※この試し読みは『少女は書架の海で眠る』一巻の一部を抜粋したものです。


◆◆序幕◆◆


 書庫には、百十四冊の本があった。

 文法学、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽、それに、古代の哲人が著した哲学書に、神学書、聖典注解書、英雄譚、冒険譚、たくさんの年代記……と数え上げていけば、百十四種類を挙げるのは並大抵のことではない。それはつまり、世界についてのあらゆる本がそこにあったということであり、僕はそのすべてを読み終わった。

 そして、得たのは満足感ではない。絶望だった。

 世界のすべてを知ってしまったからだ。

 もうこれから先、自分の知らない物はなく、聞いたことのない場所はなく、想いを馳せたことのない歴史も、読んだことのない詩も、憧れたことのない英雄もいないのだと途方に暮れた。

 その途端、生きる意味というものがなんなのか、まったくわからなくなった。

 自分の知らない面白いことがもうなくなってしまったのだとしたら、どうして律義に毎日目を覚ます必要がある? 冒険が終わったのなら、冒険者が生きている理由とはなんなのだ?

 僕は、習いたての仕事のために渡された、小さな短剣に目をやった。貴重な羊皮紙を再利用するため、そこに記された文字を削る道具であり、つまりはつづられた物語を消すものだ。

 仕事は辛く、大人たちは厳しく、ただ生活していくだけでも簡単な世の中ではない。単調で、同じことの繰り返しばかりの仕事が、ろくな休みもなく何十年も続く。この先に自分を待ち構えている物語とは、そういうものだ。

 ならば、いっそ、今、この場で……。

 震える手で短剣を手に取った、その直後のことだ。

 突然書庫の扉が開き、声が飛び込んできた。

「エイレリウスの六歩格詩を読めるんでしたっけ? 教会文字で? それは素晴らしい!」

 ずかずかと神聖な書庫に入り込んだ誰かが、軽薄な口調でまくしたてる。それだけで古の知を集積した本に傷がつき、羊皮紙を束ねる紐が緩みそうだ。

 それに、エイレリウスの六歩格詩!

 それは教会文字の基礎文法書として最も有名な、古代の詩人の本だ。教会文字を学ぶ者は必ずその本を読むので、決して珍しい代物ではない。だから僕は、そんなことも知らない大人がやって来たのかと侮蔑の視線を向けようとして、ぎょっとした。

 そこにいたのは、特徴的な漆黒のローブを身にまとい、黒い布地の上に光る金の首飾りをつけた、異端審問官だったのだから。

「おや、彼ですか?」

 しかし、よく見ると自分の想像していた異端審問官とは違っていた。異端審問官は経験と体力を兼ね備えた壮年の男がなるものだと思っていたが、その人物は兄と呼べそうなくらいの青年だった。そんな頼りなくすら見える童顔の異端審問官は、まっすぐに僕のことを指差した。

 けれど、なぜ? ここには焚書になるような魔術書の類は──と慄いて、同時に気がついた。

 焚書になるような魔術書の類?

 そういえば僕は、それを未だ読んだことがない。もしかして、まだこの世には、自分の知らない未知の世界が存在するのでは──。

「ほほう。確かに賢そうな顔をしています! ですが、ちょっと元気がなさそうですね、どうされました? おや、手元にあるのは大ウーズワースの『黄金の国』ですか。ウーズワースが旅をした辺境の地には心を搔き立てられるものがありますよねえ。胡椒やナツメグが流れてくるという楽園につながる川は見てみたい気もしますが、もしそんな川が本当にあるのなら、傷や目に染みそうですよね。あなたもそれを想像したのですか? いいえ、言わなくても結構。あなたのような賢い少年ならば、そんなことはないでしょう。きっとその本を読み終えた直後であり、あなたはこう思っている。ああ、冒険が終わってしまったのだと!」

 僕は、ぎくりとした。畏怖と処刑の象徴である異端審問官の厳めしい装いに圧倒されたのでも、そのあまりに軽薄な喋り方に呆気に取られたのでもない。

 そいつが、どこまでも正確に、僕の胸中に指を突き立てたからだ。

「大ウーズワースは一介の山羊飼いの息子から身を起こし、不可能を可能にして世界中を旅して回り、最後には武功を立てて一国の王になった男ですからね。『黄金の国』とは実に含蓄のある表題です。私も夢中になって読みましたよ。ですから三十二年にわたる彼の大冒険が終わるその瞬間の一行を読んだ時、がっくりきたものです。ですが、その時、私はふと気がついたのです!」

 子供みたいな異端審問官は、楽しそうに笑ってこう言った。

「落胆することはありません。なぜならば、この世には私が三十二年間を費やしても読み切れないだけの本があるのだから!」

「……え?」

 思わず聞き返すと、異端審問官はにんまり笑った。背筋を殊更に伸ばして左手を背中に当て、えへんと咳払いをして、怒濤のように語りだした。

「私はまだ冒険に出たばかりであり、そして、向かう先はあまりにも果てしないと気がついたのです。教会の総本山リュトゥクリスにある教皇庁図書館の蔵書は増え続けています。いいえ、それは誰かが外部から持ち込むからではありません。八百二十年の歴史を振り返る都度、即ち、目録を作るために図書館の深奥に向かうごとに、忘れ去られていた本が発見されるからです。しかも、知っていますか? 新しい本が発見されるのは、古い本の中が多いのです。本の厚さを調整するために差し込まれた一篇が、数百年前の哲人の未発見の論考だったりすることがあるのです。そして、世界には未だ未調査の、古い教会や修道院の図書館が無数にある! 挙句に、葡萄酒を飲み、オリーブの実を食べながら哲学を語る太古の智者たちの書簡の、写本の写本の写本をつぶさに調べると、そこで言及される、知恵を持つ者ならば必ず読まなければならない文献として列挙される本の、わずかな部分しか発見されていないことに気がつくのです! その意味がわかりますか? 我々は、神が世をお作りになられて以来、語られたり記されたりした知識のほんのかけらしか見つけられていないということです。おお! なんという怠惰! なんという浪費! なぜならば、人の頭をお作りになられたのが神であるならば、そこには神のお考えがすべて詰まっているはずだからです。その頭で考えられたあらゆることを知らずにすますのは、神がお作りになられた我々という尊い存在をきちんと全うしていないということです! 世界は、無限に広がり、今もなお広がり続けています! だから我々は素早く、たゆまず、恐れずに突き進まなければなりません! 我々は神の足跡を追いかけ、神の元に少しでも近づかなければなりません。そのためには一刻の猶予も残されていないのです! なぜなら、本は永遠ではなく、火事、虫食い、黴、鼠、あるいは時の流れによって容易に塵へと還ってしまうからです。多くの本が無知と無関心のゆえに、消滅の危機に瀕しています。ですから、少年よ! 私は人手を求めているのです! そして、あなたは実に素晴らしい人材です!」

 ほとんど息継ぎすらせずに喋りまくっていた異端審問官は、くるりと踵を返してしまう。

 僕は茫然としたままその場に座っていた。旧弊な考え方の武人や厳格な生き方を目指す聖職者の中には、本を読むと馬鹿になると言う人が少なからずいる。きっと、目の前のこの人こそが、まさしく本を読みすぎて馬鹿になってしまった人なのだろうと思った。だが、それでもなお、僕は喉の奥からなにかがせり上がりそうな、泣きたくなるような予感を抱いていた。

「なにをしているのです! 立ち上がりなさい!」

 その風変わりな異端審問官は、お祭りが待ちきれない子供のような顔で言ったのだ。

「あなたを、十三万七千冊の本が待っています! あなたは知の世界の番人となるのですよ!」

 百十四冊の本を読んで、世界のすべてを知ったと思った。そこにはあらゆる分野の本が含まれていて、自分の頭には普通の大人の人生百十四回分が詰まっていると思っていた。

 なのに、十三万と、七千冊。それをうまく想像することはできない。

 けれど、なぜかふと、その瞬間に採光窓を振り仰いだ。そこからはさんさんと日光が降り注ぎ、窓の向こうには青い空が見えている。だが、それはあまりにも広い空の、ほんのわずかな一部でしかないのだ。

 即座に立ち上がり、がむしゃらに駆けだした。

 自分の知らないこと、見たことのないこと、出会ってもいない楽しいこと。

 この狭い書庫の向こうに、それらがまだ山ほどあるのだと、気がついたのだから。


◆◆第一幕◆◆


 目を覚ますと、荷馬車に揺られていた。

 真冬は峠を越しつつあり、日によって吐く息はまだ白いこの時期だが、天気が良くて風もないと、へたに石造りの建物の中にいるよりも過ごしやすい。

 羽毛を一枚ずつ顔に載せるような陽光の下でのんびり横たわっていると、がたごとという荷馬車の単調な音と振動のせいもあって、すぐに眠くなってしまう。

 しかし、これから向かう先のことを考えれば、気を抜いている場合ではない。

 俺は両頰を自分の手で叩き、体を起こして大きく伸びをする。ぱき、とか、ごき、と音がする。右肩に鉛をくくり付けられているように感じるのは、蚊の目玉をほじくるような細かい仕事を一晩中こなしていたせいだ。

「吞気なもんだな」

 最後に大欠伸をしていると、御者台のほうからそんな声が聞こえてきた。

 この荷馬車はそいつの仕事道具で、荷台に満載の荷物を運ぶのもそいつの仕事だ。俺はそこに相乗りさせてもらっている身分だが、れっきとした商会の命令を受けてここにいる。

 それに、吞気なのではない。どちらかというと、今日のことへの熱意が募りすぎて昨晩は眠ることができず、結局明け方まで仕事をしてしまった結果だった。

 なにより、うっかり転寝をしても気を抜いているわけではない。俺は夢の中でさえ、これから向かう交渉の場での立ち居振る舞いを綿密に思い描いていたのだから。

「教皇庁帰りは、荷台でふんぞり返ってりゃいいんだから楽なもんだ」

 しかし、俺のことを端から侮っているそいつは、俺の意気込みに気づきもしない。くすんだ金髪をおでこが出るくらい短く刈り込んだジャドは、嫌味ったらしくそう言った。ジャドは俺と同じように、ジーデル商会という大きな商会に雇われている。若衆と呼ぶにはいささか早く、歳は俺と同じ十四歳だが、背がそれなりに高いのでぱっと見は一人前の男に見える。この歳ですでに荷馬車を任されているのも、その恵まれた体格ゆえだろう。対する俺は、歳相応か、悲しくもそれより子供に見られることがある。

 そのうえ、夏も冬も雨の日も風の日も力仕事に明け暮れるジャドと違い、こっちはひたすら屋内で文字を相手の仕事なのだ。背中は丸まり、肌は生白くなった。英雄に憧れて剣を振れば少なくとも腕は太くなるが、英雄譚を読んでいるだけでは英雄らしくなんてなれはしない。むしろどんどん遠のくばかりで、肩と腰はいつも痛いし、指には大きなたこができるし、目は悪くなって、達者になるのはせいぜい口ばかりだった。

「うるさい。昨日は夜中……いや、今日の朝まで羊皮紙を削ってたんだよ」

 徹夜仕事は誰よりも働いている証。俺は胸を張って答えてから、付け加えた。

「ジャドこそ、いい加減に馬を進めて谷底に落ちるなよ。俺の頭の中には十四万冊の本が詰まってるんだからな。失ったら商会の大いなる損失だ」

「ははっ。よく言うぜ。大体、帳場で売り上げの悪い商人がなんて怒られるか教えてやろうか? 商品は、貯め込んでるだけじゃ儲からないんだぜっ」

「む」

「それと、明け方まで仕事をしているのは単にお前の手際が悪いだけだ。仕事のできる奴ほど、切り上げるのも早い」

「ぐっ……」

「そもそも、どうせ興奮して眠れなかったってオチだろ。お前、昔から気が小さいからなあ」

 ジャドはからからと笑い、俺は言葉に詰まる。

 そして、結局反論は口にしなかった。

 実のところ、まったくそのとおりだったからだ。

「とはいえ、俺には絶対にできん仕事だからな。その点だけは敬意を払おう」

 わざとらしく大人ぶった物言いをしてから、ごそごそと脇に置いた袋から干し肉を取り出し、後ろの俺に放り投げてきた。

「文字なんて、見ているだけで頭が痛くなってくる」

 ジャドから言葉と共に干し肉を受け取り、塩の効いたそれをしゃぶりながら、俺は言った。

「……数字と同じだろ。数字が読めるのに文字は無理だというほうが理解できない」

「数字なら、金貨とか銀貨を積み上げていけばそれがわかる。三なら金貨三枚。八なら銀貨八枚って想像がつく。だが、文字ってのは想像ができないからな……ましてやそれがずらずら並んだ本なんてな。ぎっしりヒヨコを詰め込んだ箱の中で、ヒヨコどもを整列させろと言われるようなもんだ」

 ジャドの喩えはよくわからなかったが、とにかく絶望的だ、というようなことを言いたいのだろうとはわかった。文字は読めなくても生きていける。むしろ読めない人のほうが圧倒的な世の中だし、文字が読める人であっても、本を読むのは稀な存在だ。

 その楽しさを誰かと分かち合おうなどという夢は、とっくの昔に諦めた。

「しかし、あれだ。フィルよ」

 ジャドが俺の名を呼ぶ。

「なんだよ」

「俺も、たまに本を読みたいと思うことがある。字の読めるお前が羨ましいぜ」

 俺は驚きのあまり言葉が出なかった。

 まさか、この、ジャドが?

 誰一人知り合いのいない言葉すら通じない異国で、同郷人に出会った感覚というのは、きっとこういうものだろう。

「な、な、な、なんの本だ? お、俺が読んだことのあるやつなら、説明もできると思う!」

 本の楽しみを共有する相手ができるなんて望みもしなかった。

「表題はわかるか? 著者は? あ、なんなら、ざっとしたあらすじでも──」

「ん、ほら、あれだよ」

 と、ジャドは少し言いにくそうにすると、にやりと笑った。

「本の中にはほら……お楽しみがたっぷり書かれたものもあるんだろ?」

 肩越しに振り向いたジャドは、実にだらしなく笑っていた。

 呆気に取られた俺の頭から、魂に似たなにかが漏れ出ていく。

「あるんだろ? 特にほら、熱狂的な若い聖女が、もてあました欲望をってのが」

 ジャドがなにを話題にしているかはすぐにわかった。最近出回っている書籍で、有名な聖女が裕福な貴族の後援を受けて出したものだ。普通、そんなものは関係のある教会や修道院に寄付のかたちで納められて、すぐに誰からも忘れ去られて何十年も書庫にしまわれたままになる。それが、その一冊はひょんなことから人々の会話に上るようになった。たぶん、内容のせいなのだ。それも、本質とは関係のないところの。特に、文字の読めない連中は、聞きかじった知識で勝手に想像を膨らませる。俺は、ジャドに変な期待をしてしまったことを後悔した。

「いいか、よく聞け、馬の尻野郎。あの本は、いかに我が身を神に捧げるかに苦悩していた聖女の苦しみが記されたものだ。神との対話を真剣に模索した、深遠なる神学的な議論と我々人間の原罪を扱ったものであり、決して卑俗な興味で読んでいいものではなくてだな──」

 と、そこまで言った瞬間だった。

「ああ、主よ、主よ、罪にまみれた私の声をお聞きくださいっ、そしてこの私に罰をお与えくださいっ、この私めにっ、ああ、主よっ! 私はもう我慢できないのですっ!」

 ジャドが裏声で、身もだえしながら語りだした。頭がおかしくなったのではなく、それこそあの本が有名になった原因の、一節なのだ。

「私のこの、罪深き体にあなたのお名前を、深く、深く刻み込んでくださいっ、この、私の体にっ!! ……って聞いたぜ? しかも、その聖女様はえも言われぬ甘い芳香を放つ、花のような女性だってな。なあ、フィル、お前も当然読んだんだろ? やっぱり聖女様は美人でやわっこいのかな。なあ、なあ、どうなんだ?」

「……」

 頭っから卑猥な本だと思い込んでいるらしい。大方、粗野な先輩商人連中との酒盛りの最中に聞きかじってきたのだろう。その場の様子が目に浮かぶ。

 しかし、こいつは聖女の甘い芳香とやらをなにか官能的な表現だと思っているようだが、それは大間違いだ。激烈な断食を繰り返す聖人たちは、天使の祝福ゆえか、体が甘い芳香を放ち始めることがあると聞く。

 つまり、その聖女はどう考えてもジャドが好きそうな豊満で柔らかそうな体つきではなく、目が落ち窪み、唇は乾き、あばら骨の浮いた骨と皮ばかりの厳粛な神の僕といった風体だろう。

 とはいえ、この馬鹿にどうやって聖人や聖女たちの偉大さを知らしめればいいのかと若干途方に暮れていると、ジャドがしつこく言ってくる。

「読んだんだろ? お前のところの工房には、貴族連中が貸し借りする本がくるんだろ?」

 俺は、小さく、事実だけを答えた。

「……読んだよ」

「どうだった、どうだった!? やっぱそのとおりなのか!?」

 野良犬と変わらないジャドが、御者台から荷台に飛び移らんばかりに身を乗り出してくる。

 俺は体を引きながら、目を逸らす。

「読んだが、さっきも言ったように、その内容は真面目でだな、その……聖女が甘い芳香を放つっていうのも、断食をしている聖人たちの聖性を表すお決まりの表現で……」

 聞きかじりの知識で変な妄想ばかり膨らませているジャドに、いちいち説明するのも馬鹿らしくなる。あの本は本当に苦しくなるほど切羽詰まった、ひたすらに神と一つになることを目指した聖女の、熱情にあふれ、どこまでも主への献身の思いに満ちた、まるで永遠の愛を語るような、官能の響きすら感じられる……聖女の……きっと美しい聖女の……美しい……。

「おい、フィル」

「はっ! な、なんだよっ!」

 思わず声が上ずった。

「顔、真っ赤だぞ」

「ぐっ……だ、黙れ野良犬!」

 俺が怒鳴ると、ジャドはゲラゲラ笑っていた。

「でも俺は、本の中より、現実の女のほうがいいかな」

「……お前は悩みがなさそうで羨ましいよ」

「悩みは生まれるものではなく、見つけるものである」

「へえ……聖ミュリアネス、だったか?」

「俺だよ」

 放浪学生がいるような町の酒場で、知識をひけらかす学生を馬鹿にするための常套句。

 引っ掛かってしまった自分が憎らしい。

「しかし、フィルさんよ」

 突然さんづけで呼んでくる。またぞろなにか俺を虚仮にするつもりかと構えていると、ジャドの口を突いて出たのは意外な言葉だった。

「夢はまだ遠そうなのか?」

 馬の尻をぺしりとやりながら、尋ねてきた。嫌味やからかいの類という感じではなく、単に旅程を確認するかのような言い方だった。俺はそれで、ジャドとこんなふうに会話するのも久しぶりなのだと気がついた。

 物心ついた時から同じ商会で働いている俺とジャドは、同じ日に商会の軒先に捨てられていたというから、実質兄弟みたいなものだ。

 しかし、なにをするにも二人だった、という時期はかなり昔の話になる。ここ数年の俺とジャドの商会での立場は、まったく違うものになっていた。それこそ、相手がどこに向かい、そこまであとどれだけかかるのかもわからないくらいに。

 ジャドはその恵まれた体格を生かして、商会の販路を拡大する旅商人を着実に目指している。

 一方の俺は、途方もない夢を見ていた。

「夢は、そうだな……。太陽と、同じだ」

 空を見ながらそう言うと、ジャドは御者台から顔を向けてくる。

「毎朝地平線の向こうから現れるが、それはいつだって遠くにあって、しかも眩しくて見れやしない。挙句、手を伸ばしているうちにあれよあれよと西のほうに沈んでしまうが、失意に暮れていると、また東の大地から顔を出す。ひどいもんだ。いっそ、沈んだままなら諦められるのに……」

 情感たっぷりに語り終えると、ジャドは鼻の頭を搔いて、前に向きなおった。

「あほくさ」

「な、なにがだよ!」

 食ってかかるが、ジャドは振り向きもしない。

「要はまだまだだってことだろ。気取ってんじゃねーよ。寝小便垂れのフィルが」

「おっ、そっ、それはもう大昔の話だろうが!」

「ま、お前が当分小便垂れなのはわかった。積荷に垂れるなよ。怒られるのは俺なんだから」

 ジャドは俺を頭から叩き潰して、大きく欠伸をしていた。二連続で打ちのめされた俺は、不貞腐れるようにまた荷物の上に仰向けになった。大きな夢を追いかける勇気もないくせに、と胸中でジャドを罵ってみるが、それは負け惜しみだとわかっている。

 空を見上げると、太陽の前を一羽の鳶が悠々と通り過ぎていく。堅実な鳶は太陽に向かって飛ぼうなんて思いもしないだろうが、俺が精いっぱいに手を伸ばしたところで、太陽はおろか鳶の足にすら触れることができない。ジャドは大それた夢など見ないかもしれないが、商会では着実に足場を築いている。俺は、地べたで夢を見ているだけだった。

 太陽に向かって作った握り拳は、すぐにぱたりと下ろしてしまう。自分のやろうとしていることがどれだけ無謀かは、自分でもよくわかっているのだ。商会の人間の中には、目を剝いて俺のことを狂人だと言う者もいる。俺は、いじけたように、横を向いて体を丸めた。

「単に読んだことのない本に触れ、未知の本を見つけたいだけなのにな……」

「卑猥な本じゃなく?」

「違うって言ってんだろ!」

 俺は怒鳴り、けれども体を起こしきるほどの気力はなかった。

 再び、そこにあるのに摑むことのできない太陽を見た。

 俺の夢は、ただひたすらに本に触れ、その側にいること。

 しかし、北にいる異教徒が今にも侵攻してこようかという時勢で、本などというものの側で生きるのは、あまりにも困難なことだったのだ。

「今からでも師匠を替えればいいんだよ」

 不意に、ジャドが真面目な口調で言った。

「それこそ、帳場のフィチーノさんでいいじゃんか。文字が読めて書けるんだから、帳場で働けばあっという間に偉くなれると思うがね。ゆくゆくはジーデル様の書記で悠々自適だろ」

「無味乾燥の帳簿や訴状と、滋味豊かな本を一緒にするな」

 ジャドの現実的な言葉を一蹴する。

「俺は、本の世界で生きたいんだ」

 それも、職人ではない。本というものは他の商品と同じく、たくさんの職人の手を経て造られるから、本に関わるというだけならば、細いながらもいくつか道はある。

 しかし、俺はその中で最も高貴にして、最も細い道を歩きたかったのだ。

「書籍商、ね」

 ジャドは呆れたように言った。

「霧を売る仕事だな」

 霧はそこに確かにあるけれども、決して手には入らない。そして、手に入らない物を商人は売ることができない。一攫千金ばかりを追いかけるような、若い商人に忠告する際の慣用句。

「大体、本はあれだろ? 好事家同士で写し合うんだろ? それでどうやって商売にするんだ? 仕入れて、売却するのが商人なんだから、出番がねえよ」

「……わかってるよ」

 遠隔地貿易用の商船を何隻も所有するようなジーデル商会ですら、本の売買が行われた最後の記録は二十二年前のものだ。時折好事家同士で融通されることはあるらしいが、それは商人が絡むような商いとは程遠く、基本的には貸し借りが中心で、交換すら滅多にない。なにせ本というものはジャドが言うように写本を制作することが可能で、売り買いする積極的な理由が存在しないのだ。

「でも、俺は諦めない。不可能を可能にした人はたくさんいるんだからな」

「神をも畏れぬ大胆さだが……道を改めるんなら早いほうがいいぜ」

 荷馬車の御者台に座り、手綱でぴしりと馬の尻を叩きながら、ジャドが言った。

「お前、不器用なの直ってないんだろ? お前に金細工師は無理だよ。ボッチョ親方も、よくお前のこと雇ったよな」

「金細工師じゃない。書籍の装丁職人だし、それは書籍商になるための足掛かりにすぎない!」

 覇気を込めて叫んだが、ほとんど自分に言い聞かせているようなものだった。

 いくら俺が書籍商になりたいとわめいても、存在しない商売をするわけにもいかない。そして、商会は慈愛に満ちた修道院ではないので、働かない奴を食わせるほど寛大ではない。

 なので俺は、普段は書籍の修理や装飾を請け負う、商会のお抱え職人の下働きをしていた。

 そこでの仕事は多岐にわたる。歪んだ革の表紙を叩いて直したり、剝がれかけた金箔を張りなおしたり、金や銀でできた装飾を修理したり。他にはゆるみかけた頁の紐を締めなおすこともするし、朽ちかけた頁を新しい羊皮紙と差し替えたり、持ち主が気に食わない箇所の文章を削ったり書きなおしたりもする。要するに、本にまつわるあらゆることを請け負っていた。

 後々書籍商になった時には必ず役に立つはずだと思えば、地味で単調な仕事も苦にならない。

 もっとも、その装丁職人でさえ、前途は多難であった。なにせジーデル商会が世界中に商業網を張り巡らせ、数えきれないほどの貴族を顧客として持つ中でも、本を楽しむような変人は数えるほどで、彼ら好事家が本の修理や装飾を依頼することなど、そう何度もない。

 実際のところ、ジーデル商会唯一の書籍装丁職人であるボッチョ親方が引退したら、商会からその仕事は消えてなくなってしまうだろう。そういう仕事の下働きをするというのは、死者のために棺桶を温めておくようなことと変わらない。誰からも感謝されないし、へたをすればそのまま死者と共に埋葬されてしまう。

 緩慢な自殺と変わらない行為だった。

「おとなしく書記を目指したほうがいいと思うけどなあ」

「いいんだよ。ボッチョ親方が若い頃は、確かに書籍の売買を専門にする商人がいたって話だから、きっとまたそのうち書籍商になれる日がくる。そのためには、本に最も近い職に就いているのが一番だ」

「ふうん? まあ、異教徒との戦が終われば、そんな時代がまたくるかもな」

 真夏に雪が降れば涼しくなるのにな、というような口調でジャドは言った。

 教皇が指導し、教会を後ろ盾にした異教徒との大規模な戦はほんの数年前に始まった。けれども歴史書を読めば、それに先立つ戦乱の嵐は、もうかれこれ三十年近くこの大陸を吹き荒れていたことがわかる。世代がひとつ入れ替わるほど長く続いた戦は、目を覆うばかりの泥沼の戦況を招いた。誰が敵で誰が味方かわからなくなって久しく、そうなるともう、戦をやめようにもどこと停戦すればいいのかすらわからない。大義も目的も、恨む対象すらもなく、ただ人々が理由もわからず殺戮を繰り返す地獄のような状況になっていたという。その時、悪魔的な知恵で活路を見出した者がいた。人々の共通の敵を作り出し、暴力の流れを一点に差し向けたのだ。

 それが信仰の総本山である教皇であり、殲滅すべき異教徒の誕生した瞬間だった。

 しかし時すでに遅く、血塗られた歴史は世界を堕落させ、かつてもてはやされた優雅な歌や踊りは、狂騒と暴力に変わり果てた。高価な書籍に金を費やそうと考える者たちなど滅多にいない。そんな金があれば、武器を揃え、食料を貯え、酒を飲んで世の憂いから目を逸らしながら、一心不乱に戦うべきなのだ。

 町のほとんどの人々は、戦がない、という状況を想像ができない。そんなものは歴史書の中にしかなく、歴史書は滅多に読まれない。

 けれど、平和な時代はかつてあった。貴族のみならず、町の人々までもが文字を学び、見様見真似で詩を作り、手探りで宇宙について議論した時代が確かに存在はしたのだ。

 本を読めばわかる。歴史は必ず繰り返す。

 いつか戦が終わり、平和になれば、またたくさんの人が本を読むような時代がくるだろう。

 貴族同士のささやかな貸し借りではなく、本の売買が行われ、本だけの市が立つような、書籍商が背中に山ほど本を積み、文化と娯楽の担い手として、尊敬されていたような時代がやってくるはずだった。

「しかし、ボッチョ親方もあれでいい人だからな」

 と、ジャドのそんな声で俺は現実に戻される。

「お前みたいな厄介な弟子をさっさと放り出すこともできないんだろうなあ」

 ジャドは馬の尻をまた、ぴしりと叩く。自分の尻を叩かれたような気がしたのは、俺が細かい仕事をする職人としては、絶望的なくらい不器用だったからだ。俺は書籍商になるための足掛かりとして、また商会から放り出されないようにと、装丁職人のボッチョ親方の下で下働きをしているものの、役に立てているかどうかははなはだ疑問だった。

 たぶん、普通の職人見習いならとっくに工房から叩き出されているか、哀れまれて別の仕事を勧められているだろう。

「お前、ボッチョ親方に弟子入りした時、文字どおり腕にかじりついて頼み込んだって?」

「……夢はそのくらいやって、摑むものだ」

 憮然として答える。

「摑んだんじゃなくて嚙みついたんだろうが。なんにせよ、やられるほうはたまったもんじゃないな」

 ジャドがずけずけとものを言うのは、昔からだ。

「今朝、突然、納品にお前を連れてけと言われた時は驚いたけど、考えてみればなんとなく筋は通るよな」

「……なんの話だよ」

「書籍商になりたいから、とか訳のわからん理由で押しかけて来た奴に押し切られて弟子にしちまったけど、書籍商なんて成立しないし、しかも職人としては絶望的に不器用だ。このまま続けさせてもどのみち行き詰まるから、ちょっとでもそれっぽいことをやらせて満足させてから他の道を勧めようって肚だな。ボッチョ親方はいい人だよ」

 ジャドは勝手に話を作り上げるが、反論ができない。

 薄々、そうではないかと思っていたからだ。

「お前がなんの仕事も身につけないまま歳を取る前に、どうにかしてやりたいんだろ。そんな心配してくれる人がいるなんて、お前は果報者だぜ?」

「う……む……」

 それはそうだ。商会は天使の集まる修道院ではなく、誰しもが働き、貢献することで成り立っている。そこでろくに働きもしない奴を心配する理由は、はっきり言ってない。ボッチョ親方が俺を弟子にしてくれ、ただでさえ少ない仕事の中から簡単な仕事を割り振ってくれるのは、同情からだとわかっている。ボッチョ親方自身も、世界が本というものに関心を示さなくなるなか、意地を張って仕事を続けてきた人物だからだろう。

 だからこそ余計に、俺は舞い込んできたこの好機を、逃すわけにはいかなかった。

「俺は、この仕事で書籍商になる」

 教会で神に祈るよりも真剣に、俺は呟いた。

 その真剣さのせいかどうか、ジャドはそれ以上からかってこなかった。

 そして、ほどなく荷馬車が停まる。

「着いたぜ」

 前方には、そびえ立つ石の壁。

 グランドン修道院。

 俺がボッチョ親方から言われ、蔵書の買い付けをしに来た修道院だった。



 グランドン修道院は、崖と崖の隙間に建てられた要塞のようなところだった。

 地平線の向こうから蛮族が来ても、ただちに追い返せそうなくらい分厚くて背の高い石壁は、まさしく信仰の砦に相応しい威圧感を持っている。街道から大きく離れ、周りに人家はなく、最も近い村ですら歩いて半日近くかかる。ジーデル商会からは丸一日以上の距離だ。偏屈な羊飼いでもなければ来ないような場所で、街道から外れているために旅人はまず訪れない。

 霧を買い付ける場所としては、十分なくらい神秘的だった。

「……中も、広いのか?」

 俺は威容に飲まれないようにと、質問を口にした。

「かなりな。三十人からが生活していて、畑もあるし、製粉所と搾油装置の部品も納入した記録がある。相当な金持ち貴族が支えてるところだ」

「そんなところが……本当に金に困ってるのか?」

「俺の見解になにか疑問が?」

「いや……」

 そもそも、この修道院に蔵書の買い付けに行って来いと命じられたのは、ジャドの進言が発端だった。月に二回、この修道院に品物を納品する役目を負っているジャドが、修道院の異変に気がついたのだ。そのジャドが、相手が金に困っているのならつけ込むのが商人だ、と一席ぶったかどうかは知らないが、商会の偉い人らは一つの判断を下すことになった。

 グランドン修道院が金に困っているのなら、そこにあると噂の、素晴らしい蔵書群を買い付けてこい、と。そして、蔵書の買い付けならば、書籍商見習いが相応しいだろう、と。

 俺はもちろん狂喜したが、妙なところに気がつかないわけもなかった。

 大体、買い付けた蔵書を売る相手がいない。たぶん、買い付けられたとしても、ジーデル様の蔵書に加えるつもりなのだろう。

 ジャドが言ったように、これはボッチョ親方の気遣いである可能性が非常に高かった。

 茶番、という言葉がずしりと心を押し潰そうとする。

 だが、人生最大の好機といえば、好機なのだ。

 書籍商という、夢。

 形だけでも叶えられるのであれば、それで良しとするべきなのかもしれない。

「疑念はもっともだが、対応に出る小僧を見れば、俺の言うこともわかるはずだ」

 一方のジャドは、いつの間にか俺以上に真面目な顔をしている。自分の判断に自信を持っている一人の商人の顔つきだ。そんなジャドの様子に、どこか悲観的になっていた俺は恥じ入ってしまう。

 ジャドが、重厚な扉を力任せに叩いた。

「ジーデル商会の者です! 神の代理人たちとの契約に従って、今日もお気持ちを納めに参りました!」

 ジャドが運んで来たのは、実は修道院が買い付けた品物ではない。三年ほど前にこの修道院に寄付された、大貴族との契約に基づいて納品されているものだった。

 本来ならばそれで神へのとりなしを頼む大事な儀式の一環なのだろうが、何年も続き、月に二回の頻度となれば、儀礼的なやり取りも粗雑になるのだろう。

 俺はそんな様子を眺めながら、ジャドから聞いた話を思い出す。二ヶ月ほど前、応対に出た修道院の小僧から、こんな申し出があったらしい。納入品を減らすことはできないか、と。その願い出は奇妙だったし、最近になってその内容はもっと奇妙になったという。

 できれば、それを現金に換えることは……。

 荷馬車の側に立って成り行きを見ていた俺は、にじみ出る欠伸を必死に嚙み殺す。緊張すると欠伸が出るこの癖はどうにかしたい。

 すると、ほどなくして扉の向こう側で閂を外す大きな音がして、扉が少しだけ開かれた。

「毎度どうも。ジーデル商会です」

 ジャドは扉の隙間に向かって話している。

 俺の位置からでは、応対に出た修道院の人間が見えない。

「今回の分も扉の前に置いておけばいいですかね?」

 えっ? と思って荷馬車の荷台を見る。そこには結構な量が積まれている。それに、修道院の扉は軍勢ですらすんなり通れそうなくらいにでかいのだから、中に運び込んだほうが手間もなさそうだ。

 どうやら、俗世間の汚れた存在は中に入れたくない、ということなのかもしれない。

「ああ、いえ、いつもどおりです。契約がそうなってますから」

 ジャドの口ぶりから、納入品を減らす云々というのは本当らしいことがわかった。

「なんなら、貧しい人たちにでも分けてやってください。皆が感謝して、グランドン修道院の名を高らかに謳うことでしょう」

 困っている者は焦らすのが商会のやり方だ。

 ジャドはふと俺に目配せをしてから、こう言った。

「あ、そうそう。実は、当商会の人間がぜひ一度、こちらの方にご挨拶をしたいと」

 出番だ。

 俺は、小さく深呼吸をする。

「それでは、私は荷物を降ろしていますんで」

 世に聞こえる……かどうかは知らないが、とにかくでかいグランドン修道院。俺はこの重厚な扉をくぐり抜け、書庫にまで到達し、貴重な書籍を買い付ける。そして、まだ誰にも知られていない知識を世に放ち、その功績を盾に書籍商として商いを始め、神が我々の頭の中に詰め込んだ無限の秘密を暴いていくのだ。

 だが、なんにせよまずはこの門を預かる人間に好かれなければ、物語が始まらない。

 俺は髪を整え、襟を正し、にこやかに挨拶をしようと、扉の隙間に向けて進み出た。

 その、俺の前にあったのは。

「……なんのご用ですか」

 油じみた栗色の前髪の隙間から睨み上げてくる、荒んだ目だった。

 背は俺よりほんの少し高く、ジャドより低いが、体つきがひょろひょろしていて歳上なのか歳下なのかわかりづらい。身にまとっているのは擦り切れた麻の修道服で、フードを目深にかぶり、厩でも掃除していたのか、薄汚れた布で口元を覆っている。靴も履いていないし、爪は黒く、手の指は痛々しいほどぼろぼろだった。

 俺はたじろいだ。

 これだけ立派な修道院なのだから、たまには名のある聖職者たちが訪れるに違いない。なのに、出迎えがこんな浮浪児みたいな小僧で許されるのか? いや、見た目が貧相なのは構わない。修道院なのだから、それだけ厳格だと解釈することもできる。それに、大きな修道院には優雅に信仰を追い求めるだけの修道士だけでなく、泥にまみれ、彼らの生活を支える助修士と呼ばれる下働きの者たちがいる。この小僧は典型的な助修士の中の下っ端なのかもしれない。

 だが、それにしても、この荒みようだけは理解ができなかった。

 月に二回、欠かさず大量の食料が届けられ、誰一人としてまともに働く必要のない修道院なのに、この小僧は食うや食わずの町の貧民窟こそが似合っていた。救いなどこの世にはない、という怒りと絶望に満ちた目が、修道院に相応しいわけがない。

「あ……えっ、と……」

 商会にはいくらでも商人がいるので、基本的な交渉の方法は教えてもらって来た。なにより、石にかじりついてだって食い下がってみせると意気込んでいた。しかし、目の前の小僧の様子が俺の意気込みを超えるくらいに予想外で、事前に用意した言葉が出てこなかった。

 言葉に詰まっていると、ふと、その目に感情みたいなものが見えた。

「……納入品を、現金に?」

 布越しなので、こもって、かすれたように聞こえるが、まだ声変わりすらしていないのか、女の子のように高い。背が高いだけでかなり幼いのかもしれない。

 それが、金の話を口にした途端、その目にわずかにだが、希望の光がともりだす。

 俺は、商会に身を置いているからこそ、そういう子供たちの不幸はよく知っている。

「い、いえ、そうではなくて」

 途端に、目から光が消える。彼らの関心は、手が届く範囲にしか持続しない。

 慌てて、用意していた言葉を思い出した。

「そ、それに、納入品を変えることは院長様のご決断がないとできませんから」

 荷物の受け渡しをする下女や下男が、商品やらお金やらを着服、横流しすることはよくあるのだそうだ。ジャドが上に報告した時も、その可能性を懸念された。

 だから、ボッチョ親方や商会のお偉いさんが俺にこの仕事を振ったのは、たぶん、修道院が金に困っているのではなく小僧の着服目当てが真相ではないか、探る意味合いもあるのだろう。

「院長様は、お前などとは会わない」

 そして、小僧の返事は事前に聞いていたとおり、頑だった。

「それでは今後も引き続き、特権証書に従っての納入になります」

 ジャドや商会の他の人間が繰り返した言葉。

 小僧は視線を落とし、落胆をする気力もないとばかりに、口をつぐんだ。

 そして、今までならここで終わりだったろうが、俺は書籍商見習いのフィルなのだ。

「ただ、一つご提案が」

「?」

 小僧が疲れ切ったような目を俺に向ける。

「蔵書を拝見させていただけませんか?」

「……え?」

 怪訝そうな目に、俺はとびっきりの笑顔を向ける。この笑顔は意識しなくてもできた。

 まだ誰も読んだことのない本があると思うだけで、顔が勝手にほころんでしまう。

「こちらの修道院には素晴らしい蔵書があると聞き及んでおります。もしもそのうちの一冊でも、目録の一頁だけでも拝見できれば、我が商会としてなにかご協力できることが──」

「そんなものはない」

 小僧は俺の言葉を途中で遮って、言った。本は装丁に宝石をあしらったりするものが多く、高価なことが多い。加えて、修道院は秘密主義だ。下っ端の小僧でも、修道院に宝があると外の人間に言ってはならないことくらいわかるのだろう。

 想定内の返答に、俺は怯みもしない。

「価値をそれと知らずに保管していることもありますから。一度、司書の方とお話を」

 とまで言った瞬間のことだった。

「司書なんていない!」

 小僧は叫び、俺を突き飛ばした。

「帰れ!」

 そして、扉を閉じると閂を掛ける音がした。

 俺は突つかれた胸を押さえながら、呆気に取られていた。

 なにかまずいことを言ったのかと自分の発言を思い返す。でも、思い当たる節がない。

 なにより、これで終わりなのか? とそれこそが一番信じられなかった。こんなにも呆気なく夢が潰えるのか? と。

 訳がわからず途方に暮れていると、ぽんと肩を叩かれた。

 振り向けば、ジャドがいい笑みを浮かべていた。

「しくじったんだから、夜は酒でもおごれよな」

「は? いや、というか、訳がわからないだろ!」

 俺が言い返すと、ジャドは大きく肩をすくめていた。

「お前の言い方が失礼だったか、顔が失礼だったかしたんだろ」

「お前じゃないんだから、んなわけあるかっ」

 ジャドは自分の耳の穴に小指を入れて、どこ吹く風だった。

「けどまあ、ここの修道院は金に困ってるんじゃなかったかあ……。あの小僧がここを逃げ出したくて金を欲しがってたってつまらないオチだったようだな」

 ジャドは声を潜めつつ、さばさばと言う。

「中の人間に俺たちを会わせたら、着服しようとしたことがばれるからな。お前が……司、書……だっけ? ってのと話したいって言った時の目、見たか? あの目は、怯えた目だ」

「……」

 修道院が金に困っていないのであれば、書籍の買い付けなど無理だ。霧は、霧のまま風に吹かれて扉の向こうに消えてしまう。

 俺は、もう一度修道院を見た。

「気にすんなよ。俺の見立てが間違ってたってことでもあるからな。あーあ、なかなか大きな儲けの機会なんて転がってないよなあ」

 ジャドはそう言って、荷馬車のほうに歩いて行き、どす、どすん、と荷物を入り口の横に積み上げる作業を淡々とこなしていた。

 ジャドの言うとおり、一発逆転の機会などそうそうあるわけではない。それはわかっている。

 だが、それでもなお、俺は扉の前から立ち去りがたかった。

 茶番でさえ、こんなにも呆気ない幕切れなのか? 俺は、これで夢を諦めないとならないのか?

「さて、仕事も終わったし、戻るぞ」

 気がつけば、ジャドは荷物を降ろし終わっていた。

 俺は扉をもう一度叩いて食い下がりたかったが、あれほどの剣幕で断られてなおそんなことをすれば、余計にややこしいことになるのは目に見えていた。

 第一、修道院側がまったく金に困っていないのなら、俺が食い下がれば、そのことを耳にした修道院の高位修道士がジーデル商会に苦情を寄せるかもしれない。商会にだけは迷惑をかけたくなかった。

 捨て子の身を拾ってくれたという恩だけではない。俺がなにかやらかせば、書籍商になりたいと言ってわめく俺のために骨を折ってくれたはずの、ボッチョ親方にも迷惑がかかる。

「千里の道も一歩から」

 ジャドはそう言って、御者台に飛び乗り、手綱を握っていた。

「ほれ、置いてくぞ」

 馬が向きを変え、俺は小さく唸りながら荷馬車を見て、また扉を見た。

 その重厚な石造りの威容は、まさしく俺の前に立ちはだかる現実そのものだった。

 だが、その隙間にはちらりと奇跡の光が見えていたのも事実なのだ。あの小僧の怯えようから、司書はいるのではないかと思えた。そもそも、司書という単語を理解できる小僧がどれだけいるものか。

 そして、門番たるあの小僧は、間違いなく金に困っている。

 だとすれば、こじ開けられなくはないはずだ。俺の中にあったのは、路銀を手に入れて修道院を抜け出そうと画策しているらしい、あの絶望したような小僧への同情ではない。

 夢と、本への熱意。

 それは決して消せない、地獄の炎にも似た、俺の体を焦がすものだった。