※この試し読みは『マグダラで眠れ』一巻の一部を抜粋したものです。
◆◆序幕◆◆
灯りが揺れて、目を開いた。
凍てつく深夜のことで、冷気が眼球を刺す。
遠くから階段を上る音がするので、看守の交代の時間なのだろう。
「中は?」
ぼそっと、扉に取り付けられた鉄格子の隙間から声が聞こえてくる。
同時に、鎖帷子のちゃらりという音がする。
「おとなしいものだが……」
ひそひそ交わす声と共に、見えない視線を向けられるのがわかる。
看守には、鉄格子の隙間から中を覗く勇気などない。
「寝ているのか?」
「さあ……。聞いた話じゃ、眠らないそうだが……」
「《利子》という名だったな」
「クースラ……嫌な名だ。知り合いが二人、高利貸しのクースラに食われたよ」
牢の看守は、囚人に畏怖を与えてのみ、看守たりうる。
鉄格子の側に縛りつけられるのは囚人も看守も同じなのだから、彼らを分かつのは、恐怖以外になにがあるだろう。
「罪状はなんてったっけ」
「確か……神への冒涜だろ。あれだ。聖人の骨を盗み出して、食べてたとか……」
まるで化け物扱いだな、とクースラは苦笑いするが、それで悪戯心に火がついた。
この幽閉もかれこれ二週間ほど続いていて、明かり取りの窓に嵌まる鉄格子の隙間から星の数を数えるのにも飽きがきていたところだ。
「おいっ」
クースラは、牢の中から声を上げた。
それは、秋の虫の音が盛んな頃に、草原を歩くことに似ていた。
それまでうるさいくらいに鳴いていた虫たちは、一斉に鳴くのをやめる。
そして、冷たい空気が張り詰める。
「少し話をしないか」
立ち上がろうとすると、寒さと疲労のせいで体が強張っている。《利子》などと呼ばれ、畏怖されているものの、実際のところ他の連中となにかが違うわけではない。背はやや高めだが、さほど体格は良くもなく、精悍な顔つきと自負しているところがあるものの、色男と言われたこともない。雑踏に紛れ込めばすぐにわからなくなるだろうし、馬車に煽られて転んだ拍子に、間抜けにも手首を折ったことだってある。
そんな具合であるから、二週間の牢暮らしで当然体は弱っているし、立ち上がると節々が痛み、軽く眩暈もする。
だが、扉の向こう側にそんなことはわからない。
クースラは足にくくり付けられた氷のような鎖と鉄球を引きずり、よた、よた、と扉に歩み寄り、扉に取り付けられた鉄格子に顔をくっつけた。
「少し話をしないか」
灯りが目に痛くて眇めてしまったが、それがいい按配に凶悪な面にでも見えたのだろう。鉄格子の向こう側で、うっかり山中で人と出くわした莵のように、看守の二人が固まっていた。
「なに、悪い話じゃないんだ」
クースラは精いっぱい笑い、それがまたこういう時に不気味に映るのもよく承知している。
「ちょっと、頼みがあってね……」
牢の中の人間が頼みといえば、相場は決まっている。暖の要求、食事の要求、あるいは手紙を書かせて欲しいとか、もう殺してくれとか。
看守二人も、聞き慣れた言葉で幾分我を取り戻したのかもしれない。
互いに顔を見合わせてから、年長のほうが口を開いた。
「な、なんだ、頼みって……」
「うん。簡単なことだ」
クースラは答え、鉄格子の隙間から指差しながら言った。
「その鍵で、ここを開けてくれないか」
ぽかん、と本当に音がしたのではないかというくらいに、看守の二人が口を開けていた。
時刻は深夜を回り、修道士すら眠る悪魔の時間。
看守二人は我に返ると、どこか怯えたように槍を構えて言った。
「ば、馬鹿なっ。そんなことができるわけないだろうっ」
「もちろん、タダとは言わないよ」
囚人と同じ寒さの中、真夜中に牢の見張りをしなければならないのはとても辛い仕事だ。それでもひとたび募集がかかれば引きも切らないのは、給料の他に囚人からの賄賂が期待できるからだろう。
看守の二人はまた互いに顔を見合わせる。自分たちは気圧されています、と言っているようなものなのに。
しかし、二人いれば勇気が出るのもまた事実。
今度は年下のほうが、言った。
「お、お前には教会から死罪が申し渡されている。もはや死んだも同然の身だ。それで……ど、どうして俺たちが取引に応じなければならない。懇願なら聞いてやる。身の程を弁えろっ」
「なら、いつもそうするように、この扉を開けて、俺の身ぐるみを剥げばいい」
剥げるものならね。
パンを盗んだ廉で投獄され、なにもかもを奪われた挙句に極寒の中放置されて死ぬ人間が少なくない。牢とはそういう場所であり、忌むべき場所だった。
ただ、忌み、恐れても、だからこそ見えない場所に追いやるのはもっと怖い。
そのために牢の多くは塔の形を取って、人々から最も遠く、しかし最もよく見えるようにと、町の中心を流れる川に架かる橋の上に建てられる。
看守は言葉に詰まったが、囚人に言いくるめられれば、看守としての名誉に関わる。
「き、教会の法で裁かれた者は、そのすべてが教会に帰属する。服も、財産も、命も……だから、奪うわけにはいかない」
恐ろしくて牢の中に入れなどしないが、名誉は守りたい。
その難題を解く、いい言い訳だった。
しかし、クースラは肩をすくめ、ごそごそと上着の内側を漁ってから、無視して言った。
「なあ、タダで、とは言ってないだろう? いいものをお前たちにやろう」
「……い、いいもの?」
「そう。お前たち、こんな仕事をしていれば、腹の立つことの一つや二つあるだろう?」
「……」
話の流れがわからないのか、酔って物が二つに見えているように、眉間に皺を寄せてクースラのことを見る。
「特に、上司の連中だよ。上司」
「上……司?」
「そう。いい家に生まれただけで、無能な奴らがはびこっているだろう? この町だと、ルッツィ家、バロウズ家、ジルディス家あたりの一族だ。偉そうに大剣を腰に提げて、ふんぞり返って馬に乗り、夜は暖炉の前で酒を飲み、羊毛のたっぷり詰まったベッドで寝る。そして、昼頃に呑気にやってきて、夜の間にあんたらがわずかの慰めとばかりに囚人から巻き上げた金を取り上げていく。そして、あんたらは憤慨する。これじゃあどっちが囚人かわからないってね」
やっぱり二人は顔を見合わせる。
だが、今度はどちらも固唾を飲んだ。
「……いいもの……ってなんだ?」
食いついた。
クースラはにんまりと笑い、その笑みが、また二人を惹きつける。
「これだよ、これ」
クースラは懐から取り出した小瓶を、鉄格子の前で軽く振る。
二人が、猫のようにその小瓶を目で追いかける。
「この小瓶の中身を、ちょっと嫌な奴の飯に振りかけてやればいい」
その瞬間、二人の顔つきが変わった。
そして、今度は互いに顔を見合わせることなく、横目だけで視線をかち合わせた。
おい……これは、もしかして……。
クースラには、そんな心の声が聞こえるようだ。
《利子》などと不吉な名前をつけられ、教会に裁かれて死罪を言い渡され、牢に放り込まれるような輩は限られている。看守が暗い期待を抱くのに十分すぎる理由がクースラにはある。
二人が、揃って一歩前に進み出る。
「その……中身は、なんだ?」
「砒素だよ」
「砒素?」
「しかも、これは極上の鶏冠石を精製したものだ。昔、一緒に仕事をしていた奴が好奇心に抗えず、ちょっと舐めてみたんだがね」
「な、舐めた?」
「ああ。俺たちってのは、どうしようもない馬鹿なんだな。それがあったら、試さずにはいられない。そういう病みたいなもんさ。それで、舐めちまった馬鹿は……」
「馬鹿、は?」
クースラは、肩をすくめた。
「なんともなかった」
「……は?」
二人が揃って声を上げ、からかわれたと憤激する瞬間だ。
「翌日の朝、俺がそいつの寝室に行くまではな。そいつは皮膚がただれ、顔は真っ黒になり、手をこんなふうに曲げて、焼死体のようだった。たまげたね。古代のアリオロス大王暗殺の伝説は本当だった。それが、これだ」
クースラは小瓶をもう一度振る。
「これのいいところは、食ったその瞬間に死なないことだ。時間差がある。つまり、あんたらは疑われないってことだ。しかも、死体は恐ろしく醜くなる。それこそ、神に見放されたほどにな。だから、これは天罰に違いないと皆が思う。よもやこんな小瓶に入る、わずかの粉が原因だとは思わない。なあ、あんたら」
じっと聞き入る二人に、クースラは笑みを強めて言った。
「この粉と引き換えに、ここを開けてはくれないだろうか?」
時刻は深夜を回り、太陽は沈んで久しく、神の僕ですら眠り、見張る者は他に誰一人としていない。二人は、クースラのことを取り憑かれたようにじっと見る。この糞みたいな世の中で、殺したいほど憎い人間がいない奴など、存在するはずがない。
「……」
看守の二人は、この寒い中、滴るほどの汗をかき、固まっていた。
しかし、その目は互いに互いの罪を許そうとするような色がある。
クースラがくすくすと笑い、看守の腰に提げられた鍵束がかちゃかちゃと鳴る。
すべては暗闇と夢魔の見せた悪い夢。
なにが悪いのでもない。
悪いとすれば、それは、すべて神の作り出した「裏」が悪いのだ。
「ほ、本当に……」
鍵束を腰に提げたほうがかすれた声で言う。
その手は鍵束に今にも触れようとし、陥落まであと少し!
クースラの笑みが最高潮に達しようとしたその瞬間、神の雷鳴が轟いた。
「なにをしている!」
怒声で人が死ぬとしたら、多分こんな状況だったに違いない。
看守二人は冗談のように飛び上がり、慌てて振り返ろうとしたせいか、揃って無様に転んでいた。
倒れた彼らが声のほうを見上げた瞬間、囚人は自分たちだった、と強く実感したに違いない。
そこにいたのは、この牢の管轄権を握る、白い髭を陽炎のように蓄えた、身なりのいい高級騎士だったからだ。
「繰り返し注意をしたはずだ。こいつと会話をするな。会話をすれば、お前らが危険な目に遭うと。外法に触れれば外道になる。二度と神の前に立てなくなるぞ!」
「っ……っ……」
呼吸の仕方を忘れたように喘ぐ看守二人を見下ろして、老騎士はずかずかと牢屋に歩み寄って来る。クースラは、老騎士と、その後ろに遅れてやってきた、看守とは比較にならないほど訓練を積んでいそうな若い騎士二人を見やった。
そちらのほうは、ご丁寧に顔すべてを覆う鉄仮面をかぶっている。
クースラの甘言、人が言う「魔法」に対抗するためのものだろう。
「こんな時間に登場ですか」
「ようやく結論が出てな」
「火刑ですかね?」
「まさか今更命の心配か?」
クースラは肩をすくめ、扉の前から数歩後ろに下がる。
乱暴なガチャガチャという音が聞こえたのは、腰を抜かした看守から、若い騎士の一人が無理やり鍵束をもぎ取ったのだろう。
「出ろ、クースラ」
そして、重い扉が開かれる。
「眠らない錬金術師」
◆◆第一幕◆◆
錬金術師と呼ばれる連中がいる。
世間からは、魔女や悪魔憑きと同等に見なされる連中のことだ。
クースラは、草木も眠る真冬の深夜、両脇を鉄仮面で覆った騎士に支えられるようにして塔牢獄から下ろされていた。そんな自分の様に、なるほど世間の連中の評価もあまり間違ってはいないかもしれない、と思う。
石造りの塔には明かり取りの窓が開けられていて、夜空にはふっと息で吹いて落とせそうなほどたくさんの星が瞬いている。
「牢の中で星は見なかったのか?」
クースラの足が滞りがちなことに気がついて、先頭を歩く老騎士が振り向いた。右手には蝋燭の載った燭台を持ち、左手は不測の事態に備えているのか、剣の柄に添えられている。
クースラはしかし、その左手の小指に嵌まっている指輪に気がつき、口元がにやりと笑いかけるのを堪えていた。
「見ましたが、これが自由の星かと思うとまた格別でしてね」
「……」
老騎士は呆れるように片眉をつり上げ、再び歩き出す。クースラもまた両脇の騎士にせっつかれるようにして歩き出したが、老騎士の指に嵌められている指輪に、小さく笑ってしまう。
そこに嵌まる宝石は美しい蒼が特徴のサファイアであり、その石は身に着ける者に知恵と安らぎをもたらし、罠を見破るという伝説がある。純銀が悪を討つ神の金属なら、サファイアは聖なる盾か杖かといったところだろうか。
クースラの口車に乗らないようにと、さもなくば、もっと想像もつかないようななにかから身を守るためにと、わざわざ嵌めて来たのだろう。
クースラはそんな老騎士の胸中を思い、そして、もう一度窓の前を通り過ぎ、綺麗な星空を見て、へっと鼻を鳴らす。
堅物の老騎士でも、それを前にする時は迷信にすがりつく。
それこそが、錬金術師というものだった。
彼らは日がな一日薄暗い部屋にこもり、鉛を金に変えようとしたり、若返りの薬を作ったり、死体をつなぎ合わせて新しい生物を作ろうとしたりすると言われている。
ただ、クースラの知る限り、そういう輩も確かにいないことはないが、大部分はそんなことはしていない。ではなにをしているのかというと、一言で言い表すのも難しい。
実のところ、錬金術師というのは「なにをやっているのかわからない連中」を呼ぶための仮の呼称みたいなものだったりする。
これは、やっていることが本当によくわからないからというよりも、権力者が都市を統治したり、教会が信徒を統率したり、組合が職人を統率したりするというように、誰かが秩序を作ろうとする時に枠組みに入りにくいことをしているから、という意味で、そうなのだ。
たとえば、王が都市を掌握する際には、都市機能を大きく四つに分ける。すなわち、土地を多く所有する貴族、信仰の権威を持つ聖職者、富を取り扱う商人たちに、町の生活を支える職人たち、といった枠組みだ。すると、王は彼らの代表の名前だけを覚えておけばいい。
だが、王から命令を受けた各集団の長たちは、当然その集団の中の下々の者を統率しなければならない。つまり、職人たちであれば各職業組合を作って成員を統率する必要がある。パン屋組合、肉屋組合、鍛冶屋組合などが重要どころだ。
クースラを連れて歩く騎士たちでさえ、その分割統治から逃れることはできない。
着ている服、身に着けている鎧、手にしている燭台の上で燃える蝋燭、彼らに支払われる給金と、彼らがクースラを牢から出すための権利まで、すべては誰かが必ず管理しているものだ。
しかし、それらの管理の網は、決して誰かの権力欲に従ってそうなっているのではない。大きな町を取りまとめるためにはとても必要なことだから、そうしているのだ。
町の法というものは、根本では町の名士や貴族や有力者からなる参事会が取り仕切る。そこが、町に暮らす連中がなにをしてよく、なにをしてはならないかを決めるのだ。
これがなければ、大きな町など一ヶ月と保てないだろう。
特に、縄張り争いの激しい職人同士なら、まず間違いなく血を見ることになるはずだ。
だから、各組合は各職人がどんな仕事をどれだけやってよいかを統制することで、揉め事や混乱を極力少なくしようと努めている。たとえば、刀剣鍛冶は刀剣だけを作り、ナイフ職人はナイフだけを作るといったふうなことで、刀剣とナイフの区別も厳密に決められている。もしもこれが曖昧だと、これまで刀剣を作っていた奴が気まぐれでナイフを作って、それまでナイフを作っていた職人の稼ぎを奪うかもしれない。それは揉め事の大きな種になる。パン屋が肉屋もやり出し、肉屋が肉屋だからといって夜中に肉を店先で食べさせていたら、宿や居酒屋の連中だって対抗しないと商売あがったりになる。その先にあるのは、混乱と退廃だ。
この世の中、神が舞い降りて仲裁してくれるわけではないので、揉め事をどう解決するかよりも、どうやって揉め事を起こさないようにするかのほうがとても重要になる。
そんなわけで、鍛冶屋組合を例に取れば、その職分は眩暈がするほど細かく決められている。
刀剣鍛冶、刀剣研ぎ師、ナイフ職人、胸甲職人、頸甲職人、脛当て職人、兜職人、甲冑組立職人、矢じり職人、やすり職人、やすり目立て職人、錐職人、鎌職人、槌職人、釜職人、鍋職人、水盤職人、釘職人、針職人、蹄鉄鍛冶、釣鐘職人、鎖職人、鉛管製造職人、香炉職人、鉄細工師、銅細工師、銀細工師、金細工師、真鍮職人、錫器職人、等々。
およそ考えうる限りの品目の職人が決められていて、彼らは自分に割り当てられた仕事だけをこなすことを求められ、もしも業務を拡大したいのであれば、その仕事をする権利を買い取らなければならない。
これが、秩序というものだ。
では、ここに一人の鉛を金に変えようとたくらんでいる男がいるとする。
こいつは数ある職業のどこに入れればいいのだろう?
鉛管製造職人? 金細工師?
それとも、鉱山から鉱石を掘り出して、それを純粋な金属に変える地金製造と似ているから、冶金を取り扱う連中と一緒にするべきだろうか。だが、「鉛を金に変える仕事」はそんな方法があるとすれば当然あり得るだろうが、「鉛を金に変えることを考える仕事」というのはあり得るのだろうか? あったとしたら、それはどこの組合が取り扱うべきなのだ? いやむしろ、鉛を金に変えるというのは神の定めた世の秩序に反するかもしれないから、教会が管轄すべきことなのかもしれないという考えだって出てくる。
鉛を金に変える、という一つでこれなのだ。では、鉛を銀に変えるのは? 銀を金に変えるのは? 死体をつなぎ合わせて新しい生物を作るのは? 若返りの秘薬を作るのは? まだ誰も考えついたことのないなにかをやろうとすることについてはどうなのだ?
こんなことを考えていたら、都市はとてもではないが回らなくなってしまう。
だが、問題なのは、そういうややこしい問題を引き起こす事業に金を出す連中がいて、その必要性もまた大いにあるということなのだ。
それはべつに、王や領主が永遠の命のためにその研究をさせるとか、大商人が在庫の鉛を金にしたくてその方法を研究させるとかといった突飛なことばかりではない。もっと現実的なものだっていくらでもある。
鉱山から効率よく鉱石を取り出す方法を考える仕事や、金属を効率よく精錬する方法を考える仕事には、大金を注ぎ込む価値がある。莫大な見返りが期待できるし、たとえば生産できる鉄の量は、そのまま自分たちの戦力をどれだけ武装させられるかにもつながってくる。
だが、鉱石を効率よく鉱山から採掘する技術というのは、石を持ち上げる縄の強さなのか、掘るための道具の強靭さなのか、その道具の形状なのか、それとも岩をも溶かす酸の発明なのか、あるいは誰も思いついたことのない何かなのかと考えると、職人組合の問題が一気に噴出する。それに、職人たちは自分の職分を全うするので忙しいし、職分があるせいで新しいなにかをしようとすれば組合から睨まれてしまうのでそもそもそういうことが不可能だったりする。
だから、職人とは違い、製品をなにも生み出さず、「方法」だけを探る連中が必要なのに、彼らを管理したり育成したりする便利な機関や制度が存在しない。
しかも、新しいことというのはなんであれ、常に必ず信仰の問題がつきまとう。
流行に敏感な町娘が、それまでの常識では考えられないような髪型をするだけで異端かどうかが問われるのだから、当然懸念すべきことだ。
そして、異端と見なされれば、大変なことになる。
そんな危険を職人組合程度のところが負うはずもない。
だとすれば、新技術で他の王や領主を出し抜きたい権力者は、自分で資金を出し、自分で育成し、自分の権力で保護しなければならず、事実そういうことがあちこちで脈々と続いていた。特に、金属にまつわる研究を権力者は欲していたため、保護を与えられた者たちは、いつしか錬金術師と呼ばれるようになった。
だから、クースラを牢から連れ出した高級騎士は、情けからそうしたのではない。
この世で最も多く錬金術師を召し抱える巨大な権力機構、クラジウス騎士団の一部として、そうしたのだ。
「食いながら聞いてくれればいい」
程なくして、焼いた豚の塩漬け肉とチーズを挟んだパンに、温めた蜂蜜酒が用意された。牢では冷えた玉ねぎと黒パンしか食べていなかったクースラは、遠慮なくかぶりつき、酒で流し込む。温めた蜂蜜酒が胃に下りるのがよくわかる。胃の形が、本当に見たとおりに思い描ける瞬間だ。
「二週間もかかるとは思わなかったが……お前の裁判権は正式に我々が手に入れた」
「自分に、まだそれだけの価値があるとはね」
クースラは言って、それからおもむろにパンを置いて上の部分をはがすと、懐から小瓶を取り出して中身を振りかけた。
「おいっそれは──」
「塩ですよ、塩」
色を失う老騎士に、クースラは言う。
「なんだ、やはり冗談か……」
「いえ、砒素はこっち」
クースラがまた別の小瓶を取り出すと、老騎士は目を剥いてそれを見た。
「欲しければ差し上げますよ」
「……どうせ、そっちも塩だろう」
「そう信じていたほうが、お互いの身のためですね」
小瓶を懐にしまうクースラに、老騎士は勘弁してくれとばかりに椅子の背もたれに体を預けた。それから目頭を揉むと、遠くのものを見るようにクースラを見た。
「なぜそんな無頼を気取る? お前には他の連中と違い、珍しく常識と判断力がある。笑うな。私は本当にそう思っているし、それは美徳でもある。それどころか、他の連中がもう少し持つべきものでもある。なのに、なぜだ? 今回のことだって、教会の宝物庫から聖人の骨を盗み出して炉にくべるなど、正気の沙汰じゃない。死ぬ気なのか?」
「もう、他に試す方法がなかったんですよ」
「嘘をつくな! お前の実験報告を見て来ている。お前は誰より迷信にちなむ方法を忌避していたはずだろう!」
クースラは顎が机に付きそうなくらい猫背でパンを頬張りながら、老騎士を見上げている。
沈黙は深夜の闇に紛れ、老騎士は静かに言った。
「火がつく前でよかった。燃えていたら、今頃本当にお前も消し炭だぞ。なあ」
そして、疲れたように言う。
「なぜなんだ。なぜ、その才能を無駄にするようなことをする」
「なぜ?」
クースラはパンを口に含んだまま、唇の端をつり上げて聞く。
肩を揺らし、そうやって食べ物を飲み込む鳥かなにかのように、パンを飲み下した。
「自分ではわかりませんが、腕のいい錬金術師が頭蓋を開いてみたらわかるかもしれませんね」
「……ふう」
老騎士はため息をついて、盗人のようにパンを隠しながら頬張るクースラを見た。
「フリーチェのことか?」
その一言が、クースラの手を止めた。
「やはり……。だが、フリーチェのことは──」
「気にしてませんよ。教皇派の密偵だった。俺の冶金技術を盗むための。そうでしょう?」
「……そうだ。証拠がある。山ほどな」
「だったら、殺せばいいさ。俺が酒を取りに行ったその隙にね。笑うとくぼみを作る鎖骨をぶった切って、痩せている割に目立たない肋骨を割って、突つくとかすかに震える腹から綺麗な肝臓がぽろりとこぼれるほどばっさりと。それでその後、腸を存分に漁ればいいさ。お目当てのなにかが見つかったのならそれでいいですよ。腹に一物隠し持っているってのは……冗談じゃない」
熱いくらいに温められた蜂蜜酒を、一気に飲み下す。
あの時も飲んでいたのは蜂蜜酒だ。
当てつけなのだろう。
クースラは、暗い目で老騎士を見た。
「鉄の精錬に聖人の骨を使おうとしたのは、本当に前々からやってみたかったからですよ」
教会の人間が聞いていたら卒倒するような話だったが、老騎士はさすがに動じなかった。
「フリーチェのことは……私にもどうすることもできなかった。気の毒なことだと思う。だが、事前に話せばお前から漏れることだってあった……。惚れていたんだろう?」
事前の調査はお手の物のはず。
クースラは、答えることすら嫌だった。
「だが、もしも事前に話を漏らすようなことがあったら、お前は確実に一緒に殺されていた」
「はっ」
クースラが吐き捨てると、老騎士はゆっくりと息を吸って、吐いた。
「錬金術師を辞めるか?」
それは、慈父のような言葉だった。
外道と罵られ、異端と蔑まれ、大権力者の庇護があっても常にその命と頭脳を狙われ、時折心を許す相手は敵の密偵だったりする。
そんな茨の道が続く人生を変えてみるか。
「私が推薦しよう。我々クラジウス騎士団から抜け出ることは難しいだろうが……もっと真っ当な職に就くことはできるだろう。幸い、我々は巨大だからな」
クースラは老騎士を見る。深く青い目が、いたわるような光をたたえている。いい人なのだろう、とクースラは思った。高貴な生まれの、騎士としての誇りを胸に抱いたまま、この歳まで生き続けてきた幸運な男。
たぶん、言葉に嘘はないはずだ、とわかるくらいの付き合いがある。
それでも、クースラは酔い潰れる寸前の酔っ払いのように、テーブルに肘を突いた手で頭を支える。そして、支えきれずにずるずると額をテーブルに落としていった。
だが、クースラはそこまで堕ちてもなお、目を閉じることができないのだ。
「続けますよ。俺には、それしかない」
こんな目に遭っても、なお。
老騎士はクースラから視線を外し、哀れな身の上の者にそうするように、大きなため息をついた。
「どんな目に遭っても好奇心を止められない。お前たちはそういう病みたいなものだ」
「しかも、くそくだらない目的のためにね」
「マグダラ、か」
老騎士が咳払いを小さく挟んだのは、その一言に対する感想を言いたくなかったからだろう。
錬金術師はこの世の秩序機能の、隙間を埋めるような存在だ。真っ当な機能の一部ではないから、身分は不安定だし、いつも白い目で見られている。それでも錬金術師が錬金術師になるのには、理由があった。多くが職人として腕を振るうこともできるのに、あえて灼熱の道を行くのには理由があった。
そのほとんどが、余人から見ればくだらないこと。すなわち、己の夢。あるいは、抑えようのない好奇心が原因だった。
そして、誰が言ったか、錬金術師が見ているその「先」の世界を、マグダラの地と呼んだ。
錬金術師は、突き詰めればそのためだけに、人としての命と尊厳のすべてを賭けるのだ。
「お前のお陰で、この近辺の鉄の生産量が飛躍的に増えた。燃料代も数割から減った。騎士団が節約できたその金額たるや、火刑に処されるお前を教皇派から救い出すに足るほどだ」
老騎士は言葉を切ってクースラの反応を見るが、クースラは視線を机に落としたまま動かない。
「その才能を潰すのはもったいない、と上はお考えだ」
「次はどこの工房です?」
老騎士の言葉にかぶせ気味に尋ねた。
錬金術師は職人とはまた違う技能を持つ特殊な職業だ。
なかなか代えは利かないし、しょっちゅう死ぬ。
誰かに殺される以外にも、事故だって頻繁にある。
焚火の周りをうろつく、金でできた蛾のようなものだ。
「ただ、今回の件は過去のどれよりも悪質だ。騎士団としても無罪放免というわけにはいかない」
「……覚悟してますよ」
「グルベッティ」
「え?」
クースラは思わず顔を上げた。その地名は、あまりにも意外だったからだ。
「前線の近く? いいんですか、そんな場所に行って」
「お前たちには、うってつけの案件だと思う」
「グルベッティ……グルベッティね……」
クースラは口の中でもぐもぐと繰り返し、それからようやく、老騎士の言葉が頭に降りてきた。
「たち?」
「ウェランドを知っているだろう」
老騎士の顔は、苦々しい。
しかし、そうでなければ、クースラはその質問に思い切りとぼけたかもしれない。その名前は、それくらい突飛なものだったからだ。
「まさか?」
「そのまさかだ。グルベッティの工房には、ウェランドとお前の二人で行けという話だ」
「へっ」
それは鼻で笑ったわけでも、ましてや不満を示したわけでもない。
驚きのあまり、しゃっくりが出てしまったのだ。
「なに考えてんですか? だって、ウェランドってあれでしょう? どっかの修道院長を毒殺して捕まったって」
「聖アリル女子修道院だ。貴族の娘ばかり集まる瀟洒な修道院だよ」
「へっ」
それは明確に鼻で笑い、クースラは肩を揺らした。
「教会はどうして奴を生かしてるんです?」
「わからんよ。お前たちは錬金術師だ。違うか?」
不可能を可能にする。
鉛を金に変える、が錬金術師の枕詞だ。
「で、俺とウェランドを同じ工房に入れると」
「見習い時代、同じ工房だったそうだな。気心は知れてるだろう」
「ご冗談を。あいつは俺の飯に毒を七回盛りましたよ」
「お前は九回だったと聞いている。互いに毒による暗殺を切り抜けられてきたのは、あの時の経験が活きているんじゃないのか?」
「はっ。たぶん、金牛宮の御加護のお陰でしょう」
罠を見破る知恵を授けてくれるサファイアは、黄道十二星座でおうし座になる。もちろん、サファイアの指輪を嵌めている老騎士へのあてつけで、老騎士は思わずといった感じで左手の小指を隠している。
ただ、ウェランドの名を聞くのは本当に久しぶりで、クースラは頭の後ろの毛がちりちりしそうだった。
「目的は? 無罪放免じゃない、と言いましたよね。懲罰的な理由があるはずだ」
「私も詳しくは聞かされておらん。噂話を組み上げた程度のことしか知らない。そして、ここでは口が災いのもとになる。私は上からの命令でお前を送り出す。お前は粛々と従うことになる。うまくいけば騎士団の錬金術師として梯子を登る。失敗すれば、これまでの責を取らされる。もちろん」
老騎士は、ためを挟む。
「鉛を金に変えられれば、万事解決だろうがね」
「やりますよ」
クースラは即答する。断ったところで断れるわけがないのだが、それでも返事は素早く出た。
「ただ、上がなにを企んでるのかは気になりますが」
老騎士はクースラの質問を無表情に受け止めて、にこりともしない。
「私にはわからんよ」
「……」
「戦場が懐かしい。あの時は、いつだって遠くの地平線まで見通せたものだ」
ため息まじりのその台詞は、あまり冗談にも思えなかった。