※この試し読みは『狼と香辛料』一巻の一部を抜粋したものです。


◆◆序幕◆◆


 この村では、見事に実った麦穂が風に揺られることを狼が走るという。

 風に揺られる様子が、麦畑の中を狼が走っているように見えるからだ。

 また、風が強すぎて麦穂が倒れることを狼に踏まれたといい、不作の時は狼に食われたという。

 上手い表現だが、迷惑なものもあるのが玉に瑕だな、と思った。

 しかし、今となってはちょっとした洒落た言い方になっているだけで、昔のように親しみと恐れをこめてその言葉を使う者はほとんどいない。

 ゆらゆらと揺れる麦穂の間から見える秋の空は何百年も変わらないのに、その下の様子は実に様変わりをしていた。

 来る年も来る年も麦を育ててきたこの村の者達も、せいぜい長生きして七十年なのだ。

 むしろ何百年も変わらないほうが悪いのかもしれない。

 ただ、だからもう昔の約束を律儀に守る必要はないのかもしれないとも思った。

 何よりも、自分はもうここでは必要とされていないと思った。

 東にそびえる山のせいで、村の空を流れる雲はたいてい北へと向かっていく。

 その雲の流れる先、北の故郷のことを思い出してため息をつく。

 視線を空から麦畑に戻せば、鼻先で揺れる自慢の尻尾が目に入った。

 することもないので尻尾の毛づくろいに取り掛かる。

 秋の空は高く、とても澄んでいた。

 今年もまた収穫の時期がくる。

 麦畑を、たくさんの狼が走っていた。


◆◆第一幕◆◆


「これで最後、かな?」

「ん、きっちり七十枚……ありますね。毎度どうも」

「なーにこちらこそ。ロレンスさんくらいしかこんな山奥まで来てくれないからな。助かるよ」

「代わりに上等の毛皮もらってますからね。また来ます」

 そんないつものやり取りをかわし、山奥の村を出発したのはかれこれ五時間も前だ。日が昇ってすぐに出発して、山から下りて野に出た頃にはもう昼を回っていた。

 天気は良く、風もない。荷馬車に乗ってのんびりと野を行くには絶好の日和だ。ここのところ寒かったので、もう冬も近いと思っていたのが噓のようだ。

 行商人として独り立ちして七年目、歳にして二十五になるロレンスは、御者台の上で平和な大あくびをしたのだった。

 背の高い草も木もほとんど生えていないために視界はとても良い。そのためにかなり遠くまで見通すことができて、視界ぎりぎりの彼方には何年か前に建てられた修道院が見えている。

 どこの貴族の子弟を取り込んだのかわからないが、こんな辺鄙な土地にありながらも建物は立派な石造りで、門扉は信じられないことに鉄製だ。確か二十人からの修道士が生活していて、それと同数くらいの下男が彼らの生活を支えているはずだ。

 修道院が建てられ始めた頃、ロレンスはその新しい顧客の匂いに期待していたのだが、どうやら修道院は在野の商人を介さず独自に物資を調達しているようで、ロレンスの期待は儚くも散ったのだった。

 とはいっても彼らは贅沢もせず畑も耕すので、商売ができたとしても実際の実入りはかなり少なかったりする。その上、無理やり寄付をさせられたりツケを踏み倒されたりもするので考え物だ。

 単純な売買の相手としては盗人よりも性質の悪い相手ではあったが、それでも彼らと商売をすれば商人にとって都合の良いことがある。

 そんなわけでロレンスは未練がましく修道院のほうを見ていたのだが、不意に目を細めた。

 修道院のほうで、誰かがこちらに向かって手を振っているのだ。

「なんだ?」

 下男には見えない。彼らはこげ茶色の汚い作業服を身にまとっているからだ。手を振っている者はねずみ色っぽい衣服に身を包んでいる。わざわざそちらに行くのは面倒くさかったが、無視をすると後々問題になりかねない。ロレンスは仕方なく馬の進む方向をそちらに向けた。

 すると、手を振っていた者はロレンスが自分のほうに向かって歩き始めたことに気がついたのか、手を振ることをやめたようだが自分から歩こうとはしない。じっと、ロレンスが到着するのを待つつもりのようだ。教会関係者が傲慢なのは今日に始まったことではない。こんなことでいちいち怒る気にもなれなかった。

 ただ、のんびりと修道院に近づくにつれてはっきりと見えてきたその姿に、ロレンスは思わず声を上げていた。

「……騎士?」

 最初はそんな馬鹿な、と思ったものの、近づけばそれは紛れもない騎士だった。ねずみ色に見えた服は、銀色の甲冑だったのだ。

「貴様、何者であるか」

 会話をするにはまだちょっと遠い距離、というあたりで騎士がそう叫んだ。自分は名乗らなくてもどこの誰かわかるだろう、と言いたげだ。

「行商人のロレンスという者ですが、何かご入用ですかね?」

 もう修道院は目と鼻の先だ。南に向かって広がっている畑で働く下男達の数も数えられるくらいだ。

 そして、どうやら騎士がそれ一人だけではないということもわかった。修道院の向こうにももう一人立っているのが見える。もしかしたら、見張りなのかもしれなかった。

「行商人? 貴様が来た方向には町などないはずだが」

 銀の胸当てに刻まれた真っ赤な十字架を誇らしげに見せるように胸を張って、騎士が横柄にそう言った。

 しかし、肩に直接取り付けられている外套もねずみ色で、これは下級騎士を示すものだ。金色の髪の毛を短く刈り込んでまだ間もなさそうだし、体も野戦を潜り抜けているようには見えないから、騎士に成り立てで気負っているのだろう。こういう輩は余裕を持って対処するに限る。あっという間に図に乗るからだ。

 だから、ロレンスはすぐに返事をせずに懐から皮袋を取り出して、ゆっくりと口を縛る紐を解いた。中には蜂蜜を固めた菓子が入っている。一粒つまむと口に放り込んで、袋ごと騎士のほうに向けたのだった。

「一つどうです?」

「む」

 と、騎士は一瞬迷う素振りを見せたものの、甘い菓子の誘惑には勝てなかったようだ。

 ただ、騎士としての意地か、うなずいてから手を伸ばすまでにはだいぶ時間がかかったのだが。

「ここから半日ほどかけて東に行くと、山の中に小さな村があるんですよ。そこに塩を売りに行った帰りです」

「そうか。しかし、積荷があるようだが、それも塩か?」

「いえ、これは毛皮です。ほら」

 ロレンスは言いながら荷台を振り向いて、覆いを剝いだ。立派なテンの毛皮だ。目の前の騎士の給料にしたら一年分はくだらないだろう。

「ふん。これは?」

「ああ、これは、その村からもらってきた麦です」

 毛皮の山の隅に置いてある麦の束は、ロレンスが塩を売りに行った村で育てられているものだ。寒さに強く虫にも食われにくい。去年北西のほうで冷害が猛威を振るったので売り込みに行くつもりだった。

「ふん。まあ、いいだろう。行っていいぞ」

 呼びつけておいてずいぶんな言い草だが、ここでおとなしく「はい」と言ったら商人失格だ。ロレンスはわざと先ほどの皮袋をちらつかせながら、騎士のほうに向き直った。

「何があったんですかね? 普段はここ、騎士様なんかいないでしょう」

 若い騎士は質問されたのが不快だったのか、少し眉根にしわを寄せたがロレンスの手の中にある皮袋を見るとさらにしわを寄せた。

 うまく釣れたようだ。ロレンスは紐を解いて一粒つまむと、騎士にくれてやった。

「うむ……うまいな。これは礼をしなければなるまい」

 騎士は理屈好きだ。ロレンスは商売用の笑顔で特にありがたそうに頭を下げた。

「この辺りで異教徒の祭りが近々開かれると聞き及んでいる。そのためここの警備を任されているのだが、貴様、何か知らんか」

 なんだ、という落胆の色を浮かべてしまうようでは三流もいいところだ。ロレンスはしばし悩む振りをしてから、「存じませんねえ」と答える。実際は大噓だが、騎士の言うことも間違っているのだから仕方ない。

「やはり秘密裏に行われるものなのか。異教徒は総じて卑怯な連中だからな」

 騎士の的外れな物言いが面白かったが、ロレンスはもちろん指摘せずにそれに同意すると、おいとまを告げた。

 騎士はうなずくともう一度蜂蜜菓子の礼を言ってきた。

 よほどおいしかったのだろう。下級騎士は装備や旅費に金がかかるばかりで実際の暮らしは弟子入りしたての靴職人のほうが良い。甘いものを食べたのも久しぶりに違いなかった。

 もっとも、かといってこれ以上あげるつもりもロレンスにはない。蜂蜜菓子も安いものではないのだ。

「しかし、異教徒の祭り、ねえ」

 修道院を後にしてだいぶ経ってから、ロレンスは騎士の言葉を呟いて、苦笑した。

 騎士の言うそれには心当たりがある。というよりも、この近辺にいる者ならば皆が知っていることだろう。

 ただ、それは別に異教徒のものでもなんでもない。第一、異教徒などというものはもっともっと北か、もっともっと東のほうにしかいないものだ。

 この近辺で行われる祭りというのは、騎士がわざわざ配置されるような類のものではない。どこでも行われる、麦の収穫を祝い豊作を祈願するお祭りだ。

 ただ、ちょっとこの辺の祭りは他のところよりも特殊だったり盛大だったりするので、修道院の連中が目をつけて都市部の教会に報告したのだろう。長いこと本格的に教会の手の入らなかったところだから、教会も余計に神経を尖らせているのかもしれない。

 それに、最近教会は異端審問や異教徒の改宗に躍起になっているし、最近は都市部での神学者と自然学者の言い争いも珍しくない。昔のようにすべての民衆が無条件に教会にひれ伏すということがなくなってきている。

 教会の絶対的であった威厳がほころび始めているのだ。それは町に住む者達ならば口に出せずともうすうす思っていることだろう。実際、教皇は教会税が思ったより入らずに、大神殿の修復費をいくつかの国の王に申し入れたという。十年前ならば信じられない話だった。

 そんな情勢なので教会も威厳を復活させようと躍起なのだ。

「どこの商売も大変だな」

 ロレンスは苦笑して、蜂蜜菓子を口に放り込んだのだった。



 ロレンスが広大な麦畑に着くと、もう西の空は麦よりも綺麗な黄金色だった。遠くで鳥が小さな影となって家路を急ぎ、蛙も寝に入ることを告げているかのようにそこかしこで鳴いていた。

 麦畑はほとんど収穫が終わっているようで、祭りは近日中だろう。早ければ明後日には行われるかもしれない。

 ロレンスの目の前に広がるのはこの地方では結構な収穫高を誇るパスロエの村の麦畑だ。収穫高が高ければ村人もそこそこ裕福になれる。その上ここ一体を管理するエーレンドット伯爵が近隣に名が轟くほどの変わり者で、貴族のくせに土いじりが好きなせいで自然と祭りにも協力的だから、毎年飲めや歌えの大騒ぎのようだ。

 ただ、ロレンスはそれに参加したことがない。残念なことに部外者は参加できないのだ。

「いよう、おつかれさん」

 そんな村の麦畑の一角で荷車に麦を積んでいる農夫に声をかけた。よく実った麦だ。先物買いをした連中はほっと胸をなでおろしていることだろう。

「おー?」

「ヤレイさんはどの辺にいるかな」

「おお、ヤレイさんならあっちの、ほれ、あっちで人がたかってるだろ。あの畑だな。今年はヤレイさんのところは若い者ばっかでな。手際が悪いせいで今年はあそこの畑の誰かが『ホロ』だな」

 農夫は日焼けした顔にいっぱいの笑みを浮かべながら楽しそうに言う。商人には絶対にいない、裏表のない人間だけが浮かべることのできる笑顔だ。

 ロレンスは農夫に商売用の笑顔で礼を言って、馬をヤレイ達のほうに向けた。

 その区画は農夫の言った通りに人がたかっていて、畑の中に向かって口々に何かを叫んでいた。

 それは最後まで作業をしている連中を囃し立てているのだが、別に作業の遅れを罵っているわけではない。罵ることがすでに祭りの一部なのだ。

 ロレンスがのんびりと近づいていくと、やがて騒いでいる内容も聞こえてきた。

「狼がいるぞ狼がいるぞ!」

「それ、そこに狼が横たわっているぞ!」

「最後に狼を摑むのは誰だ誰だ誰だ!」

 皆口々に囃し立て、酒が入っているかのように陽気に笑っている。ロレンスが人垣の後ろに荷馬車を止めても誰も気がつかないほどだった。

 しかし、彼らが口にしている狼とは実際の狼ではない。実際に狼がいたらさすがに笑っていられないだろう。

 狼とは豊作の神の化身で、村の連中から聞いた話では最後に刈り取られる麦の中にいて、それを刈り取った者の中に入り込むという言い伝えらしい。

「最後の一束だ!」

「刈り過ぎないように注意しろ!」

「欲張りの手からはホロが逃げるぞ!」

「狼を摑んだのは誰だ誰だ誰だ」

「ヤレイだヤレイだヤレイだ!」

 ロレンスが荷馬車から降りて人垣の向こうをひょいと覗くと、ちょうどヤレイが最後の一束を摑んだところだった。土と汗に汚れた真っ黒な顔に苦笑いをいっぱいに浮かべ、そして一息に麦を刈り取ると束を掲げて空に向かって叫んだのだった。

「アオオオオオオオオオオオン」

「ホロだホロだホロだ!」

「アオオオオオオオオオオオン」

「狼ホロが現れたぞ! 狼ホロが現れたぞ!」

「それ捕まえろ、やれ捕まえろ!」

「逃がすな、追え!」

 それまで口々に囃し立てていた男達が、唐突に走り出したヤレイを追いかけていった。

 豊作の神は追い詰められ、人間に乗り移ってどこかに逃げようとする。それを捕らえてまた一年、この畑にいてもらうのだ。

 実際に神がいるのかどうかはわからない。ただ、ここの土地の者達はもう長い間それを続けている。

 ロレンスは各地を飛び回る行商人だから教会の教えを頭から信じてはいないが、迷信深さや信心深さはこの農夫達以上だ。苦労して山を越えて町にたどり着いたら商品が暴落していた、なんてことは日常茶飯事だ。迷信深くも信心深くもなるというものだ。

 だから、熱心な信徒や教会関係者が見たら目をむくようなそんな儀式もロレンスには気にならない。

 ただ、ヤレイがホロになってしまったのには少し困った。こうなるとヤレイは祭りが終わるまで穀物庫にご馳走と共に一週間近く閉じ込められ、話ができなくなるからだ。

「仕方ない……」

 ロレンスはため息をついて荷馬車に戻ると、馬を村長宅のほうに向けた。

 昼間の修道院での話を報告しがてら、ヤレイと久しぶりに酒でも酌み交わしたかったのだが、荷台に積んである毛皮をさっさと換金しないと別の地方で買った商品の代金支払日が迫っている。それに、山奥の村から持ってきた麦も早く売り込みに行きたかったから祭りが終わるまで待つことはできなかった。

 ロレンスは祭りの準備を指揮していた村長に手短に昼間のことを伝えると、泊まっていけという誘いを固辞して村をあとにした。

 ロレンスは昔、まだこの領地に今の伯爵が来る前、重税が課されているせいで値段が高くなりあまり市場で人気のなかったここの麦を買い、地道に薄利で売っていたことがあった。それは別にこの土地の者達に恩を売るつもりではなくて、単純に別の安くて人気のある麦を、他の商人達と競争してまで買い付けができるほど資金力がなかっただけなのだが、当時のことを今でも感謝されている。ヤレイは、その時の村側の値段交渉人だった。

 ヤレイと酒が飲めないことは残念だったが、どの道ホロが出ればいくらもしないうちに部外者を追い出して祭りは佳境に入る。泊めてもらってもすぐに追い出されてしまうだけだ。その疎外感は、独りで荷馬車の上にいることに少し寂しさを覚え始めた身にはちょっと応える。

 土産に持たされた野菜をかじりながら進路を西に取り、作業を終えて村のほうに帰っていく陽気な農夫達とすれ違う。

 再びいつもの独り旅に戻るロレンスは、仲間のいる彼らが少し羨ましかったのだった。



 ロレンスは今年で二十五になる行商人だ。十二の時に親戚の行商人の下について十八で独り立ちをした。行商人としてはまだまだ知らない地域のほうが多く、これからが勝負という感じだ。

 夢は金を溜めてどこかの町に店を持ちたいという行商人の例に漏れないものだったが、その夢もまだまだ遠そうだ。何かチャンスがあればそうでもないのだろうが、生憎とそんなものは大商人が金で持っていってしまう。

 それにあっちこっちに支払期限をこさえては荷台いっぱいの商品を持って移動しているのだ。チャンスなど見えはしてもとても摑む余裕などはない。行商人にとってそんなものは空に浮かぶ月と同じだった。

 ロレンスは空を見上げて、綺麗な満月にため息をついた。最近ため息が多いと自覚をしてはいたが、食っていくためにがむしゃらに頑張ってきた反動なのか、ある程度余裕が出てきた最近はつい将来のことなどを考えてしまう。

 それに加え、頭の中が売掛債権や支払期限のことでいっぱいで、一刻でも早く次の町に行かなければと必死になっていた頃には思いもしなかったことが、よく頭の中を駆け巡っている。

 具体的に言えば、今まで知り合ってきた人達のことだ。

 度々行商で訪れる町で親しくなった商人達や、買い付けに行った先で仲良くなった村人達。それに雪による足止めを食らった時に長逗留した宿で好きになった女中のことなどなど。

 要するに人恋しいと思うことが多くなったのだ。

 一年のほとんどを独り荷馬車の上で過ごす行商人にとって人恋しくなるのは職業病ともいえたが、それをロレンスが実感し始めたのは最近のことだ。それまでは俺に限ってそんなことあるものかとうそぶいていた。

 しかし、一人で何日も馬と一緒に過ごしていると、馬が話しかけてきてくれればな、などと思ってしまうこともある。

 だから、行商人同士の会話の中で時折耳にする荷馬が人間になったという話なども、聞いた当初こそ笑い飛ばしていたものの、最近ではつい本当なのかと思ってしまう。

 馬屋の主人の中には若い行商人が荷馬を買う時、馬が人間になってもいいように雌の馬を買っておけ、なんて真顔で勧める者もいるくらいだ。

 ロレンスもそんなことを言われた口だったが、もちろん無視して力強い雄の馬を購入した。

 その馬は今でも元気に働いてくれているロレンスの目の前にいる馬なのだが、時折やってくる人恋しさの波に洗われるとついつい雌の馬を購入するべきだったかと思ってしまう。

 もっとも、来る日も来る日も重い荷物を運ばせているのだ。例え人間になったとしてもよく聞く話のように馬の持ち主である行商人と恋に落ちたり、不思議な力で行商人に幸運を授けてくれたりするとはとても思えない。

 せいぜいが休憩と給料を請求されるくらいだろうと思う。

 そう考えると途端に馬は馬のままでよいと願いたくなるのだから勝手なものだ。ロレンスは独り苦笑いをして、自分自身を呆れるようにため息をついたのだった。

 そんなことをしているとやがて川に突き当たり、今日はこの辺で野宿をすることにした。いくら満月で道が明るくても川に落ちないとは限らないからだ。そんなことになれば一大事どころではない。ロレンスは首をくくらなければならなくなる。それだけはごめんだった。

 ロレンスが手綱を引き、止まる合図を出すと馬もようやく訪れた休憩の気配に気がついたようだ。二、三度足踏みをしてから、ため息のようにいなないた。

 ロレンスは食べ残した野菜を馬に食わせながら、荷台から桶を取って川で水を汲むと馬の前に置いた。ばっしゃばっしゃとうまそうに飲むのでロレンスも村でもらった水を飲む。

 本当は酒がよかったのだが、話し相手がいないところで酒を飲んでも余計に寂しさが募るだけだ。つい深酒をしないとも限らないので、ロレンスはさっさと寝ようと決断した。

 ここに来るまでの間、野菜をかじっていたら中途半端に腹が膨れてしまったので干し肉を一切れだけ口にくわえて荷台に乗り込んだ。いつもは荷台の覆いを兼ねている麻布に包まって寝るのだが、今日はテンの毛皮がせっかくあるのだからそれの中で寝ない手はない。さすがのロレンスでも多少気になる獣臭だが、寒いよりかはましだ。

 ただ、毛皮の布団に潜り込む前に麦の苗をつぶしてしまっては困るので、それらを移動させようと思って覆いを剝いだ。

 その時叫び出さなかったのは、あまりにもその光景が信じられなかったからかもしれない。

「……」

 なんと、先客がいたのだ。

「おい」

 と、声が出たかどうかはわからない。単純に驚いていたのもあるし、ついに寂しさのあまり幻覚を見たのかと思ったのだ。

 しかし、頭を振って目をこすっても、その先客の姿は一向に消えはしない。

 美しい顔立ちの娘は、ちょっと起こすのが忍びないほどによく眠っていた。

「おい、ちょっとお前」

 それでもロレンスは気を取り直してそう言った。何のつもりで人の荷馬車で寝ているのか、と問いたださなければならない。下手をすれば村からの家出娘かもしれないからだ。面倒に巻き込まれるのはごめんだった。

「……んう?」

 が、ロレンスの声に目を閉じたまま反応した娘の声はそんな間の抜けた無防備なもので、女と接するのはせいぜい町の娼館くらいしかない行商人にはくらっとくるような甘い声だ。

 しかも、月明かりの下で毛皮に包まって寝ている娘はまだまだ年若そうなものの、恐ろしいほどの色気がある。

 思わず生唾を飲み込んでしまったが、逆にそれでロレンスはすぐに冷静になった。

 これだけ美しければ、商売女なら下手に触ればいくら取られるかわかったものではなかったからだ。金勘定は教会のお祈りよりも自らを冷静にさせる特効薬だ。ロレンスはすぐにいつもの調子を取り戻して声を上げていた。

「おい、起きろ。お前、人の荷馬車で何やってんだ」

 しかし娘は一向に起きようとしない。

 業を煮やしたロレンスは一向に起きようとしない娘の頭を支えている毛皮を摑み、一思いに引き抜いた。支えを失った娘の頭はこてんと穴の中に落ち、それでようやく不機嫌そうな声が聞こえてきた。

 ロレンスは再度声を上げようとして、そのまま固まった。

 娘の頭に、犬のような耳がついていたのだ。

「ん……ふあ……」

 それでもようやく娘が目を覚ましたようなので、ロレンスは気を取り直して腹に力をこめて口を開いた。

「おい、お前、何のつもりだ。人の荷馬車に勝手に乗り込みやがって」

 ロレンスも独り野を行く行商人で、ごろつきや盗賊の類に取り囲まれたことは一度や二度ではない。度胸も迫力も人並み以上にあると自負していた。頭に人ならざる獣の耳を付けているからといって、一人の娘を前に怖気づくようなロレンスではない。

 しかし、ロレンスの言葉に娘は返事を返さなかったというのに、再度のロレンスの尋問の声は上がらなかった。

 なぜなら、ゆっくりと体を起こした裸の娘が、声を失うほどに美しかったからだ。

 荷台の上で月明かりに照らされた毛は絹のように滑らかで、上質のマントのように背中まで垂れている。首から鎖骨、それに肩にかけては稀代の芸術家が彫り上げた聖母の像のように美しいラインを描き、しなやかな腕は氷の彫像のようだった。

 そして、それら無機質に感じるほどに美しい体の中ほどにある二つの控えめな乳房が妙にイキモノ臭さを匂わせていて、ぞっとする魅力の中に温かさを宿していた。

 ただ、そんな生唾ものの光景もすぐに眉をひそめる異様なそれへと変わる。

 娘が、ゆっくりと口を開いて空を向くと目を閉じて吠えたのだ。

「アオオオオオオオオオオオォ……ン」

 その時のロレンスの恐怖といったらない。ざざざざざ、と突風が体中を駆け抜けていくような恐怖。

 遠吠えは狼や犬が仲間を集め、人間を追い詰める序曲だ。

 ヤレイがしたような遠吠えではない、本物の遠吠え。ロレンスは口から干し肉を落とし馬も驚いて飛び上がった。

 そしてハッと気がついた。

 月明かりに照らされた娘の姿。娘の頭についている耳。獣の、それ。

「……ふう。良い月じゃ。酒などないかや」

 が、遠吠えの余韻をゆっくりと閉じた口の中にしまいこむと顎を引いて薄く笑いながらそう言った娘の声で、ロレンスは我に返った。

 目の前にいるのは狼でも犬でもない。そんなような耳をつけているただの美しい娘だ。

「そんなものはない。第一お前は何者だ。なんで俺の荷馬車で寝てやがる。町に売られるのが嫌で逃げてきたのか」

 ロレンスは精一杯どすを利かせたつもりだったが、娘は一向に動じない。

「なんじゃ、酒はないのかや。なら、食べ物は……と、おや、もったいない」

 娘は緊張感のない声でそう言って、ひくひくと小鼻を動かすとさっきまでロレンスのくわえていた干し肉を見つけたらしく、荷台に落ちていたそれをひょいと拾って口にくわえた。

 娘が干し肉をかじる時、ロレンスは娘の唇の内側に二本の鋭い牙があるのを見逃さなかった。

「お前、悪魔憑きの類か」

 ロレンスは腰にくくりつけてある短剣に手をかけながらそう言った。

 貨幣は価値の変動が大きいので行商人は儲けを物に変えて持ち歩く。銀の短剣はそんなもののうちの一つで、銀はあらゆる化け物に打ち勝つ神の金属だ。

 しかし、ロレンスが短剣に手をかけてそう言うと、娘はきょとんとした後、突然笑い出したのだった。

「あはははは、わっちが悪魔か」

 干し肉を落とすくらいに大口を開けて笑う娘の様子はちょっとたじろぐくらいに可愛らしい。二本の鋭い牙もそんな様子だと逆に魅力的に見える。

 ただ、そんなだからこそなんとなく笑われて腹が立つ。

「な、何がおかしい」

「そりゃあおかしいさね。わっちゃあそんなこと言われるの初めてじゃ」

 依然クスクスと笑いながら、娘は落とした干し肉を拾うと再びかじった。やはり牙が生えている。耳のことも含めて、少なくともまともな人間ではないようだ。

「お前、何者だ」

「わっち?」

「お前以外に誰がいる」

「そこの馬」

「……」

 ロレンスが短剣を引き抜くと、さすがに娘の顔から笑みが消えた。赤味がかった琥珀色の瞳が、すっと細められる。

「お前は何者だ?」

「わっちに剣を向けるとは礼儀知らずじゃな」

「なんだと?」

「ん、あ、そうか。脱出成功しとるんじゃった。ごめんよ。忘れとったわ」

 そう言って娘がにこりと笑った。まったく邪気のない、可愛らしい笑顔だ。

 それで籠絡されたわけでもないが、なんとなく短剣を向けるのは男として駄目なような気がして、ロレンスはそれをしまったのだった。

「わっちの名前はホロ。しばらくぶりにこの形を取ったがな、うん、なかなか上手くいっとるの」

 自分の体を見回しながら言った娘の言葉の後半は何のことかよくわからなかったが、前半には引っかかるものがあった。

「ホロ?」

「ん、ホロ。良い名前じゃろ」

 ロレンスは色々な地域を旅して回っているが、そんな名前は一箇所でしか聞いたことがない。

 つまり、先ほどのパスロエの村の豊作の神の名だ。

「奇遇だな。俺もホロという名で呼ばれる者を一人知っている」

 神の名を騙るとは大胆な娘だ、とは思ったが、これでこの娘が村の者だとわかった。もしかしたら、この牙と耳のせいで家の中に隠して育てられていた類の者かもしれない。脱出成功、などと言っていたのもそれで納得できるような気がした。

 ロレンスも時折こういった人外のような子供が生まれる話を耳にする。悪魔憑きと呼ばれ、生まれる時に悪魔や妖精が入り込んでしまった子供のことで、教会に見つかれば場合によっては悪魔崇拝の罪で家族もろとも容赦なく火刑に処されるため、そのほとんどが山に捨てられるか、一生家の中で隠して育てられる。

 ただ、実際に悪魔憑きの者を見るのはロレンスも初めてだ。てっきり醜悪な化け物を想像していたのだが、少なくとも見た目に関しては女神といってもおかしくはなかった。

「ほう、わっちゃあわっち以外にホロと呼ばれる者を知らなんだ。そいつはどこの者かよ?」

 もぐもぐと干し肉をかじる娘、ホロはどうにも人をたばかっているようには見えない。しかし、長い間家に閉じ込められて育てられていれば自分を神と思い込むのもありそうなことだとは思った。

「この近辺の豊作の神の名だ。お前は神なのか?」

 ロレンスがそう言うと、月明かりの下でホロは一瞬困ったような顔をしてから、そこに笑顔を追加した。

「わっちは神と呼ばれて長いことこの土地に縛られていたがよ、神なんてほど偉いもんじゃありんせん。わっちゃあホロ以外の何者でもない」

 生まれてからずっと家の中、という意味だろうとロレンスは察しをつける。そう思うとその娘が少し不憫ではあった。

「長いこと、てのは生まれてからずっとか」

「いんや」

 だから、その答えは意外だった。

「わっちの生まれはもっとずっと北の大地よ」

「北?」

「うん。夏は短く、冬が長い、銀色の世界よ」

 目を細めてふいと遠くを見たホロは、とても噓をついているようには見えない。そんな仕草も、遠くの北の大地を思い出している演技にしては、あまりにも自然だった。

「ぬしは行ったことあるかいな」

 そして、ロレンスは逆にそんなことを聞かれた。少し虚を突かれたものの、これでホロが噓をついていたり耳にした話をもとに喋っているのだとすればすぐにわかる。

 ロレンスの行商経験は実に極北と呼ばれる地域にまで及んでいるからだ。

「アロヒトストック、てところが最北だな。年中吹雪の恐ろしいところだ」

 ロレンスがそう言うと、ホロは少し首をひねってから返事をした。

「ふうん。聞いたことありんせん」

 知ったかぶると思ったので、これは意外な対応だった。

「どこならあるんだ?」

「ヨイツ、てところ。どした?」

 ロレンスは「いや」と言って顔に出てしまった動揺を無理やりに消した。ヨイツという名前は聞いたことがある。ただし、北の大地の宿で聞いた昔話の中で、だ。

「おまえは、そこの生まれなのか?」

「そうじゃ。今ヨイツはどうなっとるかや。皆は、元気なのかや」

 そう言ってホロは少し肩と視線を落としたが、そんな様子があまりにも儚げで、とても演技のようには見えない。

 しかし、ロレンスはその話を信じることなどできない。

 なぜなら、昔話の中でその名の町は六百年も前に熊の化け物によって滅ぼされたからだ。

「他には覚えている地名はないのか?」

「ん……なんせ何百年も前の話じゃ……、えーとな、あ、ニョッヒラ、とかいう町があったわいな。温かい湯の出る不思議な町じゃ。よく湯に浸かりに行った」

 ニョッヒラ、というのは今でもある北の大地の温泉街で、外国の王侯貴族も時折やってくる。

 ただ、この近辺でニョッヒラのことを知っている者が何人いるだろうか。

 そんなロレンスの思考をよそに、ホロは今まさに湯に浸かっているようなほんわかとした口調でそう言って、突然小さくくしゅんとくしゃみをした。

 それでようやくロレンスも思い出す。ホロは裸だった。

「うう、人の姿は嫌いではないが、いかんせん寒い。毛が少なすぎる」

 笑いながら言ってから、ホロはテンの毛皮の山の中にもぐりこんだ。

 ロレンスはホロの様子に不覚ながら少し笑ってしまったが、少し気になることがあったので毛皮の中にもぐっていくホロに言葉を向けた。

「お前、さっきも形がどうとか言ってたな。どういう意味だ?」

 そして、ロレンスの質問にホロはぴょこんと毛皮の山の中から顔だけを出した。

「まんまの意味じゃよ。人の形は久しぶりに取る。可愛いじゃろ」

 にこりと笑いながらそう言うので、つい胸中で同意してしまったのだが、ロレンスはなんとかそれを顔に出さず口を開く。どうにもこの娘はロレンスの調子を狂わせる。

「余計なものがついてるだけでお前は人だろう。それとも何か。馬が人になる話みたいに、犬が人にでもなったのか」

 少し挑発するようにそう言うと、ホロはその挑発に乗ったとばかりにおもむろに立ち上がった。それからくるりと背中を見せて肩越しに振り向いて、実に堂々と言い放ったのだった。

「わっちはこの耳と尻尾を見てわかるとおり、それはそれは気高き狼よ。仲間も、森の動物も、村の人間もわっちには一目置いていた。この、先っぽだけ白い尻尾はわっちの自慢じゃった。これを見れば皆が褒め称えたものよ。この、尖った耳も自慢じゃった。この耳はあらゆる災厄とあらゆる噓を聞き漏らさず、たくさんの仲間達をたくさんの危機から救ってきた。ヨイツの賢狼と言えば、それは他ならぬわっちのことよ」

 ふん、とホロは得意げにそう言ったものの、すぐに寒さを思い出したのか体を縮めて毛皮の下にもぐってしまった。

 ただ、ロレンスは少し呆然としていた。ホロの裸が綺麗だったのもあるし、腰の辺りについていた尻尾は、確かに動いていたのだ。

 耳だけならず、尻尾までも。

 そして、ロレンスは先ほどの遠吠えを思い出す。あれは紛れもない本物の狼の遠吠えだ。だとしたら、まさか、本当にホロは豊作の神、狼のホロ?

「いや、そんなまさか」

 ロレンスは自問自答するように呟いて、再度ホロのほうを見る。対するホロはロレンスのことなど気にせずに、毛皮の中で温かそうに目を細めている。そんな様子は猫のようにも見えなくはないが、問題はそんなことではない。ホロは人なのかそうでないのか。それこそが問題だった。

 悪魔憑きと呼ばれる者は何も見た目がまともな人間でないから教会に見つかるとまずいのではない。悪魔憑きと呼ばれる者達はその体の中に悪魔や精霊を宿しているために、往々にして災いの源となる。そのために教会は彼らを火刑に処するようにと触れて回っている。

 しかし、もしホロが何か動物が姿を変えたものだとしたら、たくさんの昔話や言い伝えではそれらは大抵人に幸運を授けたり奇蹟を起こしたりしてくれる。

 実際、もしもホロが本物のホロであるのなら、小麦取引にこれ以上心強い味方もいないだろう。

 ロレンスは、意識を頭の中からホロへと向ける。

「ホロ、といったか」

「うん?」

「お前、自分のことを狼だと言ったが」

「うむ」

「お前についているのは狼の耳と尻尾だけじゃないか。本物の狼の化身なら、狼の姿も取れるはずだろう」

 ロレンスがそう言うと、ホロは少しの間ぽかんとしてから、ふと何かに気がついたような顔をした。

「ああ、ぬしはわっちに狼の姿を見せろと?」

 ホロの言葉にロレンスはうなずいたが、実のところ少し驚いていた。

 というのも、てっきりホロは困った顔をするか、あからさまな噓をつくと思ったのだ。

 しかし、ホロはそのどちらもでもなく、嫌そうな顔をした。本当なら軽く狼に戻れるのだが、とか下手な言い訳をするよりもよほど説得力のある嫌そうな顔だ。そして、それからはっきりと言った。

「それは、嫌じゃ」

「な、なんでだ」

「そっちこそなんでじゃ」

 不機嫌な顔でまたも逆に問われロレンスはたじろいでしまうが、ロレンスにとってホロが人であるかないかは実に重要な問題なのだ。たじろいだ体に活を入れ、なるべく会話の主導権を取れるようにと力をこめて口を開いた。

「お前が人なら俺は教会にお前を突き出そうと思っている。悪魔憑きは災いの源だからな。しかし、もしもお前が本当に豊作の神ホロで、自分のことを狼の化身だと言うのなら、それを思いとどまってもいい」

 もしも本物なら、動物の化身は大抵幸運をもたらす使者として話に残っている。教会に突き出すのを思いとどまるどころか、ぶどう酒とパンを振る舞ってもよいくらいだ。が、そうでないのなら事態は逆転する。

 そして、ロレンスの言葉にホロはますます嫌そうに顔をゆがめると、鼻の頭にしわを寄せたのだった。

「俺の聞く話じゃ、動物の化身は自在に姿を変えられるそうじゃないか。お前が本物なら、元の姿に戻れるだろう?」

 ホロは嫌そうな顔をしたままロレンスの話を黙って聞いていたが、やがて小さくため息をつくとゆっくりと毛皮の中から体を起こした。

「教会には何度かひどい目にあわされたからの。突き出されるのはごめんじゃ。しかしの」

 それからもう一度ため息をついて、ホロは自分の尻尾を撫でながら続けたのだった。

「どの化身であっても代償なしに姿を変えるのは無理じゃ。ぬしらも人相を変えるには化粧をするし、体型を変えるには食べ物が必要じゃろう」

「何か必要なのか」

「わっちの場合はわずかの麦か」

 なんとなく豊作の神っぽいその代償にロレンスは妙に納得してしまったが、次の瞬間にぎょっとした。

「それか、生き血じゃな」

「生き……血?」

「それほど量はいらぬがな」

 なんでもないことのように言うあたりが、とても思いつきの噓に思えずロレンスは固唾を飲んでしまったが、ハッとしてホロの口元に目をやった。ついさっき、ロレンスの落とした干し肉を拾ってかじった時に見えた、ホロの唇の下にある二本の牙。

「なんじゃ、臆したかや」

 と、そんな様子のロレンスに向かってホロが苦笑いをする。ロレンスは反射的に「そんなわけあるか」と答えていたものの、ホロは明らかにその反応を楽しんでいた。

 しかし、ホロはそんな笑みをやがて消して、視線をロレンスからふいとそらすと言ったのだった。

「ぬしがそんなだと、なおさら見せるのは嫌じゃ」

「な、なんでだ」

 ロレンスは馬鹿にされた気がしてつい口調を強めてそう尋ね返したが、ホロは相変わらずロレンスのほうから視線を逸らしたままひどく哀しげな口調で答えたのだった。

「ぬしは必ず恐れおののくからじゃ。わっちの姿の前に、人も動物も畏怖の眼差しを持って道をあけ、わっちを特別な存在に祭り上げる。もう、わっちは人であっても動物であっても、そんなふうにされるのが嫌なんじゃ」

「お、俺がお前の姿に怖がるとでも」

「強がりを言うのなら、せめて震える手を隠しんす」

 呆れるようなホロの言葉にロレンスはつい自分の手を見てしまってから、しまったと思った時には遅かった。

「くふ。ぬしは正直者じゃの」

 ホロは少し楽しそうにそう言ったが、ロレンスが言い訳をする前にすっと表情を改めると矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

「けど、わっちとしてはぬしが正直者であるのなら、狼の姿を見せぬこともない。さっきのぬしが言った言葉、本当かや?」

「さっきの?」

「わっちが狼であるのなら、教会には突き出さん」

「む……」

 悪魔憑きの中には幻覚を使う者もいると聞く。だからそれだけでは即断できそうになかったのでロレンスは口ごもったのだが、ホロはそれを見越していたように口を開いた。

「まあ、わっちも人と動物を見る目には自信がある。ぬしはきっと約束を守ってくれる御仁じゃろうよ」

 いたずらっぽいホロのその物言いに対し、ロレンスはますます口ごもるしかない。そんなことを言われてはここで言葉を翻すことなどできないからだ。いいように手玉に取られているのがありありとわかったが、どうしようもなかった。

「ではわずかばかり見せるが、全身は難儀じゃ。腕だけで勘弁してくりゃれ」

 ホロはそう言うとおもむろに腕を荷台の隅っこに伸ばした。

 何かそういう特殊な格好が必要なのかと思ったのは一瞬のことで、すぐにホロの行動の意味がわかった。荷台の隅に置いておいた麦束から、麦を数粒つまんだのだ。

「それをどうするんだ?」

 思わずそう聞いてしまったロレンスだったが、ホロはロレンスが言い終える前に手に持っていた麦を口に放り込み、まるで丸薬を飲み下すように目を閉じて飲み込んだ。

 籾殻のついたままの麦などとても食えたものではない。口に広がる嫌な苦味を想像してロレンスは眉根にしわを寄せたが、そんなものは次の瞬間に吹き飛んだ。

「う、うう……!」

 突然ホロがうなり声をあげ、左腕を抱きかかえるように押さえると毛皮の上に突っ伏したのだ。

 とても演技には見えないそれにロレンスが慌てて声をかけようとすると、その耳に異様な音が飛び込んできた。

 ざわざわざわざわという、たくさんの鼠が森の中を走っていくような音だ。それが数瞬続いたかと思うと、次いで柔らかい土の中に足を突っ込んだ時のようなズボッという鈍い音がした。

 ロレンスはただ驚くだけで何もできなかった。

 そして、その直後にはホロのあの細い腕が、体に不釣合いなほどに巨大な獣の前足になっていたのだった。

「む……ふう。やはり不恰好じゃの」

 あまりにそれが大きいため、おそらく自分の力では支えられないのだろう。ホロは毛皮の上に肩から生えた獣の前足を置いて体を横たえた。

「どうじゃ、信じてくれたかや」

 それから、ロレンスのほうを見上げてそう言ったのだった。

「う……む……」

 しかし、ロレンスは返事もできず、何度か目をこすったり頭を振ったりしながら何度もそれを見直した。

 こげ茶色の毛足の長い毛に覆われた、実に見事な前足だ。その大きさから察するに、その足を持つ体はおそらく馬に匹敵するくらいの巨大さだろう。その先端についている爪などは、女が麦を刈る時に使う鎌ほどもあった。

 そんなものが娘の細い肩から生えているのだ。幻覚と思わないほうがおかしい。

 目の前の光景がどうしても信じられず、ロレンスはしまいには水の詰まった皮袋を手に取って、中の水で顔を洗ったのだった。

「疑り深いのお。幻覚だと思うのなら触ってみればよかろう」

 ホロは笑いながら、少し挑発するように大きな掌をくいくいと動かした。

 ロレンスはさすがに少しムカッときたもののやはりその異様な光景に尻込みをしてしまう。なにより、その大きさもさることながら、その足からは何か近寄りがたい雰囲気がにじみ出ていたのだ。

 それでも再度ホロの前足がくいくいと動いたので、ロレンスは意を決して御者台から体を乗り出した。

 狼の足がなんだ。俺は『竜の脚』という名の商品を扱ったことがある。そんな言葉を自分に言い聞かせながら、ロレンスがホロの足に手を触れようとした瞬間だった。

「あ」

 という何かに気がついたようなホロの声にロレンスは慌てて手を引っ込めた。

「う、うわ。な、なんだ」

「ん、いや、なに……というか、ぬしも驚き過ぎじゃろ」

 殊更呆れるように言われ、ロレンスは恥ずかしさもあいまって実に腹が立ったのだが、ここで怒ってはますます男としてだめな気がする。ロレンスはなんとか自制するともうその手には乗らないとばかりに手を伸ばしながら、再度ホロに尋ね返したのだった。

「で、なんだ。どうした」

「うん」

 すると、ホロは突然しおらしい声を出して上目遣いにロレンスのほうを見た。

「優しくしてくりゃれ?」

 少し甘えるようなそんな言葉に、ロレンスは体ごと手が止まるのを防げなかった。

 そして、ロレンスがホロのほうを見ると、ホロはにやにやと笑っていたのだった。

「ぬし、可愛すぎじゃな」

 もうロレンスはホロの言葉に一切耳を貸さず、ホロの前足に乱暴に手を伸ばしていた。

「どうじゃ、信じてくれるかや」

 ロレンスはホロの言葉に返事をせず、その手の中の感触を確かめていた。

 半分近くはからかわれたことに対して怒っていたのだが、返事を返さなかったのには別の理由もある。

 まさしく、その手触りによってだ。

 ホロの肩から生えている獣の足は、大木のような重量感を与える太い骨が戦士の腕のような筋肉で覆われ、その上に実に見事なこげ茶色の長い毛が生え揃っている。肩の付け根から手首のほうにいくと、これもまた大きな掌だ。肉球などその一つ一つが切り分けられていないパンの塊のように大きい。綺麗な桃色をしている柔らかいそれを越え、さらにその先にいくとそこには一転して硬質なものがある。鎌のような爪だ。

 足もそうだったが、その爪の感触はとても幻覚とは思えない。冷たくも温かくもない獣の爪特有の手触りに加え、触れてはならないようなものに触れている感覚がロレンスの背筋をあわ立たせる。

 ロレンスは固唾を飲んで、思わず呟いていた。

「お前は、本当に神なのか」

「神なんかじゃありんせん。足の大きさからわかるじゃろうけど、少し体が大きくて、そうじゃな、周りより賢い狼じゃ。わっちはホロ。賢狼ホロじゃ」

 自分のことをぬけぬけと賢いと言うその娘は、得意げな顔をしてロレンスのほうを見る。

 そんな様子はいたずら好きの少女以外の何物でもないが、その肩から生える獣の足からにじみ出る雰囲気は、とてもまともな獣のものとは思えない。

 ただ大きいだけ、というような印象では明らかにないのだ。

「で、どうかや」

 再度の質問に、ロレンスは考えがまとまらずあいまいにうなずいていた。

「しかし……本物のホロは、今頃ヤレイの中にいるはずだろう。最後の麦を刈り取った者の中にいると……」

「ふふふ。わっちは賢狼ホロじゃ。わっちがいかなる制限をこの身に加えられておるかは十分に把握しておる。わっちは正確に言えば麦の中におるんじゃ。麦がないと生きていけぬ。そして、確かにわっちはこの収穫の時期、最後に刈り取られる麦の中にいるし、いつもはそこから出られぬ。人の目があるといかん。しかし、例外がある」

 ホロのよく回る口に感心しながらロレンスは話を聞く。

「もし、最後に刈り取られる麦よりも多くの麦が近くにあれば、わっちは人の目に触れず麦の中を移動できる。だから村の連中は言うじゃろ。麦を欲張って刈ると、豊作の神を追い詰められずに逃げられてしまうと」

 ロレンスはハッとして視線を荷台の一点に向けた。

 そこにあるのは麦の束。ロレンスが山奥の村から譲り受けてもらった麦だ。

「まあ、だからなんじゃ。ぬしはわっちの恩人といえば恩人じゃな。ぬしがおらんとわっちは外に出られんかった」

 ロレンスはその言葉をにわかには信じられなかったが、再び麦を数粒飲んで腕を元に戻す様がホロの言葉に異様な説得力を持たす。

 ただ、ホロが恩人という言葉を少し嫌そうに言うのでロレンスはとっさに少し仕返しを思いついた。

「ならその麦を持って村に帰るかな。豊作の神がいなくなるとなれば困るだろうからな。ヤレイ達や、パスロエの村の者達とは長い付き合いだ。あいつらが困る姿は見たくない」

 そんな言葉は思いつきのものだったが、よくよく考えるとそのとおりだ。もしもホロが本物のホロならば、あの村からいなくなると村が凶作に見舞われるのではないのか。

 しかし、そんな物思いも数瞬で消えた。

 というのも、そのホロが裏切られたような顔をしてロレンスのほうを見ていたからだ。

「そんな……ぬし、噓じゃろ?」

 今までとは違う弱々しいその表情に、免疫のないロレンスはたちまち動揺してしまう。

「さあて、ね」

 動揺した内心を落ち着けるために時間が欲しく、ロレンスは時間を稼ぐためにとっさにそうはぐらかした。

 が、頭は同時に別のことも考えており、内心は落ち着くどころかますますざわついていく。

 ロレンスは迷っていたのだ。もしもホロが本物のホロであり、それが豊作の神であるのなら、ロレンスが取るべき行動は麦を持ってパスロエの村に帰ることだ。パスロエの村の者達とは長い付き合いなのだ。彼らが困る姿は見たくない。

 しかし、ロレンスが視線をホロに戻せば、ホロはさっきまでのふてぶてしい様子ではなく、騎士道物語に出てくる囚われの姫はかくやといった感じで不安げにうつむいているのだ。

 ロレンスは苦虫を嚙み潰したような顔をして、自問した。

 こんな様子の娘を、嫌がっているのに村に返してよいものか。

 しかし、もし本物のホロなら。

 その二つがせめぎあい、ロレンスは脂汗を流しながら考える。

 そして、ふと自分のほうを見る視線に気がついた。他に誰がいるわけでもない。視線のほうを見れば、ホロがすがるような目でロレンスのことを見上げていた。

「助けて……くりゃれ?」

 小首をかしげるようにホロに言われ、ロレンスは耐え切れずに顔を背ける。日々見つめているのが馬の尻なのだ。それが突然ホロのような娘にそんな顔をされたらとても堪えられるものではない。

 ロレンスは苦々しく一つの決断を下した。

 だからロレンスはホロのほうをゆっくりと向くと、一つの質問を口にしたのだった。

「一つ、聞きたいんだが」

「……うん」

「お前がいなくなるとパスロエの村は麦が育たなくなるんじゃないのか」

 そう尋ねたところでホロが自分に不利になるようなことを言うとも思えなかったが、ロレンスも一人前の行商人だ。噓をつくのが当たり前の商談を数多く経験しているのだ。ホロが明らかな噓をつけばすぐにわかる自信があった。

 だから、ロレンスは一片の噓も見逃すまいと構えて返事を待っていたのだが、それはなかなかこなかった。

 視線を向ければ、ホロはこれまでロレンスに見せてきたものすべてと違う、怒ったような、それでいて今にも泣き出しそうな顔で、荷台の隅を見つめていたのだ。

「ど、どうした」

 と、ロレンスがつい聞いてしまったくらいだった。

「あの村は、わっちなんかおらんでもこの先豊作が続くじゃろうよ」

 不機嫌そうにそう切り出し、その声は驚くほど怒っていた。

「……そうなのか?」

 その芯から怒っていることがひしひしと伝わる迫力に気圧されながらロレンスが尋ねると、ホロはその細い肩をいからせながらうなずいた。見れば、その両手は手元の毛皮を力一杯に握り締めて白くなっていた。

「わっちは長いことあの村にいた。尻尾の毛の数ほどいた。途中からはいやいやじゃったが、それでもあの村の麦のために手を抜いたことなどありんせん。わっちはな、大昔にあの村の青年と約束したんじゃ。あの村の麦をよく実らせてくりゃれと。じゃからわっちはその約束を守ってきた」

 ロレンスのほうすら見ずに語気荒く語るのは、よほど腹に据えかねていることだからだろう。

 さっきまで実によく回る口で喋っていたホロは、何度か後を続けようとして言葉に詰まっていた。

「わっちは……わっちは麦に宿る狼じゃ。麦のこと、大地から生える植物のことなら誰にも負けぬ。じゃからわっちは約束どおりにあの村の麦畑を実に立派なものにした。ただの、そのためには時折麦の実りを悪くせんとならぬ時があった。土地に無理をさせるには代償が必要じゃ。しかしの、あの村の連中は時折麦の実りを悪くするとそれをわっちの気まぐれだなどと言いよる。それがひどくなったのはここ数年じゃ。ここ数年で、わっちは村を出ようと思った。もう、我慢ならぬ。あの時の約束も、わっちは十分果たしんす」

 ロレンスはホロが最も怒っていることの見当がついた。数年前、パスロエの村一体を治める領主が今のエーレンドット伯爵に変わり、それ以来南の先進国の新しい農法を次々に導入しては生産高を高めていると聞く。

 ホロはそれで自分の存在が必要とされなくなったと思っているのかもしれない。

 それに、最近は教会の言う神すらいないのではないかという流言が横行しているのだ。片田舎の豊作の神がその巻き添えにならないとはとても言えなかった。

「それに、あの村はこの先も豊作を続けるじゃろうよ。ただし、何年かに一度ひどい飢饉に見舞われるはずじゃ。やつらのしとることはそういうことじゃ。そして、やつらはやつら自身の力で乗り越えていくのじゃろうよ。そんなところにわっちなど必要ありんせんし、やつらも必要としとらんじゃろうよ!」

 そこまでホロは一息に言い切ると、大きなため息をついてから不貞寝をするように毛皮の上に突っ伏して、体を丸めて乱暴に毛皮を引き寄せて顔をうずめてしまった。

 顔が見えないので定かではないが、泣いていてもおかしくはないそんな雰囲気にロレンスは言葉もかけあぐねて頭を搔いた。

 どうしたものかと胸中で呟いて、ロレンスはホロの細い肩と狼の耳を見る。

 本物の神というのはこういうものなのかもしれない、と思わせるほどにふてぶてしかったり、頭が回ったりするかと思うと、子供のようにかんしゃくを起こしたり儚げな様子を見せたりする。

 ロレンスは扱いに窮した。しかし、かといってこのまま沈黙していることもできず、少し違った方向の話を切り出してみた。

「まあ、その辺の真偽はさておいて……」

「わっちを噓つきだと?」

 と、ロレンスの前置きにいきなり顔を上げて嚙み付いたホロの様子にロレンスはたじろいだものの、さすがにホロ自身感情的になりすぎていると自覚したようだ。少しハッとするようにしてから、バツが悪そうに「すまぬ」と言って再び毛皮の中に顔をうずめたのだった。

「お前が相当腹に据えかねているということだけはわかった。が、村を出てどこか行く当てはあるのか?」

 ロレンスのその質問にホロはしばらく返事をしなかったけれども、ロレンスはホロの耳がピクリと反応したことに気がついていたので気長に待っていた。腹の中で渦巻いていたことをぶちまけた直後なので、単にロレンスのほうをなかなか見れないだけかもしれない。

 そう考えてみるとなかなかに可愛げがあった。

 そして、ようやく振り向いたホロはバツが悪そうな顔で荷台の隅を見つめていて、ロレンスの予想が当たっていたことを示していた。

「北に帰りたい」

 それから、ぽつりとそう言った。

「北?」

 ホロはうなずいて、ふいと視線を荷台から上げて遠くに向ける。ロレンスはその視線の先を追いかけなくてもどこを見ているのかわかる。ホロの視線は、正確に真北を向いていた。

「生まれ故郷。ヨイツの森。もう、何年経つのかわからんほど時が経った……。帰りたい」

 生まれ故郷、という言葉にロレンスは少しどきりとしてホロの横顔を見つめた。ロレンス自身、ほとんど故郷を捨てるようにして行商の旅に出たまま一度も帰っていない。

 貧しくて狭くてあまり良い思い出のない生まれ故郷の村だったが、それでも御者台の上で孤独に駆られた時は懐かしく思うことがある。

 ホロが本物だとして、何百年も前に故郷から離れた上、長く居着いた先で周りからないがしろにされ始めたとしたら。

 その望郷の思いは推して知るべしだ。

「ただ、少し旅をしたい。せっかく遠く離れた異国の地におるんじゃ。それに長い年月で色々と変わっとるじゃろうから、見聞を広めるのも良いじゃろう」

 ホロはそう言ってから、もう完全に落ち着いた顔でロレンスのほうを振り向いた。

「もしもぬしが麦を持ってパスロエの村に帰るでも、またわっちを教会に突き出すでもなければ、わっちはしばしぬしの世話になりたい。ぬしは旅から旅の行商人じゃろう?」

 ロレンスがそんなことをしないと信じているとも、見抜いているともいえるような、うっすらと微笑みながらのホロのその言葉は、まるで長年来の友人の頼みごとのようだ。

 ロレンスは正直ホロが本物なのかどうなのか依然として判断しかねていたが、そんな様子を見る限り少なくとも悪そうなやつには思えない。それに、この不思議な娘と会話をすることがロレンスには楽しくなってきていた。

 しかし、そこですぐにホロの言葉にうなずけるほどロレンスも商人根性を忘れたわけではない。商人に必要なのは神をも恐れない大胆さと、そして身内すら疑う慎重さだ。

 ロレンスはしばし考え、それから静かに口を開いていた。

「即断はできないな」

 不平をもらすかとも思ったが、それはホロを見くびりすぎというものだった。ホロはもっともだとうなずいた。

「用心深いのは良いことじゃ。しかし、わっちの人を見る目は確かなはずじゃ。ぬしは人の頼みを無碍に断るような心の冷たいやつではないと信じとる。まあ、わっちは狼じゃけどの」

 しかし、そんな言葉はいたずらっぽい笑みを浮かべながらだ。それから再び横になるともそもそと毛皮の中に潜っていったが、もちろんさっきのように不貞腐れるようにではない。これで今日の話は終わりだ、と言わんばかりだ。

 相変わらず会話の主導権を握られているようで、ロレンスは苦々しげに、しかし笑わざるを得ないそんなホロの様子を見つめていた。

 が、ふとホロの耳が動いたかと思うと毛皮の中から顔が出てきて、ロレンスのほうを向いたのだった。

「よもや外で寝ろとか言わぬよな?」

 言えるわけがない、ということをわかりきって聞いているホロの様子にロレンスは肩をすくめて返事をすると、ホロはくすくすと笑いながら毛皮の中に戻っていった。

 この分だとさっきまでのやり取りのうち、いくらかはホロの演技なのかもしれない。例えば囚われの姫はかくやといった感じとか。

 それでも村での不満とか、故郷に帰りたいと言った時のあの表情までも噓だとはとてもロレンスには思えなかった。

 そして、そこを噓だと思わないということは結果としてホロを本物だと信じることだし、あれが悪魔憑きの娘の単なる思い込みだとはとても思えなかった。

 しかし、ロレンスはふとため息をついてそれ以上考えることを止めると、立ち上がって荷台に乗り込んだ。これ以上考えていても何か新しいことがわかるとは思えなかったからで、考えてもわからない時は眠って時間を置くに限るからだ。

 ホロがいるとはいってもこの毛皮はもともとロレンスのものなのだ。持ち主が御者台で布に包まって寝るというのも間抜けな話だ。ホロにもう少し端によるようにと言ってから、ロレンスも毛皮の山の中にもぐりこんだ。

 背中の向こうからはホロの小さな息遣いが聞こえてくる。ロレンスは即断できないなどと言ったものの、明日目が覚めてホロとともに商品が消えていなければホロを旅の道連れにしてやってもよいと思っている。

 それに、ロレンス自身ホロがそんなことをするほど小悪党ではないと思っていたし、きっとそういうことをするならばロレンスの何もかもを奪うほどのことをしでかしてくれるだろうと思っていた。

 そう考えると、少しそれが楽しみではあった。

 なんにせよ、自分以外の何者かと眠るのは久しぶりのことだったのだ。それが鼻が曲がりそうな獣臭の中、少し甘い香りのする美しい娘とであれば嬉しくないわけがなかった。

 そんなロレンスの単純な心中を察したのか、馬がぶるるとため息のようにいなないた。

 馬も、口を聞かないだけで人の考えていることがわかるのかもしれない。

 ロレンスは、苦笑しながら目を閉じたのだった。



 ロレンスの朝は早い。一日をフル活用して金を稼がなければならない商人達は総じて朝が早いからだ。しかし、ロレンスが朝もやの中目を覚ませばすでにホロは起きていて、ロレンスのとなりに座りこんでなにかをごそごそとしていた。一瞬、ロレンスの思惑が外れるようなことをしているのかとも思ったが、それにしては大胆だ。ロレンスが顔を上げて肩越しに振り返れば、どうやらロレンスの荷物をあさって服を見つけたようで、ちょうど靴紐を結んでいるところだった。

「おい、それは俺のだろう」

 盗みをしているわけではないにしても、他人の持ち物を勝手にあさるのは神も咎める行為だ。

 ロレンスは少し責めるようにそう言ったが、振り向いたホロは少しも悪びれる様子はなかった。

「ん? あ、起きたかや。これどうじゃ。似合うかや」

 ロレンスの言葉など一向にかまわず、ホロはロレンスのほうに向きなおると両腕を広げてそう言った。その上、悪びれるどころか少し得意げにしているのだ。それを見ると昨日のホロの取り乱しっぷりそのものが夢の中のことのようだし、やはりふてぶてしく振る舞っているほうが本来のホロなのだろう。

 ちなみに、ホロが身にまとっているのはロレンスがちょっとした町の富裕商人などと商談をする時のための一張羅だ。藍色の長袖シャツに、流行の七分丈のベスト。それに麻と毛皮を折り合わせた珍しいズボンに、その上に巻かれた下半身をすっぽりと包む腰巻と、腰巻を縛る上等な羊の皮の腰帯。靴はなめし皮を三重にした雪山でも耐えられる重厚なこしらえの逸品だ。その上から熊の毛皮の良いところを使った外套を羽織る。

 行商人は、実用的で重厚な作りの衣服を誇りにする。これだけの物を揃えるのに弟子の頃から金を溜め続けて十年かかった。これを着て髭を整え商談に臨めば大抵の者は一目置いてくれる。

 それほどの衣服をホロは身にまとっていた。

 ただ、怒る気にはなれない。

 明らかにサイズの大きいそれを身につけたホロが、それほど可愛かったからだ。

「真っ黒で上等な熊の外套じゃ。わっちの髪の毛が茶色だからよく映える。ただ、このズボンをわっちが窄くには尻尾が邪魔じゃの。穴あけてよいかや?」

 さらりと言うが、ベテランの毛織物工に無理をいって作ってもらったズボンなのだ。穴を開けたらおそらくもう二度と直らない。ロレンスは首を横に振った。力強く、有無を言わせぬように。

「ふうむ。まあ、幸いサイズが大きい。なんとかいけるじゃろ」

 今着ている服を全部脱げ、と言われることなどあり得ないといった様子のホロだったが、このままこの服を着て逃げるわけじゃないだろうなと、まさかとは思いながらロレンスは体を起こしてホロを注視していた。町に行って叩き売れば、結構な金額になるのだ。

「ぬしは根っからの商人のようじゃ。自分の顔に出る表情がどんな効果を持つかようわかっとる」

 笑いながらホロは言って、ひょいと荷台から飛び降りた。

 その動作があまりにも自然で不覚ながら反応できなかった。あのまま走り去られていたら追いつけなかったかもしれない。

 ただ、ロレンスの体が動かなかったのは、ホロが逃げるわけがない、という確信がどこかにあったからかもしれなかった。

「逃げやせんよ。逃げるならとっくに逃げとる」

 ロレンスは荷台の上の麦にいったん目をやってから、笑いながらそんなことを言うホロに視線を向ける。すると、どうやらロレンスの背丈に合わせて作られている熊の毛皮の外套を着るには背丈が足りなかったようで、ホロは外套をはずして荷台に放り投げてきた。昨日は月明かりの下で見ただけだったからいまいちわからなかったが、思っていたよりも小柄だ。ロレンスはどちらかといえば長身だが、ホロは頭二つ分くらい優に小さかった。

 そして、そんなホロは服の具合を確かめるついでのように、口を開いたのだった。

「わっちはぬしと旅がしたい。ダメかや?」

 媚びる訳でもない笑顔。媚びてくれればまだ断りようもあるというのに、ホロは楽しそうにそう言うのだ。

 ロレンスは小さくため息をつく。

 少なくとも、こそ泥のような真似だけはしなさそうだ。油断してはならないが、共に旅をするくらいならいいだろう。それに、ホロとこのまま別れ一人で旅をすれば、今まで以上に独りが身にしみそうだった。

「これも何かの縁だ。いいだろう」

 ロレンスがそう言うと、ホロはやっぱり喜ぶわけでもなく、ただ単に、笑ったのだった。

「ただし、食い扶持は自分で稼げよ。俺も楽な商売をしているわけじゃない。豊作の神だろうと俺の財布までは豊作にできないだろうからな」

「わっちもタダ飯をもらって安穏としていられるほど恥知らずじゃありんせん。わっちは賢狼ホロじゃ。誇り高き狼じゃ」

 少しむくれてそんなことを言うと、とたんに幼く見える。しかし、それがわざとやっていることだとわからないほどロレンスの目も節穴じゃない。

 案の定、それからすぐにホロは吹き出して、ケタケタと笑ったのだった。

「じゃが、誇り高き狼が昨日みたいな醜態を晒してちゃ、笑い話にもなりんせんがな」

 自嘲するように笑いながら言うあたり、取り乱していたのは本心のようだった。

「ま、よろしくの……えーと」

「ロレンス。クラフト・ロレンス。仕事上じゃロレンスで通ってる」

「うん、ロレンス。この先未来永劫、ぬしの名はわっちが美談にして語り継がせよう」

 胸を張ってそう言ったホロの頭の上で、狼の耳が得意げに揺れる。案外本気で言っているのかもしれない。そんな様子を見ると幼稚なのか老獪なのかわかりづらい。ころころと変わる山の天気のようだ。

 いや、そんなふうにわかりづらい時点で老獪なのだろう。ロレンスはすぐに思い直して、荷台の上から手を差し出した。相手をきちんと一人の存在として認めた証拠だ。

 ホロはにこりと笑ってそれを摑む。

 小さいが、温かい娘の手だった。

「とりあえずな、もうじき雨が降る。はやく行ったほうがよいぞ」

「な……そういうことは早く言え!」

 ロレンスは怒鳴り、馬がそれに驚いていなないた。昨日の夕方の時点ではとても雨など降りそうになかったのに、確かに空を見上げればうっすらと雲が覆っている。慌てて出発準備に取り掛かるロレンスを見てホロはケタケタと笑う。それでも笑いながらてきぱきと荷台に乗り込んで、寝崩した毛皮を手早く纏めて覆いをかけるあたり、仕事についたばかりの小僧よりかは断然使えそうだった。

「川は機嫌が悪い。少し離れて歩くのがよかろ」

 馬を起こし、桶を片付け、手綱を握って御者台につくと、ホロも荷台からひらりと飛び乗ってきた。

 一人では少し広すぎるそこも、二人では少し狭い。

 ただ、寒さはしのげるのでちょうどよい。

 奇妙な二人旅が、馬のいななきと共に始まったのだった。