向けざるを得ない。
馬鹿らしい権力機構の手続きに従っているその間に、こっそりフェネシスからくすねて鋳潰してしまえば、いくらでもうやむやにできる。まさか聖母像一つで上役たちが揉め事を起こすわけもない。
錬金術師の蓄財法の、初歩の初歩だ。
「で、さっきの続きだが、俺たちは、別に道から外れたくて外れているわけじゃないよ」
クースラが静かに話し始めると、自分のローブが銀のくすみで汚れるのも構わずに像を磨いていたフェネシスが顔を上げる。喧噪のなかでもすっとフェネシスの耳に届いたらしい。
それくらい、唐突だが真剣な言葉だった。
「でも、外道の輩というのも間違いない」
呆気にとられ足を止めたフェネシスを置いてきぼりにすると、フェネシスは慌てて追いかけてくる。
「騎士団の連中でも多くが誤解しているところなんだが、永遠の命を得るための薬だとか、この世のすべての病を治す薬だとか、その手のものを追いかけている奴がいないとは言わない。俺だって……まあ、馬鹿げたものを追い求めているしな」
「え?」
「いや」
クースラはかぶりを振り、続けた。
「とにかく、錬金術師のほとんどは職人と変わらない。だが、職人と違ってろくでもない連中の集まりだ。その原因は、ここにある」
クースラは隣のフェネシスを見て、手でこつんと自分の頭を小突く。
フェネシスは、訝しそうにその様子を見る。
「頭がおかしいんだよ」
「……私が、と言いたいんですか?」
そして、フェネシスのその言葉に思わず笑ってしまった。
「はっは。違う違う。何度かからかって悪かったよ。そんな疑心暗鬼にならないでくれ」
「……」
「本当のことだ。やめられないんだよ」
「……やめられない?」
「そう。やめられない。なにか目的を見つけると、それを突き詰めないと気がすまない。冶金に魅せられた奴は、完璧な冶金方法を見つけないと気がすまない。この方法はどうだ、こっちはどうだ、あれならどうか。あれこれ試す。なんでも試す。うまくいくまでやる。すると、どうなると思う?」
「……」
フェネシスは顎を引いて、窺うようにクースラを見ている。
クースラは、短く言った。
「道を踏み外すようになる」
木炭を足して鉄の純度が上がるなら、他の炭ではどうだろうか。それであれこれ燃やして炭にして、どんどん足し合わせたりする。結果はきっとまちまちだろう。すると、なにか別の原因があるのではないかと考える。一人は、それを木の種類によると言う。一人は、その日の湿気によると言う。もう一人は、いいや前日の星の配置ではないかと言い出し始め、もう一人は教会で懺悔してきた日はうまくいったぞと叫び出す。
そして、神に盾つくのも時間の問題だ。
精霊や呪術の技法を試したり、イモリやガマガエルといった不気味な生き物の炭を用いたりもするだろう。正気を保って、木炭にする木の種類をあれこれ試していた奴も、やがて行き詰まり、突飛な考えをし出すはずだ。
あの聖人が磔にされたという、伝説の十字架の木を使ったらどうだろう?
あるいは、こう考えるかもしれない。
石灰や卵の殻で結果が変わり、犬の骨でも結果が変わるのなら、聖人の骨を炉にくべたらどうだろう?
「職人は、製品を作り、その質の良し悪しで儲けを得る連中だが、俺たちは違う。自分たちの趣味嗜好と、権力者の思惑がたまたま一致しているにすぎない。だから、余人から見たら、馬鹿げていると思うよ。俺だってそう思う。でも、好きなことは好きだし、追いかけたいものはどうしても追いかけたい。問題は、周りがそうは思わないこと。彼らはなにか企んでいると思う。あるいは、なにかしでかそうとしていると思う。あいつは錬金術師だから……外道の輩だから……」
クースラに言い寄ってきたあのフリーチェが、教会からどんな密命を受けていたのかはわからない。たぶん、教会の誤解と思い込みによるもので、騎士団側もまた同じように誤解と思い込みから、過剰な反応を示したのだろう。
本当は、物騒な話を持ち出すようなことではないのだ。
たかが、精錬の良し悪しを決める技術じゃないか、とクースラは思う。
「まあ、俺たちも研究のためにはそういう周りの評判を逆手に取ることがあるし、そうしないと身を守れないこともある。それで余計にこじれていく。挙句の果てに、信仰心に篤い修道女が見張りに来たりする」
「っ」
クースラの皮肉にフェネシスは唇を引き結んだが、その強張りはあまり長続きしなかった。
クースラはその理由がもちろんわかる。
笑い話の類ではない。
賢そうなフェネシスには、そのことがよくわかっているのだ。
「それでもやめられない。だから、馬鹿なんだよ」
皮肉げに笑って、隣のフェネシスを見下ろす。
フェネシスはなにかに抵抗するように顎を引いたものの、気まずそうに目を逸らしていた。
人の本音に触れることに慣れていないのだろう。
その無垢な横顔を見つめていると、狩人が逆に狩られてしまいそうだ。
ただ、不意にフェネシスはクースラに向きなおり、言った。
「……疲れませんか?」
そして、フェネシスの短い言葉に、クースラは呆気にとられる。
「は?」
「疲れませんか? そのような生き方は」
クースラが苦笑してしまったのは、フェネシスの目が同情するようなものだったからだ。
その目は、クースラが工房を案内した時にも見せたものと同じだった。毒に囲まれ、毒殺に気を配り、過去も、この先もずっとそのように生活をしていく。フェネシスはそのことになにか深く感じるものがあるようだったが、あれは同情だったらしい。
世間知らずで見栄っ張りの修道女に同情されるようでは、錬金術師としておしまいだ。
「さあね。俺は、俺以外であったことがない。《利子》が、ゆっくり眠ることの楽しさを想像できると思うか?」
「……」
「今となっては少し恥ずかしい名前だが、人はあれこれ勘繰るらしい」
「え?」
「昼も夜もなく、目的地に向かう。その程度の意味だ」
こんな話、フリーチェにもしなかった。
なぜ、と自分に問うてもよくわからない。
「錬金術師の実際は、こんなもんだ。それ以上でもそれ以下でもない」
手の内をさらけ出しすぎた、と思わなくもない。
もしかしたら、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
あの工房のトーマス・ブランケットは、唐突に死んだ。フリーチェもまた同じ運命の一つに数えられる。
そういうことを当然のことだと割り切らなければやっていけない稼業だが、なぜ興味の赴くままにやることがこんな大袈裟な扱われ方をするのだという疑問は常にある。錬金術師が錬金術師をやる動機など、本当に矮小なものであって、大袈裟なことなどないのだ。
そう思う一方で、フェネシスは身にまとっているローブのように白かった。
そんな白さを前に、つい、自分の手形を付けてみたくなったのかもしれない。
「だから、ひとつお願いがある」
ただ、べらべら喋るだけでは本当に錬金術師失格だ。
クースラはフェネシスを見て、こう言った。
「なにかひどい誤解に基づいてここに来ていたら、教えて欲しいんだけどな」
「……誤解?」
「密命、と言ったほうが正しいか」
クースラの言葉に、フェネシスは一瞬緊張したような顔を見せたが、それが隠し事ゆえのものかどうかはよくわからない。
わからないが、楔は打ち込んでおくべきだ。
「皆、疑うから話がややこしくなる。壁に映った巨大な影は、大抵が小さな莵なんだ」
「自分が、莵だと?」
「見てのとおりだ」
おどけると、フェネシスは失笑していた。
しかし、フェネシスは失笑をゆっくり消していき、残滓を顔に残したまま、自分の手元を見つめていた。
「皆、同じ……」
「あ?」
「え?」
フェネシスは顔を上げて、目をぱちくりとさせていた。
無意識に呟いていたらしい。
「い、いえ、なんでもありません……。なんにせよ、私はあなた方の監視役であり、その務めを果たすまでです」
その言葉にはこれまでにないなにか別の雰囲気があるような気がしたのだが、胸元に聖母像を抱き、祈るように言うフェネシスを見ていたら、問いただすのも野暮に思えた。
こんな若さで騎士団の修道院に入るからには、フェネシスも単調な人生を送ってきたということではないのかもしれない。
「まあ、互いに楽しくやれたらと思うよ」
クースラが言うと、市場にはちょうど、教会の午後の祈りの時間を告げる鐘の音が高らかに響き渡ったのだった。