◆◆第三幕◆◆
それから数日は、何事もなく過ぎていった。
クースラとウェランドはトーマスの冶金記録を再現するのに忙しかったし、トーマスの技術を受け継ぐ工房を狙う黒い影、などというものも見当たらなかった。
フェネシスもおとなしいもので、毎朝工房にやってきては、結局クースラの仕事を眺めるだけだった。仲間から毒を盛られて、それをクースラたちのせいにされるのでは、という懸念もあったが、健康にも問題がなさそうで、今のところ緊急の懸念はない。水銀を盛られれば歯ぐきが黒くなり、砒素を盛られると指先が腫れてくるので、見慣れていればすぐにそれとわかる。
それに、監視役と気負っているからにはもっと口うるさくあれこれ言うかと思ったが、本当にただ眺めるだけ。
市場で話したことが少しは功を奏し、錬金術師に対する偏見が薄れたのかもしれない。
クースラはそんなことを思っていたのだが、偏見や警戒心が薄れれば、それはそのまま緊張感がなくなるということだ。
クースラの作業を眺めるのに飽きを見せ始めるのも、すぐだった。
「眠いなら、そっちで寝てたらどうだ」
寒い曇りがちの天気が続いた後の、久しぶりに綺麗に晴れた日。
連日炉に火が入っているせいで、工房の中はそれでなくても暖かい。
フェネシスが椅子の上で欠伸を繰り返し、ついにうとうとし始めて、クースラは言った。
「はっ、あっ……いえ……大丈夫です」
「お前が大丈夫でも、こっちが困るんだよ。欠伸は伝染するからな」
「で、も……っ……くぁ……」
裾も袖も長いゆったりとしたローブを着て、椅子の上にちょこんと座ったまま欠伸をしている様は本当にまっ白い猫のようだ。
クースラがため息をつくと、フェネシスははっとしてばつが悪そうにしていたが、おもむろに立ち上がって大きく深呼吸をした。
「監視役が寝ているわけにはいかないでしょう」
「どの口が言うんだ? 今寝てただろ」
「寝ていません」
クースラは肩をすくめて、金槌で釘を打ち、羊皮紙を伸ばして張り付ける作業に戻った。
「今日は、どんな作業なのですか?」
「面倒な作業」
クースラがぶっきらぼうに言うと、フェネシスはうたた寝していた負い目もあってか顎を引いて黙った。が、それも数瞬だった。
「説明になっていません」
「蒸留だよ蒸留」
「……」
フェネシスは無言でじっとクースラを見つめ、それから、気まずそうに目を逸らした。
「知らないなら知らないと言え」
「知りません」
「水を熱すると?」
「は?」
クースラの唐突な言葉に、フェネシスは目を丸くして聞き返す。
「水を熱するとどうなる?」
「え……あ……えっと、熱く、なります」
「そうだな。天才だ」
クースラが言うと、フェネシスはしばらく呆気にとられ、それからようやく馬鹿にされたと気がついて睨みつけてきた。
「欠伸をしていたことは謝ります」
決してうたた寝とは認めないし、顔つきはとても謝っているようには見えない。
それでもクースラはため息をついてから、手招きをする。フェネシスは警戒するように身をすくめたが、「手伝え」と言うと、渋々テーブルに寄って来た。
「そっちを押さえてろ」
クースラは丸まった羊皮紙の片方を押さえ、反対側を示す。立派な羊だったのだろう、分厚く巨大な皮に文字が書かれている羊皮紙は、どうしても端っこがたわんで縮れてしまう。
トーマスが部屋の様子に相応しい神経質な細かい字でびっしり書いていたせいで、きちんと羊皮紙を開かないと読めないのだ。
「お、押さえる? これを、ですか?」
干からびた老人の皮膚のようなでこぼこの羊皮紙を前に、身をすくませている。
「そうだ。びびるな。羊皮紙は毒じゃない」
「……お、怯えていません」
とはいえ、初めて皮に触るのか、おっかなびっくりだ。独特の柔らかい感触は、確かに硬めの芋虫に似ていると言えなくもない。
「動かすなよ。引っ張りすぎるとひびが入るからな」
クースラは左手の側面で羊皮紙を押さえながら、指で釘をつまんで羊皮紙に開いた穴に通し、右手に持った金槌で打つ。
羊皮紙に文字を書く際に、四隅を釘で打ちつけながら書く者もいる。トーマスもそうだったようで、すでに小さな穴が開いている。ただ、だからといっていい加減に何度も穴に釘を打ち込んでいると、そこからどんどん破れていってしまうので注意が必要だ。
「よし……次、こっち」
「は、はい」
クースラに言われ、フェネシスはあっちからこっちにと移動を繰り返し、羊皮紙を押さえていく。背が低いので、椅子に乗って身を乗り出さないと押さえられないこともあった。
そんなことをしながら、結局五枚の羊皮紙をテーブルいっぱいに張り付け終わる。
トーマスの試行錯誤の冶金過程が、見事にさらけ出された。
暗号を解いていないのでまだ具体的なところがわからないが、最初の記録の再現の時点で、トーマスのすごさは身にしみて理解した。手際が良いとか、実験が斬新とか、そういうことではない。そこには、トーマスという人間の宇宙があったのだ。
クースラは、同じ錬金術師として、敬意を持ってその羊皮紙に描かれた宇宙を眺めていた。
ただ、隣ではフェネシスがクンクンと自分の手の匂いを嗅いでいる。
どこか敬虔な気分だったクースラは、ため息まじりに言った。
「気になるなら洗ってこい」
「あ、いえ……」
フェネシスは口癖のように言ったが、「すみません、洗ってきます……」と、水場のほうに歩いて行く。
「お前、羊皮紙も触ったことないのか?」
手を濡らしたまま辺りをきょろきょろして、自分のローブを見下ろしていたフェネシスに、手ぬぐいと一緒に言葉も投げる。
「えっと……でも、名前は知っています」
そこで見栄を張ってしまうあたり、フェネシスが理想とする修道女には程遠いだろう。
「修道院から来たんだろう? 写字生とかいなかったか?」
「いましたけど……」
「けど?」
「見たことはありません。階位が足りないので」
神の定めた秩序は修道院にて完成される、と言わしめるほど、階級制度が厳しいと聞いたことがある。羊皮紙は高価な代物だから、下々の者の目に触れさせて汚すわけにもいかないのだろう。フェネシスに本を読んでもいいと言った時の喜びようはこれか、と思う。
クースラは、フェネシスが工房に迎えに来る上役の聖職者につき従い、ねぐらに帰る時のことを思い出す。フェネシスは、騎士団の権力構造の中では本当に末端の道具程度の扱いなのだろう。
「そういう息苦しい場所に入りたがる理由がわからんね」
「神の教えに近づくためです。それに、私からすればあなたたちの情熱のほうがわかりません」
「ふん。どっちもどっちなのは、確かだな」
クースラがうなずくと、フェネシスはまた馬鹿にされているのではないかと訝しんでいたが、結局肩の力を抜いていた。
「で、さっきの質問の続きだが」
「え?」
「水は熱すると熱くなる。その次は?」
「え……」
てっきり、馬鹿にされて終わり、だと思っていたのだろう。
フェネシスは目をぱちくりとさせていたが、クースラはトーマスの小宇宙を見ながら言う。
「なにをしているか知りたいんだろう?」
「あ……え、あ、はい。でも」
「水を熱すると熱くなる。それで?」
クースラが重ねて問うと、フェネシスは口ごもった後に、答えた。
「蒸……発、します」
「そう。では、酒の場合はどうか」
「え? 同じなのでは?」
「まあな。だが、実は酒には二種類の液体がまざっていることがわかっている。しかも、この二種類のうち、片方だけが先に蒸発する」
「……」
フェネシスは綺麗な形の緑色の瞳をぱちくりとさせて、はあ、と言っている。
「そして、そのどちらであっても、蒸発した後の空気を冷やすと、また液体に戻ることが知られている。そうやって、酒から二種類の液体を分離させて濃縮させる方法がある。これを蒸留という」
クースラは棚から酒瓶を手に取って、揺らす。
フェネシスが顔をしかめたのは、クースラが仕事をしながら昼間からたびたび酒を飲んでいることが気に食わないらしい。
「蒸留酒を作る方法の一つがそれだ。その場合は、銅で作った蒸留器を使うがな。今ではそっちの技術は醸造職人のほうが上手だが、元々は錬金術師の作り出した技術だと言われている」
「え?」
「亜鉛というものがある。銅とまぜることで真鍮を作ることができる。えーっと……ああ、これだな」
棚には見本の鉱物や金属が並べられている。クースラは鈍い金色の金属をフェネシスに向かって放った。
「大昔は貨幣に使われていたりしたらしいんだがな、当時は製造方法が秘密で、ほとんどが偶然作られていたと聞く。その上、何百年と製法が失われていた。東方に旅をした者が技術を持ち帰り、今に至る」
「……これを、作るんですか?」
「これの、原料である亜鉛を作る。亜鉛は元々、鉛を作り出す過程で見つかった。炉の天井に白い物がくっつくことがあってな。昔の錬金術師が頭を悩ませた末、ついにその正体を見つけ出し、もっともよく亜鉛を含む鉱石を見つけ、最良の採取方法を確立した。それが、熱した空気をうまく冷やすことだった」
フェネシスは真鍮とクースラを見比べて、ぼんやりしている。うまく想像がつかないのかもしれない。
「その技術が蒸留の走りであり、巡り巡ってきつい酒を生み出した、と聞いた。まあ、本当のところは誰にもわからんから、適当に言っているだけかもしれないがな。なんにせよ、錬金術というものは一つの技術が別の技術と密接に関係していることが多い。些細な発見が、想像もしなかったような結果を招くことがある。であればこそ」
クースラは言葉を切り、ぐっと息をためた。
「想像ができることならば……いつか実現だってできるだろう、と思うんだ」
胸を張り、外套をまとっていればばさりと払って語りそうなほど雄弁だったクースラを前に、フェネシスは短く言った。
「……はあ」
手にしていた真鍮も、あまり興味がなさそうに返してくる。
クースラは、ほとんど戸惑いがちに受け取って、訝るように聞いた。
「……お前、今の説明を聞いてなんとも思わないのか?」
「え?」
クースラが尋ねても、フェネシスはきょとんとしている。
そして、またなにか馬鹿にされているのかとクースラを睨んでくるが、クースラはそれで逆に落胆してしまう。
「いや、からかったわけじゃない。まあ、そうだよな……」
「な、なんなんですか?」
「ああ?」
クースラは言って、片眉をつり上げた。
「一つの発見が新たなる技術の開発につながり、その技術が思いもよらぬ場所で応用されて、素晴らしい物が作り出される。すごいことだと思わないか?」
クースラは酒瓶を振り、ちゃぷちゃぷ鳴らしてから、中身を呷った。
フェネシスの反応は鈍い。
「すごいことなんだよ。世界中の錬金術師たちが、そうやってこの世の神秘を次々に暴いていく。いわゆる、神の衣をめくるってやつだ」
クースラが視線をフェネシスに向けると、フェネシスはほとんど反射的にローブの前を押さえている。ウェランドにされたことがよほど応えているらしいが、フェネシスにとっては世の神秘を解き明かすことよりも、自分のローブがめくられないことのほうが重要なのだ。
「もっとも、錬金術師が途方もない目標を追いかけるのは、たぶん、この万能感も原因なんだろうが……」
錬金術師が教会から忌み嫌われるのは、なにもその不気味さだけが原因ではない。
教会の教えというのは、今の汚れた世でいつか最後の審判が行われ、その際に善行を積んでいた者だけが天の国へ行けるというものだ。
世界は悪くなり続け、いつか終わりを迎えるという考えだ。
だが、錬金術師の考える未来はまったく逆。近い将来、自分の研究は実を結び、それまではできなかったことができるようになり、わからなかったことが明らかになると信じているからこそ、研究を続けるのだから。
フェネシスにはやはりなじみのない考え方のようで、きょとんとしていた。
教会の教義と対立する、とか、そういうことで怒り出しもしない。
そもそもそんなことを考えたことすらないといった体だ。
「ここの工房にいたトーマスは、そんな錬金術師の見本みたいな奴だったようだ。縦横無尽に知恵を巡らせ、諦めるということを知らないんだろうなというのが、単なる記録からですらひしひしわかる。俺はこの羊皮紙に書かれていることすべてを早く翻訳したくてうずうずするし、ウェランドも同じだ。こんなに楽しいことは……」
クースラは言葉を切り、呟くように言った。
「他にないと思うんだがなあ」
酒が思いのほかきつかったのかもしれない。
クースラはテーブルいっぱいに広げられたトーマスの才能を前にすると、それがいかに素晴らしいものであるかを人に教えたくなる。
だが、理解できない奴はできないし、しようとも思わないのが大半だ。
そんな中で、理解できないけどあなたは子供みたいに楽しそう、と言って笑ってくれたフリーチェは、教会からの密偵だった。
クースラは器具を手に取る。
所詮、錬金術師は錬金術師。忌み嫌われる、外道の輩なのだ。
「そんなに、面白いんですか?」
だから、不意の言葉に感じたのは、怒りだった。
ただ、肩越しに振り向くと、そこにあったのは嘲るような顔ではなく、クースラの剣幕に驚いた顔だった。
「……言ったろ、俺らは頭がおかしいんだよ」
吐き捨てるように言って、前に向きなおる。
こんなに依怙地になるなんて、工房を出たての、錬金術師という肩書きが誇らしくて仕方がなかった時みたいだなと思った。
どうしてこんなことに命を賭けられるのか。どうしてこんなことのためにどこでも村八分にされることに耐えられるのか。どうして嫁も子供も期待できない人生で絶望しないのか。どうして、恋人だと嘘偽りなく言える相手が目の前で殺されていたのに、冶金のことばかり考えていられたのか。
わからない。
もちろん目標といえるものがあり、それを目指すための努力といえばそうだが、そのことを除いたって、ただただ、楽しいのだ。
クースラは前日の冶金結果の覚書と、その結果から割り出される暗号文の意味や数字を、広げられた羊皮紙に書かれたものに当て嵌めていく。
この楽しさは、やったことのある者でなければわかるまい。
クースラは胸中で呟き、ふと、顔を上げた。
そして、もう一度後ろを振り向くと、フェネシスが気弱そうに体をすくませていた。
「あ、あの……私は、そういう意味で言ったのでは──」
「やってみるか?」
「……え?」
呆気にとられるフェネシスに、クースラは言った。
「やってみないとわからんことがある。お前だって、修道院に入ろうと思ったからには、それくらいの経験があった。違うか?」
クースラの言葉にフェネシスはぽかんとし、それから、ゆっくりとうなずいた。
「今日の作業は面倒なだけで難しくない。時間もあまりかからん。やってみるか」
フェネシスはしばらく、自分がなにを言われているのかわからないといった顔をしていたが、ゆっくりと言葉が頭に染み込んでいったらしい。少し迷うように視線をさまよわせてから、なにも知らない乙女そのままに、不安そうに聞いた。
「……神の教えに反するようなことは……しません、よね?」
無垢な乙女のその台詞に、世の男がどれだけ笑顔でもちろんと請け合ったことか。
だが、クースラがめくりたいのは神の衣であって、乙女の衣ではない。
「それも自分の目で確かめたらいい」
クースラはなんの約束もしなかったが、フェネシスはそれをクースラの誠意だと受け取ったようだ。硬いなにかを飲み込むようにうなずいた。
「自分の目で確かめる。大事なことですよね」
その言葉が思いのほか力強く、クースラは少し驚いたが、顔に浮かんできたのは自然な笑みだ。
「そう。自分の目で確かめればいい」
「はい」
「だから、これから階下に行ってウェランドと作業するが」
「え──!」
フェネシスは顔を青くして後ずさったが、クースラは顔を上げて笑った。
「あいつが狂人かどうか、自分の目で確かめろ」
「……」
笑って階段に向かうクースラに、フェネシスは疑念を顔に浮かべている。
そして、言葉の意味に気がついた時、大股で追いかけて来た。
「あの、あなたは私に対してまた嘘を──」
「でも必要とあらば人も殺すし、女好きはさらに本当だからな。身をもって確かめる羽目になる前に、そこだけは注意しろよ」
振り向きざまに言うと、フェネシスは足を止める。
身をもって確かめた時には遅すぎることというのが世の中にはある。
疑念と不安が入りまじった顔をしていたが、見栄っ張りは時として良く作用する。
「もちろんですっ」
怒ったように言って、クースラの後に続いたのだった。
冶金職人は女に人気がある。これは事実だ。
長時間、高温の炉の前に立ち、燃料を運び、ふいごを動かし、巨大なハンマーで鉱石を砕いたり、溶け出した金属の塊を運んだりもする。その結果肉体は鋼のように引き締まり、余分なものは一切ない。それでいて傭兵たちのような刹那的な生き方をせず、炉をじっと眺める目つきはどこか詩的ですらある。
工房の地下二階にあたる、炉の口や水車の動力部がある階まで下りると、もろ肌を脱いだウェランドがいた。
グルベッティに来る前は修道院の修道女相手に浮名を流していたらしいが、あまり大袈裟なことではないのかもしれない。階段を下りながら、ほとんどクースラの服の裾を掴まんばかりに怖がっていたフェネシスは、ウェランドの姿を見るなり足を止めていた。
ウェランドももちろんすぐに気がついて、肩に担ぎ、脇に抱えたたくさんの木材を運びながらちらりと一瞥したが、特に興味もなさそうに自分の作業に戻っていた。
演技と疑うことすら失礼にあたるような真剣な様子は、求道者を彷彿とさせる。
ぼさぼさでくくっただけの長い髪の毛や、いかにも不審さを強調する無精髭も、作業場では働く男の証に見える。
精悍。
フェネシスはほとんど陶酔しているようですらあった。
それに反して、すぐにクースラに視線を向けてくると、その目にあるのは恨みに近いほどの非難の色だった。
「あなたの言葉は、金輪際信用いたしません」
「あいつは初対面で胸を揉みしだいたのに?」
フェネシスはうっと言葉に詰まったが、すぐに気を取りなおして言ってくる。
「少し、粗野なところはあるかもしれませんが……」
少し粗野、ときた。
クースラが呆れるのをよそに、フェネシスはウェランドのてきぱきとした手際に魅入られるように目を奪われている。
クースラは、ウェランドの言葉を思い出す。
悪印象を与え、それから誠意を見せれば、ころりといく。
屑野郎、と胸中で呟きつつ、次は俺もこの手を使おう、とクースラは思った。
「ウェランド、ちょっといいか!」
クースラが声をかけると、ウェランドはすぐには振り向かない。
巨大な牛の一枚皮で作られたふいごを担ぎ、炉の脇に置く。火かき棒、熊手、ハンマー、やっとこ、鉄の柄杓と、道具を次々炉の周りに配置していく。それらが怪しげな骨や生贄だとしたら、確かに魔術師にも見えることだろう。
だが、ウェランドの様子は仕込み抜かれた一流の職人にしか見えなかった。
「なんだよ」
ようやく振り向いた時、語尾も延ばさない。
フェネシスのこともやはり一瞥するだけで、にこりともしない。
「お客さんに、俺たちがなにをしているか教えたい」
「……」
ウェランドはそれでようやくフェネシスにまともに視線を止めた。フェネシスはクースラの横で、緊張に体を固くしている。
ウェランドの視線は思い切り嫌そうなもので、その感情を隠しもしない。
乙女の体から材料を採る?
そんな馬鹿な考えが紛れ込む余地のなさそうな、真剣な顔だ。
「俺は遊んでいるわけじゃないんだがね」
ウェランドが言うと、さすがにフェネシスも口を開いた。
「わ、私も遊びでここに来ているわけでは、あ、あり……ません……」
最後が尻つぼみになったのは、ウェランドの視線に気圧されたからだろう。
服を着ているとただの痩せぎすにしか見えない体は、その実、脂肪が一切ない彫刻のようだ。
手は肘まで炭で汚れ、この寒いのに汗だくだった。
毎日やってきては、椅子に座って暇そうに作業を眺めていたフェネシスとしては、遊びと言われても反論できないだろう。
ただ、ウェランドは駆け引きの天才だ。
不意に顔から不機嫌さを消して、肩をすくめると炉に向きなおった。
「勝手にすればいい。邪魔だけはするな」
「あ……」
フェネシスはなにかを言おうとして口ごもり、それから、改めて言いなおした。
「ありがとうございます……」
強い男に引っ張られる、か弱い娘。
クースラは、ちょっとそれが面白くない。
どこか尊敬するような眼差しすらしてウェランドを見ていたフェネシスが、くりっとその視線をクースラに向けた時、軽蔑するようなものだったのも原因の一つだ。
「それで? 私はどうすればいいのですか?」
早く案内しなさい。口だけの錬金術師。
そう言われているような気がして、舌打ちを堪えるのも大変だった。
「ウェランド、上の通風口はもう作ってあるのか?」
クースラが声をかけると、ウェランドは振り向き、首を横に振った。
「作ってない。だが……あー、俺がやる。任せられない」
「手順わかるか?」
クースラが尋ねると、ウェランドは他にどんな悪口を言ったってそうしないような凶悪な顔をして睨み返す。
「るつぼで飯を食いたいか?」
誰が最初に切った啖呵で、元々どういう意味だったのかはもうよくわからない。
それでも、錬金術師や冶金職人が、喧嘩の寸前に持ち出す啖呵だ。
クースラが肩をすくめると、ウェランドは大股に歩いて上の階に上がって行った。
「両極端だよな」
クースラが呆れ呟いていると、階段をほとんど駆け上がるようにしていったウェランドを目で追いかけていたフェネシスが、非難がましく言う。
「言葉に裏表があるよりましだと思いますが?」
「……」
いつの間にかクースラが悪役で、ウェランドが善役になっている。
万物は流転し、些細なきっかけで入れ替わる。錬金術師が最初に学ぶことそのものだ。
「それより、私はなにをすればいいんでしょうか」
「……一番難しいのは回収の部分で、ウェランドがそっちに行った。俺たちは、下の火の部分をやろう」
「わかりました」
「ただ……」
「?」
と、クースラはフェネシスの恰好を上から下まで見て、ため息をつく。
「そんな真っ白な服着てると、あっという間に汚れるぞ」
ヴェールをかぶり、丈も袖も長いローブは布がたっぷり使われている。
清貧、従順、純潔をまさしく体で示すように真っ白な布で、煤と油の工房の中では見ているほうが不安になる。
「着替えたほうがいいが、合うのがあるかな」
クースラは工房の倉庫を漁っていくつか見繕ってみたが、結果は案の定だった。
「まあ、逆に可愛いんじゃないか?」
「馬鹿にしないでください」
寝室で着替えてきたフェネシスが、布の塊の中から睨むような目つきで言う。
折れるところは二重にも三重にも折ったせいで、服を着ているというより、布の甲冑に身を包んでいるようだった。
ただ、ヴェールだけは中に長い髪の毛をしまい込んでいるらしく、取ると一人では戻せないと言って、頑なに取りたがらなかった。
結局上から麻布で覆ってやったが、なんとも妙な感じに仕上がった。
「まあ、いいか。さっさと作業しないとどやされるしな」
クースラの言葉に、フェネシスはぐっとうなずいた。
ただ、もうそれはウェランドそのものに対する恐怖というより、ウェランドの仕事の邪魔をしてはならないという感じだったのだが。
「炉は後でいい。まず、鉱石を砕こう」
フェネシスは工房を説明した時のように、押し黙ってうなずく。
やはり、なにかを聞く時は沈黙するのが修道院の規則なのかもしれない。
「純粋な亜鉛の鉱石というものには滅多にお目にかかれない。騎士団の最高位の錬金術師が、ほのかな褐色で透明な琥珀のような鉱石について記述を残しているが……俺たちが使えるような物は不純物の塊だ」
ウェランドとは同じ工房で仕込まれたから、作業の際にどこになにを置くかは大体わかっている。すぐに鉱石を見つけ出すと、砕く前の大きな塊だった。
「この鉱石は……まあ、ましなほうだな。もっと黒いと、鉄ばかり多くて、亜鉛を採っているのか鉄を採っているのかわからなくなる。硫黄も出る。不純物のほとんどは鉛で、時折銀も採れる」
鉱石から顔を出しているのは、蜜蝋に似た光沢のある黒い結晶だ。サイコロ同士をたくさんまとめて少し溶かしたような形をしている。クースラはハンマーを見やったが、それからフェネシスを見ると、多分ハンマーのほうが重いだろうと結論づける。
近くの棚から鑿と槌を取り出して、渡してやった。
「これで砕け。小石くらいの大きさになればあとは適当でいい」
「……」
「それと、目に気をつけろ。破片が目に入ることがあるからな」
クースラが言うと、目をぱちくりとさせてうなずいていた。
そして、細腕ではそれですら重いかのように、鑿と槌に引っ張られるような変な歩き方で床に置かれた鉱石の前に立つ。ちらりとクースラを見た顔は、羊皮紙を前にした時と同じような顔。
クースラが顎で示すと、フェネシスはおずおずと腰を下ろした。花を摘んで冠でも作り出しそうないかにも女の子らしい座り方で、炉の前にいるとなんとも奇妙な気がする。
ただ、おっかなびっくり背中を丸めながら、かつん、こつん、と鑿を打ち始めるのを見ると、微笑ましく見えなくもない。
女弟子も悪くないかもしれない、と馬鹿な考えが脳裏をよぎり、頭を掻いて他の準備をすることにした。
亜鉛の取り出しは工程としてはそんなに難しくない。空気をうまく冷やすのが難しく、送風量と火の温度に注意しなければならないことくらいだろうか。
トーマスの残した記録から、使った鉱石の重量と、同時に焼く木炭の量も決まっている。
その鉱石から採れた亜鉛の量と、色、形、それに不純物の分量が、次の小宇宙の言葉を翻訳する鍵になる。
師匠の技術は目で盗めとよく言われるが、トーマスは自分の冶金の成果を結果だけ先取られるのがよほど嫌だったのだろう。
「砕けたか?」
クースラが諸々の準備をして炉の前に行くと、フェネシスが不安げな顔で振り向いた。
覗き込めば、些細なかけらとも呼べないようなものがいくつか転がっているだけ。
クースラはため息をつき、しゃがみ込むとフェネシスに覆いかぶさるように後ろから両腕を出した。
「そんなちまちまやってんなよ。こうだ」
「え、あ──」
戸惑うフェネシスを無視して、フェネシスの手の上から鑿を掴み、槌の柄を握る。
手だけでなく、小柄なフェネシスは体もすっぽりクースラの腕の中に収まってしまう。
「力を抜いてると逆に危ないぞ。思い切り握れ」
「っ」
怯えて体をすくめるように手に力を込めたのを見計らい、クースラは鉱石に鑿を当て、ガンと一撃槌で打つ。
「あれ、意外に良い鉱石だな。良いやつは割れ方が綺麗で、割れた面がよく光る」
「っ……」
「ほら、次いくぞ」
割れた面を覗き込もうとしたのか、体をもぞもぞさせたフェネシスに言って、さらに二度、三度と鉱石を砕く。
がん、ごん、と良い音がしてそのたびに体をすくませていたが、やがて慣れたらしい。
力み方のコツも掴んだようで、クースラは槌のほうの手を先に離した。
「こっちは持っててやるから、思い切り打ってみろ」
鑿の柄を持つフェネシスの小さな手は、クースラの手にすっぽり覆われているので自分の手を打ってしまう心配もないだろう。
「いきなり打つのが怖ければ、軽く当てて、それから少しずつ力を強くしていけ」
「……」
フェネシスは無言のまま固唾を飲んで、言われたとおりに鑿の頭をこんこんと叩く。
「もう少し強く」
コン、ゴン。
「もっと」
ゴン、ゴン。
「もっと強く」
ゴンッ、ゴンッ。
「嫌な奴の頭を叩き潰すくらい」
ガンッ!
左手に持った鑿が急に抵抗を失い、虚空に浮く。
傍らには叩き割られた鉱石が、綺麗な光沢を見せながら転がっていた。
「そんな感じでやれ」
クースラは鑿から手を離し、フェネシスの肩をポンと叩く。
手元の道具をしげしげと見ている目は、なにか不思議なものを見ているようだった。
「最後はいい一撃だったな」
クースラが言うと、フェネシスはそのままの顔で振り向いた。
「ちなみに、思い浮かべた嫌な奴って誰だ?」
フェネシスは律義に考えを巡らせるように視線を逸らしたが、すぐにクースラに戻して、いつもの澄まし顔に戻って言った。
「お心当たりがあるのでは」
「はっ」
鼻で笑うと、フェネシスは前に向きなおって鉱石を砕き始めた。思い切りよくやれているようで、さっきまでとは音からして違う。クースラは使えそうな塊を横で拾い上げていたが、フェネシスの目は真剣そのものだ。見た目に反して、こういう作業が好きなのかもしれない。
クースラは拾い集めた鉱石を、今度は大きめのハンマーでさらに細かく砕いていく。
鉄や他の鉱石ではこの段階でも不純物を取り除いていくのだが、亜鉛の場合はそうはしない。他の不純物が温度の指標になるからだ。
さらにクースラは砕いたそれを天秤に載せ、足りない分をまた拾い集め、砕いて載せる。
「おい、もういいぞ」
調子が出てきたのか、槌を振るう音に迷いがなくなって、砕けた鉱石が山になっていた。
振り向いたフェネシスははっと我に返ったように無表情だったが、肩で息をしながらも、すっきりした顔に見えた。
「ずいぶん力がこもってたが、普段から嫌なことでもあるのか」
天秤の側に寄って来たフェネシスから、槌と鑿を受け取りながらそう言うと、フェネシスは綺麗な緑色の瞳をクースラに向ける。
鼻の下に浮いた汗を手の甲で拭ったフェネシスは、やっぱり澄まし顔で言う。
「すぐ私に嘘をつく人がいますので」
「悪い奴がいるもんだ」
その言葉に、フェネシスは呆れるような視線を向けながらも、どことなく笑っていた。
「で、砕いたこれの分量を量り、あらかじめ砕いておいた木炭とまぜる」
「木炭がよく出てくるんですね」
「ああ。ほとんどの冶金に使うんじゃないか? 火力も出るし、明らかに木炭そのものも作用している。これは?の木だな。製鉄には南の地方の松がいいとか、樫がいいとか、色々ある。ただ、なんにせよ木炭を作るにはたくさんの木が必要だ。だから、効率のいい冶金の方法を見つけられれば、それだけで莫大な費用が節約できる」
フェネシスはまだ息を切らしながらも、真剣にうなずいている。きちんと話を聞いてくれる相手はそれだけで嬉しいものだ。
クースラはそう思いながら、まるっきり自分たちが使う人心掌握法と一緒だな、と思う。
「で、あとはこれを火の中に突っ込んで、焼く。すると、蒸発した亜鉛が上に向かい」
と、クースラが天井を指差すと、フェネシスは素直に天井を見る。
「ウェランドがその空気を冷やし、回収する」
「……」
視線を戻したフェネシスは、納得がいかないような顔で、こう言った。
「ずいぶん簡単なんですね……」
「種がわかっていればな。けれど、最初は手探りだ。大変だったろうさ」
「……」
その大変さは、さすがにすぐにはわからないだろう。クースラだって、見習いだった工房から出て、いざ自分の力で新しいことをやろうと思ってから、初めてその大変さに気がついた。
「それに、わかりやすい大変さなら、たっぷりこの後に残っている」
「え?」
聞き返すフェネシスに、クースラはふいごを指差して、にやりと笑ったのだった。
「温度が足りてない!」
ウェランドの怒鳴り声が上から降ってくる。
そのたびにフェネシスは目を閉じ、歯を食い縛り、体を縮めてしゃがみ込む。
ただ、それは怒られてすくんでいるのではなく、力よりも体重が足りないので、そうしないとふいごから風を送れないのだ。
「うぅ~……」
顔を真っ赤にし、唸るように体全体でふいごを押し潰し、持ち上げ、また押し潰すフェネシスの横で、クースラはのんびり作業を眺めていた。
「ふいごがでかすぎるな。製鉄用じゃないのかこれ」
製鉄は金属精錬の中でも最も高温を保たないとならない。そのためには大量の風を巨大なふいごで送り込む必要があるが、亜鉛ならそこまで高温は必要ない。
「っ~……、……っ」
「あ? 小さいのが欲しい? ないんじゃないかな。あったら出してるだろ。あとは水車を使ったもっとでかいやつしかない。亜鉛は空気を送り込みすぎると冷やすのが追いつかなくて全部飛んでしまうんだよ」
「っ……、っ~~~~……」
「聖職者は祈るだけで信仰を純化させられるらしいが、俺たちは汗水垂らさないとならない」
「……っ……」
フェネシスは今そんな話をするなとばかりにクースラを睨んでくるが、真っ赤になっていた顔がだんだん白くなってきた。
貧血だろう。
「クースラ!」
上からしびれを切らしたウェランドの声もあったので、ふいごを体で押し潰したまま立ち上がれなくなってしまったフェネシスの体を抱え上げ、涼しい窓際に置いてやる。
肩で息をすることもできないようで、高熱に浮かされているみたいに浅くて速い呼吸を繰り返している。
「大丈夫か?」
そんな言葉にも、うっすら目を開けるだけで、焦点すら合っていない。
クースラは頬をぺちぺちと軽く叩いてから、立ち上がって腕まくりをした。
「よいしょっと」
そして、でかいふいごを開き、力任せに閉じる。
空気がいっぺんに送り出され、炉の中で火の粉が舞い上がる。
「あっちぃ!」
上から悲鳴が聞こえてきたが、クースラはにやにや笑って、さらに空気を送る。
大きな炉だと、地獄のような音を立てて、大量の空気が送り込まれる。舞い上がる火の粉は山の高さを超え、炉の中は赤から黄色を通り越してまっ白な炎になる。冶金職人には迷信深い者たちが多く、その様は怪しげな錬金術師さえ眉をひそめることがある。
けれど、それはあの現場を見たことがあれば、誰しも納得のいくことだろう。
文字どおりに、神々しい。
神がその後光をあらわにしたら、きっとそれはあの鉄をも溶かす高温の炉の中の光と同じはずだと、クースラも思っている。
「鉛はとっくに溶けてるなあ。まだか?」
覗き穴をふさぐ鉄の窓を外し中を見ると、るつぼの中はちょっとしたシチューのようになっている。溶け残っているのは、鉄やその他の不純物だろう。
「だいぶできてきてる! 春節の祈りの歌で、半分までやれ!」
「了解っ」
クースラは答え、さっきより幾分ゆっくり空気を送り込む。
製鉄炉でもどこでも歌を歌うのは、空気を送り込む間隔と長さを調整するためだ。
水時計や砂時計を使ってもいいが、力仕事をしている時にそんな細かいものは見ている余裕がない。その点、歌となれば楽しく作業もできるというものだ。
呪文を唱えながら炉の前で怪しげな祈りを捧げていると教会に告発される錬金術師が時折いるが、それは単に小さな炉で小さな火を扱っている時には、小声で歌うのがちょうどいいからだ。
それから何度か上のウェランドとやり取りをし、るつぼの中に灰が出始めたのを見計らって、送風を止めた。トーマスの残した記録は恐ろしく正確で、多少の誤差はありながらも、薪や炭の燃え尽きる速度はほぼ一緒だった。あとは炉全体が多少冷えるのを待って、炉の天井や特別にしつらえた送風口にできているはずの亜鉛の結晶を取ればいい。
とはいうものの、クースラもなんだかんだで汗だくになっている。
やれやれとため息をついていると、フェネシスはようやく意識を取り戻していた。
「お前は聖人アルカニクスにはなれないな」
「……?」
「冶金職人たちの守護聖人だよ」
「……」
フェネシスは嫌そうな顔をしたものの、すぐにその目はクースラを越えて炉のほうに向けられる。
「終わったんですか?」
「あらかたな」
「……」
フェネシスはふうっと息を吐くと、力を抜いて壁にもたれかかる。
「立てるか?」
「……まだなにか作業が?」
修道女らしく、疲れ果てていようと仕事が残っていれば従うまで、とばかりに立ち上がる。だいぶよたよたしていたが、立派なものだとそこだけは感心する。
「苦労の後には必ずご褒美が待っている。上に行こう」
「へ?」
クースラが歩き出すと、フェネシスは布の甲冑に歩きづらそうにしながらついて来る。
階段を上り、物であふれる工房を突っ切ると、奥の扉が開いている。そこから先は壁がなく、剥き出しの炉と、水車に水を落とすための樋がある。
クースラは工房の中を通る途中で酒瓶を手に取って外に出る。すると、さすがに上着を着込んだウェランドが、炉の前に座り込んでいた。
「どうだ?」
クースラが尋ねると、ようやく気がついたとばかりに胡乱な目を向ける。作業の際は風が肌に触れるだけで逆上しそうなほどぴりぴりしている反動か、作業が終わると腑抜けになってしまう。
顎でしゃくられたので、普段は覗き穴兼通風口として機能している箇所に増設された、空気を取り出して冷やすための鉄の箱のようなものを覗き込む。
クースラは肩をすくめ、フェネシスを見た。
「見てみろ」
「……」
「くしゃみはするな」
「……」
またそのからかいかと軽蔑するような目を向けてくるが、クースラは笑わない。
「空気に浮くくらい軽いんだよ」
「……注意します」
フェネシスは言って、かがみ込んでその箱の中を覗く。
その瞬間、箱の中から鼻をつままれたようにびくりと体がすくんだ。
すぐに顔を上げ、クースラとウェランドを振り向く。
「綺麗だろ?」
フェネシスが返事もなく、ごくりと唾を飲み込んで、また箱の中を覗き込んでいる。その後ろで、クースラが酒瓶をウェランドに渡すと、ウェランドは水のように呷っている。
効率よく回収するためには箱を水で冷やし続ける必要がある。辺りが水浸しなのは、まさしく戦いの後というわけだ。
「立派な結晶じゃないか。錬金術師、ライズ・ミッテンベルク曰く。亜鉛、すなわちラーマ・フィロソニクとは茎のようであり、針のようであり、雪のように白く綿毛のような質感を呈す」
「……綺麗に回収して……計量と……灰の分析もあるよお……」
「それは任せろ。これだけ綺麗に出れば、翻訳もすぐだろ」
「トーマスは……魔法使いだなあ」
ウェランドは言って、ごろりと横になる。
魔法、という言葉にフェネシスが反応して振り向いたが、その顔には、不思議な戸惑いがあった。なにか、今にも泣き出しそうな、あるいは笑い出しそうな、不安定な感情がある。
多分それを、感動、というのだろう。
「土から掘り出した鉱石が、正しい手順に従えば、こういうものに変わる」
クースラの話を聞きながら、フェネシスはまたふらふらと引き寄せられるように箱の中を覗き込んでいる。自分の中の驚きを、処理しきれないのだろう。
「鉛から金を取り出した時なんて、もっと感動するぞ」
「えっ、でも、それは──」
フェネシスが弾かれたように振り向く。
だが、クースラはようやく笑って、言った。
「鉛を金に変える錬金術? はは。鉛を金に変えることはできないが、鉛の鉱石から金を採ることはできる。意地の悪い錬金術師が、そのことを大袈裟に言ったんだろ」
「こーんないっぱいの鉛の鉱石から、これくらいだけどねえ」
寝っ転がったままのウェランドがいっぱいに腕を広げ、最後に指でちょっとだけつまむ。
「俺たちは、こんなことや、そんなことを、ずっと続けてきて」
「これから先も続けるんだよお」
そういうわけだ、とフェネシスを見下ろすと、なにか糸が切れてしまったようなフェネシスは、「はあ」と言った。
「上に行こう。すぐに冷える。お前は?」
「俺は、これを見ながら一杯やるさあ」
ウェランドは寝っ転がったまま箱の中に視線を向けて、酒瓶を揺らした。
クースラは肩をすくめ、フェネシスの背中を押すように叩くと、立つように促した。
外に比べるとやはり工房の中は暖かい。扉を閉じると、水が水車に落ちる音も遠ざかり、急に静かになる。フェネシスは今まさに奇跡を目の当たりにした信徒のように、呆けたような顔つきでずっと唇を引き結んでいる。居間へと続く階段を上ろうとして、足がもつれたのを見て、クースラは仕方なく手を差し出してやった。
「そんなに感動的だったか?」
嘲るように聞いたのに、フェネシスはクースラのことをじっと見て、ゆっくりと、深くうなずいた。クースラとウェランドが見習いの時に毒殺を企てた、くそったれの師匠でも、一度だけ良い笑顔を見せ、良い台詞を吐いたことがある。
それは、実験の成功に感動して、クースラとウェランドの二人が言葉を失っていた時のこと。
「錬金術師の世界へようこそ」
フェネシスは、クースラの手と顔を見比べる。呆けたような顔とは、まさしくこういう顔を言うのだろう、という感じだった。
そして、フェネシスはおずおずと、おっかなびっくりにその手を取って、ゆっくりとだが確実に、力を込めて握り締めた。
「けれど、あれだな」
クースラは居間のテーブルでぼんやりとトーマスの小宇宙を眺めていたフェネシスに言った。今とついさっきまでとは、その目に映る羊皮紙の文字や絵も、まったく意味合いが異なっていることだろう。
「残念だったな? 魔術的ななにかが行われていなくて」
「っ……」
フェネシスはその言葉になにかを言おうとしたが、結局言葉が出ず、口をつぐむ。
「報告することもなくて、上役はおかんむりじゃないか」
ウェランドがうまそうに酒を飲んでいたので、クースラもまた喉の渇きを覚えた。
棚から酒を出して、ふと、フェネシスも飲むかと酒瓶を振った。お堅いフェネシスは眉をひそめて首を横に振ったが、それから少しだけ脱力するように笑う。
「昼間から酒を飲んでいる、という報告はしています」
「教会だって昼から酒を飲むだろ」
「聖餐式の葡萄酒と一緒にするのは神への冒涜ですよ」
クースラはやれやれと首をかしげるだけだが、フェネシスも本気で怒っているようには見えない。
「だが、これまでの監視役の奴らより、お前は百倍ましだよ」
「……え?」
「あいつらは、俺たちがしていることなんて最初から理解しようとしない。それでも、お前は嫌悪感丸出しながら、きちんと手引きの書と多少の知識を持って来ていた。そして、そんな恰好で、汗だくになりながらふいごまで動かした」
フェネシスは自分の恰好を見下ろして、恥ずかしそうに顔をうつむかせる。
「でも、楽しくなかったか?」
クースラが尋ねると、フェネシスは顔を上げる。
そして、嫌そうに笑った。
「感動はしました」
「いいことだ。感動がすべてを洗い流すこともある。丘の上に立ち、夕日を見た瞬間、何十年と共に闘ってきた仲間がすべて死んだ激戦の後でも、その騎士はその日一日が幸せな終わりを迎えた、と思ったらしいからな」
「……クーザー王の伝説……」
「そう。真実は、至るところにある。願わくば」
クースラは酒を器に注ぎ、目の高さに持ち上げて、言う。
「錬金術師にも、真実の光を」
それから飲もうとしたら、フェネシスはわざとらしくため息をついて、半目になってクースラを見ていた。
「嘘をつくからいけないんですよ」
「……散々からかわれたお前が言うと、説得力があるね」
フェネシスは顎を引いて唇を引き結んだが、結局、最後は苦笑していた。
「今日のことも、報告しておきます」
「ご自由に」
クースラが言うと、フェネシスはそんなクースラのことをじっと見つめていた。
笑っているような、呆れているような不思議な顔で、クースラは「ん?」と聞き返す。
フェネシスは少しためらったが、小さく言った。
「あなたは……いえ、あなたたちは、本当に自由なんですね」
神の定めた秩序の世界の中で、自由であることを許されるのは、すべてを手に入れた王か、なにも手に入れることのできなかったはみ出し者だけだ。
クースラたちは王ではあり得ない。
なのに、フェネシスはひどく羨ましそうな、疲れたような笑みを浮かべてそう言った。
「お前は自由じゃないのか?」
もちろん修道院、しかも騎士団付きの修道院の中にいれば、自由などという言葉はあり得ない。それでも、進んで修道院に入る自由はあるだろう。
クースラは聞き返したが、フェネシスは視線も合わせず、なにも答えないままに立ち上がった。
「着替えてきます」
「……どうぞ」
クースラはそう言って、隣の部屋に行くフェネシスを見送りながら、自分の頬を撫でて首を捻っていた。
その日の夜。フェネシスは帰り、ウェランドは昼間の疲れから眠りこけているような時刻。
クースラはガラスの器に水を張り、そこに蝋燭を浮かべて灯りとして、トーマスの残した暗号文を解いていた。
残す羊皮紙は数枚になっており、亜鉛の冶金結果とこれまでの結果を用いれば、あの凄まじい純度の鉄の精錬方法が書かれている箇所まで行けるはずだった。
草木も眠るような時間になっても眠気はまったくこず、クースラの名に相応しいといえばそうだった。
羊皮紙には無味乾燥な冶金の結果だけではなく、トーマスの感想や思想のようなものもまじり始めている。試行錯誤の結果から、なにか突破口を見つけた興奮が感じられた。
羊皮紙にはその結果しか書かれていないが、間違いなくトーマスはこの工房で悩み、苦しみ、それでも折れず、曲がらず、実直に自分の目標に向かって突き進んだはずだ。
トーマスがなぜ死んだのかはクースラにはもちろんわからない。
しかし、勝手な推測が許されるのなら、あの純度の鉄を作り出したうえでのことならば、もしかしたら嬉しさのあまり酒に酔い、つまらない騒ぎに巻き込まれた、ということなのかもしれない。
羊皮紙には、それほどの興奮が詰まっていた。筆致は落ち着き、文法は岩のように固いのに、なおわかる。クースラは大きく息を吸い、羊皮紙独特の匂いを胸いっぱいに吸う。
トーマス自身の興奮に当てられたということもある。
だがそれ以上に、その最大の理由はあの凄まじい純度の鉄の精錬方法がわかれば、マグダラの地へ近づく方法がわかるかもしれないと思ったからだ。クースラがすべてを賭けるのはマグダラのため、いや、すべての錬金術師が錬金術師であり続けるのは、マグダラのためだけだった。これで興奮しないわけがない。
ただ、間違いがあってはならない。
クースラは何度も数字や記号を確かめて、過去の書物を紐解き、トーマスがこの工房に残した他の書物とも見比べながら進めていく。
だから、その一文が現れた時、クースラはしばらく頭が空白になっていた。
数行戻り、文を解き、さらに元になった結果などを見返して、なお確かめた。
それなのに、結果は変わらない。
それは、間違いではないし、見間違いでもなかった。
残すところあと二枚の羊皮紙になった時、最後の行には、こうあったのだ。
「神の……お赦しを?」
些細なことで、すべてが入れ替わる。
クースラはペンを置き、椅子から立ち上がる。
酔っ払いのようにむずかるウェランドが飛び起きたのは、それから間もなくのことだった。