月面都市を覆う半透明の膜の向こうには、白く霞がかった半分の地球が小さく見えていた。

 膜は月面都市の頭上を覆うドームで、その先は即宇宙空間になっている。ドームのお陰で空気が保たれ、しかも昼も夜も演出してくれる、いわば月面の空だった。

 ちなみに昼と夜は、地球の基準にあわされている。月は地球と違い、二週間の昼と二週間の夜が交互にやってくるのだが、何万年と地球で暮らしてきた人間の生命サイクルはそんなふうになっていない。地球からの移民がほとんどの月は、地球と同じ環境になるように調節されている。なお、無数のスプリンクラーも付いているので、雨だって降る。

 ただ、土砂降りだとか雷雨だとかいうのは、動画の中でしか見たことがない。

 ここで降るのはいつも霧雨だし、大風だって吹いたことがない。遠心力とコリオリ力による緩やかでまとわりつくような大気の移動と、機械的にドーム内の空気を循環させるための柔らかな風だけだ。

 俺はそんな月面都市の周辺部を駆け抜け、ビルからビルに飛び移り、草の生えた崖下にたどり着く。月面都市は月の巨大なクレーターにドームをかぶせて作られているので、端っこのこの辺りには、こういった崖が多い。大抵、区画もこの手の崖を境界線に区切られていて、メモ書きにあったのはこの崖の向こうになる。

 回り込むのは遠回りだったし、この崖の上には気晴らしによく訪れるので、知らない場所ではない。俺は膝を曲げ、崖に飛び移り、駆け上がった。低重力の月面ならではだ。

 最後に木の枝を蹴って体を回転させ、崖上の道に出ると、正面にはトンネルがある。まだ都市が建設中だったころの遺物らしく、今となるとなぜこんな崖上にトンネルがあるのかわからない。道そのものは今も使われているが、下からはかなりの高低差があるので、滅多に人は通らない。

 俺はその道からさらに跳躍して、トンネルの上に着地する。

 ここは月面都市の大部分を見渡すことができる、特等席だった。

 鞄からビーフジャーキーを取り出し、口に咥えた。地球から来た連中に言わせると似ても似つかないものらしいが、俺の知っているビーフジャーキーとはこれのことだ。

 月面都市、といっても本当は月の上にいくつかあり、俺が見渡しているのはその中でも最初に作られた都市で、自分が生まれた街でもある。

 人口は約七十万ほどで、観光客やら諸々を入れると常時百万人ほどになるらしい。

 都市の中心部はとんがった高層ビルがにょきにょき生えていて、ニュートンシティと呼ばれている。入場規制があるわけではないが、巨大な企業ビルばかりだし、ショッピングモールや公園といった公共の場所でも、警官の数や町の秩序規制が半端ないので、選ばれた人間しか行けない特別区のような感じになっている。月面の富のほとんどがそのニュートンシティで生産され、総資産が百億ムールを超えるような世界的な大富豪がごろごろいる。

 彼らほどの財産があれば、個人的な町をこの月面に建設することも可能だと言われている。金とは世の中のほとんどの欲望を実現させるものである。

 世の中、金なのだ。

 水面に液体が落下した瞬間を写真に撮ったように、超高層ビル群が建ち並ぶニュートンシティのその周りは、突然建物の階層が低くなっている。ニュートンシティに勤める中流の連中が生活している場所で、ホワイトベルトなんて呼ばれている。プライドと上昇志向の塊のくせに、調和を大切にする気品も忘れませんよ、といったような連中が住む場所だ。

 行くと、綺麗に手入れされた小さな庭を備えた白亜の建物が建ち並び、無菌室のような気がして吐き気がしてくる。道端にはごみ一つだって落ちていない。

 そして、そんなホワイトベルトの周りはまた建物の階層が高くなるのだが、ここからはごちゃごちゃとしていてまとまりがない。伝導効率の悪そうな電線がだらしなくぶら下がっていたり、下品なネオンが光っていたりと、猥雑な雰囲気がある。

 外区と呼ばれる場所で、一応一から八まで数字で区別されているがあまり意味はない。

 ニュートンシティを中心として、外区の北側には工場などが多い。酸化ケイ素分解工場や、肥料の合成工場やオートメーション化されたプランテーションなどがある。東側には俺の故郷もある。

 この月面にはどう考えても相応しくない、頑固な連中が住んでいることで悪名高い地区だ。

 職人なんて呼ばれる太古の存在が群れをなしているのがそこで、小さな工房が無数にあったりする。あらゆる効率を限界まで追求した月面都市で、手作業にこだわる連中が多い。なんとなれば、木材や食料を人力で生産したりもする。

 当然費用は馬鹿高くなる上、仕上がりは不均一になるが、一応顧客もついているらしい。

 俺は、それらのなにがいいのかまったくわからない。

 非効率なことが好きなら、そもそもなんで月に来たのだ? と疑問に思うからだ。

 ここはそういう場所ではない。

 月とは、あのニュートンシティに建ち並ぶ無機質なビルの天辺を目指す場所のはずなのだ。

 とはいえ、何事も計画通りにはいかないものなのかもしれない。視線を都市の中心部から西にずらすと、そんな競争から落伍した連中が巣くう一画がある。

 建物が錆びても誰もペンキを塗り替えたりしないので、ついたあだながレッドバレーだ。

 俺は手作り家具の思想は大嫌いだが、猥雑なレッドバレーは好きだった。

 住んでいる連中も競争の落伍者と言えばそうだが、いい加減だから気が楽だ。

 中にはニュートンシティでばりばりやっていたのに、そのだらだらとした雰囲気に毒されて住み着いてしまった者たちも多いと聞く。蟻の群れも必ず二割の蟻は働かないらしいから、いかに月といえどそういう場所は必要悪なのかもしれない。

 もちろん、俺はその二割になるつもりなど毛頭ないのだが。

 それで、今俺がいるこの辺りが、レッドバレーほど退廃的でもないが、東のほうほど生産的でもない、といった第六外区だった。未だに通称がない辺りに、中途半端さがにじみ出ている。

 どの建物も汚いしぼろいが、ニュートンシティを目指す小さな会社がちらほらあったり、まあまあの家もちょこちょこあって、居心地はそれほど悪くない。

 メモの示す住所は、この崖から降りて、少し行った先らしい。

 俺は立ち上がって、トンネルの上から崖下に向かい、ひょいと飛び降りた。

 第六外区はいい意味でも悪い意味でも平和そのもので、軒先に縁台を出し、ビールや茶を飲みながら化石みたいな無電源の盤上ゲームにいそしむ奴らがいたり、露店を出して商売に精を出している奴らがいる。

 月面の町はどこも重層的で、とにかく見通しが悪いので、慣れない場所は方向感覚をすぐに失う。俺はそのたびに、水面から顔を出す亀かなにかのように建物の屋上に出て、また路地に潜った。

 ちなみに月面は環境維持のために、あっちこっちに水路が張り巡らされているので、水生生物は割と豊富だ。地球野郎の中には、生粋の月生まれは試験管の中の出来事しか知らないと思い込んでいる奴もいるので、魚の存在を知っているだけで驚かれることがある。

 馬鹿にするなと思うが、俺は地球では当たり前のことをほとんど知らずに生きている、という自覚もある。

 それがコンプレックスになって、学校なんかでは地球移民と月生まれが取っ組み合いの喧嘩になっているらしいが、さもありなんと思う。

 なにせ、地球の常識というのは、月生まれからすると、本当に突飛なものなのだ。

 だから、あの店員から受け取ったメモに従ってその住所にたどり着いた時、俺は文字通り、立ち尽くしていた。

「……ここ?」

 そして、思わずつぶやいてしまう。

 そこにあったのは、科学の粋を凝らして軌道エレベーターを建設し、不屈の闘志と、人類はなんでもできるという万能感に支えられ、実際に人が住むようになってからはこの宇宙で最も成功を掴みやすい黄金の都市、というイメージによって繁栄し続ける月面都市には、あまりにもふさわしくない建物だった。

 いや、もしかしたら、そういう場所にこそふさわしいのか?

 錯乱してそんなことを思ってしまうくらい、俺の目の前にある建物は、とんでもなく地球的な代物だった。

 そこは、教会だったのだ。

「……でも、ここ、だよな」

 入り口の扉は半開きになっていて、こういう低所得者層が集まる場所にふさわしく、現物の張り紙がしてある。

 ご自由にお入りください。

 俺は、古びた木製の扉に手をかける。月面都市は建造されてから十六年しか経っていない。ここには歴史なんてものはなにもない。金ぴかで、軽薄で、重力は六分の一で、時間の流れはその更に六倍と冗談めかしていわれている。

 なのに、俺はその扉の重さに、質量とは異なる、時間の重さを感じていた。

 古い地球の映画を観ているような気分になる扉が、ぎいい、と軋みながら開いていく。

 その向こうには、やはり映画でしか観たことがない、なにをしてそんな罰を受けているのかよくわからない磔の男。それと。

「……」

 真っ黒な、天使がいた。

 いや、黒髪の少女だとすぐに気が付いたが、華奢ですらりとした体がまるで彫像のようで、非現実な感じがしたのだ。

 教会には長椅子が磔像に向かってずらりと並べられていて、像の下は一段高くなり、演台もある。多分、そこから教会の人間がありがたいお言葉を託すのだろうが、黒髪の少女はその演台の手前で端末の画面を睨みこみ、思索にふける教授のごとく、真剣な顔で何事かを考え込んでいた。

 見れば服装も思いつめたような黒尽くめで、あまりに真剣な様子に、見ている側の息が詰まるほど。その真剣な横顔に、俺は息をするのも忘れて見惚れてしまっていた。

 だから、後ろ手に閉じた扉が突然激しくノックされた瞬間、俺は比喩ではなく、数十センチ飛び上がっていた。

「すみませーん!」

 そして、こう続く。

「警察です! どなたかいませんか!」

 息が止まった。まさかここに来るまでに、誰かに通報されていたのか? なんにせよ、ここにいるのはまずい。

 玉突きのように思考が進み、俺は辺りを見回して窓に飛びついた。

 しかし、立て付けの悪い窓はなかなか開かない。それに、今にも入り口からこっちに回って警官が中の様子を覗きに来そうだった。

 あたふたと周辺を見回すと、視線が一点に吸い寄せられた。

 演台の手前で思索にふけっていた少女もまた、顔を上げていて、俺と目が合った。

 孤高の猫を思わせる、あまりにも綺麗な黒い瞳だった。

「警察です! もしもーし!」

 俺と少女の邂逅は、その一言に吹き飛ばされる。

 それに、少女も相変わらずの気難しそうな顔だが、明らかに慌てていた。こんな時間にこんなところにいるのだから、まともに学校に通っていない、ある種お仲間なのだろう。

 俺は警官がノックする扉と、少女とを見比べ、視線が第三の場所に向けられた。

 磔像の下の演台だ。

 一段高くなっている舞台に足を乗せ、わずかに躊躇ってから戸惑ったままの少女の二の腕を掴む。細い腕で、思い切り力を入れたら折れてしまいそうだった。

 少女は驚きに目を見開くが、乙女のように悲鳴はあげなかった。

「な、にを」

 代わりの詰問調の声は、気の強さをうかがわせる。俺はそれ以上言わせず、少女を無理やり演台の下に引っ張り込んだ。状況に頭が追い付いていない感じの少女は、狭い演台の下で俺と目が合って、ようやく事態を把握できたらしい。直後に、両腕で思い切り俺のことを突き放してきた。

 手にしていた端末の角が頬に当たり、かなり痛い。

「お、おい、警官にばれる……」

 俺が押し殺した声で言うと、少女の動きは止まったものの、嫌悪感丸出しの目で俺のことを睨みつけていた。

「おい、こっちにインターホンがあるぞ。お前、そのせっかちな性格なんとかしろよ」

「早く出世したいんですよ!」

 扉の向こうからそんなやり取りが聞こえ、ほどなく、カンコーン、と遠くで音がした。

 どうやら、この聖堂部分の隣が人が住む母屋になっているらしい。

 しばらくすると、聖堂の真ん中あたりにある、母屋とつながっているらしい扉の開く音がした。そっと顔を覗かせると、背の高い女が見えた。

「はーい、お待たせしましたー」

 ぱたぱたと扉に向かって駆け寄り開けた女の声が聞こえた直後、少女が再び体を動かそうとしたので、必死に抱きとめた。

 直後、女の子らしい柔らかさと甘い匂いに、危うく腕を解きそうになる。

「お忙しいところすみませんね。地域課の者ですが」

「危ないお仕事に、神の御加護を?」

 女は意外に茶目っ気があるらしい。

「はは、幸い治安はいいもので。いえ、でもその治安を乱す輩がいるので、その聞き込みに」

 地球の映画で観ると、こういう底辺の場所では警官は居丈高で、住民は敵意剥き出しで対応するものだが、実に和やかだ。

 ただ、その内容は、俺にとって穏やかではなかった。

「実はすぐ隣の第七外区で、窃盗やら無銭飲食を繰り返してる奴がいましてね。どうもこっちのほうに逃げて来てるんじゃないかと」

「あらあら」

「年齢は十代半ばの、東洋人系で、黒髪黒目の少年です。多分、家出をして金もなくなりってことなんでしょうが、観光客に強盗でも働いたら大問題ですから、早くとっ捕まえろと上がうるさくて」

 やっぱり、何度聞いても俺のことを指しているとしか思えない。

 羽交い締めにしていた少女が動きを止め、驚きとも嫌悪とも怒りとも違う、茫然とした目を俺に向けてくる。

 俺は、必死に演台の下で首を横に振る。

「それに、つい先ほど通報がありまして、そんな風体の少年がこの辺をうろついていたと」

 勘弁してくれ、と危うく演台の下で声をあげそうになった。

「もしかしたら、この辺に逃げ込んだのではないかと思いまして」

「ここ、昼間は自由に出入り可能ですよね?」

 二人の警官が、明らかに訝しんでいる。

 気配で、応対に出た女が中を振り向いたのもわかった。

「ええ……そうですが、まさか……」

「ちょっと、中を見せてもらっても?」

「万が一忍び込んでいたら、あなたにも危険がありますから」

 もちろん、善良な市民の答えは決まっている。

「そうしていただけると、私も安心です」

 そして、警官たちが入ってくる。

 しかし、その足取りは慎重で、手には警棒を持っているらしく、かん、こん、と椅子の背を叩く音がする。

 聖堂は広い場所ではない。

 俺たちのもとにどんどん警官が近づいてくる。演台の下を覗きこまれたら一発でアウトだ。

 あるいは、不意を衝いて飛び出し、全力で走るか? きっと振り切れる。振り切れるはずだ。

 こんなところで捕まって実家に送り返されたら、株式投資を悪魔の所業かなにかだと思い込んでいる肉体労働者の親父は、間違いなく俺から夢への切符を取り上げる。

 それでつまらない学校に送り込まれ、卒業後は似たような儲からない仕事に就かされるのだ。

 一歩一歩着実に、なんて二言目には言いやがるが、それでたどり着ける場所などたかが知れている。

 そんな人生、死んだも同然だ!

 やってやる、と俺は息を深く吸う。場合によってはこの少女を囮にし、警官を殴り倒してでも……。

 ぎし、ぎし、と近づく足音に、俺は飛び出すタイミングをうかがっていた。

 あと二歩で出る。

 その、瞬間だった。

「あ、すみません。ここから先は、神聖な祭壇なので……」

「おっと」

 女の申し出に、足音が止まった。

「失礼。そういうことに疎くて」

「いいえ。地球でも最近は流行りませんからね」

 女の悪戯っぽい自虐に、警官二人は笑っていた。

「まあ、特に問題なさそうですが……」

 と、警官は鼻を鳴らした。

「ここの教会は、なにか、ペットを?」

「え? ああ……もしかしたら、朝の礼拝に、飼い犬を連れてらした方がいましたので、それかもしれません」

「ああ、なるほど。いや、懐かしい匂いだと思いまして。地球にいた頃は大きな犬を飼っていたんですが、ここにはとても連れてこれませんからね。飼い犬とは羨ましい」

「そうですね。私も会うのが毎回楽しみで」

 和やかな会話と共に足音が遠のき、警官は挨拶をして、立ち去った。

 俺は演台の下で、助かった……と安堵のため息をつく。あとは、女が母屋に戻ったらこっそり出て行けばいい。

 と、その直後だ。

 少女がぱっと演台の下から飛び出した。

 馬鹿野郎、と思ったのも束の間、少女が言った。

「リサ」

 どうやら、少女はここの人間だったらしい。

「あら、そんなところにいたの? こっちで考え事するのやめなさいって言ってるでしょ。人目について危ないわよ」

「……わかった」

 どこか不承不承な物言いで、それだけで黒尽くめの少女の性格が窺える。

 と、同時に、こんな言葉が届いた。

「で、もう一人は?」

 は?

「出てらっしゃい。いるんでしょ?」

 俺は身動きできなかった。どうして?

 少女が端末にメモ書きでもして、無言のうちに女に知らせたのだろうか。ただ、頭のよさそうな少女ではあったが、そういう小細工ができそうな感じにも見えなかった。

 俺は、深呼吸をして、体に酸素を蓄える。

 窓硝子は鞄で叩き割れば、すぐに外に出られる。あとはがむしゃらに走り、しばらくしたら、硝子の修理代を放り込んでおけばいい。

 よし。それでいく。

 足の位置を変え、前傾姿勢になった、その直後だ。

「大丈夫。通報なんかしないから。それとも、出てこられないような悪事を働いたのかしら? だったら通報するしかないけど?」

 大昔、保育園で叱られた時の記憶がよみがえるような言い方だった。

 それに、俺はここに至ってようやく、宿を探しにこの場所に来たことを思いだす。どう考えても、誤解を解くほうが優先だ。俺は大きく息を吸うと、ゆっくりと吐いて、言った。

「わ、わかった」

 そして、のそのそと出る前に、断りを入れる。

「けど、見ても喚くなよ。俺は警官の言ってる犯人じゃない」

「ふうん?」

 立ち上がると、聖堂の真ん中に立っていたのは、二十歳くらいの髪が短い女だった。

 その隣にはさっきの黒髪の少女がいるが、頭一つ分は優に高い。

 黒尽くめの少女は、俺を見ると嫌悪の表情で一歩後ずさる。

「俺も迷惑してるんだ。信じてくれ」

 短く言うと、女はにこりと笑う。

「あなたがそう言うなら、そうなんでしょうね」

「本当だって!」

 思わず声を荒らげてしまったが、女は穏やかに笑ったままだ。

「冗談よ。教会では、信じることが仕事だからね」

「……」

 というか、あのアフロの店員から連絡がいっているはずだ、ということをようやく思い出す。

 だから、緊張することなんてなかった、と自分の間抜けさにため息をついた。

 それにしても、わざわざビビらせるような真似をするなんて嫌な女だ、と思ったところに、母屋のほうから電子音がした。

「あら、電話。ちょっと待ってて」

 と、聖堂から母屋に向かおうとして、女がふと立ち止まった。その時、一緒について行こうとしていた黒尽くめの少女が、立ち止まった女に顔からぶつかっていた。

「外に出ていっちゃだめよ。まだ警官がうろうろしてるだろうしね」

 女は俺の返事も待たず、黒尽くめの少女の手を引いて母屋のほうに向かい、しばらくして、戻ってきた。

 そして、こんなことを言う。

「ねえ、セローからの紹介の子ってあなた?」

「……え?」

「今電話があって、犯罪者そっくりの奴が行くから数日間よろしくって」

 セローとは、どうやらあの店員の名前らしいが、楽しげにそんなことを言っている女を、俺は茫然と見つめていた。今の電話でそのことを聞いたのか? だとしたら、俺は明らかに警官の話していた犯罪者と特徴が同じだったのに、こいつは欠片も疑わなかったことになる。

 しかも、警官とのやり取りを思い返せば明らかだ。あの時、黒尽くめの少女がいることに気が付いていなかったのなら、演台付近は神聖な場所だからと警官を止めたのは、間違いなく、俺のことを守るためだった。

 信じがたいほどのお人好し?

 あのセローとかいうアフロの話では、確かにそういう感じが窺えた。

 俺は助けてもらっていながら、こう言わざるを得ない。

「な、なんでだ? どうして、助けて、くれんだよ」

「うん?」

 女は軽く小首を傾げ、笑った。

「ここは教会よ。すべての者に救いあれ」

 月面は狂った世界だが、そこでもなお突拍子のない奴がいるものだ。

「セローからの紹介ってことは、あそこで寝起きしてる子ってことか。なるほどね」

 女は一人で呟き、くすくすと笑ってから、言った。

「あんな所じゃ気も休まらないでしょ。とりあえずシャワーでも浴びて来なさいな」

「あ、え……」

 あまりの屈託のなさに、逆にこっちが気後れしてしまう。

 なにより、まさか本当に匿ってもらえるなんて、未だに信じられない。

 そんなうまい話が、あっていいものなのか?

「あら、人からの厚意が珍しいって顔ね」

 目を細め、意地悪い笑顔も様になっている。

 大人の女だ、と思った。

「大丈夫よ。セローもあれで人を見る目があるし、昔、あいつが路頭に迷っているのを助けたのも私なの」

 そんなことを言っていた気がする。

「何日でもいてちょうだい。ただ」

 と、女は言葉を止めてから、微笑む。

「仲良くしてね」

「は? お前と?」

 俺はなんの考えもなしに聞き返し、女が笑ったまま少し怒ったのがわかった。

「私には、リサという名前があるの。それでなくても、人をお前呼ばわりは感心できないわ」

 相当の巨漢相手でも月面なら喧嘩に負けない自信のある俺が、女の妙な迫力にたじろいでしまう。

「い、いや、えっと、そうじゃなくって」

「もう面識あるでしょ? まさか二人して演台の下にいるとは思わなかったけど……その子とね」

 そして、女は母屋に続く扉のほうを振り向いた。

 そこには、さっきの黒尽くめの少女が、警戒感丸出しでこちらのことを睨みつけている。

 あるいは状況が状況とはいえ、演台の下に連れ込んだのがまずかったのかもしれない。

 なにより、あの時、随分な顔つきで俺のことを突き放そうとしていた。

「どう?」

 しかし、どうもこうもない。俺は他に行く場所なんてないので、いくらだって我慢ができる。

 それにシャワーという単語に猛烈に惹かれていた。

 あのカフェにそんな上等なものはないので、体は濡れタオルで拭く程度だったのだ。

「する。仲良くする。もちろん」

「ふふ。よろしくね」

 と、女は母屋のほうを振り向き、言った。

「ほら、ハガナも挨拶しなさい」

 じっとこちらを睨みつけていた少女が、リサのほうを見る。黒髪、黒目で、服装はかっちりした学校の制服のような黒尽くめで、ストッキングも黒なら靴も黒だ。

 唇は頑固そうに引き結ばれ、目つきは徹夜三日目みたいにきつい。その人形のように整った顔立ちで眉根に皺を寄せると、実にはっきりと拒絶の意志が見て取れる。

 しかも、ハガナは嫌そうに鼻を手で押さえている。まるっきり、嫌みなお姫様だ。

「本当に人なの? 野良犬ではなくて?」

「ん、な」

 本物の姫並みの暴言に、俺のほうが言葉を失ってしまう。

「ハガナ、人を犬呼ばわりしちゃダメ」

 リサが呆れ気味に注意するが、ハガナはすぐに返事をしない。俺のことを蔑むようにたっぷり睨みつけてから、ようやくリサを見た。

「リサ、やっぱりこいつが怪しい」

「ハガナ」

 リサが呆れて注意するが、ハガナはリサを見上げて一言言った。

「だって、こんなに臭い」

「え」

 呆気にとられた俺の横で、リサがため息をついていた。

「もー。ハガナ、女の子でしょ。デリカシーってものを身につけなさい」

「でも」

 と、ハガナは言って、俺を見た。

「事実として、臭すぎる」

 俺は慌てて自分の体を嗅いで回る。自分では、臭いかどうかよくわからない。

 しかし、そこでようやく、どうしてリサが演台の下に隠れた俺に気が付き、警官がペットの話をしたのか理解した。

 犬。

 演台の下でハガナが思い切り俺のことを突き放そうとしたのも、合点がいった。

 そういうことか……。

「ちょっと臭うのは確かだけど……警察が追いかけてるのは別の子よ」

「どうしてそう言えるの」

 ハガナは責めるような目をリサに向ける。

「年齢は十代半ばの、東洋人系で、黒髪黒目の少年」

 ハガナは、警官の言った特徴を繰り返す。

「こいつじゃない」

「違えよ!」

 たまらず俺が言い返すと、顎を引いたハガナは、威嚇するように睨みつけてくる。

 俺が犬なら、こいつは気難し屋の猫だ。

「ハガナ、違うのよ。私の知り合いがね、犯人が無銭飲食をしている時間にこの子の姿を見てるの。つまり、アリバイがあるってわけ」

「……」

 俺はカフェにこもりっきりで株取引をしていた。出入り口は一つで、あのアフロが見張っている。引きこもりも、たまには役に立つものだ。

「そ、そうだ。大体、俺は無銭飲食みたいなことはしねえ」

 逃げ回っているのは、ろくな計画性もなく家を飛び出して、他人に迷惑をかけている馬鹿野郎だ。俺はそんな奴らとは違う。夢があり、計画があり、目的と手段をはっきりさせて、家から出ざるを得なかったからそうしているだけだ。

「ふん」

 しかし、ハガナは鼻を鳴らし、高慢ちきな態度のまま、目を逸らす。

 ぎりぎりと歯噛みしたい思いに駆られたが、ここで喧嘩でもすればシャワーも寝床も失ってしまう。俺は必死に思いとどまった。

「ま、そういうわけで、これから一緒にここで暮らすことになったの」

「え」

 ハガナが驚き、リサを見あげた。

「なあに? ハガナと同じよ。彼も困っているから、寝床を貸す。なにか問題がある?」

 リサは笑顔のままだが、どこか迫力を感じさせる様子で、そう言った。

 おそろしく性格の悪そうなハガナが、首をすくめて、身を引いている。

「で、でも……」

「でも?」

 リサの再度の問いかけに、ハガナはちらりと俺を見て、リサを見た。

「すごく……臭い」

 ハガナみたいな奴でも、女の子は女の子だ。はっきり臭いと言われると、ものすごく傷つく。

 自分でも驚くくらいのダメージに胸を押さえていると、リサが大きなため息をついていた。

「はあ。それは理由になりません。ほら、あなたもいちいち傷ついてないで」

「き、傷ついてなんかねえよ!」

 言い返すが、むきになっている時点でばればれだ、と自分でも思う。

「シャワーを浴びればいい男に元通りよ。洗濯もしてあげるから」

 リサは細かいことにこだわらないような口調で、さっぱりとそんなことを言う。

 一方で、相変わらず鼻を押さえたままのハガナは、俺のことを睨んでいる。

 そして、訝しむように言った。

「本当に、犬じゃないの?」

「ハガナ!」

 リサにたしなめられたハガナは、眉を顰めてから、踵を返して母屋の奥に引っ込んだ。

 俺はその後ろ姿を見送りつつ、三日の辛抱だ、と自分に言い聞かせたのだった。



 実家を出て以来のまともな風呂に、危うく泣き出すところだった。

 両親が共に日本からの移民なので、うちでは概ね毎日湯船に入る習慣があった。あの両親がする贅沢といえば唯一それくらいだったということもある。

 月面都市のいたるところで水の循環が見て取れるが、だからといって水が安い、というわけでは決してない。月面では、あらゆる物質が人の手を経て循環しているので、酸素ですら無料ではない。

 ここは完全に人工的な都市であり、砂漠に噴水がある都市で有名なラスベガスやドバイの比ではない。俺はその二つのどちらも自分の目で見たことはないが、映像でなら見たことがある。

 ああ、地球人は馬鹿なのだな、と端的にそう思ったので、月面都市という存在の狂気具合をその時に初めて理解した。

「さっぱりした?」

 脱衣所から出ると、ソファーに腰掛けていたリサが、テーブルの上のコップに水を注いでくれた。

 脱衣所はすぐに広めの居間とつながっている。絶対にどこかから拾ってきた古ぼけたソファーセットにローテーブルは、隅っこを何度も繕ったあとがあるカーペットの上に置かれているが、テーブルの上には花の活けてある花瓶もあって、みすぼらしさを感じさせないようになっている。居間にテレビはないが、パソコンならある。ローテーブルの上にも、リサが今しがたまで使っていたらしい多目的端末が置かれている。

 驚いたのは、その隣に分厚い書物があったことだ。

 場所と資源に限りがある月では、本の実物を見ることは滅多にない。

 俺は比較的最近まで、本というのはアプリケーションソフトのインターフェース規格のことだと思っていた。まさか、画面の中のああいう形の物が現実に存在しているなどとは思わない。

 こういうところから、地球移民は月育ちを馬鹿にしてくるのだが、こっちからすれば、未だに馬鹿みたいに非効率な本を利用する地球人のほうが、頭がおかしいと思う。

「現物の本が珍しい?」

 聞かれ、俺は我に返った。

 リサは再び多目的端末を手にしている。多分、「本」を読んでいたのだろう。

「……まあ……」

 知らないことは知らないのだ、と開き直るにしても、自分が世間知らずのように扱われることは腹立たしい。

 だからもごもごと口ごもるように答えたのだが、リサは馬鹿にすることはなかった。

「場所を取るものね。すぐに汚れるから保存にも気を遣うし、なにより内容の検索もできないし、電子版のほうが百倍マシ。でも、もしかして、あなた月生まれ?」

 気を遣われている、とすぐにわかった。地球からの移民と月育ちの子供が、どういうことで喧嘩をするのか心得ている、ベテランの保育士みたいだ。

「月生まれだよ……で、それは?」

 俺は、テーブルの上のぼろぼろの分厚い本を指差して尋ねた。

 背表紙には金色の文字でアルファベットらしき物が書かれているが、読み取れない。

 B…I…b? ……L……。

「これは、私にとって世界一大事な本。地球から持ってきたのよ。生まれたときから一緒だったジュリーとは別れられても……飼い犬のことなんだけどね、この本だけは置いてくるわけにはいかなかった」

 リサは携帯端末を脇において、ぼろぼろの本の表紙を丹念に撫でる。

 俺はそれを見て、まだ俺が小さくて無邪気だった頃、仕事でがさがさになった両親の手を撫でていたことを思い出した。

「……いつ、地球から?」

「十一歳の頃に住んでた土地を追い出されてね。両親は一大決心して月移民に応募したの。お金なんてなかったからものすごい倍率の一般枠だったけど、まあ、職業が特殊だったから、当時まだあったノア制度の優遇枠に入れたのよ」

「ノア、制度?」

「ああ、文化多様性保護制度とかいうやつの通称……ってそうか、馴染みがなければ知らないよね。ノアの箱舟という話があるの。悪くなってしまった世界が大洪水で滅亡する時に、船には善良な人と動物の番が一組ずつ乗せられていて、洪水が去った後の新天地で再び善き世界を築くという伝説というか言い伝えというか、教えというか、まあそんなもの。うちは両親が共に神学者だったからね。そういう変わり種も月に必要だと判断されたんでしょうね」

 神学者、という単語も初めて聞く。

 リサは手元の端末を使って辞書を引いてくれた。

 神の教えについての学問をする人間らしい。

 そんな役に立たないことに人生を捧げている奴らが月にいるとは、正直驚きだった。

「で、この本はそんな家庭に育った私の魂ね。執筆されたのは章によって幅があるけどおおむね二千年くらい昔のこと。地球上で最も売れた本よ」

「へえ……そんなに面白いのか?」

 投資とは、なんにせよ人気のあることへの投票と同じだ。俺が少し興味を持って本を見ると、リサは笑い出した。

「はは。ああ、いえ、ごめんなさい。面白いかどうかといわれたら、私はそれなりに面白いと思うけど、そういう本ではないの」

「ん、あ?」

「これは、聖書と言ってね、あっちの聖堂で見たでしょう? 磔になっていた人の弟子たちがまとめた書物」

 聖書という単語は知っていた。なるほど、これがそうなのか。

「言うなれば、宗教的な教えの書ね。推定で十億冊以上売れたらしいけど」

「……十億、冊?」

 瞬時に想像できない。

「地球だとどこにでもあるからね。世界中の言葉に翻訳されているし」

「てことは、地球の奴らは皆読んだことがあるのか」

 たちまち、テーブルの上のぼろぼろの書物が、ファンタジー映画に出てくる伝説の書物に見えてくる。

「だといいんだけどね」

 リサの言葉に、俺は「?」となってしまう。

「地球の人口は約九十億人。そのうち七十万人が月に住める時代になっても、三分の一近くの人が文字を読めないし、全体の三分の二の人はおちおち本を読んでいられる環境にない。残りの恵まれた三分の一の人たちはほかに楽しみがいくらでもあるからね。今時聖書を読む人なんて、クリスチャンでも少ない。私が通ってた教会でも、福音書が四つあることを知っている人は少なかったし、四人の著者の名前を言える人はもっと少なかった。これがどれほど嘆かわしいことか……きっとわかってくれないでしょうね」

「……悪いけど、全然、わからん」

「まあ、いいのよ。私もこの廃れた教会を守るので精一杯だしね。それでも道が交われば知は受け継がれる。知恵という意味のトリビアの語源はトリビアル。つまり三叉の交差点で人が行き交う場所のこと。迷い人ばかり交差するのは考えものだと思うけど……これも私に羊飼いの自覚を持てというお告げなのかもしれないわ」

 羊飼い? サイレンと電流柵に追い立てられる羊なら、投資先の会社を調べる過程で見たことがあるが、あの工場の管理者となんの繋がりが?

 俺がぽかんとしていると、リサは疲れたように笑って、言った。

「ごめんね。もののたとえ。私も本物の羊飼いは見たことがないわ」

 月育ちだから知らない、というわけではないらしい。

 俺はひとまずそのことに、ほっとした。

「私は概ねそういう人間。月まで来て妙なことをしていると思われそうだけど」

「ああ、そう思うね」

 この建物にたどり着いた時は、幻覚でも見たのかと思った。

 はっきり言うと、リサはくすくすと笑う。

「では、今度は君のことを聞いていいかな」

 警官から助けてもらい、風呂まで借りた。ここまでされたら、多少は譲歩するのが礼儀かもしれない。それに、リサが変な正義感から俺のことを警官に通報するとは、もう思えない。

「東の外区……第三外区だな。そこの開拓村って呼ばれるところから来た」

「へえ、緑が多くていい場所よね」

「……下から来る奴らは皆そう言うな。原始的なだけじゃねえか」

「はは。月に来るような人たちは皆、地球にいた頃から都市部に住んでいるからね。緑が懐かしいのよ」

 俺は頷きかけたものの、意味が通らないような気がした。

「地球の都市は、緑が多いのか?」

「んっと……言葉の並べ方がまずかったわね。地球でも都市部は緑なんてないけど、人はどういうわけか『太古の自然』みたいな物に惹かれるの。本能なのかもね。そうじゃない?」

 俺は聞かれ、否定しようとしたが、やめておいた。

「とにかく、俺はそこの家から出てきた」

「ふうん」

 リサはしばらく俺の答えを咀嚼するように目を閉じ、間を開けた。

「名前を聞いても?」

 綺麗なアーモンド形の瞳には、曇りが一切ない。けれど、宇宙空間のように冷たく寂しい空虚さではなく、澄んだ水のような柔らかさがあった。

 この月面では、すべての人間と、ほとんどの物資にIDが振られている。本名がわかれば、役所のデータベースで検索されて、いつでも身元を特定できるようになっている。

 家出中の身として、本名は極秘事項だ。俺は、実家に帰るつもりなど毛頭ない。

「警戒しないでもいいわよ。それに、本名じゃなくてもいい。呼ぶのに不便だからね。さっきのあの子、ハガナだってきっと本名じゃないもの」

 確かに、変な名前だった。

「心を開いてくれないわけじゃないけど……野生動物みたいに用心深いところがあるから。まあ、その点で言えば、あなたもそこそこいい勝負だと思うけど」

 野生動物、というところに含みを感じ、そんなに臭かったか? と、さすがにへこむ。

「けど、珍しいわね。月生まれで、そんなに目をぎらつかせてるなんて」

 リサの眼差しに、俺はなにか言い知れぬ卑屈さを感じた。

 生粋の月育ちなんて、未だに一万人いるかいないかだと思う。ニュートンシティで働く奴らはそもそも子供を作らないのが多いことの結果だともいわれている。

 この都市では、未だに地球からの移民が圧倒的多数で、ほとんどの連中が早くても十歳頃になって、ようやく軌道エレベーターに乗ってやってくる。低重力では体の発達に害を及ぼすと地球では信じられていて、そのせいで月生まれは脳みそまで軽い、と揶揄されるのが常だ。

「だったら、なんだよ」

 ふてくされたように棘を含めると、リサはちょっと驚いてから、困ったように笑った。

「あ、ごめんなさい。悪い意味で言ったつもりじゃないの。ただ……月には、まだ戦争も飢饉もないから」

「……」

 地球の大部分では、生きるために必要な水すら満足に手に入れられず、乳幼児の半分以上が死ぬ国がある。月面には、そういうところからの、文字通り起死回生を懸けた移民も多い。

 月は地球人にとっての理想郷であり、月野郎は理想郷生まれの無菌育ちということになる。

 俺たちには、大きな負い目がある。

「でも、月にも色々な人がいて当然よね。まさしくトリビアルだわ。道は交差し、人々は知恵を交換する」

 リサは言いながら、笑っている。あのハガナとかいう黒尽くめの少女も風変わりなら、俺のことを助けた上に匿ってくれたリサも相当変わり者のようだった。

 なにせ、この時代、月にいるくせに宗教にはまり、現物の本などというものを後生大事に抱えている。はっきり言って、世間的には落伍者の部類ではないかと思う。

 ただ、俺は、月面都市という競争都市でそもそも競争にすら参加していない様子のリサに、どういうわけか好意的な印象を抱いていた。

 確かに前に進んではいないが、退廃的な感じでもない。リサは、この低重力の環境でも、しっかりと地に足をつけてたたずんでいる人間に見えたのだ。

 そして、たたずみながらそのことを楽しんでいるふうに見えた。

 こういう人間もいるのかと、俺は少し感心した。

 粗野で荒っぽく、その癖、言うことだけは高尚な実家の村と、退廃的でどうしようもない外区の人間と、この低い重力を利用して空高く飛び上がろうとしているニュートンシティの住民と、三種類の人間だけが月にいるのだと思っていた。

 俺は、楽しそうに一人笑っているリサを見て、思った。

 こいつは、信用できる気がした。

 そう思ったら、不意に口をついて出ていた。

「川浦、ヨシハル」

「ん、え?」

 リサは驚いたが、俺も驚いた。

 なぜか突然、リサには名前を知っておいてもらいたくなったのだ。

 それに、今更誤魔化すのも変だった。

「川浦、ヨシハル」

「あ、名前?」

「本名だから、通報すればすぐ実家に連絡が行く」

 俺がぶっきらぼうに言うと、リサはしばらく俺のことを見て、それから、滲み出すような笑顔になった。

「そう。わかったわ。でも、ハルでいいよね?」

「……?」

「下の名前だけで呼んだとしても、かなり特定されるでしょう? 日本移民の子だとばればれだもの。ハル、だけだったら、そうでもない」

 信用しておいてなんだが、信用できすぎる、というのも妙な気分だった。

 俺としてはありがたいが、三ヶ月以上の放浪生活からか、疑うことが癖になっている。

 そのことに気がついたのか、リサはこう言った。

「ふふ。地球なら、主の御心のままにって言って微笑めば、皆大概納得してくれるんだけど」

「……意味わかんねえ」

「そうよね。ここは月だもの。でも、たまに修道服が着たくなるわ……」

 と、リサは楽しそうに言う。修道服ってなんのことだ? と思うが、後で検索しておこうと頭に留め置いた。

「ただ、悔しいことに似合うのはハガナのほうなのよね。私だと髪の色が明るすぎるみたい」

 リサはひとりごとのように言って、茶色い髪の毛を指で梳く。

 ハガナほどではないが、綺麗でまっすぐなよい髪だと思う。村にいた頃は、誰も彼もが金髪女を最上位においていたが、俺はどちらかというと色が濃いほうがいい。はっきりと、そこにいる、という感じがするのだ。

 その点、あのハガナは綺麗な黒髪で、実に好みだったのだが、あまりに性格に難がある。

 そう思っていたら、リサが言った。

「というか、あの子なにしてるのかな。あれで人見知りなのよね……」

「意外でもなんでもないだろ」

「え? そう?」

 もしかして人を見る目がないのではないか、と俺は疑問の眼差しを向ける。

「根っから悪い人なんていないわよ」

 やはり、そもそもの基準がおかしいらしい。

 とはいえ、そのおかげで俺は数日間の寝床を得られたのだ。感謝しなければなるまい。

「あ、そうそう。部屋が空いてるから案内するわ」

 リサが立ち上がるので、俺は荷物を持って後に続く。

 居間から奥に向かうと、左手にキッチンがあり、廊下がある。

 廊下の左手には部屋が二つ並び、右手側は崖なので壁だ。

「ここがハガナの部屋」

 手前の一室を差す。相部屋でなくて、色々な意味でほっとする。

「こっちがハルの部屋ね」

 奥の扉を開けると、ベッドと机が置かれただけの質素な部屋だった。

 しかし、とても綺麗に掃除がされていて、清潔感に満ちている。なによりきちんと部屋の体を成しているそこに、俺は不覚にも涙が出そうになり、自分がどれほど疲れていたのかようやく気が付いた。

「セローのところで寝泊まりしてたんじゃ、手足を伸ばして寝るのも久しぶりなんじゃない?」

「ああ……」

 俺は返事もそこそこに、吸い寄せられるようにベッドに倒れこんだ。

 まだ昼になるかどうかなのに、俺の脳内からは油みたいな眠気が溢れ出てきた。

「あらあら」

 リサは小さく笑って、俺が肩にかけていた鞄を手にかける。

 その瞬間、染みついていた野宿生活の習慣から、ほとんど反射的に鞄を奪い返そうとしていた。数瞬後には、リサは泥棒じゃないと気が付いたが、気まずい空気が流れるには十分だった。

 ただ、リサはゆっくりと手を引いて、静かに言った。

「ごめんなさい。失礼だったよね」

 むしろリサのほうから謝って、そのままカーテンを閉じた。

「一応鍵もかかるから、ゆっくり寝たかったらかけなさい」

 優しくそう言って、部屋から出て行った。

 俺は、言葉もなく見送った。

 そして、結局重い体を強引に起こして、部屋の鍵をかちりとかける。

 油断をしてはならない。リサを信用していないのではなく、これは自分の生き方だ。

「けど……だめだ、限界、だ……」

 一度溢れた眠気は、重力加速度のように俺をベッドに引っ張り込む。

 ふかふかの枕からは、長いこと嗅いでいなかった、石鹸の匂いがしたのだった。