毛皮を持っていった先はミローネ商会という様々な商品の仲介を主な生業とする商会だ。パッツィオでは三番目の大きさのそこだが、一番と二番の店がパッツィオに本店を置く地元の業者であるのに対し、ミローネ商会は遠い南の商業国に本拠地を持つ、爵位持ちの大商人が経営する大商会の支店だった。

 ロレンスが地元の業者ではなくわざわざそこを選んだのは、ミローネ商会がよそ者であることを克服しようと商品の買取に高値をつけているという理由もあったし、何より様々な地に支店を持つそこに入る情報の量はとても多いからだ。

 教会で出会ったあの若い行商人、ゼーレンの持ちかけてきた話に類することが聞けるかもしれないという目論見があった。貨幣相場の変動について最も鋭敏な耳を持っているのは、両替商と国境を越える商売を行う者達だからだ。

 ロレンスとホロの二人はいったん宿に寄って部屋を確保してから、ロレンスは髭を整えて出発した。ホロは相変わらず頭から外套をかぶったままだ。

 ミローネ商会は船着場から五番目に近い位置にあり、二番目に大きい店舗を構える。板張りの船着場通りに向かって大きく荷馬車の搬入口を確保したそこは一見すると一番大きい店舗のように見えてしまう。何より、そこに運び込まれる様々な品物の種類と量がよく見えて、繁盛している店なのだということをこれでもかと往来を行く人達に見せつける。これも地元業者と戦っていく独特の知恵なのだろう。地元の連中は、こういう派手さよりも長い期間をかけて培ってきたコネで商売を行ったりするせいで、自然とあまり派手に自分のところが儲かっているとは強調しない。その必要がないからだ。

 そんなミローネ商会の荷揚げ場の前に荷馬車を止めると、たちまちのうちに店の人間がやってきた。

「ようこそミローネ商会へ!」

 髭をあて、髪を整え、身なりもきちんとした人間に荷揚げ場を任せているのだから変わった商会だ。普通、荷揚げ場は山賊のような男達が怒鳴りながら右に左にと立ち回っている場所だ。

「以前こちらで麦を買い取ってもらったんだが、今日は毛皮を買い取ってもらいたい。商品は持ってきてある。時間を割いてもらえまいか?」

「ええ、ええ、もちろん大歓迎でございます。それではこのまま奥に入りまして左手の者達にお声をおかけください」

 ロレンスはそれにうなずくと、再び手綱を握り言われたとおりに馬車を搬入口から荷揚げ場へと入れる。そこかしこに麦だの藁だの石だの木材だの果物だの、とにかく色々な物が溢れている。その上ここを行き交う者達の活気も相当なものだ。異国の地で成功を収めるというのはこういうことなのだろう、と行商人の目を覚まさせるような場所だった。

 横にいるホロも、少し驚いているようだった。

「おおい、旦那様よ、どこに行かれる」

 忙しく荷揚げや荷降ろしを行っているのを横目に奥に入っていくと、途中でそんな声に呼び止められた。声の聞こえたほうを向くと、真っ黒に日焼けして体から湯気を上げている大柄な男の姿が目に入った。さすがに荷物を扱う現場では入り口でロレンスに声をかけたような男は使っていないようだったが、それにしてもごつい。ホロが、小さく「戦士かや?」と言ったほどだ。

「毛皮を買い取ってもらいに来た。入って左側の者に声をかけろと言われた」

 ロレンスはそう言ってから、その男が荷揚げ場の左側にいたことに気がつき、その男と目が合うと二人して笑い合ったのだった。

「よっしそれじゃあ旦那の馬車は俺が預かろう。そのままこっちに入って来てくれ」

 ロレンスが言われたとおりに男のほうに向かい馬を歩かせると、男は真正面から馬を抱きとめる形になって静止の合図を出した。馬がぶるるんと鼻を鳴らす。男の活気にあてられたのかもしれない。

「ほほう、良い馬だ。こいつは丈夫そうだ」

「文句も言わずに働いてくれる」

「文句を垂れる馬がいれば見世物にするべきだ」

「違いない」

 二人は互いに笑い合った。それから男が馬を荷揚げ場の奥まで設けられている頑丈そうな木の柵にくくりつけると、大声で誰かを呼ぶ。

 やってきたのは、藁束を持ち上げるよりも羽ペンを持つのが似合いそうな男だ。買取の査定を行う者だろう。

「クラフト・ロレンス様ですね。当商会のご利用を店主に代わってお礼申し上げます」

 丁重な挨拶には慣れっこだが、さすがに名乗る前に名前を呼ばれて面食らう。この商会を利用したのは三年前の冬に麦を売りに来たのが最後だが、もしかしたら、入り口で声をかけてきた男がロレンスの顔を覚えていたのかもしれない。

「本日は毛皮の買取をご所望だとお伺いいたしましたが」

 今日の天気から話題を切り出す地元業者とは違って単刀直入だ。ロレンスは軽く咳払いをすると気持ちを商談用に切り替える。

「いかにも。この後ろのものがそれなのだが、全部で七十枚ある」

 ひらり、と御者台から飛び降りて査定の男を荷台へと誘う。横に座っていたホロも遅れて御者台から降りてくる。

「ほう、これは良いテンの毛皮ですね。今年はどの作物も豊作で、テンの入荷が少ないのです」

 テンは市場に出回る約半分のものが農作業の合間に農夫達によって狩られるものだ。そのため作物が豊作で農作業が忙しいとその供給も減る。ロレンスは少し強気に出ることにした。

「これほどの質を持つ毛皮は数年に一度だろう。途中雨に降られたがまったく失っていないこの毛皮のつやを見てもらいたい」

「ほほう、確かに良いつやです。毛並みも良い。大きさはいかがでしょう」

 ロレンスは荷台の上から即座に大きそうな物を選んで査定の男に手渡した。商人の商品に持ち主以外が直接手を触れるのはご法度だからだ。

「ほほー……これは申し分ない大きさです。えーと、こちらが、七十枚でしたね?」

 他のものの大きさも見せろ、とは査定の男も言わない。そんな無粋なことを言うようではやっていけない。買取の査定はここが勝負どころなのだ。商品のすべてを見たいと思わない買い手はいないが、商品のすべてを見せたいと思う売り手もいない。

 ここは見栄と礼儀と欲望の十字路だ。

「それでは……ローレンツ様は、あ、失礼、ロレンス様は以前麦のお取引をさせていただいておりますので、こちらの金額でいかがでしょう」

 同じ名前も国によって発音が違う。ロレンスもよくやるミスなので笑って許し、男が懐から取り出した木製の計算機に目を落とす。国や地方によって数字の書き方がまちまちの上、わかりにくいことこの上ないため商談で紙の上に数字が書かれることは滅多にない。木製の計算機はそこにある木の玉の数によって値段が一目瞭然だ。ただし、何の貨幣で計算されているのかには注意しなければならないが。

「トレニー銀貨で百三十二枚を提案させていただきます」

 ロレンスは一瞬悩む振りをする。

「これらはなかなか見ない粒ぞろいの毛皮でね。今日こちらに持ち込ませてもらったのも以前麦の取引で世話になったからなのだが」

「その節はありがとうございます」

「私としては今後こちらの商会と良き関係を築いていきたいと考える」

 ロレンスは言葉を切って小さく咳払いをする。

「いかがだろうか」

「当商会といたしましてもまったく同感でございます。それでは今後の親交も考えまして百四十枚でいかがでしょうか」

 見え透いたやり取りだが、そんな欺瞞の中にも真実があるから商談は面白い。

 トレニー銀貨百四十枚なら上々だ。これ以上押すのは得策ではない。それに、今後の関係もある。

「それで頼む」、とロレンスが言おうとした矢先だった。

 今まで黙っていたホロが、小さくロレンスの服の裾を引っ張ってきたのだ。

「ん? ちょっと失礼」

 査定の男に断って、ロレンスはホロの外套の下に耳を寄せる。

「わっちは相場がわからん。どんなもんじゃ」

「上々だ」

 そうとだけ答え、査定の男に商談用の笑みを向ける。

「それでは、ご納得いただけますでしょうか」

 向こうも商談のまとまりを察したようだ。笑顔でそう言って、ロレンスは返事をしようとした。

 まさか、ここでホロが口を挟むとはちょっと思わなかった。

「しばし待たれよ」

「なっ」

 とは、ロレンスの思わずの言葉だ。

 それでもホロはロレンスに何かを言わせる前に言葉をつむぐ。この辺の呼吸の摑み方は商人じゃないかと思ったくらいだ。

「トレニー銀貨百四十枚。確かにそう申されたかや」

「え、あ、はい。確かにトレニー銀貨で百四十枚です」

 今まで黙っていたホロにそう尋ねられ、少し当惑しながらも査定の男が律儀に答える。大体、女が商談の場に立つのは珍しいことだ。ないわけではないが、限られている。

「ふうむ。ぬし様は気づかれたかよ?」

 それでもホロはそんな事実を知らないのか、それとも知っていても気にしないのか、外套の下から余裕たっぷりにそんな言葉を放つ。

 査定の男は気を吞まれてホロのほうを見つめているが、質問の指し示すことが何なのかまったくわからないのだろう。ロレンスだってわからない。

「も、申し訳ございません。何か見落としていることがございますでしょうか」

 査定の男は見たところロレンスと同じ年くらいの、異国から来ている商人だ。経験してきた商談の場は数知れず、対応してきた人間の数も同様だろう。

 そんな海千山千の男が、本気でホロに謝っているように見える。

 確かに、突然そんなことを言われれば動揺するに決まっている。なにせ、ホロの言葉は「お前はどこを見ているんだ」というものに等しいからだ。

「うむ。ぬし様は一角の商人と見受けられるが……いや、だからこそわざと気づかぬ振りをしたのかや? ならばぬし様も油断ならぬお人じゃ」

 外套の下でホロがにやりと笑う。ロレンスは牙が見えやしないかとはらはらしたし、何よりこんなことを言ってどうするつもりなのかと罵倒したい気持ちだった。

 今の商談で、この男がした査定は妥当なものなのだ。それに、ホロの言葉が当たっているのだとしたら、それはロレンスもその何かを見落としていることになる。

 そんなもの、ない。

「め、滅相もございません。自らの不明を恥じるばかりでございます。宜しければその点御指摘いただけないでしょうか。その上で再度値段を提示させていただきたいと存じますが……」

 買取の査定をする者がこんな低姿勢になったことなど初めてだ。その振りならいくらでも見たことはあるが、どうも本気のようだ。

 ホロの言葉は、妙な重さを持っている上にその放ち方が絶妙だ。

 そんなことを思っていたら、不意にホロがロレンスのほうを見た。

「あるじ様よ、意地悪はするものではない」

 あるじ様、という言葉がなんとも馬鹿にしているのかこの場にふさわしいのかちょっと判別しづらかったが、ここで間違った対応を取れば後でホロに何を言われるかわからない。必死に頭を巡らせて返事をする。

「そ、そんなつもりではない。しかし、こうなってはしょうがない。お前、教えてやりなさい」

 ホロが左側の牙をロレンスにだけ見せてにやりと笑う。どうやら正しい対応だったようだ。

「あるじ様、毛皮を一つ取ってくださいまし」

「うむ」

 あるじ様と呼ばれているのだから威厳を保たなければならない、と力むほどに自分の姿がこっけいに思えてくる。今、この場はホロが主導権を握っているのだ。

「どうも。さて、ぬし様よ」

 ホロはそう言って受け取った毛皮を持ち査定の男に見せる。一応毛並みや大きさや色艶の良いものをとっさに選んで渡したが、とても値段を吊り上げるような要素などなさそうだ。例えば毛並みの良さ一つを大仰にしつこく説明すれば、向こうからはならば全部を拝見させてもらいますと言われかねない。そうすれば傷のある毛皮だってあるはずなのだ。値段は下がらないかもしれないが、場の空気は悪くなる。

「こちらは見てのとおりに良き毛皮じゃ」

「はい、まったく同感でございます」

「うむ。これは数年まれに見る良き毛皮。されど、ここではあえてこう言うべきじゃ。すなわち、数年まれに匂う毛皮、と」

 ホロの言葉に一瞬その場が固まった。意味が、わからない。

「匂いであるのに意外な盲点とはこれいかに」

 ホロはそう言って一人からからと笑う。ホロの独壇場だ。そんなくだらない言葉に突っ込む余裕などロレンスと査定の男にはない。

「まあ、百聞は一見にしかずじゃ。取って匂いを嗅いでみなされ」

 ホロはそう言って男に毛皮を渡し、手渡された男はロレンスのほうを当惑した目で見る。

 ロレンスもそれに同情したい気持ちだったが、ゆっくりとうなずいた。

 毛皮の匂いなど嗅いでどうなるというのか。そんなこと、商談で一度も指摘したこともされたこともない。

 向こうも同様のはずだが、客が言うのだから逆らえもしない。男が、ゆっくりと毛皮に鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。

 すると、当惑しか浮かんでいなかった顔に少し驚きの色が混じる。もう一度匂いを嗅ぐと、それは完全に驚きのそれになった。

「どうじゃろ。何か匂うかや」

「え、あ、はい。これは、果物の香り、でしょうか」

 ロレンスは驚いて毛皮を見る。果物の匂い?

「いかにも。今年は豊作のせいでテンの毛皮が少ないと申されたとおり、森もたわわに実った果実で溢れておる。そんな森をつい先日まで駆けずり回っていたようなテンの毛皮じゃ。たらふく良いものを食っておるから体から甘い匂いが立ち昇るほどじゃ」

 査定の男は話を聞きながらもう一度匂いを嗅ぐ。それからうなずいて、確かに、と言う。

「実際、毛皮の色艶なんぞは多少上下すれども大して変わらぬじゃろう。問題は服にして、加工して、その後の使い勝手じゃないかや。良きものは長持ちし、悪いものはすぐ崩れる」

「仰るとおりで」

 ロレンスも胸中で舌を巻く。この狼は、何をどこまで知っているのか。

「この毛皮はこれ、このとおり、甘い香りが匂い立つほどうまいものを食っておるテンの毛皮じゃ。その毛皮を剝ぐ時は大の男二人がかりで皮を引き裂いたものじゃ。身がしまりすぎて難儀した」

 男もつられてぐいぐいと手元の毛皮を引っ張ってみる。

 しかし、実際は買い取ってもいない商品をそこまで強く引っ張れない。ホロは、当然そこをわかっているのだろう。

 見事なほど、絵に猫いたような商人だ。

「この毛皮は猛獣のそれのように強靱で、包まればまるで春の日差しのように暖かく、雨にかざせばそれは見事に雨をはじく。その上、この香りじゃ。鼻が曲がりそうな臭いのテンの毛皮でできた服が並ぶ中、一つ甘い芳香を放つ毛皮で作られた服があるところを想像せよ。目の飛び出るような高値で売れること間違いなしじゃ」

 査定の男が言われたとおりにその場面を想像するように少し遠いところを見る。ロレンスもつられて見るが、確かに目立って売れそうだ。いや、この場合は匂い立って、か?

「さて、いかような値段でこちらを買い取っていただけるじゃろうか」

 その言葉に、査定の男はぱちんと夢から覚めたように背筋をただし、慌てて木製の計算機をいじくった。こんこんこん、と小気味よい音を立てて木の玉がはじかれて、その数字が示されたのだった。

「トレニー銀貨二百枚でいかがでしょうか」

 その言葉にロレンスは思わず息を吞む。百四十枚でもかなり高値なのだ。二百枚などあり得ない数字だ。

「うーん」

 しかし、ホロがそんなうなり声をあげる。ロレンスはもう勘弁してくれと、それを止めようと口を開こうとする。もちろん、ホロが止まるわけはなかった。

「毛皮一枚につき銀貨三枚でどうかや。つまり、二百十枚」

「う、えー……」

「あるじ様、他に商会は」

「あ、わ、構いません! 二百十枚でよろしくお願いします!」

 その言葉にホロは満足げにうなずいて、ロレンスのほうを向いたのだった。

「だ、そうじゃ、あるじ様」

 やっぱり、からかってそう呼んでいるようだった。



 ヨーレンドという名の酒場は少しうらびれた通りにあった。ただ、店構えは開放的で掃除も行き届き、客層も例えば職人なら棟梁クラスの者達が利用しそうな場所だった。

 そんなヨーレンドの酒場の席に着くと、ロレンスはどっと疲れが出たような気がした。

 対するホロは極めて元気だ。その道の人間二人をいとも簡単に出し抜いたのだからさぞ気分もよいことだろう。まだ時間が早いこともあって店内は空いており、そのためすぐに出てきた酒で乾杯したものの、ホロは一気に飲み干し、ロレンスは少しなめただけだった。

 特級のぶどう酒だというのに、何の味もしなかった。

「うーん。やはりぶどう酒じゃの」

 げふー、とげっぷも一丁前だ。すぐに木のジョッキを掲げて追加を注文する。店員の娘は景気のよい客に笑顔で返事をした。

「どうしたかや。飲まんのか」

 炒って乾燥させた豆をぼりぼり嚙みながらホロはそう言うが、その口調が意外にも勝利に酔いしれたそれではなかったので、ロレンスは正直に聞いてみることにした。

「お前、商人やってたことがあるのか?」

 豆をぼりぼり嚙みながら、早速追加されたジョッキを手に取ってホロは意外にも苦笑いをしたのだった。

「なんじゃ、わっちのあれがぬしの誇りに傷でもつけたかよ」

 まったくそのとおりだ。

「ぬしがどれほどたくさんの商談をしてきたかはわっちにはわからんが、わっちもあの村でたくさんの商談を見てきとる。あれはな、いつだったかや、もうかなり昔じゃが、ずいぶん頭の切れる者が使っとった方法じゃ。わっちが思いついたわけじゃありんせん」

 そうなのか?、とは口に出さず目で問いかけた。我ながら情けないとは思ったが、ホロが酒を飲みながら困ったように笑ってうなずくと、ため息と共に多少安心したのだった。

「しかし、俺は本当に気がつかなかった。というか、昨日あれに包まって寝た時は果物の匂いなどしていなかったが」

「それはほれ。わっちがぬしに買ってもらった林檎。あれじゃ」

 ロレンスはもう声も出ない。いつの間にそんな細工をしたというのか。

 しかし、それを聞いて即座に思い浮かんだ懸念があった。

 それでは詐欺じゃないか。

「引っかかったほうが悪い、とは言わんが、向こうもこんな方法があるのか、と感心するじゃろ」

「……まあ、だろうな」

「だまされた時に怒っているようじゃ話になりんせん。そんな方法もあるのかと感心してこそ一人前じゃ」

「堂に入った説教だな。まるで歳食った商人だ」

「うふ。どれほど年食った爺もわっちから見れば赤ん坊と同じよ」

 ロレンスはもう笑うしかなく、肩をすくめるとぶどう酒を飲んだ。今度は、きちんと味がしたのだった。

「それはそうと、ぬしはきちんとするべきことをしたのかや?」

 とは、ゼーレンの持ちかけてきた話のことだろう。

「一応さっきの商会の連中に、近々銀貨を発行しなおす国がないかと話は聞いてきたが、隠しているふうでもなかった。独占できる類の儲け話でない限り、あいつらはあまりそういうことを隠さない。そういう話を客にして、恩を売ったほうが得な場合が多いからな」

「ふむ」

「もっとも、その手の話で考えられる可能性はそんなに多くはないんだ。だから話に乗ったということもあるんだが」

 見栄ではなく、事実だ。貨幣相場の変動は極端にいえば上がるか下がるかそのままかしかない。複雑になったとしても、もう頭を一ひねりすればほぼすべてが思いつくものばかりなのだ。

 そうなれば、持ちかけられた取引内容とともに誰が得をして誰が損をするかを考慮すれば、そこから導かれる選択肢などそう多いわけではない。

 しかし。

「まあ、そこにどんなからくりがあったとしても、俺が得をして損をしなければそれでいい。すべてはそれに尽きる」

 ぶどう酒を飲んで、豆を口に放り込む。一応この代金はホロ持ちということになっているから、飲んで食わなきゃ損だ。

「しかし、マスターらしき人間が見当たらないが、外に出ているのか」

「店に行けば連絡が取れると言っとったな。よほど懇意にしておるのかや」

「いや、行商人が連絡拠点にするのは、出身地が属する商館か、酒場かのどちらかだ。俺も後で商館に行っておかないといけないんだが、やはりマスターはいないな」

 ロレンスはそう言って店内を改めて見回した。そこそこ広い店内には、丸テーブルが十五卓にカウンター席も十五席並んでいた。客はロレンスとホロの他に暇をもてあましている感じの引退した職人らしい老人二人がいるだけだった。

 まさかその老人二人に声をかけるわけにもいかないので、ロレンスはちょうど追加のぶどう酒と、鰊の塩漬けに羊肉の燻製を持ってきた娘に聞いてみることにした。

「マスターですか?」

 細い腕のどこにそんな力があるのか、軽々と酒や料理をテーブルに置くと娘はロレンスのほうを向き直ってにこりと笑って言ったのだった。

「今は仕入れに行っていますが、何か御用事ですか?」

「ゼーレンというやつに連絡を取りたい、と伝えてもらえるかな」

 店がゼーレンを知らないならそれはそれで構わない。酒場を連絡拠点にする行商人はとても多いから、行き違いがあったのだろう程度にしか思われないだろう。

 しかし、それも取り越し苦労のようだった。ゼーレンの名を出すと、元々明るかった娘の顔がさらにぱっと輝いた。

「あ、ゼーレンさんですか。話は聞いています」

「連絡を取りたいんだが」

「昨晩町に帰って来ましたので、しばらくの間は毎晩見えると思いますけど」

「そうか」

「たいてい日が暮れてすぐに来ますので、それまで当店で過ごされることをお勧めします」

 ちゃっかりした娘だ。ただ、それも一理ある。日没まであと一、二時間だから、ゆっくりと飲んでいけばちょうどよい頃合に来るだろう。

「それじゃあそうさせてもらおう」

「はい。ごゆっくりどうぞ」

 娘はそう言って一礼すると、老人二人のつくテーブルのほうへと歩いていった。

 ロレンスはぶどう酒の入ったジョッキを手に取り一口含む。鼻を軽く抜ける爽やかな酸味に、舌の両側にしみこむぶどうの甘さ。強烈さが売りのラム酒もいいが、ロレンスはぶどう酒や蜂蜜酒といった甘いもののほうがいい。たまになら林檎酒や梨酒といった変わり種もいい。

 麦から造るビールもよかったが、職人によってうまいまずい、それに好みに合う合わないが大きいので考えものだ。値段が高ければそれだけ美味いぶどう酒と違い、ビールは値段によっても良し悪しがわからないから行商人が飲むには向かない物だ。その土地、その町に住む者でないと自分に合ったうまい物を見つけることができない。だから、地元の人間の振りをする時はビールなどを注文したりもする。

 そんなことを思っていると、対面に座っているホロの手が止まっている。何か考えている風だ。ロレンスが声をかけると、ホロはしばしの間を開けてから口を開いた。

「あの娘、噓をついとる」

 間を開けたのは、娘が厨房のほうに引っ込むのを待っていたようだ。

「どんな?」

「ゼーレンという若者、毎日定刻に来とるわけではなさそうじゃ」

「ふん……」

 ロレンスはうなずいて、ジョッキの中のぶどう酒を見る。

「じゃあ、あの言葉どおりにゼーレンは来るとみていいな」

 そんな噓をつくということは常にゼーレンと連絡が取れるということだろう。もしそうでなければ、ロレンスとゼーレンの双方に迷惑がかかるからだ。

「わっちもそう思う」

 しかし、噓をつく理由がわからない。単にいつでもゼーレンを呼べる状況にあるから、適度な時間を開けさせてロレンスとホロにたくさん注文させようと思っているだけなのかもしれない。商売をする者は大なり小なり噓をつくのが日常だ。それ一つ一つを気にかけていたらすぐに道に迷ってしまう。

 なのでロレンスはあまり気にかけず、ホロもそんなものかと思ったようだった。

 その後は蜂の子の蜂蜜煮がでてきてホロが大喜びした以外、格別何ということもなく日が暮れて、とたんにぞろぞろと客がやってきた。

 そんな中のうちの一人に、予想どおり件のゼーレンの姿があったのだった。



「再会を祝して」

 ゼーレンが音頭を取ってジョッキがあわされ、ごつ、と良い音がした。

「毛皮のほうはどうでした?」

「かなり良好な値段だったな。この酒を見てもわかるだろ」

「そりゃあ羨ましい。やはり何かコツが?」

 その言葉には即答せず、ロレンスは酒を飲んでから答えた。

「秘密だ」

 ホロがバリバリと豆を嚙み砕いていたが、口に浮かぶ笑みを消すためだったのかもしれない。

「なんにせよ高く売れてよかったですね。あっしもだんなの資金が増えれば儲けも増える、てものです」

「資金が増えたからって投資する金額を増やすかはわからない」

「え、そんなあ。あっしが高値で売れるように祈ってたのは、それを期待してのことなんですよ?」

「それじゃあ祈る場所を間違えたな。俺が投資金額を増やすように祈るべきだった」

 ゼーレンは大袈裟に天を仰いで、目を覆ったのだった。

「さて、そんなことより、だ」

「あ、はい」

 ゼーレンは姿勢をただし、ロレンスのほうを見る。ただ、その間にちらりとホロのほうを見ていたのは、ホロも油断ならない相手だと思っているからだろう。

「ある銀貨の銀切り上げが行われるという話を売る代わりに、お前は俺が儲けた金の一部を代金として欲しい。そういうことだったな?」

「はい」

「その銀切り上げの話は本当なのか?」

 まっすぐに問い詰めると、ゼーレンの表情がたじろぐ。

「ええと、そもそもこの話は、あっしがいた鉱山の町のちょっとした情報から予想しましてですね、だから信用してもらっていいと思うんですが……あの、商売に絶対はありませんよ……」

「まあ、だろうな」

 ロレンスの問いと視線に縮んでしまったゼーレンを見て、ロレンスは逆に満足げにうなずいてから蜂の子の蜂蜜煮をつまんで口に放り込んで、あとを続けた。

「絶対だ、と答えたら断ろうと思っていた。そんな怪しい話はないからな」

 ゼーレンはほっとしたようにため息をつく。

「それで、お前の取り分はいくら欲しいんだ?」

「はい、話代としてトレニー銀貨十枚。あとは旦那の儲けに対し、その一割でお願いします」

「持ってきた話の大きさの割にはずいぶん控えめな要求だな」

「はい。ただしもちろんあっしにも考えがあってのことです」

「損害のことか」

「はい。旦那が万一損しても、あっしにはおそらくほとんど損害分を払えませんし、払うことになればあっしは全財産放り出すことになる。利益を一割でお願いするかわりに、損害分に関しては話代の銀貨十枚を返すだけで不問にして欲しいというわけです」

 ロレンスはもうとっくに酔いなどどこかにいっている頭で考える。

 ゼーレンの提案にはおおざっぱにいって二通りの可能性がある。

 一つは、ロレンスに損害が出るとそれを利用してゼーレンが利益を得ることができる場合。もう一つは、単純にこの話が本当の場合。

 ただ、ホロのおかげでゼーレンの言う銀貨の銀切り上げ、すなわち銀貨の中の銀の量を増やし、銀貨の価値を高めるということが噓とわかっている。だとすると、考えられるのは銀貨の価値が下がるという事態で、ゼーレンが企むのはロレンスが損をすることにより利益を出すことなのだが、どうやって利益を出すのかがわからない。

 こうなると、ホロの言うゼーレンの噓が間違っているのかもしれない、と考えてもよい気がする。本人も百発百中ではないと言っていたし、何よりゼーレンは話代を返すとまで言っているのだ。話代だけを目当てにしたちゃちな計画とも考えられない。

 しかし、これらの問題はいつまで考えてもわかるわけではない。何の銀貨に関してゼーレンが話を持ちかけてきているのかがわかれば、新たに見えてくることもある。

 それに、明らかに損をしそうであればどうせ話代は返ってくるのだ。多少の投機だけをしてお茶を濁してもいいし、何よりゼーレンが何を企んでいるのかいよいよ興味が募ってきた。

「よし、それで大体いいだろう」

「あ、はい。ありがとうございます!」

「確認だが、お前は話代としてトレニー銀貨十枚を要求し、また、受け取る利益分は俺の儲けに対して一割。さらに、俺が損害を出した時は、お前は俺に話代を返し、俺の損害分はお前に請求しない」

「はい」

「そして、これらを公証人の前で宣言する」

「はい。あ、その決済日ですが、春の大市の三日前でお願いできますか。私の予想だと切り上げは年内に来るはずですが」

 春の大市といえば約半年後だ。銀の切り上げや切り下げによる相場変動が多少落ち着くためには必要な期間だろう。仮に切り上げが本当だった場合、強くなった貨幣には大きな信頼が伴う。信頼の伴う貨幣は取引で好んで使われる。そうすれば市場価値はうなぎのぼりだ。だから焦って売っては損というものなのだ。

「ああ、構わない。妥当な期間じゃないか」

「それでは、早速明日公証人の所に行きたいのですが、かまわないですかね?」

 断る理由もない。ロレンスはうなずいて、ジョッキを手に取った。

「それでは、我々の儲けに」

 二人がジョッキを手にしたのを見て、ぼんやりと豆をかじっていたホロも慌ててジョッキを手に取った。

「乾杯」

 ごつり、とよい音がしたのだった。



 公証人制度は、文字どおり公の機関に契約の証人となってもらう制度のことだ。ただ、契約を公証人の元で交わしたからといって、その契約を反故にした時都市の治安を守る兵士達がその相手を捕まえてくれるわけではない。隆盛を極めた王国都市であってもそんなことはしてくれない。

 その代わり、反故にされたほうはその旨を公証人の名の下に言いふらすことができる。商人にとってそれは致命的なことだ。特に大きな取引をしようと思えばなおさらで、異国の地から来た行商人であっても少なくともその町でその後の取引はできなくなる。

 なので、商人を辞めることを前提にしている相手にはあまり効果のないそれだが、相手が商人でいつづけるつもりならとても効果がある。

 そんな公証人の元で契約書を交わし、話代の銀貨十枚と引き換えにゼーレンの持つ情報を得た。契約は滞りなく終わり、ロレンスとホロはゼーレンと別れるとそのまま足を市場のほうへと向けた。混んでいる町中で空っぽの荷馬車を引いていても事故や揉めごとの原因になるだけなので、荷馬車を宿に預けての歩きだった。

「あの若者の言った銀貨というのはこれじゃろ?」

 ホロが手に持っているのは、このあたりで最もよく使われるトレニー銀貨だ。最もよく使われる理由というのはこの銀貨が数百種もある貨幣の中でかなり上位に位置する信用度を持つものであるということもあるし、単純にこの町を含むこの近辺一体がトレニー国の領土であるということが大きい。

 自国の領土で自国の貨幣が使われない国は、遠からず滅亡するか、大国の属国となる運命だ。

「この辺だとかなり信用度の高い貨幣だな」

「信用度?」

 第十一代目国王の横顔が刻まれた白い銀貨を弄びながら、ホロはこちらを見上げてそう言った。

「貨幣は何百種類もあるし、しょっちゅう銀や金の切り下げ切り上げが行われるからな。貨幣には信用がつきものだ」

「ふうん。わっちの知る貨幣なんてのはほんの数種類じゃ。やりとりのほとんどが動物の革じゃったな」

 いつの時代の話なのか、とロレンスは胸中で呟くだけにした。

「で、どうじゃ。どの銀貨の話か知ったことで、何かわかったことはあるのかや?」

「わかったことというか、思いつくことはいくつかある」

「例えば?」

 露店を見ながらホロはそう言って、急に立ち止まった。真後ろを歩いていた職人らしき男がそんなホロにぶつかって怒鳴ろうとしたが、ホロは外套を少し顔から外すと上目遣いに謝った。結果、職人らしき男はごつい顔の頰を少し朱くして、「き、気をつけな」とだけ言ってことなきを得た。

 ロレンスは、自分だけはこの手に引っかからないようにしよう、と自分自身に言い聞かせたのだった。

「どうした」

「ん、わっちあれ食べたい」

 ホロが指差したのは、パン屋の露店だ。昼前ということもあって焼きたてのパンが並び、露店の前では小間使いなどが主人や兄弟子達の昼食を調達するためだろう、一人では絶対に食べきれない量のパンを選んでいる。

「パンか?」

「うん。あれ、あの蜂蜜かかっとるやつ」

 露店の軒先からこれ見よがしにつり下げられている細長いパンのことだ。上から蜂蜜を何べんも垂らしてたっぷりと蜂蜜を絡ませたそれはどこの町でも人気の逸品だ。確か、どこかの町ではパンを軒先からつるしてこれ見よがしに蜂蜜をたらしながら客引きをしたら、人気のあまり取り合いの喧嘩になってついにパン屋の組合法で蜂蜜はパンにかけてから軒先につるすこと、と決まったという話を思い出した。

 確かにそれほど魅力的なパンだが、それにしても甘党な狼だな、とロレンスは苦笑を禁じえない。

「お前金持ってるだろ。欲しければ買ってくればよい」

「パンと林檎で価値がそう変わるとも思えん。ぬしはわっちが持ちきれない分のパンを持ってくれるのかや? それとも、たくさんのつり銭を出させてあのパン屋の女将に嫌な顔をさせるのかや?」

 それでようやく理解した。ホロが持っているのはトレニー銀貨だけだ。確かに、パン一個買うには大きすぎるお金だ。林檎ですら、両手で持つのは困難な量になった。

「わかったわかった。細かいの渡すから……両手出せ。ほれ、この黒いやつ一枚で大体あのパン一個だ」

 言われるがままに差し出されたホロの小さい両手からトレニー銀貨を取り上げると、代わりに黒ずんだ銀貨や茶色い銅貨を渡し、そのうちの一枚を指してそう言ってやった。

 ホロはしげしげと自分の手の中の貨幣を見つめてから、不意に言ったのだった。

「両替詐欺などしとらんじゃろうな」

 蹴り飛ばそうと思ったが、ホロはその時にはすでに身を翻してパン屋のほうに歩いていた。

「口の減らないやつだ」

 ロレンスは吐き捨てるようにそう言ったが、実のところそれが楽しくないわけではない。

 ホロが満面の笑みをたたえてパンにかぶりつきながら戻ってきたのを見れば、やっぱり笑わざるを得なかったのだった。

「道を歩いているやつにぶつけるなよ。揉めごとはごめんだからな」

「わっちを子供扱いかや?」

「口の周りをべたべたにしながら蜂蜜パンにかぶりついている姿は誰がどう見たって子供だろうよ」

「……」

 突然黙り込んだので怒ったのか、と思ってしまったが、老獪な狼は当然怒ったりはしなかった。

「可愛い?」

 小首をかしげて上目遣いにロレンスのほうを見てそんなことを言ったので、ロレンスは頭をひっぱたいてやったのだった。

「まったく冗談のわからんやつじゃな」

「俺は真面目なんでね」

 幸い、内心少しうろたえてしまったことは気づかれなかったようだ。

「で、ぬしは何に気づいたのかや」

「ああそうだ。それだ」

 不愉快な指摘をされる前に、さっさとその話に入ったほうがよさそうだった。

「例の話がこのトレニー銀貨だとすると、あながちゼーレンの話が噓だとも言えなくなる」

「ほう?」

「銀を切り上げる理由というのも一応ある。えーと……これか。この銀貨、フィリング銀貨という。南に下って川を三つ渡った先の国のものだがな、銀の純度がなかなかで市場では人気がある。トレニー銀貨のライバルといったところだ」

「ふむ。貨幣が国の力を表しているのはいつの時代も一緒のようじゃの」

 吞み込みの早い賢狼はパンをかじる。

「そうだ。国と国の戦争は何も兵士同士の戦いに限らない。他国の貨幣に自国の市場を席巻された時、その国は戦争に負けたのと変わらない。他国の王が、その貨幣流通を減らすと宣言するだけでもう自国の市場は窒息する。物を売り買いするにも、貨幣がなければ話にならない。言うならば国の経済活動を牛耳られるのと同じだ」

「つまりは、ライバルを倒すために銀の純度を上げるという理由がある、というわけかや」

 あっと言う間にパンを食べ終わり、ホロは指をなめながらそう言った。

 そこまでいけば、ホロは自然とロレンスの言いたいことに気がつくだろう。

「ま、わっちの耳も万能ではないからの」

 そして、やはり気がついたようだった。

「可能性として、ゼーレンが噓をついていない場合も十分にあり得る」

「うん。それはわっちも賛成じゃな」

 意外に殊勝なのでロレンスは少し驚いた。自分で百発百中ではないと言いつつも、疑ったら疑ったでてっきり自分の耳を疑うのかとか怒ると思ったのだ。

「なんじゃ、わっちが怒ると思ったのかや?」

「そのとおりだ」

「そう思われたことに対してなら怒るかもしらん」

 いたずらっぽく笑ってそう言ったのだった。

「まあ、どちらにせよあり得るということだ」

「ふうん。で、今からどこに行くのかや」

「どの銀貨の話かわかったからな。それを調べに行く」

「造幣所?」

 真面目な顔をしてそう言ったので思わず笑ってしまった。これには少し怒ったらしい。口を尖らせて睨んできた。

「俺らみたいな商人がそんなところに行っても兵士の槍で突かれるだけだ。両替商のところだよ」

「ふん。わっちにだって知らぬことくらいある」

 だんだんと、ホロの性格がつかめてきたような気がした。

「で、両替商のところで最近の銀貨の様子を見るというわけだ」

「ん……見て、どうするのかや」

「貨幣に大きな動きがある時はな、必ず予兆のようなものがある」

「嵐の前触れのような?」

 例えが面白かったので、少し笑う。

「まあ、そんなところだ。大きく純度が下がる時はほんの少しずつ下がり、大きく上がる時はほんの少しずつ上がる」

「ふうん……」

 と、よくわからない様子だったので、ロレンスは咳払いをしてから頭の中に叩き込んである師匠の講義を引っ張り出してきた。

「貨幣というのはな、ほとんど信用で成り立っている。そこに入っている銀や金と同じ重さの銀や金の値段と比べたら、銀貨や金貨は明らかに価値が高い。もちろん価値の設定は実に慎重に決められてはいるが、本当はそれだけの値打ちのないものに価値を見出すわけだから、それは信用の塊と言っていい。その上、実のところ貨幣なんてものの純度の変化は、よほど大きく変わらない限り正確にはわからない。両替商でもはっきりとはわからない。鋳潰さない限りわかりっこないんだ。ところがな、貨幣というのがそんな信用の上に成り立っているものだから、ある貨幣に人気が集まれば額面以上の価値を持つことが多々ある。その逆も然りだ。そして、その人気の上下のきっかけは色々あるが、最も多いのは銀や金の純度の変化だ。だから人は異常に貨幣の変化に敏感になる。それこそ、天秤や眼鏡では見つからないほどほんの少しの変化を、大きな変化と思うほどにな」

 ロレンスの饒舌な説明が終わると、ホロは思案顔で遠くを見る。さすがのホロでもこれを一回では理解できないだろうと、ロレンスはホロの質問にすぐに答えられるようにと待ち構えていたのだが、なかなか質問はこなかった。

 よく見れば、ホロの横顔はわからないことをあれこれ考えている顔ではなく、何かを確かめているような顔だった。

 信じたくはないが、ホロはもしかするとたった一度の説明で理解してしまったのかもしれなかった。

「うむ。つまりはあれじゃな。貨幣を作る側は大きく純度を変える前にほんの少しだけ純度を変えて皆の期待を測り、その反応を見て純度を上げるか下げるかの機会をうかがうというわけじゃな?」

 こんな弟子がいたらその行商人はさぞ複雑な気持ちになるだろう。弟子が優秀なのは誇りだが、それは必ず恐ろしい商売敵になる。

 ただ、同じことを理解するのに一月近くかかったロレンスにとってはとりあえず悔しさを隠すことが先決だった。

「そ、そんなところだな」

「人の世界はややこしいの」

 苦笑しながらそう言う割には、おそろしいほどホロの理解は早かった。

 そんな会話をしていると、二人はやがて細い川に突き当たった。パッツィオの隣を流れるスラウド川ではなく、人工的に土を掘って川から水を引いて作った用水路で、スラウド川を伝ってこの町に運ばれてきたたくさんの荷物をいちいち陸揚げせずに効率よく市場に運ぶことができる。

 そのためひっきりなしに荷物を満載にした小船がせわしなく行き来をしていて、小船を操る船頭同士の怒鳴り合いなども聞こえていた。

 ロレンスが向かうのはそんな用水路に架かる橋の上。昔からの慣習で、両替商と金細工師が店を構えるのは橋の上とされている。そこに筵を敷いて作業台と天秤を置いて商売をする。だから当然雨の日は休みだ。

「ほほう、にぎやかじゃの」

 パッツィオ最大の橋の上についてホロがたまらずにそう呟いた。水門を閉じれば氾濫などあり得ないので、普通の川には絶対架からないほど大きな橋の両側には、肘がぶつかり合うほどの密度で両替商と金細工師が軒を連ねている。それらのどこもが盛況で、特に両替商のところでは市場に向かうためにたくさんの国から運ばれてきたたくさんの貨幣が次々とやり取りされていく。そんな横で金細工師が高価な彫り物や錬金を行っているのだ。さすがに金属を溶かすような釜はないが、細かい加工と注文のやり取りはすべてそこで行われる。必然的に都市の納税台帳の上位を占める連中がずらりと顔を揃えることになるだけあって、実に金の匂いに溢れていた。

「これだけいるとどこにするか迷うの」

「行商人ならどこの町にも懇意の両替商がいるものだ。ついてこい」

 混雑している橋の上を行くと、ホロは慌ててロレンスの後ろについてくる。

 最近はどの町でも禁止しているが、活気のある町ではただでさえ人通りが多い橋の上で両替商や金細工師の見習い小僧が師匠のためにと呼び込みを行うのだ。そうなればもう文字どおりお祭り騒ぎだ。ただ、にぎやかなのは結構なのだが、そのにぎやかさに乗じて両替詐欺が後を絶たない。だまされるのは、当然客の側だ。

「お、いた」

 ロレンスも昔は幾度となくだまされたものの、懇意の両替商を作ってからはそんなこともない。

 パッツィオで懇意にしている両替商は、ロレンスよりも少し年下のまだ若い両替商だった。

「ワイズ、久しぶりだな」

 ちょうど客が立ち去ったところで、天秤から貨幣を下ろしていた金髪の両替商に声をかける。

 ワイズと呼ばれた両替商は、なんだ?、と言いたげに顔を上げて、ロレンスに気がつくとたちまち破顔したのだった。

「おお、ロレンス! 久しぶりだなあ。いつこっちに来たんだ」

 互いの師匠同士が知り合いなので付き合いも長い。友人みたいなものだ。懇意にしているというよりかは、必然的にそうなったというほうが正しい。

「昨日町に入った。ヨーレンツから迂回して行商をしてきたところだ」

「へえ、相変わらずだなあ。元気だったか」

「まあな。そっちこそどうなんだ」

「へへ、早速痔を患ってな。師匠の口癖がうつっちまったよ。尻が痛え」

 苦笑いをするワイズだが、独り立ちした両替商にとっては一人前になった証だ。客が途絶えず一日中座りっぱなしの両替商なら必ず痔を患うものなのだ。

「で、今日はどうした。こんな時間に来るってことは客としてなんだろう?」

「ああ、実はな、頼みがあって……どうした?」

 ロレンスがそう言うと、ワイズはハッと夢から覚めたように視線をロレンスに戻した。それから、視線を再び別のところに向けた。

 正確には、ロレンスのとなりだ。

「そちらの娘さんは?」

「ああ、パスロエの村からこっちに来る途中で拾った」

「へえ……て、拾った?」

「拾ったに近い。そうだろう?」

「む? うむ……なんとなく語弊があるような気もするが、そんなところじゃな」

 物珍しそうにきょろきょろとしていたホロは、ロレンスの言葉に振り向いて、それからしぶしぶといった感じで同意したのだった。

「で、名前は?」

「わっちのかや? わっちの名はホロじゃ」

「ホロ、か……良い名だ」

 ワイズがだらしのない笑顔でそんな褒め言葉を言ったのだが、言われたホロがまんざらでもない笑顔で返事をしたのでロレンスは少しだけ面白くなかった。

「あ、行く当てがないならうちの所で働かないかな。今ちょうど小間使いがいなくてね。なに、ゆくゆくはうちの跡を継いでもいいし、なんなら嫁にで──」

「ワイズ、頼みがあって来た」

 ロレンスがそう遮ると、ワイズが露骨に嫌そうな表情を浮かべた。

「なんだよ。お前もう手籠めにしたのか?」

 ワイズの遠慮のないものの言い方は昔からだ。

 しかし、ホロのことを手籠めにするどころか逆にロレンスがいいように手玉に取られることが多いような状況なので、それには明確に否と返事をしたのだった。

「だったら口説いてもいいじゃないか」

 ワイズはきっぱりとそう言いきって、ホロのほうを向くと微笑んだ。ホロはホロで両手をもじもじさせて「困りんす」などと言っている。おそらくわざとだろうが、やはり面白くない。

 もちろん、そんなことおくびにも出せないが。

「それは後にしてくれ。とりあえず俺の用が先だ」

「ち、わかったよ。で、なんだ?」

 ホロはくつくつと笑っていた。

「最近発行されたトレニー銀貨を持ってないか? できれば過去にさかのぼって三回分くらいのものが欲しい」

「なんだ、切り下げか切り上げの情報でもつかんだのか」

 さすがこの辺はその道の人間だ。あっという間に気がつく。

「そんなところだ」

「まあ、せいぜい気をつけるこったな。そうそう周りを出し抜けるもんじゃない」

 と、いうことは貨幣に通じた両替商でも変化に気がついていないということだ。

「で、あるのか、ないのか?」

「あるよ。先月の教会の降臨祭の時に発行されたのが最新だな。昔のは……と。これだ」

 ワイズは後ろの大きな木箱から真ん中をくりぬいた木の間に半分だけ挟まれた貨幣を取り出し、四枚をロレンスに手渡した。木には発行年度が書かれている。

 見た目は、まったく変わらない。

「一日中貨幣を触っている俺らでも気がつかないんだ。同じ鋳型、同じ材料で作られていると思うぜ。造幣所の技師達の顔ぶれも昔から同じだ。大きな政変もないし、変わる理由がない」

 ワイズがそう言うのだ。重さや色などはとっくのとうに慎重に見比べてあるのだろう。それでもロレンスは太陽にかざしてみたりといろいろ試してみる。やはり、何も変化はないようだ。

「無理無理。そんなんでわかってたら俺らがとっくに気がついてる」

 ワイズは笑って、両替台の上に頰杖をつく。諦めろ、ということだ。

「ふん……どうしたものかな」

 ため息交じりにロレンスはそう言って、頰杖をつきながらもう片方の掌を見せているワイズに貨幣を返した。ワイズの手の中に落ちたそれは、ちゃりちゃりと小気味よい音を立てたのだった。

「鋳潰して調べる気はないか?」

「馬鹿を言え。そんなことできるか」

 貨幣を鋳潰すのはどこの国でもご法度だ。ワイズは馬鹿馬鹿しい、とばかりに笑い飛ばす。

 ただ、そうなるとロレンスは判断に迷ってしまう。てっきり貨幣には何らかの変化があって、ワイズならそれとなく気がついていると思ったのだ。

 どうしたものか。

 そんなふうに考え込んでいた時だった。

「わっちにも見せてくれんかや」

 ホロがそう言ったので、ワイズはたちまち顔を上げると最上の笑顔で「どうぞどうぞ」と貨幣を手渡す。手渡す時に、ホロの手を両手で包んでなかなか離さないということも忘れない。

「ぬし様は悪いお人」

 ホロが微笑みながら少したしなめるように言ったその言葉に、ワイズは完全に粉々になったようだ。顔をでれでれにして頭など搔いている。

「何かわかるのか?」

 そんなワイズを無視してロレンスは聞いてみる。いくらホロでも貨幣の純度は測れないだろうと思った。

「まあ、見とりゃんせ」

 それからホロが何をするのかと思いきや、両手で貨幣を包んで耳元に持っていくと手を振ってチャリチャリと音を鳴らしているのだ。

「はは、そりゃあ無茶というものだよ」

 ワイズがさすがに苦笑する。

 何十年と経験を積んだ両替商の中には音を聞いただけで貨幣のわずかな純度を言い当てる者がいると言われるが、それはほとんど言い伝えに近い。行商人でいえばその行商人が買った商品は必ず値が上がる、というようなものだ。

 それでも、ロレンスはもしやと思う。なにせ、ホロの耳は狼の耳なのだ。

「ふむ」

 ホロはいったん手を止めて手を開くと、貨幣を二枚選んで残りを両替台の上に置く。

 それから、その二枚を何度か打ち鳴らしてみる。そんなことを合計六回、つまりは全部の組み合わせを行ってから、言ったのだった。

「わかりんせん」

 照れたようなホロの様子がまた心を鷲摑みにしたのか、ワイズは二度と元に戻らないのではないかと心配になるほど顔をだらしなく緩ませて、「しょうがないしょうがない」、とうなずいたのだった。

「それじゃ、邪魔したな。近いうちに酒でも飲もう」

「おう、絶対だぞ。絶対だからな」

 ものすごい剣幕に気圧されながら、ロレンスは絶対だと約束すると、その場を後にした。

 それでもワイズはホロにぶんぶん手を振っていたようで、ホロは何度も振り返りながらそれに小さく手を振り返していた。

 人ごみに遮られて完全に見えなくなってから、ホロはようやく前を向いた。それから、少し吹き出して笑ったのだった。

「面白い人じゃな」

「無類の女好きだからな」

 それは本当だが、少しワイズの評判を落としておかなければ、と思わなくもなかった。

「で、銀の純度は上がっていたのか? 下がっていたのか?」

 ロレンスはまだ笑っているホロを見下ろしてそう尋ねる。とたんに、ホロが笑みを消して驚いたような顔になった。

「かまかけだとしたら、ぬしも上手くなったの」

「お前の耳の位置を知っているのは俺だけだからな。少し動いただろ」

 ホロは少し笑って、「油断ならぬ」と呟いた。

「ただ、驚いたのはお前があの場でそれを言わなかったことだ。噓をついた時は正直驚いた」

「あの者がわっちの言うことを信じるか信じないかは別として、あの周りにいた者までそうかはわかりんせん。秘密を知る者は少ないほうがよいじゃろう。それにな、まあ、お礼みたいなものじゃ」

「お礼?」

 ロレンスは鸚鵡返しに尋ねていた。何か礼をされるようなことをしただろうか。

「ぬし、少し妬いとったじゃろ。その礼じゃ」

 ニヤニヤ笑うホロの視線に、ロレンスはわかっていつつも顔が少し固くならざるを得ない。どうしてホロはそういうことに気がつくのか。それとも、かまかけが上手すぎるだけなのか?

「なに、気にすることはない。雄どもは皆阿呆の妬き餅焼きじゃからの」

 図星なだけに耳が痛い。

「ただな、雌もそんなことが嬉しい阿呆じゃからの。どこを見ても阿呆ばかりじゃ」

 ホロが少しロレンスに身を寄せてそんなことを言う。

 商売だけでなく、色恋でもホロは老練なようだった。

「うふ。まあわっちにすりゃぬしどもはそろってひよっこの上に人間じゃからの」

「そう言うお前も今は人の形じゃないか。好みの狼の前で牙を向かれるなよ」

「なに、わっちの可愛い尻尾一振りで人も狼もいちころよ」

 ホロが片手を腰に当てて、小さく腰を左右に振る。なんとなく、それが事実そうでロレンスは言葉に詰まってしまったのだった。

「さて、冗談はさておきな」

 そんなホロの言葉でロレンスも息を吹き返す。

「ほんの少しずつじゃが、新しくなるほど音が鈍くなっとったな」

「鈍く?」

 ホロはうなずく。音が鈍くなっているということは、銀の純度が下がっているということだ。わずかな差ではわからなくとも、白い銀貨が黒くなるほど純度が下がれば素人でも音が鈍くなるのがわかる。もしもホロの言うことが当たっていれば、それはトレニー銀貨の銀が切り下げられる予兆かもしれない。

「ふん……しかし、そうするとやはりゼーレンは噓をついていると考えたほうが妥当なのか?」

「どうじゃろうのう。ただ、あの若者、ぬしが払った銀貨十枚も、おそらく場合によっては本当に返すつもりじゃ」

「それはなんとなくわかっている。情報を売ってその金だけを目当てにした詐欺なら、酒場にあれほど顔を利かしたりはしないし、教会で話を切り出した時に金を要求したはずだ」

「なんとも不思議な事態じゃの」

 ホロは笑うが、ロレンスは頭を巡らせるのに必死だ。

 ただ、考えれば考えるほど不思議なのだ。あのゼーレンという若者は、一体何を企んでいるのか。何かを企んでいることは間違いない。そして、誰かが何かを企んでいるのならばその裏を突けば大抵こちらにも利益が出る。だからロレンスはこの話に首を突っ込んだのだが、それでもここまで何を企んでいるのか皆目見当もつかないとなるとちょっと困る。

 そもそも、銀貨の価値が下がる銀の切り下げから、どうやって利益を出すというのか。考えられるのは、長期の投資だ。金や銀の価値が例えば二段階に価値が下がっていくとすれば、その一段階目で金を売り、二段階目に下がった時に買い戻す。そうすれば手元には最初と同じ量の金があるのにさらに一段階目に売った時と二段階目に買った時の差額が残る。金や銀は相場が常に揺れ動く。また元の値段に戻るまで待っていれば、やがてそれは利益となる。

 ただ、今回はそんな悠長なことをしている時間はない。半年程度ではまず無理だ。

「ゼーレンが取引を持ちかけてきたということは、あいつが得をしなきゃならない。得をしなきゃならないんだ」

「まあ、変わり者じゃなければの」

「ただ、損害分については不問という話だ。だとすると……」

「うふ」

 突然、ホロがそんなふうに吹き出した。

「どうした?」

「うふっふっふふふ。ぬし、だまされたんじゃないかや」

 ホロの言葉に、ロレンスは一瞬頭の回転が止まる。

「だまされた?」

「いかにも」

「それは……銀貨十枚をだまし取られたということか?」

「うっふふふ。相手から無理やり金を引き剝がすだけが詐欺じゃありんせん」

 行商歴七年あまり、様々な詐欺を見たり聞いたりしてきたが、ホロの言うことがちょっとわからない。

「自分は絶対に損をしない構図を描き、相手にだけ損か得かの勝負をさせるのも立派な詐欺じゃろ」

 ロレンスは呼吸をするのも忘れるほど頭の中が真っ白になって、すぐさま顔に血が上ってきた。

「あの若者は絶対に損をしない。あの若者は最悪で儲けがゼロじゃ。なにせ、銀貨が値下がってぬしが損をしたとしても、あの若者は受け取った銀貨を返すだけじゃ。逆に値上がれば、利益の一部を貰うことができる。元手なしで始める商売じゃ。利益が出なくってもとんとんじゃ」

 膝から下がなくなってしまったかのような脱力感。なんとも浅はかな手に引っかかったものだと脱力する。

 言われてみれば、確かにそのとおりだ。勝手にそこに大きな企みがあると思っていた。いや、だましだまされの行商人なら必ずそう思うはずだ。だからこう考えてしまう。

 ゼーレンは、「絶対に」利益が出るはずなのだ、と。

「うふ。人というものは聡いの」

 ホロは他人ごとのようにそう言って、ロレンスはそれにため息しか出ない。ただ、幸いなことにまだトレニー銀貨にわざわざ投資してはいない。手元にあるのはあるべくしてある銀貨だけだ。ゼーレンと交わした契約書には何枚銀貨に投資するなどの取り決めはない。こうなればあとは相場の変動がないことを祈るばかりだ。そうすれば、ゼーレンの話は噓だったと指摘し、銀貨十枚を取り返せないこともない。もちろん、値下がってもその銀貨が返ってくるのだから、ゼーレンに一杯食わされていたと考えれば安いものだ。

 商人が油断して誰かの罠にはまった時は、大抵が何もかもを失うことになるからだ。

 それでもやはり、あの若造、と呼んでいたようなゼーレンに嵌められたという事実はロレンスの誇りを傷つけた。口の端で少しだけ笑うホロを前に、ロレンスは小さく背中を丸めてしまったのだった。

「ただ、の」

 まだ何かあるのか?、とロレンスが許しを乞うような目でホロのほうを見たが、ホロの顔は獲物を前にした猟犬のようだった。

「銀貨の純度が少しずつでも下がるということは、よくあることなのかや?」

 ロレンスはそれが救いの足ががりなような気がして、鉛を溶かし込まれたような背筋に無理やりに力をこめる。

「いや、普通は細心の注意を持って純度が維持されるはずだ」

「ふむ。で、そこに降って湧いた銀貨の純度に関する取引じゃ。偶然かのう」

「う……」

 ニヤニヤと笑っているのは単純にこの状況が楽しいからなのかもしれない。いや、きっと楽しいのだろう。

「ただ、ぬしがあの村にあの麦を持ってあの瞬間にあそこに立っていたというのも、偶然じゃ。世に偶然と必然ほどわからんものはない。朴念仁の恋心ほどに厄介じゃ」

「妙な例えだな」

 そんな言葉ばかりがすぐに出た。

「さて、ぬしは思考の迷路にて右往左往しているようじゃ。そういう時は新たな視点を入れるべきじゃ。わっちらも獲物を獲る時、たまには木に登る。木の上から見る森はまた違うもの。つまりの」

 賢狼ホロが、にやりと左側の牙を唇の下に覗かせながら、言ったのだった。

「何かを企んでいるのがあの若者ではなかったとしたらどうじゃ?」

「あ……」

 がん、と頭を殴られたような衝撃。

「何もあの若者の利益は、あの若者が相手をした者から貰わなくてもよい訳じゃ。例えば、誰かに頼まれていて、その手間賃を目当てに妙な取引を持ちかけておるということも考えられるじゃろう」

 頭二つ分背の低いホロが、おそろしい巨人のように見える。

「木が一本枯れるところを見れば、それだけを見るなら森にとって害のような気もするが、森全体から見ればその木が栄養になって他の木がよく育つのじゃから森のためになる。目の前のできごとが別の視点から見ればひっくり返ることはよくあること。どうじゃ、何か見えてこんかや?」

 一瞬、ロレンスはホロがすでに何かを知っているのではないかと勘繰ってしまったが、ホロの口調からそれがロレンスを試すものではなく、単純に助言なのだと気がついた。商人に大事なのは知識だ。ただ、その知識は単なる商品の値段などではない。

 目の前のできごとの考え方。その手法の知識だ。

 ロレンスは考える。新たに得たその知識で考える。

 ゼーレンが、実際に会話をした相手、すなわちロレンス達から利益を得るのではなく、別の場所から利益を得るのだとしたら。ゼーレンが誰かに銀貨を買わせることで、別の誰かから手間賃を得ることができるとしたら。

 ただ、その考えが頭の中に浮かんだ瞬間ロレンスは息を吞んだ。

 もしもそのように考えるとするなら、ロレンスはこの事態を上手く説明することのできるからくりに一つだけ心当たりがあるからだ。

 以前立ち寄った町の酒の席で別の行商人から聞いたそのからくりは、あまりにも規模が大きくその時は単なる酒の肴として聞いていた。

 しかし、そのからくりを用いれば価値の下がる銀貨を買い集めるという意味のないような行為を難なく説明することができる。

 そして、ゼーレンが噓をつきながらも公証人の元で契約を交わさせたり、酒場に異様に顔を利かせたりと、詐欺目当てにしては妙な行動を取っていることにも納得がいった。

 ゼーレンは、それらのことで取引に説得力を持たせ、極力ロレンスが銀貨を買うようにと仕向けたかったのだ。

 ロレンスの考えが当たっていれば、ゼーレンは誰かに雇われて銀貨の回収を行っている。それも、なるべく誰が何の目的でその銀貨を集めているのか誰にも気づかれないようにと。

 ある特定の銀貨を目立たぬように集めるためには複数の商人達の欲を突いて彼らに集めさせるのが一番よい。一儲けを企んで銀貨を買う商人達は、他の連中に儲けを渡すまいとして総じて慎重に、また無口になるからだ。それから、頃合を見て商人達が集めた銀貨を上手に引き取るのだ。こうすると、相場に影響を与えず、また誰が銀貨を集めているのかも気取られずに、目的を遂行できる。

 ある商品を買い占めて値を吊り上げる時などによく使われる手だ。

 また、今回のうまい点は、銀貨の値段が下がれば商人達はなるべく損を小さくするためにその銀貨を手放したくなるということだ。そうすれば買取はさして難しくもないだろうし、損をした商人達は自らの名誉のためにそんな銀貨の投資に手を出したことを言いふらさない。

 かくして、銀貨は人知れず一箇所に集まっていくのだ。

 それを用いて行われる巨大な構図の企みは、目も眩むような利益を生み出すはずだ。少なくとも、記憶の中の話から生み出された利益は途方もないものだった。

 ロレンスは、思わず声を上げそうになっていた。

「うふ。何か閃いたようじゃの」

「行くぞ」

「ん? え、あ、どこに?」

 もうすでに走り出しかけていたロレンスは、もどかしく後ろを振り返って言ったのだった。

「ミローネ商会だ。これはそういう構図なんだ。これは、価値が下がる銀貨を買えば買うほど利益が出る企みなんだよ!」

 相手の企みは裏を突けば必ず儲かる。

 それは、企みが大きければ大きいほどよいのであった。