日もすっかり落ちて、木窓の向こうの通りの喧騒も収まって久しい頃になってから、ようやくロレンスは机から顔を上げた。手に羽ペンを持ったまま思い切り背筋をそらし、両手を上げて伸びをする。ごきりごきりと良い音を立てる背骨が気持ちいい。首も左右に勢いよく曲げると、負けじと良い音を立てた。
そして、再度机の上に目を向ける。そこには質素だがそれなりの商店の店構えが描かれた紙があった。どんな町で、どんなものを商い、どう商売を拡大していくかの綿密な計画までもその横には書いてある。さらには商店の出店にかかる費用から、その町の市民権確保まで様々な角度から費用を概算し、記述もしてある。
ロレンスの夢、自前の商店の出店計画だった。
つい一週間前までは遠い夢だ夢だと思っていたそれも、ミローネ商会との今回の取引でにわかに現実味を帯びた。もしもトレニー銀貨二千枚からなる収入があれば、貯金と呼べる装飾品や宝石を多少処分すれば店を出すことができる。そうすればもうロレンスは行商人ではなく、町商人ロレンスなのだ。
「むう……何の音かや……」
と、改めて惚れ惚れと自分の書いた店の絵を見ていると、ホロがいつの間にかベッドの上で身を起こしていた。眠そうに目をこすってはいるが、もうだいぶ回復したらしい。何度か目をしばたかせてロレンスのほうを見ると、のそのそとベッドから這い出してきた。少し目が赤く腫れぼったいような気がしたが、顔色は良さそうだった。
「体調はどうだ」
「うん、だいぶよい。ただ、少し腹減ったの」
「食欲が出れば問題ないな」
ロレンスは笑って、テーブルの上にパンがあると教えてやった。ライ麦の黒パンだ。硬いし苦いしパンの中では底辺に位置する安物のそれだが、ロレンスはその苦味が逆に気に入っていてよく買うことがある。
案の定ホロは一口かじって不平を漏らしたが、結局それしか食べるものがないので諦めたようだ。
「何か飲み物は……」
「水差しがあるだろう」
パンと並べて置いておいた水差しの中身を確認して、ホロは一口水を飲むとパンをかじりながらロレンスのそばに寄ってきた。
「……店の絵?」
「俺のな」
「ほほう、なかなか上手いのお」
しげしげと眺めながらそう言って、ホロはパンをかじる。
異国の地で言葉が通じない時など、時折絵で取引をするものだ。欲しい商品の単語がどうしても出てこないことが結構あるし、通訳がいつも見つかるとは限らない。だから行商人は皆結構絵が上手いのだが、ロレンスは大きな儲けがあると大体決まって店の絵を描く。酒を飲むよりもそれは心地よい。
それに、なかなかの腕前だと自負してはいたが、やはり褒められると嬉しいものだ。
「これらの文字は?」
「ああ、店の出店計画や、費用なんかだ。もちろんこのとおりにいくわけもないけどな」
「ふうん。町の絵も描いてあるけど、これはどこの町かや」
「実際の町じゃない。俺が店を出したい理想の町だ」
「ほほう。しかし、こんなに綿密に描いておるということは、近いうちに店を出すのかや?」
「ミローネ商会との取引が上手くいけばな。おそらく出せる」
「ふうん……」
ホロはあまり気乗りしないふうにうなずいて、パンの残りを小さい口に放り込むとテーブルのほうに歩いていった。こくりこくりと音がしているので、水でも飲んでいるのだろう。
「自前の店を持つことは行商人の夢だからな。俺も例外じゃない」
「うふ。それくらいわかりんす。理想の町まで描いているんじゃ、よほど何遍も描いているんじゃろ」
「描けばいつか俺の手の中に入るような気がしてね」
「大昔に出会った絵描きもそんなことを言っとったの。見ている景色を絵にしてすべてを自分のものにしたいと」
二切れ目のパンをかじりながら、ホロはベッドの隅に腰掛ける。
「その絵描きの夢はおそらく未だかなわずじゃろうが、ぬしの夢は実現間近というわけじゃな」
「ああ。それを考えるといてもたってもいられなくなるな。ミローネ商会に出向いて全員のケツを叩いて回りたいくらいだ」
少し大げさにそう言ってみたが、噓なわけではない。だからだろうか。ホロは別にからかうでもなく、くつくつと笑うと「夢が叶うといいの」、とだけ言ったのだった。
「しかし、そんなに店を持つことがよいことかや。行商でもそれなりに儲かるじゃろう?」
「儲けるだけならな」
ホロが少し首をかしげる。
「それ以外に何かあるのかや」
「行商人は、人にもよるが大体二十から三十の町をぐるぐると回って行商をする。行商人が町に残っていても金は一銭も増えないからな。一年のうちのほとんどが荷馬車の上だ」
ロレンスは机の上に置いてあるカップを手に取って、少しだけ残っていたぶどう酒を飲み干した。
「そんな生活だから、友人もろくにできやしない。せいぜいが取引先に知り合いだけだ」
ロレンスの説明にハッとしたホロは、途端に悪いことを聞いたというバツの悪そうな顔をする。
やはりホロは根がいいやつなのだ。ロレンスは気にするなという意味もこめて、少しおどけるように後を続けたのだった。
「店を構えれば俺も町の一員だ。友人もできるし嫁探しも簡単になる。それに何より死んだ後に入る墓が決まっているというのが安心だ。もっとも、一緒に入ってくれる嫁が見つかるかは……運次第だがな」
ホロは小さく吹き出して笑う。
ただ、行商人が新しい町に掘り出し物の商品を探しに行くことを「嫁を探す」とも言い、その言葉には良いものはなかなか見つからないという意味が含まれている。
実際、町に店を構えたからといってすぐに町の人間と親しくなれるわけでもない。
それでも、やはり一つの土地で長い間暮らすということは行商人にとって夢だった。
「ただ、ぬしが店を持つとなるとわっちはちょっと困りんす」
「ん? なんでだ?」
ロレンスが振り向くと、ホロはまだ口元に笑みの余韻を残していたものの、その表情が少し翳っていた。
「ぬしが店を持ったらその店から出なくなるじゃろ。わっちは一人で旅を続けるか、誰か新しい伴侶を見つけなければならん」
そういえば、とホロが少し世界を見て回ってから北の地に戻りたいと言っていたことを思い出した。
ただ、ホロのこの賢さだ。毛皮の売買の時に稼いだ金があるし、一人でも何も困ることはないだろう。
「一人旅でも困らないだろう?」
だからなんの気もなしにそう言ったのだが、ホロは意外なことにその言葉を受けとると、パンをかじったまま少しだけうつむいてしまった。
それから、ぽつりと言う。
「一人は飽いた」
そんなふうに言いながら床に届いていない足をぷらぷらさせるホロの仕草がとても子供っぽく見える。とたんにベッドに腰掛けるその姿がとても小さく、ろうそくの明かりの前に塗りつぶされてしまいそうに見えた。
ロレンスは、ホロが何百年も前の友人のことを思い出して実に楽しそうに、嬉しそうにしていたのを思い出した。
昔の友人を懐かしむのは今が寂しい証拠だ。あの時にホロが思い出に浸るように体を丸めた仕草が、寂しさの雨風から体を守る仕草のように思えてくる。
ただ、滅多に目の当たりにしない他人のそんな様子を前に、ロレンスは少し動揺してなるべく傷つけないようにと言葉を選ぶ。
「ま、まあ、お前が北に帰るまでくらいなら付き合ってもいいぞ」
と、言う他なくそう言ったロレンスだったが、それでもホロが「本当に?」といった感じで上目遣いに見てくるので、大きな商談を前にした時よりも高鳴る鼓動を隠しつつ軽い口調で言ってやった。
「金が入ってもそれですぐに店が持てるわけじゃないしな」
「ほんとかや?」
「噓ついてどうするんだ」
思わず苦笑して、ホロもそれに釣られて笑う。ただ、ホロのそれはほっとしたような笑顔だ。口は笑いつつも伏し目がちの目にはどことなく寂しさが漂っている。ホロのまつげはこんなにも長かったのか、と少しだけ場違いなことをロレンスは思った。
「その、なんだ、だからそんな顔するな」
町で暮らす商人達ならもう少し気の利いた言葉を言えるのだろうが、ロレンスは生憎と女っ気などない生活を強いられる行商人だ。それでもなんとかそう言うと、ホロは少し視線を上げて小さく笑ってから、「うん」、とうなずいたのだった。
そんなふうにしおらしくしていると、体の小ささもあってホロの姿はものすごく儚げだ。凜凜しく尖っていた狼の耳も伏せられたまま所在なげに動いていて、立派な尻尾も不安げに体のそばで丸められていた。
それから訪れた、沈黙。
ロレンスはホロから視線が離せず、ホロはロレンスのほうを見られないようだった。
ただ、一度だけホロはロレンスに視線を向けて、すぐに伏せてしまった。いつかどこかで見たようなそれ。ロレンスは少し記憶を手繰ってみてすぐに気がついた。パッツィオについてすぐ、林檎をねだった時の目だ。
あの時は林檎だったが、今ホロがねだるのはなんだろうか。
相手が何を望んでいるか察知するのは商人にとって必須技能だ。
ロレンスは少しだけ深呼吸をすると、椅子から立ち上がった。その音に少しびっくりしたのかホロが耳と尻尾を少し立ててロレンスのほうを見たが、自分に近づいてくるのを見ると慌てるように視線をそらした。
それから、ロレンスが目の前に立つと少しだけ手を伸ばしてきたのだった。
おずおずと、おっかなびっくりといった感じで。
「目が腫れぼったいのは、夢でも見て泣いていたのか」
ロレンスはホロの手を取るとそのとなりに腰掛け、そのまま引き寄せて軽く抱いてやった。
ホロは無言でされるがままになって、ロレンスの腕の中で少しだけうなずいた。
「……目を」
「ん?」
「目をな……わっちが目を覚ますとな……誰もおらん。ユエも、インティも、パロやミューリもおらん。どこにもおらんかった」
夢の中で、ということだろう。ぐす、という洟をすする音がして、ロレンスはホロの小さな頭を撫でてやった。出てきた名前は仲間の狼の名前かもしれないし、もしかしたら狼の神かもしれない。ただ、さすがのロレンスもそれを尋ねるような無粋な真似はしなかった。
「わっちらはな、何百年でも生きることができる。だからな、わっちは旅に出たんじゃ。絶対に、絶対にまた会えると思ってな。でもな……おらんかった。誰もおらんかった」
しっかと服を握るホロの手が小刻みに震えている。そういった夢はロレンスも見なくはない。
故郷に帰ると誰も彼もがロレンスのことなど忘れている。そんな夢をたまに見る。
実際、行商に出て二、三十年ぶりに故郷に帰ると村ごとなくなっていた、なんていうことはよくある話だ。戦渦に巻き込まれて燃えてしまうこともあれば、疫病で全滅したり、飢饉で餓死してしまったりと理由は様々だ。
だから行商人は店を持つことが夢なのだ。
そこに自分の故郷を作り、そこに自分の居場所を作るのだ。
「もう、目を覚まして誰もおらんのはいやじゃ……。一人は飽いた。一人は寒い。一人は……寂しい」
そんなホロの感情の吐露に、ロレンスはあいずちも打たずただ抱きしめて頭を撫でてやるだけだった。これだけ取り乱していれば何を言っても耳には届かないだろうと思ったし、何より的確な言葉を言えるとも思えなかった。
ロレンスも御者台の上や、初めて訪れた町などで突風のような寂しさに襲われることがある。
そんな時は何をしても駄目だ。何を聞いても駄目だ。ただ何かにしがみついてその突風が過ぎ去るのを待つしかない。
「ぐす……」
なので、そんなふうにホロのことをしばらく抱いていたら、やがて感情の波が収まってきたのか、ホロは摑んでいたロレンスの服を離し、少し顔を上げた。
ロレンスがそれに応じてゆっくりと腕を離すと、ホロは鼻をぐずぐずいわせながら体も起こしたのだった。
「……面目ない」
目も鼻も真っ赤にしたままホロはそう言ったが、声はだいぶ落ち着いていた。
「行商人も同じような夢にうなされることがある」
ロレンスがそう言ってやると、ホロは照れたように笑って、詰まった洟をすすり上げた。
「あーあー、顔中べたべたじゃないか。ちょっと待ってろ」
ロレンスは立ち上がり、机の上に置いてあった紙を差し出した。絵や文字が描いてあるがもう乾いている。洟をかむくらい大丈夫だろう。
「う……じゃが、これ……」
「描いては捨ててるんだ。それにまだあの取引はうまくいってない。皮算用にもほどがある」
そう言って笑うと、ホロもつられたように笑って紙を受け取った。それから思い切り洟をかんで目元をぬぐうと、だいぶすっきりしたようだった。ため息をついてから深呼吸して、もう一度恥ずかしそうに笑ったのだった。
ロレンスはホロのそんな様子を見てまた抱きしめてやりたくなったが、さすがにそれは思いとどまった。いつもの調子を回復しているようなので、軽くあしらわれるかもしれなかったからだ。
「ぬしに、大きな借りができたの」
ロレンスがそんなことを思っているのを知ってか知らずか、ホロはそう言いながら握りつぶしてしまったらしいパンのかけらを拾って食べている。
ロレンスはとりあえず突っ込まれなかったことをほっとしつつそんな様子を見つめていたが、ホロはあらかた食べ終わると手を軽くはたいて小さくあくびをした。泣いたので、疲れたのかもしれない。
「まだ眠い。ぬしは寝んのかや?」
「ああ、そろそろ寝るかな。起きていてもろうそく代の無駄だ」
「うふ。商人らしい考えじゃ」
ホロはベッドの上に胡坐をかいて笑い、そのまま横になった。ロレンスはそんなホロを見てからろうそく台に息を吹きかけ、その明かりを消す。
とたんに落ちる闇。明かりに目が慣れていたので完全に真っ暗だ。今夜も空は晴れて星が出ているようだったが、木窓の隙間から入ってくるわずかな光はまだ見えない。目が慣れるのを待つのももどかしく、ロレンスは手探りで自分のベッドへと向かう。部屋の奥の木窓の下だ。ホロの寝るベッドの角に足をぶつけないかだけに注意しながら歩いていた。
ようやく自分のベッドにたどり着くと、ベッドの端を確かめてからゆっくりと身を横たえる。以前、適当に身を投げたら思い切りベッドの角に体をぶつけて怪我をしたことがあった。それ以来慎重になっている。
しかし、さすがにそれに気がつきはしなかった。
ベッドに身を横たえようと思ったら、そこに誰かがすでに横になっていたのだ。
「な、にを」
「野暮なこと言うもんじゃありんせん」
少し怒ったような口調が異様に艶かしい。
されるがままに引き倒されると、ホロがぴったりと横についてくる。
さっき抱きしめた時に感じた儚さとは違う、しっかりとした、それでいて柔らかい娘特有の体。
ロレンスは再び動悸が高まるのを抑えられない。ロレンスも健康な男だ。気がついた時にはホロの体を抱きすくめていた。
「苦しぃ」
そんなホロの批難がましい声でようやく我に返り、腕にこめた力をわずかに抜いたが、決して離しはしなかった。ただ、ホロも振りほどこうとはしない。
代わりに、耳元に口を近づけてきて囁いたのだった。
「ぬし、目は慣れたかや?」
「どういう」
意味だ?、という言葉はホロの細い指に口を押さえられて出なかった。
「ようやくぬしに何を言おうとしていたか思い出したんじゃがな……」
ひそひそと囁くホロの言葉がとてもむずがゆい。むずがゆいが、それが甘い睦みごとのように聞こえなかったのは、ホロの口調にただならぬ雰囲気があったからだ。
そして、実際に睦みごとなどではなかった。
「少し遅かった。扉の外に三人。おそらくまともな客じゃないの」
ようやく気がついたが、いつの間にかホロは外套を羽織っていた。それからもそもそと動くと、ロレンスの胸の上に身の回りの品が現れた。
「ここは二階じゃ。幸い外に人はおらん。心の準備はよいかや?」
別の意味で動悸が高鳴り、ホロがゆっくりと体を起こす。ロレンスは毛布をかぶる振りをして上着を身につけ外套をまきつける。腰に銀の短剣を差したところで、ホロが扉の外に聞こえよがしに言ったのだった。
「わっちのこの肢体、月明かりの下でとくと見やしゃんせ」
その直後、がたり、と木窓を開け放つ音がした。ホロは足を窓枠にかけるとためらうことなく飛び降りる。
ロレンスも慌てて体を起こし窓枠に足をかけた。さしてためらいもなく飛び降りることができたのは、慌てて部屋の扉をこじ開けようとする音と、ばたばたと走り出す音が聞こえたからだ。
ふわり、と体が宙に浮く嫌な感覚の直後、すぐに硬い地面が足の裏に当たる。
体を支えきれずに体が蛙のように跳ね、無様にもんどりうってすっころんだ。
足をくじかなかったのは幸いだが、その様をホロに大笑いされた。大笑いされたが、ホロはすぐに手を差し出してきてくれた。
「走りんす。荷馬車は諦めんとダメじゃな」
ロレンスはその言葉にハッとして厩のほうを見る。安くて丈夫な馬だということもあるし、なによりあの馬はロレンスが初めて買った馬なのだ。
それを思うと思わず厩のほうに走り出しそうになっていたが、頭の中の冷静な部分がそれを押しとどめる。ホロの言うことが正解なのは火を見るよりも明らかだ。
ロレンスは奥歯をかみしめて踏みとどまった。
「やつらが馬を殺してもなんの得にもならぬ。落ち着いてから取り戻せばよいじゃろう」
すると、ホロが見かねたのかそんなことを言ってくれたが、今はそう願うばかりだ。ロレンスはうなずいて一回深呼吸をすると、ホロの差し出してくれた手を取って立ち上がったのだった。
「あ、そうじゃ」
と、ロレンスが立ち上がるとホロは首から提げていた皮袋を手に取り、口を縛ってある紐を無造作に解くと中身を半分ほど取り出した。
「念のためじゃ。ぬし、いくつか持ってくりゃれ」
ホロは無造作に取り出したそれを、ロレンスの返事を待たずに胸のポケットに詰め込んだ。
何か熱いものを入れられたかのように感じたが、それはホロの体温だったのかもしれない。
なにせ、その麦はホロが宿るという麦なのだから。
「ほれ、さっさと走りんす」
信頼する友人に笑いかけるようなホロに、ロレンスは口を開きかけたものの結局何も言わずにうなずいて、夜の町へと走り出したのだった。
「で、ぬしに言おうと思ってたことはこれじゃ。あの商会があの若者のことを調べ上げられるなら、その逆もまた簡単じゃろう。向こうも警戒はしとるはずなんじゃ。わっちらが商会に協力を頼んだとあれば口を封じようとするのが普通じゃろ」
石畳の道なので月明かりでも十分に走ることができる。人通りの途絶えた道を二人して走り、途中細い道を右に折れた。
真っ暗でロレンスの目にはほとんど道など見えなかったが、ホロが手を引いてずんずんと行ってくれたのでロレンスはつまずきながらもなんとかその後をついていく。
一区画ほど走ったあたりで、後ろのほうの通りを数人の男達がわめきながら走っていくのが見えた。少しだけ聞こえた単語に、ミローネ商会、というのがあった。
向こうもこちらが駆け込む先はミローネ商会しかないとわかっているようだ。
「しまった。道がわからん」
ロレンスの手を引っ張って走っていたホロが、三又に分かれた路地の交差点の真ん中で呟いた。ロレンスは顔を上げて月の位置と暦を確かめ、頭にパッツィオの地図を思い浮かべる。
「こっちだ」
進路を西に取って走りはじめる。パッツィオはこのあたりでは古い町だ。建物は増築を繰り返され、路地はのたうつ蛇のように曲がりくねっている。それでも何度も来ている町だ。時折大きな通りに顔を出して位置を確認してまた路地の中に戻る、ということを繰り返しどんどんとミローネ商会へと近づいていく。
しかし、相手も馬鹿ではないようだった。
「止まりんす。張られとる」
その角を右に曲がり、まっすぐ進んで突き当たった大通りを左に折れてまっすぐ行けば、四区画先にミローネ商会がある。大きな規模の商会ならば、少なくとも荷物番の荷揚げ夫達がいるはずだ。そこに駆け込めば暴漢達は手出しできない。商業都市で、最高の警備員はその看板から連想される金の量だからだ。
「ちっ。あと少しなんだが」
「うふふ。狩りなんて久しぶりじゃが、狩られるのは初めてじゃ」
「のんきなこと言ってる場合か。仕方ない、遠回りをしよう」
ロレンスは来た道を引き返し、途中を右に折れる。いったん別の区画の路地に入り、遠回りをして改めてミローネ商会のほうへ向かうという算段だった。
ただ、右に折れ、先に進もうとしてその足が止まった。
ホロがロレンスの服を引っ張って壁に体を押し付けたのだ。
「いたか! この辺にいるはずなんだ! 探せ!」
ぞっ、とする恐怖は森で狼に襲われて以来だ。すぐ近くの路地を二人の男が怒気もあらわに走り抜けていった。あのまま進んでいれば鉢合わせをしていただろう。
「くそ、相手はかなり人数を割いているぞ。地理も把握している」
「うーん……だいぶ旗色が悪いの」
外套を外して狼の耳をむき出しにして、あっちこっちに向けながらホロがそう言った。
「二手に分かれるか?」
「名案じゃが、わっちにも考えがある」
「例えば?」
ばたばたばた、という足音が遠くのほうで聞こえている。大通りをくまなく見張っているのだろう。路地から出てきたところを追い詰める算段のようだ。
「わっちが大通りに出て引きつけられるだけ引きつけて逃げるから、ぬしはその間に──」
「ちょっと待て。そんなこと」
「よいか? 下手に二手に分かれても捕まるのはぬしじゃ。わっちは一人なら捕まりゃせんが、ぬしはやがて捕まる。その時、あの商会と掛け合うのは誰じゃ? わっちがこの耳と尻尾晒してぬしを助けてくりゃれ、と頼むのかや? 無理じゃろう?」
ロレンスはぐっと言葉に詰まる。ミローネ商会にはすでに今回の銀切り下げが行われる貨幣の種類を教えてしまっている。下手をすればロレンス達のことなど切り捨てる可能性もあるのだ。そうなったらロレンス達は自らの体を切り札にするしかない。すなわち、相手に寝返るぞ、などと脅すほかないのだ。
そして、そこを交渉できるのはロレンスしかいない。
「しかしどちらにしろ駄目だ。お前の耳と尻尾を見たらミローネ商会だってお前を教会に連れていくかもしれないんだ。メディオ商会は言わずもがなだ」
「捕まらなければよいんじゃろ? それに例え捕まっても一日くらいなら耳と尻尾は隠すことができる。その間に助けにきてくりゃれ」
ホロはよほど自信があるのか、なんとかそれを止めたいロレンスに笑いかけた。
「わっちは賢狼ホロじゃ。耳と尻尾がばれても気の触れた狼のように振る舞えば連中もなかなかに手出しできまいて」
にやり、とホロが笑うと牙が見えた。
しかし、ロレンスの脳裏には、独りは寂しいといって泣いたホロを抱きしめた感覚がよみがえってくる。あんなに華奢で儚げな体なのだ。おそらく金で雇われているごろつき連中に引き渡すなどとても考えられない。
それでも、ホロはにかりと笑うと言ったのだった。
「ぬし、金稼いで店を持つんじゃろ。それに、わっちはぬしに大きな借りがあると先ほど言ったばかりじゃ。ぬしはわっちを不義理な狼にするつもりかや?」
「馬鹿を言うな。捕まれば殺されるのが目に見えてるんだぞ。そんなのが釣り合うわけないだろ。今度は俺がお前に返しきれない借りを作っちまう」
ロレンスは声を押し殺して怒鳴ったが、対するホロは薄く微笑みながら首を横に振り、ロレンスの胸にその細い人差し指を軽く突き立てた。
「孤独は死に至る病じゃ。十分釣り合う」
ホロの感謝を示すような落ち着いた笑みに、ロレンスは言葉が詰まってしまう。
ホロの続く言葉がそんな隙間を狙って放たれる。
「なに、ぬしの頭の回転の速さはわっちが保証する。わっちはそれを信じとる。必ず迎えにきてくりゃれ」
そう言ってホロは何も言えないロレンスに一回軽く抱きつくと、慌てて抱きとめようとしたロレンスの腕をひょいとすり抜けて走り出していた。
「いたぞ! ロイヌ通りだ!」
ホロが路地から飛び出すとすぐさまそんな声がして足音が遠のいていく。
ロレンスはきつく目を閉じるとすぐにかっと見開いて走り出した。この機会をものにしなければもう二度とホロには会えない気がした。暗がりの路地を走り抜け、何度もつまずきながら駆け抜けていく。大通りをいったん渡り、別の区画の路地に飛び込んでからさらに西を目指す。喧騒はまだ続いている。向こうとしてもあまり長時間大騒ぎはできないはずだ。町の自警団に嗅ぎつけられては厄介なはずだからだ。
ロレンスはとにかく走り、再び大通りに飛び出しそのまま向かいの区画の路地に飛び込む。もうあとは途中どこかを右に曲がり、突き当たった大通りを左に曲がればミローネ商会だ。
「一人? 相手は二人いるはずだ!」
そんな声が斜め後ろのほうで聞こえた。ホロは捕まったのだろうか。それとも上手く逃げおおせただろうか。逃げてくれていればそれでもいい。いや、それを望むほかなかった。
ロレンスは月明かりが照らす大通りに飛び出し、左右も見ずに左へと折れた。左に曲がってすぐ、後ろから「いたぞ!」と声が響く。
しかしロレンスはそれを無視して全力で走り、ミローネ商会の前にたどり着くと荷揚げ場の柵を力の限りに叩いて叫んだ。
「昼間来たロレンスだ! 助けてくれ! 追いかけられている!」
騒ぎを聞きつけて目を覚ましていた当直の男達が慌てて駆け寄ってきた。鉄製の錠を外し柵を開く。
ロレンスが体を滑り込ませた直後、手に木の棒を持った男達が殺到する。
「待て! おい、その男をこちらに渡せ!」
がちゃん、と鼻先で閉じられた柵を棒で打ちのめし、男達が柵に取り付き力任せに開けようとする。
それでも柵を押さえるほうも力仕事をする荷揚げ場の男達だ。そう簡単には開きはしない。
そして、髭を生やした初老の男が奥から出てくると外に向かって一喝したのだった。
「貴様ら! ここをどこだと思っている! ここはラオンディール公国第三十三代ラオンディール大公が公認する大ミローネ侯爵経営のミローネ商会パッツィオ支店だぞ! その柵はミローネ侯爵の持ち物でありその敷地内にいる者は侯爵の客人! そして侯爵の客人はラオンディール大公の庇護の下に保護される! 貴様ら、その棒でここのものを打つということは大公陛下の台座を打つものと心得よ!」
その見事な口上に柵の向こうの男達が怯み、同時に遠くから自警団の笛の音がした。
柵の向こうの男達は引き際を察したようだ。すぐさま取って返し走っていった。
しばらく柵の内側にいる者達は微動だにしなかったが、やがて足音も消え呼子も遠くに遠ざかっていってから、最初に口を開いたのは見事な口上を述べた初老の荷揚げ夫だった。
「夜中にえらい騒ぎだな。一体なんだってんだ」
「非礼はお詫びする。それに何より、助けてくれた礼を言いたい」
「礼は遠くの大ミローネ侯爵にでも言ってくれ。それよりあいつらはなんなんだ?」
「メディオ商会に雇われた連中だろう。私がこちらの商会に商談を持ち込んだことが気に入らないと見える」
「ほほう。あんたもなかなか綱渡りな商人だ。最近はとんとそういうやつを見ないがな」
ロレンスは額にびっしりと浮かんでいた汗をぬぐい、笑いながら答えた。
「相棒が輪をかけた向こう見ずでね」
「そりゃあ大変だ」
「しかし、考えたくないがその相棒が捕まっているかもしれない。支店長のマールハイト氏に連絡は取れるか?」
「うちらは異国の商会だぜ。討ち入り、焼き討ちは日常茶飯事よ。とっくに連絡はいってるだろうよ」
そう言って笑う声が、とても心強い。
しかし、だからこそそんな支店を預かる支店長は恐ろしく手ごわいだろう。
果たしてこちらの身の安全を保証させることができるだろうか。
そんな不安が胸のうちで渦巻いていたが、すぐにロレンスは思い直した。保証させなければならない。そして、さらにその上で利益を確保しなければならない。
それが、行商人としての意地と、ホロが危険を冒してくれたことに報いることなのだ。
ロレンスは深呼吸をしてうなずいた。
「ま、中で待っていたらどうだい。ぶどう酒だってじっと待たなきゃ良いものはできやしない」
荷揚げ夫がそう言ってくれはしたが、ホロのことを考えるととてもそんな気にはなれない。
ただ、初老の荷揚げ夫はこんな事態には慣れっこだという感じに、落ち着いてロレンスに言葉を向けていた。
「どの道無事ならここに来るんだろう? 名前と人相さえ言ってくれりゃ、たとえ教会が追いかけていたってかくまってやるぜ」
大げさな物言いだが、ロレンスはそれでようやく幾分か冷静になることができた。
「ありがとう。きっと、いや、必ず娘がここに来る。名前はホロだ。見た目は、小柄な、外套をかぶっている娘だ」
「ほう、娘か。別嬪か」
ロレンスの気をほぐすためにわざとそんなことを聞いてきたというのがわかったので、ロレンスは笑いながら答えてやった。
「十人が十人とも振り返る」
「はっはっは。それは楽しみだな」
荷揚げ夫は大声で笑いながら、ロレンスを商会の建物の中へと案内したのだった。
「十中八九、メディオ商会の手の者でしょう」
おそらくは寝入りばなを起こされたのだろうが、まったく昼間と変わらない様子でマールハイトは口火を切った。
「私もそう思います。私が銀貨のからくりに気がつき、そこを突くためにこちらの商会に商談を持ちかけたことがばれたのでしょう。それを阻止するためのものだと思います」
慌てているところを見られたくはないが、ロレンスは喋っている最中もホロのことが心配で仕方がない。ホロのことだから上手く切り抜けていそうな気もするが、予測は常に最悪の一歩手前に合わせるべきだ。それに、とにかく一刻も早くロレンス自身とホロの身の安全を確保しなければならない。
そのためには、ミローネ商会の協力が必要だった。
「私の連れが捕まっている可能性があるのです。もしそうなれば正当に交渉しても埒が明かないのは目に見えています。こちらの商会の力で取り返せませんか」
テーブルに身を乗り出さんばかりの勢いでそう言ったのだが、マールハイトはロレンスのほうに視線を向けずに何か考え込んでいる。
それから、ゆっくりと視線を上げた。
「お連れの方が捕らえられたかもしれない、と?」
「はい」
「なるほど。うちの商会の者があの騒ぎを聞きつけ、何人か尾行していたようなのですが、無理やりといった様子で連れられていく若い娘の目撃情報があります」
マールハイトの言葉は半ば以上予測していたものの、実際に聞くと心臓をわし摑みにされたような衝撃が体のうちを駆け巡った。
しかし、ロレンスはすぐさまそれを息と共に腹の奥に飲み込んで、代わりに言葉を吐いたのだった。
「多分、私の連れ、ホロでしょう。私がここに来られるようにと囮になって……」
「なるほど。しかし、彼らはなんのために捕まえたのでしょうか?」
その瞬間、ロレンスは怒鳴りそうになったのをなんとかこらえ、喉から搾り出すように言葉を吐いた。マールハイトほどの人物がそこに頭が巡らないわけがない。
「私達が、こちらの商会と手を組んで、メディオ商会の邪魔をすることを防ぎたかったのでしょう」
マールハイトはそんなロレンスのうなり声に近い言葉を聞いても、表情をほとんど変えずに小さくうなずき、そしてまた視線をテーブルに落として何かを考え始めた。ロレンスは焦れて足の貧乏ゆすりが止まらない。たまらず椅子から立ち上がって叫ぼうとした時だった。
「それは、ちょっとおかしくはないでしょうか?」
「どこがですか!」
がた、と立ち上がるとさすがにマールハイトは目をしばたたかせたが、すぐに冷静な顔に戻ると、そのまま嚙み付きかねない様子のロレンスを手で制した。
「落ち着いてください。なにかがおかしい。おかしいんです」
「どうしてです! そちらの商会がゼーレンの背後関係を簡単に調べ上げられたように、メディオ商会もここの商会が自分達の邪魔をしようとしていると気がつき、また、一体どこの誰がその原因となったのか、調べ上げるのも簡単でしょう!」
「……確かに、ここは彼らの本拠地ですからそうなのですが……」
「どこがおかしいんですか」
「はい、わかりました。これは明らかにおかしいです」
マールハイトがまっすぐにロレンスの目を見てそう言うので、さすがにロレンスも話を聞くしかなかった。
「そもそも、向こう側がどうしてロレンスさんと、当商会が結託したと気がつくことができるのかと考えます」
「それは私が度々ここを訪れたからでしょう。そして、それと前後してこちらの商会がトレニー銀貨を集め始めたことにも気がついたのでしょう。その二つがそろえば簡単に推測できることです」
「それはおかしいのです。なぜなら、ロレンスさんは行商人なのですから、当商会と度々交渉を持ってもなんらおかしくはありません」
「ですから、それとあわせて、そちらがトレニー銀貨を集めているという事実、さらにゼーレンと取引をした者とあわせて考えてみれば」
「いえ、それでもおかしいのです」
「なぜ?」
ロレンスはわからない。それが苛立ちとなってどうしても声に出る。
「なぜなら、我々がトレニー銀貨を集めている時点で、ロレンスさんとの商談がまとまってしまったと考えるのが当然だからです。ロレンスさんも考えてみてください。『どんな儲け話かは言えないが、とにかくトレニー銀貨を買い集めてみてくれ。儲けは保証する』。こう言われても、我々は絶対に動きませんよね?」
「……た、確かに」
「我々がトレニー銀貨を集めていれば、それは即ちこの取引の詳細を我々が把握しているということです。そして、それくらいのことはメディオ商会の連中もわかっているはずです。ですから、本来ならロレンスさん達を人質に取る理由がないのです」
「ま、まさか」
マールハイトは少し悲しそうな表情を浮かべてから、小さくうなずいて残念そうに言ったのだった。
「はい。我々は儲け話のために必要な情報をすべて手に入れていますから、ロレンスさん達がどうなろうと関係がないのです」
ロレンスはぐらりと体が傾くのを抑えられない。そうなのだ、ロレンスは後ろ盾のない一人の行商人なのだ。
「私もそのように言うことが辛いことを理解していただきたい。しかし、ロレンスさんが持ち込んできた商談によって、こちらもかなりの金額をすでに投資しています。また、そこから手に入る利益は途方もない。ロレンスさんに恨まれることと、その利益を手放すことを天秤にかければ……」
マールハイトはため息をついて、静かに言った。
「申し訳ありませんが、私は商会の利益を取る。ですが……」
その後のマールハイトの言葉は耳に届かなかった。破産を宣告された時の商人というのはこういう感じなのだろうか、とロレンスは頭のどこかで思っていた。手も、足も、口も、何もかもが固まってしまったようで、自分が呼吸をできているのかすら怪しかった。
今、この瞬間、ロレンスはミローネ商会に見放されたのだ。
そうすれば、自動的にホロも見放されることになる。ほとんど身代わりになって捕まったホロは、ロレンスがミローネ商会と交渉し、助けにきてくれるものと思って捕まった。
ホロはロレンスのことを信用してくれていたのだ。それでも、結果はこれだった。
少し旅をしてから北の故郷に帰りたい、と言ったホロの顔が脳裏に浮かぶ。
人質として捕まり、それが交渉の材料に使えなければ、その後の処遇は火を見るより明らかだ。男なら奴隷船に売られ、女なら娼館だろう。ホロは狼の耳と尻尾を有してはいるが、世の中には悪魔憑きの娘ばかりを集めている狂った金持ちもいるのだ。メディオ商会ならそういった客の一人や二人、知っているだろう。
ロレンスの頭にホロが売られていく様が浮かび上がる。悪魔を信仰し狂った儀式に没頭する金持ち共に売られる娘がどんな処遇をそこで受けるか。
ならない。そんなことはさせてはならない。
ロレンスは椅子の上で崩れかけた体を立て直し、即座に頭を回転させ始めた。絶対に、ホロを助け出すのだ。
「待ってください」
ロレンスは数瞬後にそう言った。
「こちらの商会がそのように判断すると、向こうも当然わかっているはずですよね?」
メディオ商会も馬鹿ではないのだ。だとすれば、メディオ商会はその上でロレンス達をさらおうとしたのだ。それも、あれだけの人数を割いて、自警団に嗅ぎつけられる危険を冒してまでも。
「はい。ですから、私はさらにおかしいと思うのです。先ほどの話はあくまでも途中です。場合によってはロレンスさんに恨まれることを覚悟でそういった選択肢を取る、ということです」
ロレンスはそれでようやくマールハイトが「ですが」と続けようとしていたことを思い出した。ロレンスは顔に血が上るのを抑えられず、恐縮して頭を下げた。
「よほどお連れの方が大事とみえます。ですが、そのせいで早とちりをしたり思考を鈍らせては本末転倒です」
「申し訳ない」
「いえ、私も妻が同じ状況になれば落ち着いてはいられないかもしれないですからね」
そう言って笑うマールハイトにロレンスは再び頭を下げた。ただ、妻、という言葉にどきりとした。ただの旅の道連れなら、ここまで自分は慌てないだろうとロレンスは気がついたし、ホロだって囮になって捕まろうとはしなかったかもしれない。
「それでは話を戻しましょう。向こうも狡猾な人間のそろっている一筋縄ではいかない商会です。ですから本当なら交渉の材料になり得ないロレンスさん達を狙ったのには何かわけがあるはずなんです。何か、心当たりはありませんか?」
そう言われてもロレンスには心当たりなどない。
しかし、順々に考えていくと、自分達を捕らえることに何か特別な理由があると考えるのが妥当そうなのだ。
ロレンスは考える。
思い当たることが、一つだけあった。
「いや、でも、まさか」
「何か思い当たることが?」
ロレンスは自分の頭に思い浮かんだことをとっさに否定してしまう。そんなことはあり得そうもない。しかし、それ以外には思いつかない。
「我々が目の前にしている儲けは途方もないものです。ぜひとも成就させたい。何か思い当たることがあれば些細なことでも教えていただきたい」
マールハイトの言うことはもっともだ。ただ、それでもおいそれと言えるようなことではない。
ロレンスの頭に浮かんだのは、ホロのことだ。ホロはどう見てもまともな人間ではない。世間一般では悪魔憑きと呼ばれる類のものだ。ホロが人間だとはもう思っていないが、仮に悪魔憑きの人間であれば、彼らは一生家の中で飼い殺されるか、または教会の元に差し出されるのが普通だ。まずまともには生きていくことなどできない。教会の目に留まれば、間違いなく処刑されるからだ。
そんな悪魔憑きの人間と見た目が変わらないホロだ。だからメディオ商会の連中はホロを使ってミローネ商会を脅すことができるのだ。
悪魔憑きと商談をかわした商会として教会に告発されたくなければ、今回の話から手を引け、と。
教会裁判になれば、メディオ商会は悪魔憑きの人間を捕らえて彼らと邪悪なる契約を結んだミローネ商会を告発した神の代理人として扱われる。裁判の結果など簡単にわかる。ミローネ商会はロレンス共々火刑に処されるだろう。もちろんホロが焼かれるのは言うまでもない。
しかし、ロレンスは「まさか」と思う。
一体、どこの誰がいつホロは狼の耳と尻尾を有する者だと気がついたのだろうか。
ホロの様子を見る限り、そんな簡単に誰かに正体がばれるほど間がぬけているようには見えない。今のところ自分以外に誰も気がついていないだろう、という確信がロレンスにはあった。
「ロレンスさん」
そんなマールハイトの声に、ロレンスは黙考からハッと我に返る。
「心当たりが、あるんですね?」
マールハイトの嚙んで含めるようなものの言い方に、ロレンスはうなずきそうになる首を止めることができない。
しかし、うなずいてしまったらそれを言わなければならない。そして、もし、万が一その可能性が間違っていたとしたら、ロレンスは余計なことをマールハイトに伝えることになる。
最悪の可能性として考えることができるのが、ミローネ商会が先手を取ってメディオ商会のことを逆に悪魔憑きの娘を使いミローネ商会を貶めようとした悪魔の商会であると告発するということだ。
そうなると、どの道、ホロは助からない。
対面のマールハイトの視線が重くのしかかる。
ロレンスは逃げ道が見つからない。
そんな折だった。
「失礼します」
そう言って部屋に入ってきた者がいた。ミローネ商会の人間だ。
「どうした?」
「先ほど文が投げ込まれました。一連の関係のものだと」
商会の者が差し出したのは、綺麗に封のされた手紙だ。マールハイトはそれを受け取り、表と裏を交互に見る。差出人の名はなかったが、宛名はあったようだ。
「狼と……狼の住む森へ?」
ロレンスはその瞬間、自分の予測が当たったと気がついた。
「申し訳ありませんが、先にそれを見せていただけませんか」
ロレンスのそんな申し出に、マールハイトは少し怪訝そうに何かを考えていたが、やがてうなずくとその封書を差し出した。
ロレンスは礼を言って受け取り、一度深呼吸をした後に封を破った。
中から出てきた一通の手紙と、そして、ホロのものと思われるこげ茶色の動物の毛。
手紙には、短く書かれていた。
「狼は預かった。教会の扉は常に開かれている。家に狼が入らないように家人とともに扉を閉じておけ」
疑う余地もなかった。
ロレンスは、手紙を封書ごとマールハイトに手渡すと、絞り出すように声を出した。
「私の連れていた娘、ホロは、豊作を司る狼の化身なのです」
マールハイトの目が、これ以上ないほどに見開かれたのは言うまでもなかった。