◆◆第三幕◆◆


 平野を緩やかに蛇行しながら流れる、スラウド川という名の川があった。はるか昔、東の山から下りてきた途方もなく大きい大蛇が、西の海を目指して平野を進んだ際にできたと言われているスラウド川は、大蛇がのたくった跡にふさわしい緩やかな流れと広い川幅を持ち、この地方には欠かせない重要な交通路となっていた。

 港町パッツィオはそんなスラウド川の中流に位置する大きな町だ。町からさして離れていない上流に麦の大産地を抱え、さらに上流には木々の生い茂る山々がある。川には年中切り出されてきた木が浮かび、その合間を縫って上り下りする船には季節ごとに麦やトウモロコシなどが乗せられる。それだけでも町が盛況になるのに十分な上に、スラウド川には橋がないせいで、自然と人は渡し舟の多いこの町を通ることになるのだ。

 昼を過ぎてだいぶ経つが、まだ夕方までには時間があるという最も町がにぎわう時間帯に、ロレンスとホロの二人はパッツィオに到着した。

 パッツィオは王から自治権を奪い取った商業の発展した町であり、そこを牛耳るのは貴族と商人だ。そのため町に入る時に荷台の毛皮にたっぷりと関税をかけられはしたが、人相をチェックされたり通行証を出せと言われたりすることはなかった。これが城下町になると、荷物よりも人のチェックのほうが厳しくなる。そうなると明らかに人ではないホロの扱いに困る。

「ここには王でもいるのかや?」

 そして、町の中に入ったホロの第一声がそれだった。

「人の多い町に来るのは初めてか」

「時代は変わりんす。わっちの知る町はこんだけ大きければ王がいた」

 こんな町などかすむほどに巨大な都市を見たことのあるロレンスとしてはちょっとした優越感だったが、そんなことを思っているとまたそれを指摘されかねない。それに、ロレンスも昔は何も知らなかったのだ。

「うふ。よい心がけじゃ、とだけ言っておこう」

 ただ、そう思うのが少し遅かったようだった。

 ホロは道の両脇に並ぶ露店に完全に視線を向けているというのにこの目ざとさなのだ。それとも、かまをかけているだけなのだろうか。こうまで胸中を言い当てられるとさすがに不気味だし、なによりも面白くない。

「ふうむ。祭り……なわけじゃなかろ?」

 そんなふうにロレンスが思っていることにはまったく気がつかないのか、それともわざと無視しているのか、ホロは相変わらずきょろきょろしながらそう言った。

「教会の祝祭日なんかは歩くことすらできないくらいに人が集まる。今日はまだ空いているほうだ」

「ほほう。想像もつかぬ」

 楽しそうにホロは笑い、身を乗り出しては道の両脇に並ぶ露店を物色している。

 初めて町に来た田舎者の典型だったが、ロレンスはそれを見ていてふと別のことに気がついた。

「おい」

「んー?」

 と、ロレンスの呼びかけにもホロは返事だけだ。視線は相変わらず露店だった。

「お前、顔隠さなくて大丈夫か」

「ん、顔?」

 それでようやく振り向いた。

「パスロエの村は今頃飲めや歌えの大騒ぎだろうが、村の人間すべてが祭りに参加しているわけじゃない。なんだかんだで町に来ている連中も多いだろうから、お前のことに気がつくやつがいるかもしれないだろ」

「ふん、そんなことかや」

 急に不機嫌な顔になってホロは御者台に座りなおし、ロレンスのほうを改めて振り向くと頭からかぶっている外套を耳が見えるぎりぎりまで持ち上げた。

「例えこの耳晒してもやつらは気づくまいよ。わっちのことなど忘れとるんじゃからな」

 大声を上げなかったのが奇跡なくらいの剣幕だ。ロレンスは思わず興奮した馬をなだめるように掌をホロに向ける。馬ではあるまいが、いくらか掌の効果はあったようだ。

 ホロは鼻を鳴らして外套から手を離すと、前を向いて下唇を突き出したのだった。

「何百年も村にいたのならお前についての言い伝えくらい残っているだろう? それとも人の姿は晒さなかったのか?」

「残っとるよ。時折人の姿を見せとった時期もあった」

「見た目に関するものも?」

 ロレンスの質問に、面倒くさそうな視線を横目で向けたものの、ホロは嘆息の後に口を開く。

「わっちが覚えている限りじゃと、こうじゃ……。美しい娘の姿で、年の頃は常に十の半ば。流れるような髪の毛と、狼の耳、それに先の白い尻尾を有し、毛色は綺麗なこげ茶色。ホロは時折その姿で村に現れ、そのことを秘密にする代わりに村の来年の麦の豊作を約束する……」

 ホロは、これでよいか?、とばかりにけだるげな視線を向けたのだった。

「その話を聞くとお前の特徴が全部伝わっているようだが、大丈夫なのか」

「耳と尻尾を見せたところでぬしのように疑るのが落ちじゃろうよ。気がつくわけがない」

 外套を触ったせいで狼の耳が変なふうにでもなったのか、ホロは外套の下に手を入れてもそもそといじくっている。

 そんな様子を横目に、ロレンスは尚もわずかに気にかかっていたのだが、あまりしつこく言うと本気で怒り出しそうな雰囲気があったので口をつぐむ。

 村の話題そのものが禁句な感じなのだ。それに、言い伝えが残っていても顔の様子まで伝わっているようではないし、耳と尻尾を見せなければまずホロだとわかりはしないだろうと思い直した。言い伝えは言い伝えで、教会などの手配書ではないのだ。

 しかし、ロレンスがそう思い直して口を閉じてからしばらく後、何かを考えているふうだったホロが、外套の下からぽつりと言葉を漏らしたのだった。

「なあ、ぬしよ」

「ん?」

「やつらは……わっちのことを見ても気がつかぬ、よな?」

 さっきまでとは違うホロの雰囲気は、まるで本当は気がついて欲しいと言わんばかりだ。

 しかし、ロレンスも馬鹿ではない。努めて無表情に、視線を馬の尻に向けて答えた。

「俺としてはそう願うばかりだがな」

 ホロは自嘲するように小さく笑ってから、「ま、心配ないじゃろ」と言った。

 それがロレンスにだけでなく、ホロ自身にも向けられる言葉だったと気がついたのは、ホロが再び馬車の上で露店を見ては楽しそうな声を上げるようになってからだ。

 ただ、さすがにそれを確認はしない。ホロもなかなかに頑固そうだからだ。

 今は機嫌を直してうまそうな果物や食べ物を見るたびにはしゃぐホロに、ロレンスは少しだけ苦笑いをしたのだった。

「たくさん果物があるのう。これ全部この辺で採れるのかや」

「南との中継点になっているからな。季節が良ければ、そうそう行くことのできない南の地方のものもある」

「南は果物が多くてよいのう」

「北の地方でも果物くらいあるだろう」

「硬くて渋いものばかりじゃ。干したり寝かせたりせんと甘くならん。それもわっちらには無理な作業じゃからな。村で拝借するしかない」

 狼が拝借するものといえば鳥や馬や羊が思い浮かぶ。とても甘いもの欲しさに村に来そうなイメージはない。来るとしたら熊くらいのものだ。熊はよく軒につるしたぶどうの詰まった皮袋を持っていく。

「狼は辛党な印象があるな。甘いもの好きといえば熊だ」

「辛い物は好かぬ。一度難破した船の荷物にありついたことがあるんじゃけどな、赤い牙のような実を食って大騒ぎじゃ」

「はは。唐辛子か。高級品だぞ」

「しばらく皆で川に顔突っ込んで、人とは恐ろしいものじゃと嘆いとった」

 そう言って小さく笑うと、ホロはしばらくその余韻を楽しむように口を閉じて露店を眺めていた。しかし、やがてその笑みはゆっくりと消えていき、最後に小さくため息のようなものをついた。懐かしさは、楽しさの後にいつでも寂しさを伴う。

 ロレンスは何か言うべきかと考えたが、再び調子を取り戻したホロが先に口を開いたのだった。

「同じ赤いものならな、あれのほうがよい」

 そう言ってロレンスの服を摑みながら露店を指差した。

 行き交う馬車や人の向こうに、山積みにされた林檎がある。

「ほう、良い林檎だな」

「じゃろ」

 ホロはかぶっている外套の下から目を輝かせる。気がついているのかいないのか、腰巻きの中で尻尾が犬のようにわさわさと音を立てている。林檎が好きなのかもしれない。

「実にうまそうじゃな?」

「そうだな」

 何をどう考えてもホロは遠まわしに林檎をねだっているのだが、ロレンスはそんなことになど毛頭気がつかないという振りをする。

「そうだ、林檎といえばな、知り合いが林檎の先物買いをしていてな、財産の半分以上をかけていた。あれがどこのものかはわからないが、このできならあいつの財産は今頃倍以上かもしれない」

 俺もやっておくんだった、とロレンスはため息混じりに呟いた。

 すると、今言うべきはそんなことじゃないだろう?、と言わんばかりの顔でホロはロレンスのことを見つめるが、ロレンスはそれにも気がつかない振りをする。

 ホロは素直に思っていることを言えないようだ。これをからかわない手はない。

「む……うむ。それは、残念じゃったな」

「ただし危険も大きいからな。俺なら船舶に乗るな」

「……せ、船舶?」

 喋っている最中であってもぱっかぱっかと馬が蹄の音を立てながら荷馬車は前に進んでいく。ホロの気は焦るばかりのようだ。ホロは明らかに林檎を欲しがっているが、それでも口に出してねだるのが嫌らしく、ロレンスの言葉にそわそわしながら返事をする。

「契約を交わした商人達で金を出し合って、船舶を借りるんだ。出した金額で積める荷物の量が決まるんだが、船は陸路と違って難破すれば荷物どころか命も危ない。ちょっと強く風が吹けばもうそれだけで危険だしな。しかし、儲かる。二度ほど乗ったことがあるんだが──」

「む、あ」

「どうした?」

 林檎を山積みにした露店を通り越し、露店がだんだん後方に下がっていく。

 他人の胸中がわかっている時ほど楽しい瞬間はない。ロレンスは商談用の笑みを殊更強調してホロのほうを見た。

「それで、船舶の話だが」

「う……林檎……」

「ん?」

「林檎……食べ……たいん……じゃが……」

 最後まで意地を通すかとも思ったが、意外に素直だったので買ってやることにしたのだった。

「自分の食い扶持は稼げよ」

 がっしゅがっしゅと音を立てて林檎を食べながらホロがロレンスのことを睨むが、ロレンスは少しも引かずに逆にこれ見よがしに肩をすくめてやった。

 しおらしく林檎を食べたい旨を言った姿が少し可愛かったので、けちけちせずにトレニー銀貨というそこそこ価値の高い銀貨を渡してやったのだが、ホロはその銀貨で買えるだけの林檎を買ってきたのだ。両手で抱えるのも困難なその量を見る限り、ホロの頭に遠慮の二文字があったとはとても思えない。

 口の周りも手もべたべたにしながらすでに四個目の林檎に取り掛かっているホロに、文句の一つも言いたくなるというものだった。

「ぬし……もぐ……さっきはわざと……むぐ……気づかん振り、げふ、してたじゃろ」

「人の胸中が手に取るようにわかるというのは良い気分だな」

 バリバリと芯まで食べるホロにそう言って、ロレンスも一つ貰おうかと真後ろの荷台に積んであるたくさんの林檎に手を伸ばそうとしたら、五つ目にかぶりついたままのホロにそれを叩かれた。

「わっちのじゃ」

「元は俺の金だろうが」

 ぞぶり、と口いっぱいに林檎を頰張ってもしもし嚙み砕いてそれを飲み下してから、ホロはようやく口を開く。

「わっちは賢狼ホロじゃ。この程度の金なぞすぐじゃわ」

「そうしてくれ。あの銀貨で今日の晩飯と宿代も払うつもりだったんだからな」

「もぐ……ふむ……しかし、わっぴ、もぐ、わっちには」

「食べてからどうぞ」

 ホロはうなずいて、結局次に口を開いたのは八個目の林檎がホロの胃袋におさまってからだった。

 これで、晩飯も食うつもりなのだろうか。

「……ふう」

「よく食ったな」

「林檎は悪魔の実じゃ。わっちらをそそのかす甘い誘惑に満ちておる」

 ホロの大げさな物言いに、ロレンスは思わず笑ってしまう。

「賢狼なら欲に打ち勝ったらどうだ」

「貪欲は多くのものを失うが、禁欲が何かを生み出すということもない」

 至福の笑みを浮かべながら手についた林檎の汁をなめている様子を見ると、なんとなくそんな言葉も説得力を持つ。これほどの幸せを失うのならば禁欲など愚の骨頂。

 もちろん、詭弁なのだが。

「で、さっき言いかけたことはなんだ?」

「うん? ああ、そうじゃ。わっちには元手がないし、すぐに金に変わるような能力もない。だからぬしの商売に少し口を出して利益を生み出すつもりじゃが、それでもよいかや」

 よいか、と聞かれる時、商人なら簡単に返事はしない。きちんと相手の言うこと、その裏、影響までをも把握してから返事をすることが常識だ。口約束も立派な契約だ。どんな目にあっても、契約は契約なのだ。

 だから、ロレンスはこの時返事をしなかった。ホロの言おうとすることがわからない。

「ぬし、近いうちに後ろの毛皮を売るんじゃろ?」

 ロレンスのそんな胸中は察したのか、ホロが荷台のほうを振り向く。

「早ければ今日。遅くとも明日だな」

「場合によっては、その時にわっちが口を出す。それで毛皮が高く売れればその分をわっちの稼ぎにしてほしい」

 最後に小指をなめてから、ホロはなんでもないようにそう言った。

 ロレンスはちょっと考える。今ホロの言ったことは、言い換えるとロレンスよりも高く毛皮を売ってみせる、ということだ。

 いくら賢狼と言えど、ロレンスだって独り立ちして七年目の行商人なのだ。横から口を出すだけで値段が上がるほどぬるい商談はしないつもりだし、相手も簡単に買い取り金額など上げないだろう。

 それでもホロがなんでもないことのように言うので、ロレンスはそんなことできるわけがないだろうと思うよりも、どうするつもりなのか、という興味のほうが先行した。だから、「よいだろう」と告げると、「契約成立じゃな」とげっぷ交じりに返事が返ってきたのだった。

「ただし、絶対毛皮の時にできるとは限らんよ? ぬしはその道の人間じゃ。わっちに口出しする余地などないかもしれん」

「殊勝じゃないか」

「賢きとは己を知ること也」

 後ろの荷台にまだ山とある林檎をちらちら名残惜しげに見ながら言わなければ、様になったかもしれない言葉だった。