◆◆第二幕◆◆
土砂降り、という言葉が見事に当てはまるほどの雨だった。昼過ぎ頃に後ろから迫ってきた雨についに追いつかれたロレンス達は、雨で煙る視界の中、教会を見つけてこれ幸いと飛び込んだ。修道院と違い、ロレンス達のような行商人や旅人、それに巡礼者などを泊めたり道中の無事を神に祈ったりしてその寄付で運営をしているところだから、ロレンス達の突然の訪問にも歓迎こそしたものの嫌な顔一つしなかった。
ただ、いくらなんでも教会の中で狼の耳と尻尾を持った娘を大手振らして歩かせるわけにもいかない。とっさに妻と称し、顔にやけどを負っているためにフードを外したがらない、と噓をついて薄手の外套をかぶせておいた。
ホロが外套の下でニヤニヤ笑っていたのがわかったが、ホロも自分と教会との関係がわかっているようで演技もそれなりだった。何度か教会からひどい目にあったというのも噓ではないのだろう。
それに、例えホロが悪魔憑きではなく狼の化身であったとしても、それは教会にとって問題にならない。教会にとっては教会の崇める神以外すべてが異教の神であり、悪魔の手先なのだから。
そんな教会の門をくぐり難なく部屋を一つ借りて、ロレンスが雨に濡れた荷物の手入れをしてから部屋に戻ると、件のホロは上半身裸になって髪の毛を絞っていた。綺麗な茶色の髪の毛から、ぼたぼたと品無く水が落ちる。穴だらけの板張りの床なので今さら多少水を落としたところで文句を言われることもないだろうが、ロレンスはどこに目をやるべきかとそっちに困る。
「ふふ、わっちのやけどを冷たい雨で冷やしんす」
そんなロレンスをよそに、あの噓が愉快なのか不愉快なのかホロが少し笑う。それから顔に張り付いた髪の毛をどけると前髪を豪快にかき上げた。
そんな勇ましさは確かに狼のそれといってもいいような気がするし、水に濡れてばさばさになった髪の毛は狼の力強い毛に見えなくもなかった。
「毛皮は大丈夫だったじゃろ。あれはよほど良いテンの毛皮じゃ。あのテンの育った山にはわっちのようなのがいるのかもしれん」
「高値で売れるか」
「そりゃあわかりんせん。わっちは毛皮商人じゃござんせん」
至極もっともな答えにロレンスはうなずいて、ずぶ濡れの自分の服も脱いで絞り始めた。
「ああ、そうだ。あの麦だが、どうすればいい」
そう言いながら上着を絞り終え、ズボンも絞ろうと思ったがホロがいることを思い出し、手を止めてホロのほうを見ればホロはまったくロレンスなどそこにいないかのように真っ裸になって服を絞っている。なんとなく悔しくて、ロレンスも大胆に裸になって服を絞る。
「ん、どうってどういうことかや?」
「脱穀すればいいのか、とか、あのままのほうがいい、とか。もっとも、あの麦にお前が宿っているという話が本当ならば、だが」
少しからかうようにそう言ってやったが、ホロは口の端で少し笑っただけで相手にしなかった。
「わっちが生きている限り、あの麦が腐ったり枯れたりすることはありんせん。ただ、食べられたり燃やされたりすりつぶして土に混ぜられたりすると、わっちはいなくなってしまうかもしらん。邪魔なら脱穀して保管しておいても大丈夫じゃし、そっちのほうがよいかもしらん」
「なるほど。じゃああとで麦粒にして袋にでも入れておくか。自分で持っていたいだろう?」
「助かるの。首から提げられるとなおよい」
ホロがそう言うのでつい首の辺りに視線をやってしまい、ロレンスは慌てて視線をそらしたのだった。
「ただ、あの麦は別の土地に売り込みに行きたいんだがな。それくらいの麦は残しておいていいか」
気を落ち着けつつそう質問した直後、ばさばさと音がしたので何かと思えばホロの尻尾が勢いよく振られていた。ふさふさの尻尾は毛の質も良いようで、実によく水をはじく。ロレンスは飛び散る水に顔をしかめたが、ホロは少しも悪びれなかった。
「作物はその土地にあるからこそよく実る、というものが多い。まあ、すぐに枯れるのが落ちじゃ。行くだけ無駄というものよ」
絞り終えた服を前に少し思案顔のホロだったが、代えの服などないので諦めたようにしわしわのそれを再び着る。ロレンスが今着ているような安物ではないので水の切れもいい。ロレンスは少し理不尽な何かを感じつつも、同じく絞り終えた自分の服を着終わってからうなずいた。
「まあ、大広間のほうに行って服を乾かそう。この雨だ。俺らのような連中を見込んで暖炉に火が入っているはずだ」
「うん。それはよい案じゃ、と」
ホロはそう言って薄手の外套ですっぽりと頭を包む。包んでから、またケタケタと笑った。
「何かおかしいか?」
「ふふ、やけどしたから顔を隠す、なんてのはわっちにはねえ発想だからよ」
「ほう。なら、お前はどう思うんだ?」
ホロは外套を少しめくって顔を覗かせると、誇らしげに言ったのだった。
「そんなやけどはわっちの証。この尻尾と耳と同じ。二つとないわっちの証と思うまでよ」
なるほどな、とちょっとそんな口上に感心する。ただ、それはホロが実際にそんな傷を負っていないからこそ言えるのではないか、なんて意地悪なことも思ってみたりした。
ホロの言葉が、そんな胸中に入り込む。
「ぬしが何を考えとるかわかるよ」
外套の下でホロがいたずらっぽく笑う。にやり、と釣り上がった唇の右側辺りに、鋭い牙が顔を出した。
「ためしに傷つけてみるかや?」
その挑戦的なホロの表情にロレンスは意地を張りたくなくもなかったが、ここでロレンスが挑発に乗って短剣を出せば本当に引き下がれなくなるかもしれない。
ホロはなんとなく本気でこういうことを言いそうだ。ただし、それをわざと挑発的に言うのは茶目っ気だろう。
「俺も男だ。そんな綺麗な顔に傷はつけられないな」
だから、そんなふうに答えたらホロは待ちかねていた贈り物をもらったかのように笑い、いたずらっぽく身を寄せてきた。そのとたん、ふわり、とどことなく甘い匂いがロレンスの体を刺激する。思わず手が動いて抱きしめそうだった。
ただ、ホロはそんなロレンスのことなどお構いなしに、露骨にくんくん鼻をならすと少し離れて言ったのだった。
「ぬしは雨に濡れてもまだ臭いの。狼のわっちが言うんじゃ。間違いない」
「ぬ、こっの」
半ば本気で拳を放ったが、ひょいとかわされてたたらを踏む。ホロはニヤニヤ笑いながら、小首をかしげて後を続けた。
「狼でも毛づくろいはする。ぬしはええ男じゃと思うよ。少しは身奇麗にしやさんせ」
それがからかいか本気かはわからなかったが、ホロみたいな娘に言われると少しその気になってしまう。これまで身奇麗とは商談においてそれが有利に働くかどうかといった、そんなことばかりを基準に判断していたので、それが女に気に入られるものかどうかなど考えたこともない。
相手が女商人ならばさもありなんだが、生憎と女商人など見たことがない。
ただ、どう答えたものかわからない。だからロレンスはそっぽを向いて、黙り込んだ。
「ま、その髭はわっちも良いと思う」
下あごを適度に覆っている髭はなかなか評判が良い。この点は素直に受け取り、ロレンスは少し誇らしげにホロのほうを振り向く。
「ただ、わっちはもう少し長いほうが好きじゃな」
長い髭はあまり商人受けが良くない。ロレンスは反射的にそう思ったのだが、ホロは両手の人差し指で鼻の辺りから頰にかけてピッピッと線を引いたのだった。
「こう、狼のようにの」
それでようやくからかわれていたと気がついたロレンスは、大人気ないと思いつつもホロを無視して扉のほうへと歩いていった。
ホロはケタケタ笑いながらついてくる。
ただ、もちろんこんなやり取りが嫌ではなかった。
「暖炉の前には他に人がいるからな。ボロは出すなよ」
「わっちは賢狼ホロじゃよ。それにパスロエの村にたどり着くまでは人の形で旅をしてたんじゃ。まあまかしとき」
振り向けば、ホロは外套の下に顔を隠して、もうその気になっているようだった。
町と町の広大な距離の間に点在しているこういった教会や木賃宿は、商人にとって重要な情報収集の場だ。特に教会には色々な人が訪れる。木賃宿には筋金入りの商人か金のない旅人くらいしか泊まらないが、教会には町のビール職人から裕福な者まで様々な宿泊客がいる。
ロレンスとホロの二人が飛び込んだ教会も、先客と後から来た客を含めて十二人がいて、見たところ数人が商人、他はそれぞれ別の職業のようだった。
「ほほう、ではヨーレンツのほうから?」
「ええ、向こうで塩を仕入れてそれを納品し、代わりにテンの毛皮をもらってきたところです」
各々が床に直接座って服についたノミをつぶしたり飯を食べたりしている中で、その夫婦は椅子に座って暖炉の前を独占していた。大広間といってもそんなに広くもないので、十二人いて暖炉に惜しげもなく薪がくべられていればどこにいても服は乾く。しかし、見たところ夫婦の服は濡れたあとなど少しもなかったので、大方たくさん寄付をしたからここにいるのが当然と思っている類の金持ちだろう。
ロレンスはそう当たりをつけてその夫婦の途切れがちな会話を耳ざとく聞き分け、ひょんな拍子に会話にもぐりこんだのだ。
旅の疲れからか黙りがちな妻に代わって会話に飛び込んできたロレンスを、その初老の男は快く歓迎してくれた。
「しかし、ここからまたヨーレンツに帰るのは骨じゃありませんか」
「そこは商人の知恵です」
「ほほう、興味深い」
「私がヨーレンツで塩を買った際、そこでお金は払いません。私は別の町にあるその塩を買った先の商会の支店にほぼ同額の麦を売っていたからです。私はその支店から麦の代金を受け取らない代わりに、塩の代金を払いません。お金のやり取りをせず、二つの契約が完遂されるのです」
百年以上前に南の商業国で発明された為替のシステムだ。ロレンスも師匠になる親戚の行商人からこれを聞いた時ひどく感動した。ただ、それは二週間ほど散々悩んでようやく理解してからのことだ。目の前の初老の男性も、一回聞いただけでは理解できないようだった。
「ほ……それは、なんとも、不思議なできごとですね」
そう言って、何度もうなずいた。
「私はペレンツォという町に住んでいますが、私のぶどう園のぶどうの支払いにそんな不思議な手段を用いたことがありません。私のところは大丈夫でしょうか」
「この制度、為替と呼ぶのですが、これは色々な地方の人を相手に商売する商人達が発明したものです。ぶどう園をお持ちの領主様なら、ぶどう酒業者が良いぶどうを悪いと言って安く買い叩かないかに注意すればよいでしょう」
「んむ。毎年毎年それで口論になるのです」
そう言って笑うが、実際はこの領主に雇われた会計員なりが顔を真っ赤にして海千山千のぶどう酒業者と渡り合っているのだろう。ぶどう園を持つ者には貴族が多いが、貴族が直接土をいじったり金の話をすることはほとんどない。パスロエの村やその近辺を治めるエーレンドット伯爵は、だからかなり変わり者の部類に入る。
「あなた、ロレンスさんといいましたか。今度ペレンツォ近辺に来た時はぜひ当家を訪ねてください。喜んで歓迎いたしましょう」
「ええ、ぜひ」
ペレンツォに住む誰である、と言わないのは、貴族としての癖だろう。自分は名乗らずとも相手が名前を知っていて当然である、という考えから、自ら名乗ることは下品であると考えるのだ。
それに、きっとペレンツォに行ってぶどう園の領主、といえばこの男性しかいないのだろう。もしかしたら、ペレンツォの町ならとてもロレンスなど軽々しく口を聞ける相手ではないのかもしれない。教会はこういった人間にコネを作るのにも最適な場所だ。
「それでは、妻がちょっと疲れているようなのでね。お先に失礼します」
「また神のお導きがありますように」
教会での決まり文句だ。男性は椅子から立ち上がった妻ともども小さく会釈をして、広間から出ていった。ロレンスは薦められるがままに隅から持ってきて座っていた椅子から立ち上がり、夫婦の座っていた椅子二つも持って部屋の隅に片付けた。
広間で椅子を使うのは貴族か金持ちか騎士だ。どれも人から嫌われる上位三人だ。
「へへ、だんな、なかなかの人物だね」
椅子を片付けて部屋の中ほどに座っていたホロの横に戻ると、すっと近寄ってきた男がいた。身なりと風体から、同業者だろう。ただ、髭の下にある顔は若い。まだ独り立ちしてすぐくらいのものだと当たりをつける。
「どこにでもいる行商人さ」
ロレンスはそっけなく答えたが、ロレンスを挟んで男と反対側にいるホロが少しだけ居住まいを正した。その時頭からかぶっている外套が少しだけ動いたが、耳を動かしたのだと気がついたのはロレンスだけだろう。
「いやいや、あっしもさっきから狙ってたんですがね、なかなか会話に入り込めなかった。だんなはそれをすっとやっちまった。この先だんなみたいなのを相手に商売やっていくのかと思うと気が滅入る」
にか、と笑って男が言うと、欠けた前歯が愛嬌だ。もしかしたらわざと歯を欠いて、間抜けな笑顔から駆け出しであることを強調しているのかもしれない。商人なら、自分の顔がどんな印象を相手にもたらすか絶対に把握しているはずだからだ。
油断ならないな。
ただ、ロレンスは男の言葉そっくりのことを駆け出しの頃に思っていたので、そこだけは同意したのだった。
「なに、俺も駆け出しの頃は行商人全部が化け物に見えた。今でも半分以上が化け物だ。それでもなんとか食っていける。頑張ることだ」
「へへ、そう言ってもらえると安心だ。あ。あっしの名前はゼーレンと申します。お察しのとおり駆け出しの行商人です。よろしくどうぞ」
「ロレンスだ」
昔、ロレンスも駆け出しの頃に顔見知りの行商人を作りたくてやたら滅多ら話しかけたものだが、皆の対応が冷たいことに腹を立てたりした。けれど、今こうやって駆け出しの者から話しかけられる立場になると冷たいあしらいをされたのもよくわかる。
駆け出しの行商人は、自分が得るばかりで相手に渡すものが何もないからだ。
「えーと……あ、そちらは、連れの方ですかね?」
やはり渡すものが何もないのか、それとも駆け出しにありがちな、いかに何も出さずに自分だけが得ることができるか、という勘違いをしているのか、そんな話題の切り出し方をした。これがベテランの行商人同士なら、すでに二つか三つの地方の商売情報を交換していることだろう。
「妻の、ホロだ」
一瞬、偽名を使うか迷ったが、そんな必要もないかと思いなおしそう言った。
ホロは名前を呼ばれてから小さくうなずくように挨拶をした。
「へえ、夫婦で行商ですか」
「風変わりな妻でね。町の家にいるより馬車の上のほうがいいと言う」
「しかし、だんなも外套なんかすっぽりかぶせてよほど大事にしてらっしゃる」
なかなか達者な口に少し感心したが、もとは町のごろつきかもしれない。少なくともロレンスは親戚の行商人から、こういう類の口上はするなと教えられたものだ。
「へへ、しかし隠されると見たくなるのが男の性。ここで会ったのも神のお導き。どうか一目拝ませてもらえませんかね」
図々しいな、とホロは本当の妻ではないのにロレンスはそう思った。
しかし、それを注意する前に当のホロが口を開く。
「旅はする前が一番楽しく、犬は鳴き声だけが一番怖く、女は後ろ姿が一番美しいものでありんす。気軽にひょいとめくれば人の夢を壊しんす。わっちにゃそんなことできんせん」
そう言ってホロが外套の下で小さく笑うと、ゼーレンはそんなホロの言葉に吞まれたようにぎこちなく笑った。流暢なそれはロレンスも感心するくらいのものだったからだ。
「へへ……いや、すごい奥さんですね」
「尻にしかれないようにするのが精一杯だ」
半分以上、ロレンスの本音だった。
「うん、こりゃあ、お二人に出会えたのは神のお導きに違いない。ちょっと、あっしの話を聞いてくれやしませんかね」
沈黙が降りかけた瞬間、ゼーレンはそう言って前歯の欠けた顔をロレンスへと近づけたのだった。
普通の宿とは違い、教会では部屋を借りることはできても食事までは面倒を見てくれない。ただし寄付をすれば竈を使わせてもらえるので、ロレンスは寄付をしてジャガイモを五つほど水を張った鍋の中に放り込む。もちろん火を起こすときの薪代は別料金だ。
茹で上がるまでに時間がかかりそうだったので、その間にホロが宿るという麦を麦穂から大雑把に落として適当に使っていない皮袋に詰め込んだ。首から提げたいと言っていたことも思い出し、皮紐を一本手に取り竈へと引き返す。ジャガイモ、薪、皮袋、皮紐と、合わせれば無視できない金額なので、ロレンスはホロにいくら請求しようかと胸中で計算しつつ、茹で上がったジャガイモを持って部屋へと戻ったのだった。
両手がふさがっているのでノックなどできなかったが、狼の耳を有するホロは足音だけで誰が来たのかわかるらしく、ロレンスが部屋に入っても振り返りもせずにベッドの上でのんびりと尻尾の毛づくろいをしていたのだった。
「ん? 良い匂いじゃの」
そして、耳と同様に鼻もよく利くのかそう言って顔を上げた。
ジャガイモの上にはヤギのミルクから作ったチーズを少し載せてある。一人ならばしない贅沢だが、二人なので奮発してみたのだ。ホロの反応も上々で、した甲斐もあったというものだ。
ロレンスがベッド脇のテーブルの上にジャガイモを置くと、ホロはベッドの上から早速手を伸ばそうとしたが、その手がジャガイモを摑む前にロレンスは麦袋の詰まった皮袋を放り投げた。
「おっと。ん、麦かや」
「ほら、皮紐も。自分で工夫して首から提げられるようにしておけ」
「うむ。助かる。しかしこっちが優先じゃな」
と、ロレンスが驚くくらい無造作に皮袋と皮紐を脇に置くと、ホロは舌なめずりをせんばかりの表情でジャガイモへと手を伸ばす。食い気優先の性格のようだった。
ホロは大きなジャガイモを一つ手にとって、早速二つに割る。するとたちまち立ち昇る湯気に幸せそうな笑顔を浮かべている。尻尾がわさわさと揺れているのが犬と似ていて面白かったものの、きっとそんなことを言えば怒ると思ったのでロレンスは黙っておくことにしたのだった。
「狼もジャガイモがうまそうと思うのか」
「うん。別にわっちらも年がら年中肉を食べてるわけじゃありんせん。木の芽も食べるし魚も食べる。人の育てた野菜は木の芽よりうまい。それに、肉や野菜に火を通すという発想も、わっちは好きだわいな」
猫舌という言葉はあるが狼は結構丈夫なようだ。まだ湯気がもうもうと立っているそれを、二、三度吹いただけでひょいひょい口に放り込んでいる。ただ、その量はいくらなんでも無理だろう、と思っていると、案の定喉に詰まったようだ。水の詰まった皮袋を放り投げてやって、ホロはことなきを得る。
「ふう。びっくりじゃ。人の喉は相変わらず狭いの。不便じゃ」
「狼は丸飲みだからな」
「ん、そりゃあ、ほれ。これがないんじゃ、悠長に嚙み砕けん」
ホロは指で唇の端を引っ張った。頰のことだろう。
「しかし、わっちは昔もジャガイモを飲み込んで喉を詰まらせた」
「ほう」
「わっちとジャガイモは相性が悪いのかも知らん」
単にがっつくのが悪いだけだろう、とは言わなかった。
「そういえば」
と、代わりにそんなふうにロレンスは切り出した。
「お前、噓を聞き分けられるとか何とか言ってなかったか?」
ロレンスがそう尋ねると、ホロはチーズをかじりながらロレンスのほうを振り向いて返事をしかけたが、ふと次の瞬間に視線を別のところに走らせると一拍遅れて手が動いた。
「どうした」、とロレンスが言う間もないほどの一瞬のできごとで、ホロの手は中空で何かをつまむような形になって止まっていた。
「まだノミがおった」
「良い毛並みだからな。絶好の温床だ」
毛織物や毛足の長い毛皮などの輸送では、季節によっては時折煙でいぶさないとならないくらいにノミが湧くことがある。ロレンスはそれを連想しながらそう言ったのだが、ロレンスの言葉を聞いたホロは驚いたような顔をしてからたちまちのうちに胸をそらして得意げな顔になっていた。
「ぬしもこの尻尾の良さがわかるとはなかなかの目利きじゃな」
子供のように得意げに言うので、ロレンスは何から連想したのかは黙っておこうと決意した。
「で、噓かどうか聞き分けられるのは本当なのか?」
「うん? ああ多少はの」
ノミをつぶした指を拭いて、ホロは再びジャガイモにかぶりつく。
「どれくらい聞き分けられるんだ?」
「まあ、ぬしが褒めるつもりも無くわっちの尻尾のことを言ったことがわかるくらいには、わかる」
ロレンスがどきりとして口をつぐむと、ホロは楽しそうに笑ったのだった。
「百発百中ではありんせんがな。信じる信じないは……まあ、ぬしの勝手じゃがの」
指についたチーズを舐め、少し意地悪な笑みを浮かべながらそう言うホロの様子はまるで幻想譚に出てくる妖精か小悪魔のようだ。
ロレンスは色々な意味で少したじろいだが、あまり反応するとまたそこについて何か言われかねない。気を取り直して後を続ける。
「それじゃあちょっと聞くが、あの小僧の話、どう思う」
「小僧?」
「暖炉のある部屋で話しかけてきたあいつだ」
「ああ。ふふ、小僧か」
「何がおかしい?」
「わっちからみりゃどっちも小僧じゃ」
下手に何か言うとまた手玉に取られかねなかったので、ロレンスは喉から出てきそうになった言葉をぐっと吞み込んだ。
「くふ。ぬしのほうが少しだけ大人じゃな。で、小僧の話じゃが、噓をついとるとわっちは思うな」
ホロの言葉に、ロレンスは途端に冷静な頭になって「やはり」と胸中で呟く。
あの暖炉の部屋でロレンスに話しかけてきたゼーレンと名乗る駆け出しの行商人の若者は、ロレンスにちょっとした儲け話を持ってきたのだ。
それは現在発行されているある銀貨が、近々銀の含有率を増やして再発行されるという話だ。もしもこの話が本当ならば、古いほうの銀貨は質が悪いのに質の良い銀貨と同じ価値を持つことになる。しかし、別の貨幣との相場を比べた場合、強いのは銀の含有率が高い新しい銀貨だ。つまり、新しい銀貨が銀を増やして再発行されるとわかっていれば、古い銀貨を大量に集めておいて新しい銀貨と交換することで差額の分だけ大儲けできる、というものだ。ゼーレンは世に流通するたくさんの貨幣のうち、どの貨幣でこのからくりが使えるのかという情報を渡す代わりに、大儲けの際は分け前をくれ、と言うのだ。おそらくは目をつけた商人何人かにそう言っているのだろうが、ロレンスは当然それを鵜吞みにはできない。
ホロは、あの時盗み聞いていたはずの話を思い出すように遠くを見て、手に持ったままだったジャガイモのかけらをひょいと口に放り込んで飲み下した。
「どこが噓かとか、詳しい内容についてはわかりんせんがな」
ロレンスはうなずき、考える。さすがにそこまでは期待しない。
が、取引そのものが噓でない限り、結果としてゼーレンの噓は銀貨についてのものとなる。
「貨幣への投機自体は珍しいことじゃない。だがなあ……」
「噓をつく理由がわからない、じゃろ」
ジャガイモの芽をくりぬいて、残ったところを口に放り込み、ロレンスはため息をつく。
ホロはもうすでにロレンスのことを尻にしいているかもしれない。
「噓をつく時、大事なのはその噓の内容ではなく、なぜ噓をつくかというその状況じゃ」
「俺がそれに気がつくまでに何年かかったと思う」
「ふふん、ぬしはあのゼーレンという男を若造と思っとるようじゃが、わっちから見りゃどっちもどっこいじゃと言ったろう」
得意げに笑うホロだが、ロレンスはこの時ばかりはホロが人間であって欲しくないと願うばかりだ。自分が苦労して得てきたことを、見た目どおりの若さのホロが手に入れているとしたらロレンスの立つ瀬がどこにもないからだ。
そんなことを思っているとホロが意外な言葉を放ってきた。
「もし、わっちがいなかったら、ぬしはどう判断するよ」
「うむ……噓か真かその判断は保留にし、とりあえずゼーレンの話を吞んだように振る舞うな」
「それはなぜかや」
「真であればそのまま儲けに乗ればよく、噓であれば誰かが何かを企んでいるということだから、そういう時は、注意深く裏を突けば大抵が儲け話になるはずだからだ」
「うん。じゃあ、わっちがぬしのそばにいて、あの話は噓じゃと教えたら?」
「ん?」
そこで何か化かされているような気がして、ようやく気がついた。
「……あ」
「うふ。ぬしは始めから何も迷うことなどありんせん。どの道乗った振りをするんじゃろ」
ニヤニヤ笑うホロに、ロレンスはぐうの音も出なかった。
「この余りのジャガイモは、わっちの物じゃな」
ホロはベッドから手を伸ばしてテーブルの上のジャガイモを取ると、にこにこしながら二つに割る。
ロレンスは、苦々しくて手元の二つ目を割る気になれなかった。
「わっちは賢狼ホロじゃ。ぬしの何十倍生きとると思っとる」
そんなふうに気遣われるのがまた癪で、ロレンスはジャガイモを摑むと思い切りかぶりついた。
なんだか、親戚の行商人の元に弟子入りしたての頃を思い出したのだった。
翌日、外は綺麗な秋晴れだった。教会の朝は商人のそれより早く、ロレンスが目を覚ました頃にはすでに朝の日課が終わっていた。それはまあ知っていることなのでなんともないのだが、外の井戸で顔を洗っていると、部屋に姿が見えず外の厠にでも行ったのかと思っていたホロが教会の者達と一緒に聖堂から出てきたのには驚いた。きちんと外套を頭からかぶってうつむき加減に歩いてはいたが、時折信徒達と親しげに言葉を交わしている。
豊作の神など認めない教会の者と、その当の豊作の神が親しげに喋っている光景はなんとも苦笑ものだったが、生憎とそれを楽しめるほどロレンスの肝も太くない。
信徒達と別れ、井戸のそばで呆然としているロレンスのもとに静々と歩み寄ってきたホロは、小さな両手を胸の前で組んで小さく言ったのだった。
「わっちのだんな様の肝が太くなりますように」
ロレンスは冬も近くなった秋の朝の冷たい井戸水を思い切り頭からかぶり、ケタケタ笑うホロの笑い声が聞こえない振りをしたのだった。
「しかし、こやつらも偉くなったもんじゃな」
ホロが昨日尻尾を振って水を切っていたように、ロレンスも頭をぶるんぶるん振って水を切ったが、ホロはどこ吹く風だ。のんきにそんなことを言っている。
「教会は昔から偉いだろう」
「いやいや。わっちが北からこっちに来た頃はまだそんなでもなかったわいな。少なくとも唯一神が十二人の天使とともに世界を作り、人はその作られた世界を借りている、なんて大げさなことよう言わなんだ。自然は誰かが作れるようなもんじゃありんせん。わっちはいつから教会は喜劇を扱うようになったんじゃと思ったくらいじゃ」
時折耳にする自然学者の教会批判と似たようなものだが、それを言っているのが何百年も豊作を司っていた賢狼を自称する者なのだから面白い。ロレンスは体を拭いて、服を着る。横に置いてある寄付箱に寄付をするのも忘れない。教会の連中は、誰かが井戸を使ったらその度に寄付箱をチェックするのだ。お金が入っていなかったりすると、不吉なお告げをして不安がらせたりする。旅から旅のロレンスとしては不吉なお告げをされたりしたらたまらない。
もっとも、寄付箱に入れた貨幣は黒ずんで磨り減った、財布の中では一番安い銅貨とも呼べないような粗悪な銅貨ではあったのだが。
「これも時代の移り変わりかの。この分だとだいぶ変わっていそうじゃ」
とは、故郷のことかもしれない。外套の下からしゅんとした様子が伝わってきたからだ。
ロレンスはホロの頭をぽんぽんと軽く叩く。
「おまえ自身は変わったのか?」
「……」
ホロは無言で首を振る。こんな仕草はとても子供っぽい。
「なら故郷も変わっていないだろ」
今はまだ若造の部類とはいっても多少年を経てきた自分だ。各地を飛び回ってたくさんの人間に出会って様々な経験をして積み重ねてきたからこそ言える言葉を、ホロに言ってやった。
例え家出同然に故郷を飛び出してきた行商人であっても、行商人なら全ての者が故郷を大事にする。異国の町で頼れるのは同郷の者達だけだからだ。
そんな行商人達が、もう何年も故郷に帰っていない者達に言う言葉がそれだ。
ホロはうなずいて、外套の下から少しだけ顔を出した。
「わっちがぬしから慰められてちゃ賢狼の名折れじゃ」
笑いながらそう言ったものの、きびすを返して部屋のほうに戻ろうとしたホロの流し目は、ロレンスに礼を言っているように見えた。
徹頭徹尾頭が切れて、年経た賢人らしく振る舞ってくれるならロレンスもそれなりに対応のしようがある。
ただ、時折見せる子供っぽい仕草の対応に窮するのだ。
ロレンスは今年で二十五だ。町の人間なら妻を貰って子供と共に教会の説教に行く年頃で、人生も半ばを過ぎている。ホロのそんな振る舞いは、ロレンスの独り身の隙間に容赦なく入り込んでくる。
「ほれ、はよ来い。何しとる」
少し離れたところでホロが振り向き様にそう言った。
まだ出会ってから二日しか経っていないというのに、とてもそんな気がしなかったのだった。
ロレンスは結局ゼーレンの誘いに乗る旨を伝えた。
ただ、ゼーレンもロレンスと口約束だけで情報のすべてを教えるわけにはいかないだろうし、ロレンスもゼーレンに前金を払うことなどできはしない。どの道ロレンスが毛皮を金に換えなければならなかったこともあり、結局川沿いの港町パッツィオで公証人の下、正式な契約書を交わすことにしたのだった。
「それじゃああっしは先に行ってますんで、パッツィオについて一息ついたらヨーレンド、っていう酒場に来てください。あっしと連絡取れるようになってます」
「わかった。ヨーレンドだな」
ゼーレンは愛嬌のある笑顔で頭を下げて、干した木の実の詰まった麻袋を担いで先を歩いていった。
駆け出しの行商人がまずすることは、商売も勿論だがそれよりも色々な土地に行ってその土地のことを知り、同時に自分の顔を覚えてもらうことだ。その時に持ち運ぶものは長持ちして、教会や宿で売りながら話の種にできる木の実や干し肉が良い。
ロレンスも、この荷馬車を手に入れるまでのことを思い出して少しゼーレンの後ろ姿が懐かしかった。
「一緒に行かんのかや?」
ホロが唐突にそう言ったのは、ゼーレンの姿が視界から消えるほど遠くなってからだ。それまで何をしていたかといえば、周りに人目がないのをいいことに堂々と尻尾の毛づくろいだ。
しかし、耳を隠すために外套をかぶっているせいか、流れるような栗色の髪の毛についてはほとんど無頓着で、ばらけないようにと細い麻縄でくくっているくらいだ。せめて櫛くらい通せばよいのにとロレンスは思うものの、生憎と櫛など持ってはいない。パッツィオの港町に着いたら櫛と帽子を買ってやろうかと思ったのだった。
「昨日雨が降っただろ。道がぬかるんでるから荷馬車より徒歩のほうが断然早い。わざわざ遅い馬車に付き合わせることもないだろう」
「確かに、商人は時間にうるさいわな」
「時は金なりだ」
「うふふ。面白い言葉じゃ。時は金なりか」
「時間があればそれだけ金を稼げるだろう?」
「うん。確かにの。ただ、わっちにはその発想はないな」
言ってから、ホロは再び尻尾に目を落とす。
そのまま垂らすと膝の後ろを越えるくらいの立派な尻尾だ。ふさふさしていて、毛を刈り取って売ればそこそこの金になりそうだ。
「お前が何百年と見続けてきた農夫達も、時間には正確だと思うが」
と、そう言い終えてからロレンスはこの話題の振り方はまずかったかと思ったのだが、ホロは視線だけをロレンスに向けてきて、「貸しがひとつじゃな」と言わんばかりに意地悪そうに笑っていたのだった。
「ふん。ぬしは何を見とるかよ。やつらは時間に正確ではない。空気に正確なんじゃ」
「……わからないな」
「よいか? やつらは夜明けの空気で目を覚まし、朝の空気で畑を耕し、午後の空気で草をむしる。雨の空気で縄をない、風の空気で作物の心配をする。春の空気で芽吹きを喜び、夏の空気で成長を楽しみ、秋の空気で収穫を笑い、冬の空気で春を待ちわびる。やつらは時間なんぞ気にはせん。ただ、空気だけを気にかける。わっちもそうじゃ」
ホロの言葉がすべて理解できるというわけでもなかったが、言われてみれば納得できるところもある。ロレンスが感心するようにうなずくと、ホロはそれを受けて得意げに胸をそらして鼻を鳴らしたのだった。
この自称賢狼は、少なくとも隠者や賢人のように謙虚にしようという気は毛頭ないようだった。
そんな折に、道の向こうから徒歩の行商人らしき者が歩いてくるのが目に入った。
ホロは外套を頭に載せたままだが尻尾は隠そうともしない。
ただ、そのまますれ違った行商人はホロの尻尾をじっと見つめていただけで、特に何かを言うわけでもなかった。
まさか、それがホロの尻尾だとは思わないのだろうし、ロレンスもきっと同じ状況になれば何の毛皮かと値踏みする程度だ。
それでも、それを実際に平気な顔してできるかというと話は別だった。
「ぬしは頭の回転は良いが経験が足りんな」
毛づくろいが終わったのか、ぽいと尻尾を手放してもそもそと腰巻きの中にしまうと、ホロは外套の下からロレンスのほうを見上げてそう言った。外套の下にあるのは十の半ばに手が届くかどうかといった娘の顔だ。ひょんな拍子にはもっと幼い様子も垣間見える。
しかし、その口から出る言葉にはとても老獪な匂いが漂っていた。
「もっとも、逆を言えば歳を経れば良き者になろうということじゃがな」
「それは何百年後の話だ?」
ホロのからかい方がわかったのでそう切り返してやった。
ホロは驚いたような顔をして、それから大きな声で笑ったのだった。
「あははははは。ぬしの頭はよう巡るの」
「お前の頭が古すぎてがたがきているだけじゃないのか」
「うふふふふ。わっちら狼がどうして山の中で人を襲うか知っとるかや」
突然切り替えられる会話の方向についていけない。ロレンスは無防備に答えていた。
「いや、わからないが」
「それはな、人の頭を食べてその力を得ようとするからじゃよ」
にやり、と笑うホロの口にきらめく二本の牙。
それが冗談だとしても思わずぞっとして、息を吞んでしまった。
負けた、と思ったのはその数瞬後だった。
「ぬしなんぞまだひよっこじゃ。わっちの相手になどなりんせん」
小さいため息と共にそう言い放たれて、ロレンスはぐっと手綱を握りしめて顔に悔しさが出るのを抑えたのだった。
「しかし、ぬしは山で狼に襲われたことないんかや?」
狼の耳と尻尾と牙を持つホロにそんなことを問われるのはなんだか不思議な気分だ。理不尽な恐怖の対象でしかなかった山の狼が、隣にいて、会話をしているのだ。
「ある。えーと……八回くらいかな」
「てごわいじゃろ」
「ああ。野犬の群れは結構どうにかなるが、狼はてごわい」
「それはな、そやつらが少なからず人を食ってその力を」
「悪かった。やめてくれ」
三回目に狼に襲われたのは隊商を組んでいた時だ。
そして、そのメンバーのうち二人は山を降りることができなかった。あの時の悲鳴が今も耳にこびりついている。
無表情になったのは、意識したわけではない。
「あ……」
聡い賢狼は気がついたようだった。
「すまぬ……」
しゅん、と体が小さくなるほど肩を落として、ホロは小さくそう言った。
ロレンスはそれでなくとも狼に何度もひどい目にあっている。芋づる式にそれらのことも思い出してしまい、とてもホロに返事ができるような気分ではなかった。
べちょり、べちょり、と馬がぬかるんだ道を行く音だけがしばらく響いていた。
「……怒っとる?」
聡い賢狼だ。そんなふうに聞かれたら怒っていると本気で答えられないとわかって聞いているのだろう。
だから、答えてやった。
「怒っている」
ホロは、黙ったままロレンスのほうを見上げてきた。横目に視線を向けると、少し唇を尖らせているのが今にもすべてを許してしまいそうなくらい可愛かった。
「怒っているからな。二度とその冗談はやめろ」
結局、そっぽを向きながらそう言うしかなかった。
しかし、ホロは殊勝にうなずいて視線を前に向ける。こういうところは、とても素直なようだ。
それからしばらくまた沈黙が続いたが、やがてホロが口を開いた。
「狼は森だけで暮らし、犬は一度人の下で暮らしとる。それが狼と犬の手ごわさの違いじゃ」
ポツリと言ったその言葉を無視してもよかったが、そうするとその先会話を再開するきっかけを作るのがとても難しそうだ。ロレンスはホロのほうに少し顔を向けて、とりあえず聞く姿勢を作る。
「……ふん?」
「狼は人に狩られることしか知りんせん。人は恐怖の対象じゃ。だからよく考える。彼らが森に来た時、わっちらはどう動くべきか」
まっすぐに前を向いて、初めて見るような真剣な顔でそう言っている。
ロレンスはとてもそれが即席の言い繕いには思えず、ゆっくりとうなずく。
ただ、それが少し気の抜けた曖昧なものだったのは、気になったことがあったからだ。
「お前も、人を」
その先は、ホロがロレンスの服を摑んだので止まった。
「いくらわっちでもな、答えられんことがある」
「う……」
ロレンスは思いつきで口を開いた自分を胸中で罵りながら、「悪い」、と言った。
すると、とたんにホロはにかりと笑ったのだった。
「これで一対一じゃな」
賢狼は、二十五年程度の人生では追いつけない位置にいるようだった。
それからは特に会話もなく、それでも気まずいわけでもなく、荷馬車もぬかるみにはまることなく道程を進み、昼を過ぎてあっという間に日が暮れた。
雨の降った次の日に日暮れ以降進むことは行商人ならば絶対にしない。荷馬車の車輪がぬかるみにはまったらどれほど荷物が軽くても十回に七回はその荷馬車を諦めなくてはならないことを知っているからだ。
行商でより多く儲けるためには、より損を少なくすればいい。それほど、道には危険が満ちているのだ。
「ぬしとわっちじゃ、生きてきた世界が違うんじゃよな」
明日も晴れることを告げる星空の下で、テンの毛皮の山の下からホロが何とはなしにそんなことを言ったのだった。