◆◆第二幕◆◆


 しばらくは泣いているだけだった。

 クースラが手を差し伸べると、立ち上がれもしないのに逃げようと体を引いていた。

 クースラも、多少はこういうことに慣れている。無理に追いかけはせず、関心を失ったように見せて放っておいた。

 なので、クースラは工房に運び込まれた書籍や羊皮紙の束を整理し、前任者の残したものと並べたり、未読のものと入れ替えたりしていた。書籍の中には鹿等の大型の動物の革を板のように硬くしたもので装丁が作られ、金箔による装飾を施されているものも少なくない。中を開けば、流麗な文章の隙間にはびっしりと細かな挿絵が描かれていて、手間のかかりようが窺える。

 本来ならば大司教や枢機卿が、大修道院や大聖堂の蔵書にするような代物だろう。

 これが一体何冊あるのか。

 戦場近くの工房というものは、本当に素晴らしい。

 クースラはそう思った。

 それからどれくらい作業をしていたのか、視界の隅で動くものがあったのでそちらを見ると、落ち着きをだいぶ取り戻したらしいフェネシスが、床に手を突きながら立ち上がろうとしていた。

 どうやら、腰は未だに抜けっ放しのようだ。

 書棚に羊皮紙の束をぐいと差し込んで、クースラはため息まじりにそちらに歩み寄る。

 フェネシスは足音に顔を上げてびくりとクースラのことを見たが、差し出された手とクースラの顔を二度ほど見比べてから、その手を取って、立ち上がった。

 ただ、足は生まれたての小鹿みたいに震えていて、結局最後はほとんどクースラが抱きかかえるようにして椅子に座らせた。体は華奢で、まだ幼さゆえの硬さが残っていたし、ウェランドが五指を突き立てた胸はあってないようなものだった。

 けれども、とてもよく均整が取れていたし、硬さの中にもしなやかな感じがあった。

 若い猫の体みたいだと思えば、確かに豪華な屋敷で飼われている猫に見えなくもない。

「災難だったなあ」

 クースラは言って、乾燥させた香草を煮出した茶を木のカップに注いだ。目を泣き腫らした少女は、時折鼻をすすりながら無言でテーブルを見つめている。

「けど、錬金術師を迂闊に近寄らせたのがそもそもの間違いだ。ここに来る前に、注意を受けなかったか?」

 クースラが湯気の立つカップをフェネシスの前に置くと、怪しげなものを目の前に置かれた猫みたいに背中を盛り上げる。

 注意は受けていたのだろう。

「ん?」

 重ねて聞くと、フェネシスは泣き腫らしている割には気丈な目をクースラに向けた。

「で……も……あんなっ……」

「そりゃそうだけどな」

 かすれた声で言うフェネシスに、クースラは覚めた態度で付け加える。

「俺がいなかったら、なにをされてたか本当にわからんよ」

「っ」

 体を固くして、今度は恐怖におののいた顔で自分の両肩を掴んでいた。

 修道院で誓わされること。

 従順、清貧。

 そして、純潔。

「ウェランドは……ああ、あの獣のことだが、あいつはなんでもいけるクチだからな。年端のいかない少女だろうと、それこそ修道女でも関係ない」

「っ……」

 フェネシスは自分の肩を抱いたまま、クースラに怯えを隠しきれない目を向ける。

「それに、生粋の錬金術師には歪んだ肉欲以上に恐ろしいものがある。ウェランドみたいな獣にとっちゃ、汚れのない乙女は三度楽しむことができる最高の玩具だ」

「っ……っ?」

 クースラが指を三本立てると、フェネシスは想像すらできないことが恐怖であるらしく、混乱した顔をしていた。

「まず一つ目。乙女の体から取れる材料は実験のいい素材になる。髪の毛、爪、涙、そして、生き血」

 ひぃぃぃ、と悲鳴を上げることすらできないほど、歯を食い縛って身を強張らせている。

「二つ目は、口に出すまでもない楽しみ方。楽しまれるほうは……まあ、苦痛だろうけど」

 今度は歯を食い縛ったまま唇を引き結び、顎を上げ気味にクースラを睨んでいる。

 女の敵。あるいは、人以下の獣の所業。

 それでも、クースラはまだ指を一本残している。

「で、最後の楽しみ方」

「……それ、は?」

 聞き返してこれたのは、二つ目のものがわかりやすく、なじみのある悪徳だったからだろう。

 わかりやすい怒りは、幾分我を取り戻すのに最適な薬になる。

 しかし、クースラはその問いに鉄面皮をもって応えた。

「三つ目は、最悪のもの。悪魔の悪魔たる所以。さて、二つ目のお楽しみの後に残るのは?」

 その冷たい顔に、フェネシスは戸惑った。

 この先に大きな穴がある。

 真っ暗闇の中でそう確信したとしたら、そんな顔をしたかもしれない。

「そう、胎児だ」

「っ」

 怒りで息を飲んだのでも、驚いてしゃっくりをしたのでもない。

 えずいていた。

 そんな発想は理解すらしたくないと、体が拒否していた。

「胎盤、へその緒、そして胎児そのもの。どれも古から伝わる永遠の命と若さを得るための妙薬の材料に挙げられるものだ。それにはまず、母親が生きたままその腹を裂き……」

 と、クースラが言葉を止めたのは、フェネシスが真っ青な顔をしたまま口元を押さえてうつむいていたからだ。

 クースラはそんなフェネシスの様子をのんびり眺め、こんなもんかなと思う。

 フェネシスの中で、ウェランドは悪の権化、地獄の使い、暗黒と魔道の狂気の錬金術師となっていることだろう。

「悪い。刺激が強すぎたな。大丈夫か?」

 まったく大丈夫には見えないが、フェネシスは気丈にうなずいている。

「ただ、安心するべきことが二つある」

「……?」

 フェネシスが、えずいたせいで涙が滲む、宝石のような綺麗な瞳をクースラに向ける。

「ウェランドがそんな狂気に冒されていたのは何年か前の話だ。今では神の威光で幾分人の心を取り戻している。とはいっても、三つ目の欲望がなくなっただけで、一番目と二番目は健在だ。注意したほうがいい」

 フェネシスはクースラが立てる二本の指を真剣に見つめ、うなずいている。

「そして、二つ目。それは、俺が君の味方であること」

 クースラは滅多に使わない二人称の「君」と言って、にっこりと笑う。

 フェネシスは数瞬呆気にとられ、それからようやく地獄から帰って来たような顔になる。

 この話は自分にもわかるものだ、神の祝福を! といったところだろうかと、クースラは覚めた気持ちで思う。

「し、信用できません」

「もちろんそれで結構。というか、そうでなくてはならない」

「……煙に巻くつもりですか?」

「まさか。俺が味方だよと言ったからといって信用するような馬鹿だったら、仮面をかぶったウェランドにもすぐに騙されるだろうからな。そうなったら俺でも守りきれない。けれど、疑う目、考える頭、そして、戦うための気概と信仰心を持っていれば、遠からず真実に辿り着くだろう? それでいいさ。俺は誰が正しいか知っているつもりだし、神は間違いなく知っている。真実は一つだろうが、そこに至る道は複数あるだろう。そのどこかで出会った時に、手を取り合えればいい。違うか?」

 違うか? と聞かれ、フェネシスは顎を引いてクースラを見た。

 その目は、少なくない敵意と警戒の色に染められていたが、クースラは安心する。

 その目は、理解できないなにかを見る目ではなく、少なくとも自分の理解の及ぶ範囲にいる者を見る目だからだ。

 人はどうしたって、自分の理解できるものに親しみを覚えてしまう。

 そして、錬金術師が忌み嫌われるのは、まったくその逆なのだから。

「お茶を飲んだらいい。南のほうの貴族が流行らせている代物でね。酒のように酩酊せず、滋養があって病にも利く。航路が開発されれば、後々は重要な貿易品になるだろうな」

 クースラは、無言のままのフェネシスに、手のひらを向けて勧めた。

 フェネシスはお茶を見て、クースラを見る。

 その目からはゆっくりと敵意が消え、警戒だけが残った。

 クースラはそれを見て、幼いな、と思う。騙そうと思えばいくらでも騙せそうだった。

 こんな少女をここに送り込んで、聖歌隊は本当になんらかの成果を期待しているのだろうか、と訝った。が、クースラは、いやと思いなおす。

 たぶん、自分たちと同じなのだろう。

 ポーストからすれば、前任者のトーマスの死を利用して、聖歌隊が間違いなく乗り込んでくることはわかっていた。ならばポーストはそのための布陣を整えるはずだ、と聖歌隊は考える。そうだとすれば、聖歌隊としてもそこにへたに優秀な人間を送り込んで返り討ちに遭っては損を見る。

 ならば、命令にだけはどこまでも忠実ではあるが、死んでも惜しくない人材を送り込む。

 なにかを見つけてくれば恩の字で、たとえばなんらかの理由で殺されでもしてくれれば、そのことを理由にしてポーストに食らいつける。

 クースラは自分の分の茶を飲みながら、ちらとフェネシスを見る。目の前の少女がそこまで理解しているとは到底思えない。むしろ最初の気張り具合から見て、大役を任されたと誇りで胸がはちきれんばかりだったのだろう。

 無知と狂信は相性が良く、世の中とは常にそういうものだ。

 部屋には静かな沈黙が流れる。

 フェネシスが茶を飲んだのは、それからしばらく経ってからのこと。

 同じ食卓につく、という慣用句があるが、相手を少なからず信用する、という意味の言葉だ。

 毒を盛られていたら死んでいたんだぞ、と言ってやりたくなる。

 そんな具合だから、相手がこちらの誘いにまんまと乗ってきても、嬉しさなどかけらもない。

 クースラは義務的に、距離を縮めるためだけの言葉を向けた。

「うまいかな。見様見真似だから貴族が出すもののような味になっているかわからないが」

「……悪くありません」

 頑固というより意地っ張りに見えるのは、その見た目と、まだ精神的な弱さを残しているからだろう。

「ところで、自己紹介をしてなかった」

「……」

 フェネシスはカップを置き、クースラを油断のない目つきで見る。

 あるいは、もしかしたら元々そういう目つきなのかもしれない。

「クースラという。ろくでもない名だと自覚はしている」

「本名?」

 その質問に、クースラは肩をすくめた。

「錬金術師に本名なんてものはない。錬金術師は人にできることを超えた方法を探る探求者のことだ。それは人であってはできないこと。人の道から外れた者に、人の名は必要ない。死んだ時だって、墓には入れないしな。森の奥深くか、荒野に捨てられるのが決まりだ。いよいよ、本名なんて必要ない」

 事実を少しだけ誇張して伝えたが、フェネシスはあまり驚いたふうでもなかった。

 さもありなん、とばかりに目を伏せて、茶を一口飲んでいた。

「その人ならざる《利子》のあなたは、なにを探求するのですか?」

 その質問は、精いっぱい頑張った目線と共に。

 本人は鋭くきつい鉄のような視線のつもりなのだろうが、それはどちらかというと、町の生活が似合うあどけないものだ。

「鉄」

「鉄?」

「そう。鉄というより、金属かな。鈍く輝き、磨けば光り、叩けばキンと鳴る金属だ。ウェランドも最近は金属にご執心のようで、この工房に呼ばれた。もっとも、魔石がどうこう、魔鉄がどうこうと言っているから、病気の方向が変わっただけで、中身はあまり変わってないかもしれないが」

 さりげなくウェランドの悪評を追加し、フェネシスの嫌悪と恐れの感情を呼び起こしてから、クースラは言葉を続ける。

「金属は綺麗だ。それに、信仰に似ている」

「……信仰、に?」

「神は金属を純粋な形で地面に埋めなかった。人は様々な方法でそこから不純物を取り除き、純粋なものに仕上げていく。その過程は長く、大変だ。信仰も同じだろう? 不純なものをゆっくりと抜き、純粋なものに近づけていく」

「……そのとおりです」

 わずかなためらいの間は、錬金術師がなんの話をしているんだ、という戸惑いかもしれない。

「そして、ある日信仰はなにか根本から違うものへと昇華される。それが神に召される、ということなのかは、不信心者の俺にはわからないが」

「……」

 フェネシスは返事をしないが、その目にはちょっとした戸惑いと期待の色がある。

 相手は自分が思っていたほど悪い人間ではないのではないか? と、そう思っているのが透けて見えた。人を疑うことに慣れていないのだろう。

 あまりに力量に差がありすぎて、クースラは珍しくささやかな罪悪感を抱いてしまう。

 それに、信仰に一途ということは、それだけ素直であるということでもある。

 懐かせたら、可愛がり甲斐がありそうな気がした。

 あるいは、そう思わせることこそが聖歌隊の狙いだとしたら、素晴らしい人選かもしれない。

 危ないな、とクースラは思う。

「さあ。しかし、金属もまた同じだと俺は思っている。だから、危険を覚悟でここに来た。なにより、騎士団の行う神の代理行為のためには強い金属が必要だからな」

「異教徒の改宗」

「憎き、異教徒のね」

 クースラが言葉を付け加えると、フェネシスはきゅっと表情を引き締めた。

 正道中の正道の信仰者。すがすがしいくらいの。

 聖歌隊の連中は、間違いなくフェネシスはいいように操られると思っているはずだ。

 ならば、クースラとしてはそれを見越したうえで、操らなければならない。

「けれど、行く手には困難が待ち受けるだろう。お互い、力を合わせていければと思うね」

 クースラは言って、右手を差し出した。

 しかし、フェネシスはそれを一瞥しただけで、手は動かさない。

「私はあなた方の監視役です。馴れ合いはしません」

 きちんと清廉で、潔癖。ウェランドに胸を揉まれ、身の危険に晒されても、自分のなすべきことを忘れない。

 けれど、それは大人の言いつけを守る子供の域を出ない。

 クースラは、精いっぱい演技する。

「迂闊だったな。俺も、懐柔していると思われたくない」

 クースラが手を引っ込めると、フェネシスはうなずくように目を閉じる。

「ですが、もてなしは感謝します。それに……」

「それに?」

「……見苦しいところを見せました」

 言いたくないが、言わないでいるのはもっと嫌。

 告解と懺悔に慣れた神の僕の習性もあるかもしれないが、口に出すことで自分自身に言い訳をしたいのかもしれない。

「いや? 当たり前の反応だと思うよ」

「……」

 そう言ってくれるのか? と少しだけほっとするような色がその視線にあるが、情けなさと悔しさも入りまじっている。たぶん、高潔で不動の鋼の信仰心に支えられた修道女、というのがフェネシスの理想像なのだろう。

 いかにも、真面目だけが取り柄の娘が夢見そうなものだ。

 クースラが自分の中にむくむくと湧くのを感じたのは、保護欲だ。誰かが守らないとまずいと、そう思わせるに足るあどけなさがあった。

 ただ、同時に、そんな相手を敵方の先兵として真面目に対応している自分が間抜けにも思えてくる。

「まあ、なんにせよ」

 クースラがそうやって言葉を続けると、フェネシスは緊張に体を強張らせる。

 相手の運命を握るというのは、些細なことでもそれなりに気分がいい。

 面倒で間抜けな役回りの、多少の慰めにはなるだろう。

「これからよろしく。修道女、ウル・フェネシス」

 クースラの言葉に明らかにほっとしているその様子に、つい笑ってしまいそうになる。

「え、ええ」

 しかも、居住まいを正し、咳払いをして精いっぱいの威厳をかき集めている。

 それで取り繕えていると思うのだから、見ていて楽しくないわけがない。

「ですが、私はあなた方の監視役です」

「もちろん」

 クースラもまたなんとか取り繕って、真面目くさってそう言ったのだった。



 錬金術師の監視という行為そのものは、それほど珍しいことでもない。

 傍から見たらなにをしているのかまったく分からないうえ、平気で自ら命を落とすような実験に手を染めているのだから、見張りをつけるのはむしろ当たり前とすら言えるだろう。

 もちろん、クースラとウェランドはたびたび蛮行を繰り返してきた身だ。

 監視役をつけられるのも、初めてではない。

「概ね、工房はこんな感じになっている。触れると危険な物や、混ぜると毒になる物があるから、みだりに入らないほうがいいのは確かだ」

 クースラ自身、初めて工房に下りるのだと断ったうえの案内にしては、なかなかすんなりいったという感じだった。

 一方、地上の部屋から階段を下った先にある工房を一回りしたフェネシスは、思案顔でうなずいていた。当初こそ、前任者が残した様々な動物の骨や、中身が窺えない壺や小瓶の数々に訝しげな視線を向けていたが、一つずつ説明していけば疑念も氷解していったらしい。

 それに、フェネシスも錬金術師の監視を任されるにあたって、多少の知識と手引きとなる書物は持って来ていた。権威ある修道士の手による書籍の内容と照らし合わせれば、そこで異教の魔術が行われているかどうかは一目瞭然、ということなのだろう。

「もっとも、一番危険なのはウェランドだけどな」

 クースラが声を潜めて言うと、フェネシスの小さな体がすくむ。

 ウェランドはさらにもう一つ下の階の、炉と水車がある部屋にいる。

 だというのに、フェネシスは工房の案内の最中も、クースラから一定の距離を決して開けなかった。

 偉大なる詩人が著した地獄巡りの書の案内人になった気分だ。

「基本的に俺たちは、ここで鉄の質を上げたり、鉄をより少ない燃料で作り出す方法を研究したりする。神が大地のあちこちに見た目の異なる人を配置したように、地面の中に埋まっている石も土地によって様々な特徴を持っているからな。俺たちは、その土地で採れる石に見合った最良の方法を探り出すというわけだ」

「……」

 修道士の生活の規則には「沈黙」があると聞いたことがある。

 フェネシスはそのとおり、クースラの話を真剣に聞きながら、決して声を出さなかった。

 あるいは、工房で口を開いたらよくないものが口の中に入るとか思っていたのかもしれないが、なんにせよ説明するほうとしては楽な相手だ。

「しかし、ここは本当にいい工房だな」

 フェネシスを案内しつつ、クースラもまた初めて足を踏み入れたので、そんな感想をつい漏らしていた。

 地下一階の工房には上の階以上に物が収まり、ざっと見ただけではどこになにがあるのかまったくわからない。とっさに目に入るのは壁に掛けられた動物の頭蓋や、天秤やるつぼ、あるいは水晶の結晶や、真鍮製の天球儀など、目立つものばかり。それが、一つずつ仔細に見ていけば、すべて合理的に配置された小宇宙の集まりのごとくに整っているのがよくわかる。

 あらゆる物がまとめられ、分類され、初めてそれを手に取る者でも、知識さえあればどんな種類のなんであるかすぐにわかるようになっている。

 フェネシスにすらすら説明できたのは、そういう理由もある。

 ただ、クースラがそんな工房を見渡して少し黙ったのは、感傷的な理由があったからだ。

「……?」

「ああ、すまない。ここの前任者は、凄腕だったろうに、と思ってね」

「……」

 トーマス・ブランケットといったらしい。

 町中で殺されたというが、どういういきさつで死んだのかもわからない。

 クースラは、フリーチェが惨殺され、死体を漁られていても冶金のことにしか思い到らなかったのに、今はなにか湿った感情が胸の中に湧き起こっていた。

 腕のいい錬金術師がいなくなる。

 それは、神の衣の裾をめくるという大変な仕事の仲間が一人いなくなるということだ。

 できれば一度くらい会話をしたかった。

 たぶん、トーマス・ブランケットというのも借り物の名前で、彼がどこの誰だったかなんて誰も知らないだろう。墓もないだろうから、数年もすれば彼の名前を覚えている者は誰もいなくなるに違いない。彼が残したのはこの工房と錬金術の知識だけで、その工房だって早速クースラとウェランドに乗り込まれ、やがて似ても似つかないものになるだろう。

 そして、彼が苦心惨憺して導き出した錬金術の手法も、過去のものがそうであったように、いつかは古いものとして破棄され、見向きもされなくなる。

 錬金術師とは、そういう宿命だ。

 錬金術師は、なにも残さない。

 残るのは、マグダラに向かった人がいたという、その些細な事実一つだけなのだ。

「もっとも、凄腕の錬金術師だと、大抵ウェランドみたいなことになってしまうんだけど」

 クースラが冗談めかしてそう言うと、フェネシスは嫌そうな顔をしていた。

「その点、俺は錬金術師としては二流だな」

「……」

 その言葉は、取りようによっては謙虚にも自信過剰にもなる。

 フェネシスはその言葉遊びに気がついているようで、呆れるような目を向けてくる。

 どうやら頭は悪くないらしい。

 クースラは、賢い少女が嫌いではない。

「ウェランドの仕事ぶりはどうする? あいつこそ、見張るべき対象だと思うが」

 しかも、その言葉には本気で困った顔をする。

 よっぽど怖くて嫌なのだろう。

「まあ、俺を信用してもらえれば、逐一報告はするが?」

「……」

 フェネシスはうつむき、真剣な顔で思案してから、短く答えた。

「時々、抜き打ちの検査に手を貸してください」

 あれこれそれっぽい理由を並べ立てた挙句、夜中に厠に行くのについて来て、と言われるようなものだ。

 笑いはしなかったが、少しからかいたくはなる。

「かしこまりました」

 上役のポーストは慇懃無礼な台詞を鷹揚に飲み込んだが、フェネシスはからかいだとわかると、キッと睨んでくる。

 度量の違いが圧倒的。

 クースラは、フェネシスの視線に気がつかないふりをした。

「工房はこんなもんだろう。実際の作業でなにか知りたいことがあればその都度言えばいい。抜き打ちの検査にも付き合いますよ」

「……っ……」

「馬鹿にはしていない。むしろ、作業を見張る際は俺を呼んだほうが身のためだと思う」

「……それは……やはり……」

 我慢できず尋ねてしまった、という感じだったが、クースラは「たぶん想像している理由とは違う」と言った。

「実験の最中に、目に見えず、鼻で嗅げず、吸い込むといつの間にか意識を失って死んでしまう瘴気が発生する可能性がある」

「えっ」

「死神の手ってやつだな。石の炭と呼ばれるものなんかを燃やすとよく出る」

 壁際に置かれた熊の頭蓋を指で撫でながら、クースラは後を続けた。

「金属の抽出の際、触れればそれだけで昏倒するような毒物を使うこともある。別に毒として精製したわけではなくてもな。水銀の類がそれだ。そこまで劇的な毒でなくても、触った後に手を洗わずになにかを食べたりすると、弱い毒が蓄積するものもある。たとえば、鉛、砒素……」

 クースラが指折り数えていくと、フェネシスはその指が折られるたびに空を支える柱が折れていくのを見るかのような顔をしていた。

「わ、わかりました」

「ああ。監視役に隠し立てするより、明らかにしておくべき危険なことのほうがあまりにも多い。監視役が死ねば、疑われるのは俺たちだ。俺たちが殺す分には構わないが、勝手に死なれた挙句縛り首じゃ、俺たちだって嫌だからな」

「……」

 理屈としては通っているが、フェネシス自身は複雑そうな顔をしていた。

 毒物にこれだけ囲まれていれば、自分が殺される可能性以上に、勝手に死んでしまうことだって十分にある。そのことが、伝え聞いていたおどろおどろしい錬金術師にまつわる風聞よりも、もっと生々しさをもたらしたのだろう。

「それと、もう一つある」

「?」

「飯は、必ず俺たちより後に食え」

 フェネシスはよくわからない、というふうに首をかしげている。

「俺がお前を裏切らなくても、ウェランドが殺すかもしれない」

「っ」

「さもなければ、俺たちの知らない誰かが毒殺しようとするかもしれない。俺たちなら毒が入っていてもわかる。だから、つまみ食いの類もやめたほうがいい。やるなら、俺のいる場所か、度胸があればウェランドと一緒に、奴の食べている皿から食べろ」

 命を賭けてまでつまみ食いなどしたくない。

 口を引き結んだフェネシスの顔は、そう言っていた。

 ただ、クースラの言葉はあまり冗談でもなかった。そもそもフェネシスは、ここで死ぬことでポーストへの追及のきっかけとする捨て駒である可能性が捨てきれない。殺したのはお前の配下の錬金術師だろう、責任を取れ、という論法だ。そうであれば、フェネシスの上役の手によって、フェネシスの食事に毒が盛られることが十分にあり得る。

 顔色や健康にも気を遣わないとまずそうだな、とクースラはげんなりする。

 ここでの食事は大丈夫でも、ここ以外の場所は見張りようがない。別の場所で砒素を盛られても、この工房で盛られたに違いないと主張されれば証明のしようがないのだ。

 鎖は、一番弱いところ以上に強くなることができない、という格言がある。

 つまり、フェネシスはクースラたちの敵というよりも、どちらかといえば運命共同体に近い。あまりにも弱すぎる敵は、味方のように保護しなければならなくなるらしい。

 万物は流転するという錬金術師の教えは、あちこちで利いてくる。

 なにも確かなものなどない。気を緩め、目を離した瞬間に、自分の居場所が地獄になる。

 ただ、クースラはそんなことを考えながら階段を上っていたのだが、振り向くとフェネシスの足が止まっていた。

「ずっと……そんな生活なのですか?」

 それが先ほどの会話の続きだと気がつくのに、少しだけ時間がかかった。

 階段上からフェネシスを見下ろすと、異邦の人物に見えた。

「もちろん、これまでずっと。そして、これから先もな」

 肩をすくめ、一階まで戻る。

 後について来たフェネシスは、なにか深く考えているようだった。

 錬金術師に、呆れているのかもしれない。

「錬金術師の仕事としては、下の工房が半分。もう半分は、町の中だ」

「え?」

「町の職人といい関係を築けない錬金術師は三流だ。意外かもしれないが、社交的じゃないと錬金術師はやっていけないんだ」

 そんな馬鹿な、とフェネシスは呆気にとられている。

 クースラは、少しだけ笑う。

「俺たちの仕事、特に金属関連は、職人が日々忙しくてできないような実験を繰り返すことだ。だが、職人の技術はやはりすごい。そして、俺たちは成果を紙に残すが、職人は残さない。残す暇もない。だから、聞きに行く。教わりに行く。ウェランドの奴も、あれで職人のところに行くと真人間に見える。というか、職人には下手に出ないと命が危ない。職人の工房はここみたいに穏やかじゃないからな。へまをすれば鉄床で頭を殴られ、火箸で烙印を押される場所だ。毒殺とか暗殺とかぬるいことも言わない。たとえば盗みをした大馬鹿者は、炉に放り込めばいい。町の裁判を司る連中ですら、それが事故なのか故意の殺人なのかわからない。それどころか、骨も残さないほどの高温で焼いてしまえばなにもなかったことになる。つまり」

 クースラの口上と、その内容に圧倒されていたフェネシスは、クースラが「つまり」と立てた一本の指に、猫のように視線を誘導される。

「つまり、世界はそこら中が危険で満ちている。修道院とは違ってな」

 そして、フェネシスは指が折りたたまれるのに合わせて、こっくりとうなずいた。

 本当にわかっているわけではないだろうが、そんなことを教えてやる義理も必要もない。

 クースラがフェネシスを見ると、気圧されてフェネシスの顎が引かれる。

 子猫をからかう楽しさみたいなものがある。

 クースラは肩をすくめ、外套を手に取った。

 ただ、それにはフェネシスはやや慌て気味に口を開く。

 行き先はすべて把握しておかなければ、ということだろう。

「あの、どちらに?」

「そろそろ夕刻の鐘が鳴るだろ。日が暮れる前にその職人たちに挨拶に行かないとならない。すぐに挨拶に来なかったとへそを曲げられると困るからな」

「……」

 恐るべき錬金術師が頭を下げに行く相手、というのが想像できないのかもしれない。

「で、お前はどうするんだ?」

「え?」

「一人で留守番できるか?」

 その言葉に明らかにむっとしたのがわかったが、もちろんからかいのつもりで言ったので、そんな反応を見せてくれないとつまらない。

「お気遣いなく」

「へえ」

 と、気楽な調子で言ってみたが、ウェランドと二人で取り残されて平気なのかとちょっと驚いた。

「夕刻の鐘が鳴るなら、そろそろ迎えが来ますので」

 それくらいまでなら一人でも平気。

 クースラは小さく肩をすくめておいた。

「ああ、わかっていると思うが変なものには触るなよ」

「それは……はい」

「おとなしく本でも読んでろ」

「えっ」

 フェネシスは短く驚いて、クースラを見ている。

 クースラはその反応が気になって、扉に手をかけながら、振り向いた。

「なんだ?」

「あ、いえ……」

 フェネシスは言いなおしつつ視線を逸らし、それから、上目遣いに恐る恐るクースラを見た。

「私が、読んでも?」

「あ?」

 質問の意味がよくわからなかったが、信仰上の問題でも心配しているのだろうか。

「あー……別に、教義上やばいものはここにはない。全部お前のお仲間が点検している」

「……」

「その代わり、高価なものばかりだ。涎を垂らすなよ」

「っ」

 唇を三角にして引き結ぶフェネシスに、クースラはそれ以上相手をせず扉を開けた。

 外は茜色で、寒い。クースラは扉を閉じ際に振り向いたが、フェネシスは嬉しそうな顔をしてぎっしり詰まる本棚を見つめていた。そういえば、とウェランドと来た時も本を開いていたことを思い出す。さすが教養の高い修道女様といったところだろうか。

 クースラがそんなことを思いながら歩いていると、港に続く坂道のところで馬に乗った連中とすれ違った。

 三頭並ぶ真ん中を行く馬の顔には、金糸と銀糸で編まれた飾り布が当てられ、首から下には大きく豪勢な前掛けがはためき、馬の背中には布の塊みたいな真っ黒なローブを着た老人が背筋を伸ばして乗っていた。

 視線はかけらもぶれず、じっと前を向いている。

 それは、クースラが明らかに視界に入ってからもそうだった。

 わが道の行く先に、なんらの障害があるはずもない。

 そう信じ込んでいる目で、それが単なる妄想でないことは、両脇に従えた鉄仮面をかぶった修道騎士の存在が保証している。

 騎士団所属の聖歌隊。

 クースラは馬のために道路端に避け、やり過ごす。向こうがクースラの顔を知らないわけはないが、ちらとも視線を向けてこない。

 悪戯心として通せんぼをしてみたくなるが、町の状況がいまいちわからないうちからそんなことをするほど馬鹿でもない。

 ただ、クースラはそのまま坂を下りずに振り向き、しばらく彼らを眺めていた。彼らは工房の前で止まり、騎士の一人が槍で扉を小突いていた。出て来たのはフェネシスで、深々と頭を下げる様は、なにか慈悲を請うているようにも見える。

 そして、彼らにつき従って、港とは反対側のほうに歩いて行った。もちろん、フェネシスだけ徒歩だ。

 その様は、厳しく上下関係が決められている修道院では当たり前のことなのだろうが、なにか人買いと奴隷のような姿にも見えた。いや、さほど外れてもいまい、とクースラは思いなおす。聖歌隊の人間がわざわざ重装備で迎えに来るのは、不測の事態に備えてのことだろうし、そうであれと期待しているからだろう。

 陰険な連中だ、とクースラは道に唾を吐く。

 教会の夕刻の鐘が鳴ったのはそんな折で、町は一日の仕事を終え始めようとしていた。



 町だろうが村だろうが、教会があればその鐘の音に従って時間を刻むことになる。いくら騎士団が町の参事会を掌握しても、なかなか切り崩せない最後の砦の一つだ。

 町はそれを合図に規則正しく動き、大きな通り沿いに立ち並ぶ露店の数々は、一日の疲れにため息をつくようにのろのろと片づけを始めていた。

 とはいえ町は、まだ仕事をやりかけの連中とこれから帰宅する連中とが合わさって、余計にごった返している。そんな中を、町の治安維持を担う市兵が槍を持って練り回るせいで、押し合いへし合いの状態だ。なのに人々は互いにうまく間を縫って、なにか粘性の高い液体のように人の流れができていく。

 不思議なことだ、と思う。

 ほどなく辿り着いたのは、金槌を透かし彫りにした鉄の紋章が掲げられた、大きな五階建ての建物だ。クースラにこの町の土地勘はないが、町の構造というものはどこも似たり寄ったりだから、迷うことはない。力のある者から順に、町の一番賑やかな場所の、賑やかな通り沿いを埋めていく。

 少し視線を巡らせれば、一区画離れた場所に、ポーストのいる騎士団の建物も見えた。

 土の下に眠る石の世界に比べれば、人の世の理は簡単だ。

 クースラは三段ほどの石段を軽く上り、ノッカーも鳴らさずに、重厚な樫の扉を開け放った。

 職人組合の会館も、どこの町でも大抵同じ造りになっている。一階は組合の重要な会議をしたり、身内の裁判をするために大きな広間になっている。普段は早朝の仕事始めの前に親方たちが朝食を摂り、夕方から夜にかけて仕事が終わった後には居酒屋にも早変わりする。ここで飯を食べ、酒を飲む分には、どれだけ騒いで喧嘩になっても所詮は身内、というわけだ。

 ただ、こんな時間だというのにまだ広間のテーブルには椅子が上げられ、蝋燭に灯りすらともっていなかった。床板も綺麗に磨き上げられているが、黒々と光っているそれがひどく寒々しかった。

「留守か?」

 クースラが靴のかかとでごんと床を蹴ると、奥の部屋から物音が聞こえ、やがて言葉も飛んできた。

「ディキンズ? あなたまたこんな時間に工房を閉めて──」

 と、奥から腕まくりをして、桶を重そうに持った娘が出て来た。

 頭に手ぬぐいを巻き、前掛けもしているので会館のお手伝いかなにかだろう。

「ん? 誰?」

「頭領に会いたいんだが」

 クースラは、壁に飾られている羊皮紙を眺めながら言う。どれも町の参事会がこの組合に贈った数々の特権状の写しで、この枚数の多さが、町でのその組合の地位の高さを示している。

「なんの用で?」

 ごとん、と桶を置くと、その音でかなりの重さだったことがわかる。娘はまだ年若そうな割に、細身ながらもなよなよした雰囲気ではなく、頭に巻く手ぬぐいにも勇ましさが感じられる。

 いかにも鍛冶屋組合に相応しいといった感じで、手ぬぐいの下から伸びる長い赤髪が、船乗りのようにばさばさと堅そうな音を立てている。

 娘は頭の手ぬぐいを取って額を拭うと、「ああ」と言った。

「あなたが」

「?」

 クースラが疑問符の代わりに顎を少し上げても、娘は言葉を続けない。腕まくりを戻しながら、守護聖人を祭る小さな祭壇のほうに歩いて行く。それからそこに置かれていた小さな壺の中に細い棒を差し込むと、側に置いてあった蝋燭に火をつけた。

 さすが鍛冶屋組合らしく、祭壇には常に火種があるらしい。

「新しい錬金術師でしょ」

「話が早い。で、組合の頭領は?」

 クースラが重ねて聞くと、娘は蝋燭を持って、壁に掛けられているランプに灯りをともしながら、視線も向けずに言う。

「私よ」

「……ほう」

 わざとらしく言ったが、驚いたのは事実だ。

 娘はそれで初めて肩越しに視線を向けるが、どこか疲れたようなものだった。

「鍛冶屋組合を預かるロバート・ブルナー代理、イリーネ・ブルナーよ」

 クースラはやっぱり顎をちょいと上げ、イリーネと名乗る娘を見る。

「なるほど。それは失礼した」

「いいえ。私も分不相応だと思っているもの。でも、他にやりたがる人もいなくって」

「ロバート・ブルナー氏は?」

「遠くに旅に」

 死んだ、ということだろう。

 つまりは、イリーネは幼妻の未亡人。

 新しい頭領を他に決めようとしないのは、揉め事の原因になるとわかりきっているからか。

「では、イリーネ・ブルナー女史へ改めて」

 クースラは、左肩の近くに右手を当て、慇懃無礼なほど丁寧に頭を垂れて口上を述べる。

「私は騎士団所属の錬金術師。名を持たず、家を持たず、ただ技術のみを持ち、当地にやってまいりました。願わくば、神の代理として大地に正義を取り戻す騎士団のため、神の偉大なる御名のために、グルベッティ鍛冶屋組合の大いなる力をお貸しいただければと」

 クースラはわざとらしい演技をかけらも崩しはしない。

 舐められてはその後の仕事に支障が出るが、かといってしきたりを破るのは市中ではご法度だ。人は気恥ずかしいほどの仰々しさで神に祈り、呆れるほど細かな手順に従って契約を結ぶ。

 どれほど人手が欲しい親方だって、新しい徒弟を工房に迎え入れるためには、三日間徒弟を工房の外に立たせなければならない。むろん、食事や厠の面倒は見て、夜には工房に招き入れて夜具も貸すのだが、それが伝統というものだからだ。

「お貸しいただければ、ねえ」

 ランプの火をともし終えたイリーネは、手にしていた特別長い蝋燭の火を消し祭壇に戻してから、小さく笑った。

「借りてるのは私たちでしょう」

 しかし、イリーネはそんなことを言う。

「……身も蓋もなく言われると、困るのですが」

「前いた町では、錬金術師なんて鼻で笑ってましたけどねえ」

「……」

 いくら騎士団とはいえ、すべての町を牛耳っているわけではない。

 それに、こと冶金に関してはどうしたって専門の職人のほうが経験は豊富だ。しかも、鉄は地域差がとても大きく、経験豊富な錬金術師でもおいそれとは地元の職人に敵わない。組合の強い街では錬金術師が使うための材料の流通も独占していることが多く、錬金術師の庇護者ですらどうにもできないことが少なくない。

 なので、新しい町に来た錬金術師は、まず職人に頭を下げる伝統がある。そうして技術と知識と材料を譲り受け、今度は新しい手法を生み出して職人たちに恩返しをする。たとえ、形だけであったとしても。

 それが、少なくとも連綿と続いてきた伝統だった。

「騎士団が戦を拡大してくれたお陰で、仕事はひっきりなし。こんな時間になっても、会館はこのありさま」

 床も壁も綺麗に磨き上げられ、蝋燭は切りたての新品に見える。

 なのに、他の組合ならそろそろ酒宴が始まりそうなこの時間でも、親方たちは誰一人顔を見せていない。

「鍛冶屋組合に格別お目こぼしをしていただけるお陰で、徒弟の人数制限も緩和されて、町にやってくる移民のほとんどが我が組合に。一三〇人の親方。その五〇〇人の徒弟。家族を入れれば一〇〇〇人を超える人たちが飢えずにいられるのは騎士団のおかげ。原料の仕入れや製品の販売にも騎士団の助力があって? 増え続ける工房のために水車や炉を建設するための資金も出してもらって? それで騎士団様に文句を言ったら罰が当たるというものですよ」

 会館の館長を示す大きな机と椅子に座ると、女性にしては上背のあるイリーネでも小さく見える。

 たぶん、髭面の岩石みたいな体つきの歴戦の鍛冶職人がそこに座っていても、騎士団の圧倒的な資金力の前には、身を小さくして沈黙せざるを得ないだろう。

 職人が腕を振るうにも必要なのは金だ。町に流入する人々を自分たちの工房に引き込むにも、他の職人組合との権力争いで勝たなければならない。それに必要なのはやっぱり金だ。

 水車や炉の建設も、とても個人でできるようなことではない。大体、町の中には限られた水車しか建設できないのだから、その使用権を巡って他の職人たちと揉めることになる。連中を黙らせるものはなんだ? それもまた、金なのだ。

 懸念されるすべてのことについて、騎士団がその圧倒的資金に物を言わせている。戦に勝つためには武器や防具、攻城戦のための道具が必要だからだ。

「あなたへの協力を拒んだら、私は八つ裂きにされちゃうわ」

「騎士団は陰険ですが、そこまで野蛮ではありませんよ」

「いえ、他の親方たちに」

 イリーネはそれで少し悪戯っぽい笑みを浮かべている。

 日頃の不満のはけ口に錬金術師を選ぶとは、なかなかの肝っ玉だとクースラは思う。

「北の町のいくつかが陥落したら、新しく植民が始まるでしょう? みんな、それを目当てにお金を少しでも多くためて、少しでも多く騎士団様の覚えをよくしておきたいんですよ。だから、錬金術師様にはすべてを差し出すようにと、組合の方針です」

 イリーネは机の下から羊皮紙の束を取り出し、どさりと置く。

 クースラが驚くと、イリーネは笑っている。

 普通、職人は自分たちの技術を文書には残さない。工房に独自に伝える秘術として、他の工房と差異をつけるためだ。それが、羊皮紙に準備よくまとめてあるというからには、本当に親方たちは新天地のためならなんでもする覚悟なのだろう。

 たとえ、本来ならば自主独立を重んじる職人の組合が、騎士団の小間使いだと笑われても。

「私がどうしてこの身空でこの椅子に座っているか、ご理解いただけました?」

 椅子に深く腰掛けたイリーネは皮肉げな笑みを見せながら言った。クースラ相手に余裕綽々なのは、肝が太いからではない。

 やさぐれているのだ。

「体のいいお飾り」

「あっさり言うんですね」

「真理を見極めるのが、錬金術師でして」

 クースラは羊皮紙の束に手を伸ばし、独特の匂いを鼻で吸い込んでから軽くめくり、「確かに」と言った。

 そうすればこんなところに長居は無用。

 小脇に抱えて踵を返そうとして、はたと思い至った。

「前任のトーマス氏は、どんな人でした?」

 トーマスの死因についてはポーストや教会がとっくに調べ上げているだろうから、別に調査のような意味合いはない。そう尋ねたのは、ほんの好奇心だ。

 あるいは、フリーチェのことがあったせいで、少しだけ人の死に感傷的になっているのかもしれない。

「真面目で、公平で、真理を見極める人でしたね」

 あてつけには、軽く肩をすくめるだけ。

 ただ、あの工房の几帳面さから、あまり間違った評価でもないのだろうと思う。

「……先輩に負けないようにしますよ」

「私たちの稼ぎもかかってますから、鉄の精錬で新発見をよろしくお願いします」

 クースラはにやりと笑い、会館をあとにした。

 重くて大きな扉を閉じ、少し歩いてから、扉の内側に何かをぶつけるような音がした。

 どこでも、大きな力の前に押し潰されそうな個人がいる。

 でも。

「俺だけは……」

 泳ぎきってやる。

 そう胸に秘めながら、日の暮れた町中を、工房に向かって歩いたのだった。