◆◆第四幕◆◆
ミローネ商会の面々は、突然訪問したロレンスの話を聞くや否や、驚いた表情をあっという間に警戒のそれに変えた。ただ、それもゼーレンがロレンスに持ちかけた取引の裏を突くことをミローネ商会に持ちかけているのだ。ゼーレンの話の時点ですぐに信用できるようなものではないのに、さらにそこの裏を突くようなロレンスの話は、もっと信用できなくても当然といえば当然だった。
それに、ミローネ商会とは毛皮の一件がある。今後の商取引に影響がありそうなほど怒ってはいなかったが、さすがに担当者はロレンスの姿を見て苦笑いだった。
それでもミローネ商会が一応動いてくれたのは、ロレンスがゼーレンと公証人の下で交わした契約書を見せたからだ。取引はミローネ商会が存分に確信を持ててからでいいと。
さらに、ロレンスはゼーレンの背後関係を調べてくれと言って、これが単純な詐欺ではないことを強調した。
ここまですれば例え詐欺にしても手の込んだものだとミローネ商会は考える。そうすれば後学のためにわざと首を突っ込んでくれる。ロレンスはそう考え、そして、実際にそのとおりになった。
なにより、ロレンスの考えが当たっていればこの取引でミローネ商会は莫大な利益を得る。
ミローネ商会は虎視眈々と他の商会を出し抜く機会を窺っているはずなのだ。多少胡散臭い話でも大きな利益の可能性は見逃さないだろうという予想は、当たっていた。
ロレンスがミローネ商会にとりあえずこの話に興味を持ってもらうことに成功したその後にしたことは、まずゼーレンという男の存在を証明することだ。ロレンスとホロは早速その日の日没にヨーレンドの酒場に出向き、ゼーレンと連絡を取りたいとウェイトレスの娘に告げた。ゼーレンは案の定毎日定刻にここに顔を出すわけではないようで店内に姿がなかったが、ウェイトレスの娘はたまたま今日だけいなかったようなことを言い、そして日が沈んでしばらく経ってからゼーレンが姿を現した。
ロレンスは他愛のない商売の話をゼーレンとしていたが、その模様は事前に打ち合わせをしておいたミローネ商会の人間が近くの席で秘密裏に観察していたはずだ。これから数日間、ミローネ商会はロレンスの持ちかけてきた商談が事実であるかどうかの判断を、ゼーレンの身辺を調査することでつける手はずだった。
ロレンスは、まず間違いなくゼーレンの背後には大商人が控えていると思っている。
そして、背後に大商人が控えていれば、まず間違いなくロレンスの思ったとおりの構図がそこにあるはずだったし、だとすればそれをミローネ商会が確かめるのもたやすいことだと思った。
ただ、問題はあった。
「間に合うかや?」
ミローネ商会がゼーレンの身辺調査を開始したその日の夜、宿に帰ってホロはそう言った。
ホロの言うとおり、問題は時間だった。仮にロレンスの仮説がすべて正しかったとしても、場合によってはもう利益など見込めなくなる可能性がある。いや、出るには出るだろうが、ミローネ商会が商会として動いてくれるほどの利益は見込めなくなるかもしれない。そうなればロレンス一人でこの話から利益を出すのは難しくなる。その代わり、ミローネ商会がすばやく決断をして計画に着手すれば、転がり込む利益は途方もないものになる。
ロレンスがゼーレンの背後に見た企みと、その裏を突く企みは、そういった類のものだった。
「まあ、おそらく間に合うだろう。そう思ったからこそミローネ商会に頼んだ」
ろうそくの明かりを頼りに、酒場から小売りしてもらったぶどう酒をコップに注ぎ、ロレンスは中を覗きこんでから半分ほど一息に飲んだ。ベッドの上で胡坐をかいて同じくぶどう酒の注がれたコップを手にしたホロが、中身を干してからそんなロレンスを見る。
「あの商会はそんなに優秀なのかや?」
「異国の地で商売を成功させるには、とにかく強力な耳を持つことだ。酒場での商人達の会話や、市場での客達の会話。それらを周りより飛びぬけて多く集めなければ異国の地に商会の支店を構え、立派な大きさにすることなどできない。その点、あの商会はかなりのものだろう。ゼーレンという男一人の身の回りを調べるくらいは造作ないと思う」
喋りながら、ロレンスは酒を注ぐようにと催促するホロのコップをぶどう酒で満たし、喋り終わる頃にはホロのそれは空になっていた。その上に次を催促する。呆れた早さだ。
「ふうん……」
「どうかしたか?」
ぼんやりとした顔で遠くを見つめて気のない返事をしたのでホロは何か思うところがあったのかと思ったのだが、どうやらだいぶ酔いが回っているだけのようだった。手にコップを持ったまま、まぶたがゆっくりと閉じかけていた。
「しかし、ずいぶん飲むな」
「酒の魅力は大きい……」
「まあ、それなりの酒だしな。普段はこんないいものは飲まない」
「そうなのかや?」
「金がない時は、葡萄の搾りかすでどろどろになっていたり、砂糖や蜂蜜やショウガを入れないと飲めないくらい苦かったりするようなのも飲む。コップの底が見えるようなぶどう酒は基本的にぜいたく品だ」
ロレンスの言葉に、ホロは手元のコップを覗き込んでからぼんやりと呟いた。
「ふむ。これくらいが普通なのかと思っとった」
「はっは。そりゃあよいご身分だ」
ロレンスは笑いながらそう言ったのだが、ホロはロレンスのそんな言葉を聞くと途端に顔をこわばらせて、うつむきがちにコップをベッドの下の床に置くとそのままベッドの上で丸くなってしまった。
あまりにも唐突過ぎて、ロレンスは驚いてそんなホロの様子をただ見つめていたのだが、少なくとも眠いからそうしたとかいう雰囲気ではあり得なかった。
少し自分の言動を思い返す。何かホロの気に障るようなことを言ってしまったのかもしれない。
「どうした?」
しかし、特に思いつかずそう尋ねてみるが、ホロのとがった狼の耳はピクリとも動かない。どうも相当怒っているようだった。
ロレンスはそれ以上声もかけられず必死に頭を巡らせていたのだが、やがて思い出した。ホロと出会った時に交わしたやり取りを。
「もしかして、よい身分だって言ったのに怒ったのか?」
ホロはロレンスに狼の姿を見せろと言われた時、恐れおののかれるのが嫌だと言った。
また、特別な存在に祭り上げられるのも嫌だと言った。
ロレンスは旅の吟遊詩人の歌を思い出す。神が年に一回の祭りを要求するのは、そのあまりの寂しさからだ、という歌を。
「悪かった。特に深い意味があって言ったんじゃない」
しかし、ホロは相変わらずピクリともしなかった。
「お前は……その、なんだ、別に特別じゃないし……いや違うな。平民、というのも違うな。平凡? これも違うな……」
うまい言葉が見つからずにロレンスはますます焦って混乱してしまう。
ただホロのことを特別ではないと言いたいだけなのに、どうしてもしっくりといくものが見つからない。
ロレンスがそんなふうにあれこれ言葉を模索していると、やがてホロの耳がピクリと動き、「くふ」という笑い声がもれ聞こえた。
それからホロはころんと寝返りを打つと体を起こし、ロレンスに呆れたような笑みを向けたのだった。
「貧弱な語彙じゃな。そんなことじゃ雌も振り向かぬじゃろ」
「ぐ」
ロレンスは反射的に雪で足止めされた時に泊まった宿で惚れた女中のことを思い出してしまう。あの時、ロレンスは実に無残なふられ方をした。その原因というものが、ホロの言うとおり語彙のなさだったのだ。
目ざとい狼はすぐにそれに気がついたようで、「やはりの」と呆れるように言ったのだった。
「しかし、わっちも大人気なかった。つい、の」
ただ、ホロが続けてそんなふうに謝ったので、ロレンスも気をそがれ、改めて「すまなかったな」と言ったのだった。
「ただ、もう本当に嫌なんじゃ。そりゃあ、年経た狼の中には、わっちと親しくしてくれる者もおったが、やはり一線があった。それに辟易してわっちは森を出たんじゃ。言うならば……」
少し視線を遠くしてから、ホロは自分の手元を見る。
「友人を探しに、かの」
言ってから、ホロは自嘲するように笑った。
「友人、か」
「うん」
あまり触れるのはまずい話題かとも思ったが、ホロの返事が妙に明るかったので、ロレンスは興味の赴くままに聞いていた。
「で、見つかったのか?」
ホロはすぐに答えずに、照れたように笑った。
その様子を見れば答えは一目瞭然だ。きっと友人のことを思い出してホロは笑っているのだろう。
「……うん」
しかし、ホロがそんなふうに嬉しそうにうなずいたのが、ロレンスにはあまり面白くなかった。
「それが、パスロエの村のやつじゃった」
「ああ、村の麦畑のことを頼んだってやつか」
「そう。少し間抜けじゃが、底抜けに明るくての。わっちの狼の姿を見ても少しも驚かん。少し変といえば変じゃったが、いいやつじゃった」
のろけ話を聞いているようでついつい鼻の頭にしわのよってしまうロレンスだったが、当然それを悟られたくなくて酒を飲んで隠す。
「本当に間抜けでな。わっちもよう呆れたわ」
楽しそうに、思い出すのが少し恥ずかしいように喋るホロは、ロレンスのほうなどもう見ておらず、自分の尻尾を抱き寄せて毛をひねったりなんかしている。
それからふと、子供同士が秘密を共有して笑い合うように思い出し笑いをすると、そのままもそもそとベッドの上で丸くなってしまった。
おそらくは眠くなったのだろうが、ロレンスから見るとまるで思い出の中に浸ろうとしているかのようで、独り取り残された感じがしてしまう。
もちろん、だからといってホロに声をかけられるわけでもなく、ロレンスは小さくため息をつくと手の中のコップの酒をすべて飲み干したのだった。
「友人……か」
ロレンスは小さく呟き、コップをテーブルに置くと椅子から立ち上がり、ホロの眠るベッドまで歩み寄ってホロに毛布をかけてやった。
少し頰を赤くして無防備に眠るその寝顔につい見入りそうになってしまったものの、あまり見ていると頭の中のもやもやが余計黒くなりそうで、ロレンスは振り切るように自分のベッドに歩いていった。
しかし、獣脂の蠟燭を吹き消してベッドの上に体を横たえると、わずかな後悔が首をもたげてきたのだった。
すなわち、金がないと言って一つのベッドの部屋にするべきだったかなと。
そう胸中で呟いてから、ロレンスはホロと反対側をむいて今度は大きくため息をついた。
荷馬がいれば、ため息のようにいななかれただろうなと、思ったのだった。
「この取引、受けさせていただきます」
ミローネ商会パッツィオ支店店長、リヒテン・マールハイトはそう静かに言い放った。ロレンスがミローネ商会に話を持ちかけてからわずか二日後のことだ。さすがに仕事が速い。
「それはありがたい。ただ、そう仰るということはゼーレンの背後関係が摑めたということですね?」
「彼の後ろにはメディオ商会がついています。言わずと知れた、この町で二番目の規模の商会です」
「メディオ商会ですか」
パッツィオに本店を置く商会だが、いくつか支店も出している。麦をメインにした農産物の取引ではパッツィオ随一で、運搬用の船舶の所有もかなりのものだ。
ただ、とロレンスは胸中で引っかかる。メディオ商会は確かに大きな商会だが、ロレンスはもっと大きなところを考えていたのだ。それこそ、最大の取引相手は王侯貴族であるような。
「我々も、メディオ商会の後ろにさらに何者かがいると思っております。彼らだけでは、ロレンスさんが描いている仮説の実行はおそらく不可能です。ですから、我々はメディオ商会の後ろに貴族が控えているものと思っておりますが、メディオ商会ともなれば貴族との付き合いも多く今のところまだそれが誰かはわかりません。ただ、相手が誰であろうとロレンスさんの指摘どおり、先手を打てばどうにでもなりそうです」
にやり、と笑いながら言うマールハイトのそれは、ロレンスなどから見れば想像もつかない資金力を持つミローネ商会全体を後ろ盾にした自信の表れだろう。なにせ彼らの本店に足を運ぶのは王侯貴族や大司祭ばかりだ。それらを知っている者達としては、この取引など恐るるに足りないのだろう。
ただ、ロレンスもだからといって臆するはずもない。交渉を行う時、卑屈になったり弱みを見せたら負けだ。どこまでも対等に胸を張っていかなければならない。
だから、堂々とロレンスのほうから言ったのだった。
「それでは、分け前の話に入りたいのですが」
ちなみに、夢の膨らむ交渉であったことは、言うまでもない。
ミローネ商会から店長以下役職を持つ者達に見送られて店を出て、ロレンスは鼻歌を歌いたくなる気持ちを抑えられなかった。
ロレンスがミローネ商会に提示した分け前は、ミローネ商会の得る貨幣売買による利益の五分だ。ミローネ商会の儲けの二十分の一だが、それでもロレンスの笑いは止まらない。
なにせ、ロレンスの提案でミローネ商会が動けばそこでやり取りされるトレニー銀貨の量は千や二千の数ではない。二十万や三十万といった数の貨幣が動くとみて間違いない。概算でもその一割の儲けを見込むことができるとなれば、ロレンスが受け取る分け前はトレニー銀貨千枚以上ということもあり得る。しかも、純利益として、それなのだ。二千枚を超えることになれば、贅沢を言わなければ十分にどこかの町に商店を構えることができる金額だった。
ただ、ミローネ商会が本当に狙っている利益と比べたら、実はそんな貨幣の取引によるものなどはおまけに過ぎない。ミローネ商会が商会として動くのだから、そんな儲けは微々たるものなのだ。
しかし、その儲けをロレンスが手に入れることはできない。あまりにも巨大すぎて、ロレンスの財布には入りきらないからだ。それでも、もしミローネ商会がその利益を得ることができれば、ロレンスは莫大な貸しをミローネ商会に作ることができる。今後店を開くことになれば、その貸しから大きな利益を得られるだろう。
鼻歌が止まらなくとも、当然と言えた。
「ご機嫌じゃのう」
そしてついに、横を歩くホロが呆れたようにそう言ったのだった。
「これで機嫌が悪くなるやつなどいるものか。今日は人生最高の日だ」
ロレンスは大袈裟に両腕を広げるが、気分的にはまさしくそれだ。広げた両手と両腕でどんなものでも摑めそうな気がした。
実際、夢であった自前の店はもうすぐそこだ。
「まあ、上手くいっているようでよかったの……」
対して、ホロは覇気のない口調でそんなことを言ってから、口元を押さえたりしている。
なんのことはない、二日酔いなのだ。
「つらいなら宿で寝てろと言ったろう」
「ぬし一人で行かせたらいいように丸め込まれたりしないか心配での」
「どういう意味だ」
「うふ。そのまんまの意味……うぷ」
「まったく……。ほら、もう少し頑張れ。ちょっと行ったところに店がある。そこで休もう」
「……うん」
外套の下でわざとかと思うような弱々しい声でうなずいて、ホロはロレンスの差し出した腕に捕まってきた。賢狼だからといって自己管理ができているとはお世辞にもいえないようだ。ロレンスが「まったく」、と再度呆れたように呟いても反論はこなかった。
そんなロレンスとホロが入った店は、小さな宿に併設の酒場だ。酒場と名がついてはいてもメインは軽食で、こういうところは朝から晩までひっきりなしに出入りする商人や旅人達の休憩所になっている。扉を開けて中に入れば、狭い店内に客の入りは三割といった感じだった。
「なんでもいい、薄めた果汁一人分とパン二人分頼む」
「あいよ」
ロレンスのそんな適当な注文にも威勢よくうなずいて、カウンターの中にいた店主が厨房に注文を繰り返した。
ロレンスはそんな声を聞きながら、奥のほうの空いている席にホロを連れていって座らせた。
狼というよりもどちらかといえば猫のようにぐんにゃりとした様子で、ホロは椅子につくなりテーブルに突っ伏した。商会から歩いてきて、再び酒が回ってしまったようだった。
「弱いわけじゃなさそうだが、昨日はだいぶ飲んでたからな」
そんな言葉にホロの耳が外套の下でピクリと動いたが、視線を向ける気力はないようだ。
机に横を向いて突っ伏したまま、「ぅぇー……」などとため息なのかうめき声なのかわからない声を漏らしている。
「はいよ、林檎の果汁とパン二人分」
「料金は?」
「今もらえるかね。あわせて三十二リュートだ」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
ロレンスは腰にくくりつけてある小銭入れを解いて中身を漁る。銅貨と見まがうばかりに黒いリュート銀貨を用意している最中に、ホロの様子を見た店主が呆れたように笑った。
「二日酔いかい?」
「ぶどう酒の飲みすぎだ」
「ま、若いうちはそういう失敗もあるわな。二日酔いでも何でも決済日はやってくる。しょっちゅう真っ青な顔した若い行商人がこの店からふらふら出て行くよ」
行商人なら誰しもが経験することだろう。ロレンスも、実際のところは何度かそんな失敗を犯したことがある。
「はいよ、三十二リュート」
「うん……確かに。ま、少し休んでいくといい。自分のところの宿にたどり着かなかった口だろう?」
ロレンスがうなずくと、わっはっは、と店主は笑いながらカウンターに戻っていったのだった。
「飲んだらどうだ? いい具合に薄めてあってうまいぞ」
ロレンスがそう言うとホロはのろのろと顔を上げた。顔の作りがよいので辛そうな顔もそれなりに魅力的だ。きっとワイズが見たら仕事を休んででも看病するだろう。お礼はほんの少しの微笑で結構。ぼんやりとした顔で果汁をなめるように飲んでいたホロは、そんなことを考えてつい笑ってしまったロレンスのほうを不思議そうに見ていたのだった。
「ふう……二日酔いなんてもう何百年ぶりかやあ」
木のコップの中身を半分ほど飲み終えてから、ようやく人心地ついたようでホロはためいきをついた。
「二日酔いの狼なんてちょっと情けないな。熊が酔っ払うとかならなんとなくわかる気がするが」
熊が軒先に吊るしてあるぶどうの詰まった皮袋を持っていくというのはよくある話だ。ぶどう酒を造るために発酵させる過程で皮袋に入れて吊るしておくのだが、それがまた実にいい匂いがするのだ。
それで皮袋を持って逃げた熊を森まで追いかけていったら、森の中で熊が酔っ払っていた、なんて話もあるくらいだ。
「いや、その熊と酒を飲むことが一番多かったかの。人の貢物もあったが」
熊と狼が酒盛りをしている様子など、まるっきり御伽噺の世界だ。教会の連中が聞いたらどう思うだろうか。
「まあ、何べん二日酔いになっても懲りんのじゃがな」
「人と同じだな」
ロレンスが笑うと、ホロも釣られて苦笑いを浮かべたのだった。
「そういえば……ええとなんじゃったか。何かぬしに伝えることがあったんじゃが……とんと頭から出てこん。何か結構重要なことだった気がするんじゃが……」
「本当に重要なことならそのうち思い出すだろう」
「うーん……そうかや。まあ、そうじゃの。ダメじゃ……ぜんぜん頭が働かん」
ホロは言うなりまたずるずるとテーブルに突っ伏し、ため息をつくと目を閉じた。
今日一日はこんな感じだろう。さっきの店主の言葉じゃないが、出発が目前に迫った時ではなくて本当によかった。荷馬車の上は結構揺れるのだ。
「まあ、あとはミローネ商会に任せておけばいいからな。果報は寝て待てというわけだ。治るまで寝てればいい」
「うう……面目ない」
殊更に情けなさそうに言ったのはわざとだろうが、実際にまだだいぶ辛そうだった。
「そんな様子だと今日は一日駄目か」
「う……む。情けないがそのとおりじゃな」
突っ伏したままホロはそう答えてから、片目だけ開いてロレンスのほうを見る。
「何か用事でもあったのかや」
「うん? ああ、商館に顔を出しがてら買い物にでも行こうかと思ったんだがな」
「買い物かや。ぬし一人で行ってくればいいじゃろ。わっちはここで休んでから宿に帰る」
のそのそとホロは顔を上げ、体を起こすと飲みかけの林檎の果汁を再びなめる。
「それともなにかや。わっちと一緒に行きたいのかや?」
もはやお約束というか、挨拶代わりにホロはそんなことを言ったのだが、ロレンスはそのつもりで言っていたので素直にうなずいた。
「なんじゃ、面白くない」
ロレンスがいたって平静なので、ホロはつまらなそうに下唇を小さく突き出した。ロレンスが返事に窮するとでも思っていたのだろうが、あまりおいしくもなさそうに果汁を飲みながらおざなりに言われれば、いくらロレンスだって平静を保てるというものだ。
ロレンスはパンを手にとってかじりながら、再びテーブルに突っ伏したホロに少し苦笑する。
「お前に櫛とか帽子とか買ってやろうかと思ったんだがな。また今度でいいか」
その瞬間、ホロの頭の上の外套の下で狼の耳がピクリと動く。
「……何を企んでおる?」
瞼を半分ほど開け、実に油断無くロレンスのほうを見つめながらホロはそう言った。
ただし、わさわさという尻尾が落ち着かなく動く音も同時に聞こえてくる。意外に思っていることを隠すのが下手なのかもしれない。
「ずいぶんな言われようだな」
「雄が肉を咥えてやってきた時は、肉を取られそうな時より注意しろと言うからの」
ホロが憎まれ口を叩くので、ロレンスはそんなホロに顔を近づけて耳打ちするように言ったのだった。
「慎重な賢狼を演じるならな、せめて落ち着かない耳と尻尾をどうにかしたらどうかな」
ホロは慌てて手で頭の上の外套を押さえ、それから「あ」、と小さく声を上げた。
「この前の借りは返せたな」
ロレンスが得意げにそう言うと、ホロは唇を尖らせながら悔しげにロレンスのほうを睨んだのだった。
「せっかく綺麗な髪をしてるんだ。櫛くらい持っていたほうがいいんじゃないかと思ってな」
ホロにようやく一矢報いたことは嬉しかったものの、あまりいつまでも喜んでいるとまたすぐにやり返されかねない。
だからロレンスはさっさとそう話を切り出した。
しかし、ロレンスの言葉を聞くとホロは途端につまらなそうに鼻から息を吐き、起こしかけていた体をまたぐんにゃりとテーブルの上に伸ばしたのだった。
「なんじゃ。髪のことかや」
そして、短くそう言った。
「麻紐で縛っているだけだろう? まったく漉いてもいないし」
「髪などどうでもよい。櫛は確かに欲しいが、尻尾のためじゃの」
言葉の後にわさわさと音がする。
「……まあ、お前がそう言うならそれでいいか」
ロレンスはホロの流れるような髪の毛は世辞抜きで綺麗だと思っていたし、それに長い髪の毛そのものが珍しい。毎日湯を浴びて髪の手入れができる貴族以外はそうそう髪を伸ばすことができないからだ。長くて綺麗な髪の毛は生まれの高貴さを示すといってもよい。
だからロレンスも世の庶民のご他聞に漏れず、女性の長く綺麗な髪には無条件に弱いところがあるのだが、貴族でも滅多にいないと思えそうなくらいに綺麗で長い髪の毛を有しているホロにはその価値がわからないらしい。
狼の耳を隠すのも、頭の上からすっぽり外套をかぶるのではなくきちんとしたベールにして、服も行商人用の無骨な服ではなくローブにでもすれば、それこそ吟遊詩人の詩に出てきそうな麗しの修道女にでもなりそうなものだが、さすがにそこまで言うのは憚られた。
そんなことを言えば、どうつけ込まれるかわからないからだ。
「で、ぬしよ」
「ん?」
「櫛はいつ買いに行くかや」
テーブルに突っ伏したままロレンスのことを見上げているホロだが、その目は期待の色にらんらんと輝いている。
ロレンスは少し首をひねり、他意なく聞き返していた。
「櫛はいらないんだろ?」
「櫛をいらぬとは言っていない。櫛は欲しい。できれば歯の細かい物がよい」
髪を漉かないのに櫛など買ってもしょうがない。ロレンスの頭の中では尻尾の毛を漉くのは毛織物職人の使う刷毛だ。
「刷毛を買ってやるよ。なんなら良い毛織物職人を紹介してやろうか?」
毛皮の扱いなら専門の道具と本職の人間のほうが良い。半ば本気、半ば冗談でロレンスはそう言ったのだが、そう言い終わってから自分のことを見つめるホロのほうを見て言葉に詰まった。
ホロが、今にも嚙みつきかねないほどに怒っていた。
「ぬし……わっちの尻尾をそこいらの毛皮と一緒にしたな?」
抑揚のない声で静かに言うのは尻尾云々のことを周りにいる客に聞かれないためではないだろう。
ロレンスはその迫力に少したじろいだものの、ホロは相変わらず調子が悪そうだ。大した反撃もできないだろうと高をくくっていた。
「もう……我慢せぬぞ」
案の定、ホロの脅し文句もひねりがない。
どうせ泣き出すくらいのことだろうとロレンスは思い、余裕を見せるために林檎の果汁を飲みながら軽く指摘してやったのだった。
「泣いて駄々でもこねるつもりか?」
突然やられたら確かに動揺したかもしれないがな、とは思ったもののもちろん口には出さなかった。
ただ、そう言われたホロはそれが図星だったのかなんなのか、少し目を見開いてロレンスのほうを見て、顔を反対側にぷいと向けた。
そんな子供っぽい仕草が妙に可愛げがあり、ロレンスは少し笑いながらいつもこのくらいだといいんだが、なんて思ったりしていた。
そして、ホロはしばしの沈黙の後、小さく言ったのだった。
「……もういかん。吐く」
その瞬間、ロレンスは飲みかけの果汁をひっくり返しそうになるくらい慌てて椅子から立ち上がり、大声で店主に桶を持ってくるようにと叫んだのだった。