◆◆第五章◆◆
翌日は月面都市の祝日だった。
現実の市場は休み。投資コンテストの仮想市場も閉まっていた。サーバーのメンテナンスやデータ集計が必要だとのことだったが、そうなると俺はいよいよやることがない。
現実のほうの取引に影響がありそうなニュースは、午前中いっぱいで隅から隅まで読み尽くせてしまう。
だから、やることのなくなった俺は昼を前にして外に出た。
平日の昼間にうろうろしていると補導されると言うこともあって今は引きこもり気味だが、実家にいたころは一日の大半を外で過ごしていた。
外に出て体を動かすのは嫌いじゃない。
それに、教会の中にいるとどうしたってハガナとすれ違ったりすることがある。
リサもリサで昨日のトヤマの訪問以降、ふとしたはずみに物思いにふけってばかりいた。
俺は鞄に端末を詰めて背負い、靴ひもを固く結んで三階から外に出る。
今日も月面はよく晴れていて、数日前に雨で空気が洗われているせいか遠くまで見通せた。
三階の庭部分には洗濯ものが翻り、隅っこの花壇には、ハガナが引っこ抜いたせいで数が減った百合が咲いている。
目に映る風景はこんなにものどかなのに、それぞれにはそれぞれの問題や悩みが存在する。
そのことを考えると、俺はドームの向こうに無限にも近い宇宙が広がっていることに空恐ろしくなる。
まるで自分が独りぼっちになってしまったような感覚に陥るのだ。
ただ、そんなことを考えていたってなにかが解決するわけではない。
俺は頭を振って、建物の屋根やら壁やらを蹴って駆け出した。
向かう先は決まっていない。
その代わり、なにをするかは決まっていた。
「クーン商会?」
ふかし饅頭を軒先で売っていた恰幅のいいおばちゃんに聞くと、客にトングで饅頭を渡しながら、そう聞き返された。
「店があるかどうか知らないんだけど」
「ああ、配達専門だからね。で、用があるのかい」
「そう。どこに行けばいいかわかるかな」
刻んだ野菜にひき肉が入っている饅頭は、一個四ムールもするがボリュームがあってうまい。
俺は昼飯代わりにそれを食いながら、店のおばちゃんにクリスの居所を聞いていた。
「ちょっと待って、えー、今日は祝日だからあ……」
「クリスの嬢ちゃんなら、さっき三丁目の方で配達しとったよ」
そんなことを教えてくれたのは、俺が話を聞いている間にも次々やってくる客の一人だ。
「三丁目?」
「おう。第七外区につながるトンネルの近くだ。休みの日はよくあそこでぶらぶらしてるからな」
「ああ、あそこか」
俺がお気に入りの見晴らしの良い場所だ。
俺に情報を教えてくれたおっさんは、饅頭を五個もいっぺんに買う。おばちゃんはひっきりなしに蒸籠の中に新しい饅頭を入れている。
「ありがとう。行ってみる」
「おう。あ、おばちゃんよ、そっちのでかいやつ入れてくれよな!」
おっさんの冗談めかした注文を背中で聞いて、俺は饅頭をくわえたまま走りだそうとする。
それを止めたのは、おっさんに饅頭を渡していたおばちゃんのほうだった。
「あ、ちょい待ち!」
待てと言われて待つ馬鹿がいるか、と映画の中では泥棒役が叫んでいた。
実家を出てからこっち、追われる身である俺には待てと言う単語は心臓に悪い。
だから、一瞬ためらって、いつでも逃げられる足配りにしておきながら振り向く。
すると、おばちゃんがトングに饅頭を一個挟んでこちらを見ていた。
「クリスちゃんに会うんなら、これ持ってってやってちょうだいよ。あの娘、ちょっとやせすぎだからね!」
饅頭みたいに膨れ上がったおばちゃんが言うと説得力がある。
俺は神妙にうなずいて、まだ湯気がもうもうとあふれ出る饅頭を包み紙ごと受け取った。
「きちんと渡すよ」
「頼んだよ」
金も取らないし、俺のことを疑いもしない。店の脇では野良猫が日向ぼっこをして眠っていた。俺は外区のこういう雰囲気が嫌いではない。ホワイトベルトの気取った奴らは、町こそ綺麗なものの、打ち解けた雰囲気がない。全員が全員互いに疑いあって、見栄を張りあっているような、そんな雰囲気がある。月面の連中は心が乾ききっている、と言われる時の月面の連中とは、ホワイトベルトの奴らのことだろう。
もっとも、ホワイトベルトに住む中・上流階級の連中は、みんな揃ってニュートンシティで激烈な競争を行う連中なのだから、それも仕方がないかとは思う。
ただ、もしも競争に身をやつすうちにあんなつまらない連中になってしまうというのなら、俺もちょっと気をつけなければいけない。
そんなことを考えながら、教えてもらった三丁目のほうに走って行った。
月面は一年を通してほとんど似たような気温と湿度に保たれている。
地球でいうと、温帯気候の春に相当するらしい。
うららかな日和、と評される気温と天気で、飯を食って運動するとちょっと汗をかく程度だ。
俺は取引のために日中部屋にこもっている憂さを晴らすように、飛んで、跳ねて、高低差の激しい町を進んでいく。運動が好きな理由の一つに、体を鍛えておくとなにかと便利なことを学んだからという以外にも、動いている間は余計なことを考えなくてすむからというのがある。
天気のいい昼の町の中を風を切って飛ぶのは、表現のしようがないくらいに気持ちのいいことだ。俺はビルの屋上から屋上に飛び、第五外区につながる三丁目の崖までやってきた。
上に登るにはひどく遠回りをする道をたどるしかない。
ただ、いちいちそんなことをしていられないので、猫みたいに壁伝いに駆け上って行った。
低重力のせいで似たようなことをする連中が絶えないために、月では崖にも交通標識が立てられている。
俺はその標識を踏み台にして、最後のひとっ飛びをする。ちょうど電動スクーターに乗ったおばちゃんが第七外区の方からトンネルを抜けてきて、崖下から飛び上がってきた俺を見るとやや驚いていた。
こっちは当然そんなことなど無視して、道沿いから第六外区を眺めてみる。
話ではこの辺を配達していたとのことだが、上からなら見つけられないだろうか。
そう思って目を凝らしていると、背後の頭上から声が聞こえてきた。
「あ!」
聞き覚えのあるその声に振り返ると、トンネルの上に腰掛けているクリスがいた。
大きな荷物を側に置いて、手には相変わらずぼろい端末を持っている。
こんなにあっさり見つかるとは運がいいな、と思いながら、俺はなにも言わずに饅頭屋のおばちゃんから受け取った饅頭を、クリスに向かって放り投げた。
「あ、わ、わ……わ?」
「饅頭屋のおばちゃんから。食えだって」
「……あ、え……はあ……」
クリスは手にした包みを戸惑いながら見つめつつ、こくりと生唾を飲んでいる。
俺はいつもそうしているように、道の脇に生える木に向かって飛んで、それを足場にして三角飛びでトンネルの上に飛び上がる。
包み紙を恐る恐るはがそうとしていたクリスは、俺が飛び上がってきたことに対してはさして驚いていなかった。
多分、クリス自身、俺が走ってきたのと同じような配達の仕方なのだろう。
「こんなところでなにしてんだ?」
俺が質問するのと、クリスが饅頭にかぶりつくのとはほとんど同時だった。
そのせいで、口いっぱいに饅頭を詰めていたクリスは慌てて飲みこもうとする。
「ああ、悪りい。慌てなくていいよ」
「むぐ……」
クリスは律義にうなずいて、それからむぐむぐと口を動かして、おいしそうに飲みこんだ。
「で、なにしてたんだ?」
俺がもう一度尋ねると、クリスは水筒からコップに飲み物を注いでから、答えた。
「えっと……勉強、です」
「今日は休みじゃんか」
「あ……はい……」
世間話のつもりでそう言ったのに、クリスはなにか自分が悪いことでもしていたかのようにうつむいてしまう。
俺はちょっと慌てながら、言葉を続けた。
「いや、まあ、別に、それはいいと思う。勉強って数学だろ?」
「……はい」
「かっけえじゃん」
「……え?」
「勉強ってもっと暗い部屋ん中でがりがりやる感じがあるからさ……外でのんびりやってんのって、なんか、かっけえ」
まんざら嘘でもなかった。
一人見晴らしのいいところで難しい問題を考えている、という話をリサから聞いた時には、どこの孤高の芸術家だとか思ったが、実際に目の当たりにしてみると、雰囲気は全然違うものだった。
配達の途中に立ち寄ったらしく、隣には大きな荷物がある。それをクッションみたいに使って寄りかかり、手元には水筒が置いてある。温かそうな湯気が立つ茶をたまに飲みながら、うららかな日和と見晴らしのいい景色の前で、考え事をする。
そんなのんびりとした雰囲気は、クリスみたいなおっとりした娘にはとてもよく似合っていると思う。
「あ……わ……」
しかし、クリスのほうはそんな褒められ方をするとは思っていなかったらしくて、目を散々泳がせた後に、うつむいてしまう。それでも、嫌がってるわけではなさそうだ。わかりやすいほどに赤くなった顔から、そのことがよくわかった。
「あ、つーか、饅頭冷めちまうぜ」
俺が言うと、クリスはちらりと饅頭を見て、それから盗み見るように俺を見て、すぐに目を伏せる。そして、おずおずと饅頭をかじり始めた。
なんか小動物みたいで、我慢しないと意地悪したくなりそうだ。もちろん俺はそれを我慢して、クリスがやや気まずそうにしているのを知りながら、そばに立ったままトンネルの上から景色を眺めていた。
しかし、クリスのほうもそのうち慣れてきたらしく、大胆に饅頭を頬張るようになる。
俺はその頃合いを見計らって、こう切り出した。
「んでさ、ちょっと聞きたいことがあんだよ」
「……ふぁい?」
大人しそうなのに、口いっぱいに頬張るのは癖らしい。
唇の端にひき肉のかけらをつけているので、俺が指で教えてやると慌ててぬぐっていた。
「お前、ハガナと仲良さそうじゃんか」
「……」
実家にいた猫は、軌道エレベーターの質量観測装置の監視を潜り抜け、どこに隠れていたのか減圧も低温も耐え抜いて月に密入国してきた、筋金入りの野良猫らしいが、顔に水が当たるといつもこんな顔をした。
ただ、猫のほうは我に返ると怒って飛びかかってきたが、クリスのほうはなにか怒られるんじゃないだろうかと上目遣いに見上げてきた。
「それで、聞きたいんだけどよ……」
それまでは、こっちが立っていてクリスが座っているせいで、物理的にも上から目線でクリスを見ていた俺は、初めて目を逸らすことになった。
別に意識する必要はないと思いつつも、やっぱりこんなことを聞くのは気恥ずかしい。
「ハガナの……好きなものってなにかわかるか?」
どういうわけかいくつも俺の身に降りかかってきた問題の、最も手早く解決できるものはなにかと考えた結果、出た答えがこれだった。
「……ふぁ──」
と、言いかけて、口の中に饅頭が残っていたのを思い出したらしく、クリスは目を閉じてあわてて噛み砕いて飲み下し、大きく息を吸ってから、言いなおした。
「ハガナ先生の、ですか?」
「そう。お前、よく教会に来てるみたいじゃん。だから、知らねえ?」
クリスは呆然と俺を見上げて、この人はなにを言っているんだろう、というような無垢な目を向けてきた。
俺は気恥ずかしくてクリスのことを見ていられないが、クリスはクリスでなにか変な勘違いをしたらしく、急に頬を赤くして両手で押さえていた。
「わ、えっと、ハガナ、先生に?」
「勘違いするなよ?」
俺が顔を近づけてすごむと、クリスは目を閉じて両手で頭をかばうように体を丸めたが、もちろん殴るわけなんてない。
俺が体を起こすと、片目だけを開けて用心深そうに見上げてくる。
「なんつーか、ちょっとした手違いで、ハガナにすごい悪いこと……いや、悪いことなんか? わかんねえけど、そういうことしちまったんだよ」
「……悪い、こと?」
「色々あったんだよ」
俺が苦い顔をして言うと、クリスは少し目を逸らして、おずおずと言ってくる。
「じゃあ……その……お詫びの品、ということ、ですか?」
「平たく言うと、そうなる」
「はあ……」
クリスは言って、今度はこれまでとはちょっと違った感じで視線を外す。
なにかを考えるように遠くを見やるその横顔は、普段からこんなところで数学の問題を考えているせいか、ひどく様になっていた。ぱっと見は男なのか女なのかよくわからないが、こうしているのを見ると、将来は凄く美人になりそうな気もする。
小さく唸るモーター音を立てて、一人乗りの電動バイクがトンネルを抜けて行ったあと、クリスは俺のことを見て言った。
「いい人なんですね」
「はあ?」
思わず語気も強く聞き返してしまったが、クリスが怯んだのは一瞬だけで、どこかくすぐったそうに笑っていやがった。
「俺がいい奴か悪い奴かなんか関係ねえ。なんか心当たりないのかよ」
「あ……はい。ハガナ先生の、好きなもの、ですよね」
おとなしそうで、おどおどしてて、どんくさそうな癖にこういうところだけはきちんと女っぽい。もしかしたら、俺は女が苦手なのかもしれない。
どうにもこうにも、女を前にすると自分が子供のように思えて嫌だった。
「ハガナ先生って、あんまりそういう話、しませんから……」
「なんでもいいんだけどな。ちょっと気になってるものがあるとか」
「気になってるもの、ですか……」
クリスは実に真剣に考え始めたが、ハガナの様子を思い返せば、日ごろからそういう話をするようには思えないので、心当たりがないのかもしれない。
ただ、俺が急かすこともなく黙考を見守っていると、ふと、クリスが顔を上げた。
「あ」
「なにかあったか?」
「あ、いえ、あの」
「なんだ?」
俺の質問に、クリスはトンネルの下を通る道の先を指差して言った。
「ハガナ先生が」
「!」
俺が視線の先を見ると、確かにハガナが道を上ってやってくるところだった。
ちょうど坂の折り返し地点で、まだこちらには気がついていない。
「俺が来てたこと、黙っとけよ」
クリスに言い置いて、生い茂る木々の隙間を抜けて、崖の反対側に飛び降りた。
クリスはそんな俺のことを目で追っていたが、やがてハガナがやってきて声をかけられたようで、慌てて振り向いていた。
鬱陶しいタイミングでハガナが来たものだが、また頃合いを見てクリスに話の続きを聞けばいい。あるいは、意外に鋭いところもありそうだったから、気を利かしてこっそり今ハガナの興味のある物を聞き出しておいてくれるかもしれない。
ただ、気になるのは、ハガナがどうしてこんな場所にわざわざやってきたのかだ。まさか俺を探しに来たわけではないだろうから、ハガナもまたクリスに用があったのだろう。
勉強についての話だろうかと思うのだが、先生の立場であるハガナが、わざわざこんなところにまで来る理由がわからない。
引き返して盗み聞きでもしようかと思ったが、万が一ばれたときには言い訳のしようもない。
そんなわけで俺はおとなしく遠回りをして教会に戻ることにした。
リサは居間におらず、どうやら自室にこもっているようだった。
俺はコーヒーを淹れて、端末を開く。
問題の一つは解決のために一手を打った。
ならば次の問題のための一手だな、と銘柄を眺めていく。
しかし、教会が静かだったのは、地球的表現を借りれば嵐の前の静けさというやつだったらしい。
数時間後、遠くからくぐもった電話の音が聞こえてきた。
その直後、二階からすごい勢いでリサが駆け下りてくる足音が聞こえたのだった。
リサが教会から飛び出して、三時間くらい経ったかもしれない。
日はとっくに暮れて、俺は昼に饅頭一個だけしか食っていなかったので腹も減っていた。
教会は静まり返っていて、リサとハガナが帰ってくる気配はない。
リサがあんなに慌てて飛び出して行ったということは、ハガナがらみだろうが、警察に補導でもされたのだろうか? ただ、リサはその手の連中をかくまうのが趣味らしいのだから、もう少し落ち着いていられるような気がした。
だとすれば、考えられるのはハガナが家出先の親に見つかり、捕まりそうになって逃げ、助けを求めていたとか、そのあたりだ。
だから、俺は柄にもなくちょっと心配になって、居間をうろうろして、カーテンの隙間から外の通りを眺めたりしていた。
静かだった居間に電話の音が鳴り響いたのはそんな頃で、俺は情けなくも飛び上がらんばかりに驚いた。
リサの端末にかかってきたのだったらためらうところだったが、壁掛けの電話のほうにかかってきていたので、俺は五コール目くらいでそれを取った。
「もしもし?」
「あ、ハル?」
リサの声に俺はほっとするのと同時に、出かけ際に一言も残してくれなかったことに、なぜかむかむかとしたものがこみ上げてくる。
ただ、そんなことを言うよりも早くに、リサが言葉を繋げてきた。
「もう少しで帰るから、お風呂沸かしておいてくれない?」
「……はあ?」
「熱いやつね。あと、戸棚の中にとっておきのココアがあるから、作っておいて。思い切り甘くしてね」
「ココア? 風呂? つーか、今どこに──」
俺が言い終えるよりも先に、リサは電話を切った。
俺は物言わなくなった受話器を見つめ、怒りを込めて元に戻す。
なんの説明もないばかりか、風呂だのココアだのとなぜ命令されなければならないのか。
しばらくは頼みを無視しようかとも憤っていたが、結局思い直して風呂を洗い、水を張って沸かすことにした。それから、言われたとおりに戸棚を開けて物色して、パッケージからして高級そうなココアの袋を見つけたので、裏面のレシピに従って作っていく。
ミルクパンでミルクを沸かしている最中に、そのあまりの香りのよさに自分の分も作ろうと、追加のコップを取りだしたときのことだ。聖堂のほうから扉を開け閉めする音がした。
やれやれご帰還かと、別になにかしていたわけでもないが妙に疲れを感じ、ため息をつきながら電気コンロの出力を止める。
「言われてたココア、そろそろ……」
と、俺がミルクパンの取っ手を持ってカップにミルクを注ごうとするのと、ハガナが大股に歩いて居間を突っ切って、そのまま自室に飛び込むのとはほとんど同時だった。
飛び込む、というのは大袈裟な言い方ではなくて、教会が揺れそうなほどに扉が思い切り閉められていた。
リサは居間の途中で、ハガナを呼びとめようとしたままの格好で固まっていた。
いつもの落ち着いていて、ちょっと間抜けで、でもすごく頼れそうな年上の女としての威厳みたいなものは、どこにも存在していなかった。
俺の視線にも気がつかないほど疲れきっていて、ハガナに伸ばそうとしたのだろう手も、力なく下ろされた。
そして、俺に見られていたことに気がつくと、恥ずかしそうに小さく笑う。
俺は見てはいけないものを見たような気がして、カップにミルクを注いでいく。
「うまく淹れられた?」
俺の背中に向けて、リサがそんな言葉を向けてくる。
今言うべきはそんなことじゃないだろう? と思うのだが、俺はそのことを責めることもできない。
「た、多分な」
「そう……」
きっと振り返ったら、煤けたような笑みを浮かべているのだろう。
俺はそんなリサを見たくなくて、慎重にミルクを注ぐふりをしていた。
「……あれ、二つ作ってるの?」
聞かれ、俺はもう少しでミルクをこぼすところだった。
「あ、ああ……一応……」
「一つ、くれない?」
その言葉に、俺はようやく振り向いた。
そして、ぎょっとする。さっきは陰になって気がつかなかったが、リサの右目の斜め下が、見てわかるくらいに腫れていた。
「……な、なんだよ、それ」
「ん?」
リサは俺の言葉に、自分の服やズボンを見回している。
俺はそれを間抜けと思うよりも、苛立ちを感じて見つめていた。
「顔だよ」
「ああ」
リサはようやく気がついたとばかりに顔を上げ、右手の細い指でそっと触れる。
見ているだけで痛そうで、俺の顔が自然と歪んでしまう。
「ちょっと、ぶつけてね」
「ちょっと?」
リサは小細工を見破られたかのように恥ずかしげに苦笑して、視線をこちらに向けた。
「ねえ、ココア、もらっていいかな」
質問をはぐらかされたら、いつもなら怒っていたはずだ。
それでも、俺はリサを前にそれ以上言葉を紡げなかった。
だからせめて顔だけは不機嫌丸出しのまま、ミルクを注いだカップをかき混ぜて、テーブルに置いた。
「ありがとう」
リサは笑顔で礼を言って、テーブルにつく。それから、冷凍庫から帰ってきたかのように両手でカップを手にとって、何度も息を吹きかけて、軽くすする。
そこに至ってようやく俺は砂糖を入れ忘れたことに気がついたのだが、リサはまったく気にしていない。というか、そもそも味がわかっているのか怪しいところがあった。
心ここにあらず。
俺は、わざと大きい声を出しながら、砂糖壺をテーブルにカンと置いた。
「砂糖」
「……ああ、ありがとう」
リサは言って、興味もなさそうに砂糖を一個だけ入れる。
そして、それだけで満足してしまったかのように、カップを持ちあげることはなかった。
「で?」
俺は我慢できなくなって聞いた。リサの反応は鈍く、最初は無視されたのかと思ったが、ゆっくりと視線を上げてこちらを見た。
「なにがあったんだよ」
俺はここのいわば居候で、ハガナやリサとは直接なにかの関係があるわけでもない。
しかし、聞く権利があると思った。
「言わないと、だめ?」
そして、リサは子供みたいに、ちょっと笑いながらそんなことを聞いてくる。
俺は怒るよりも、むしろ逆に怖くなった。
それでも、腹に力を込めて、言った。
「ココア淹れてやっただろ」
真顔で言うと、リサは手元のココアを見て、それからもう一度俺を見る。
軽く吹き出したリサの顔は、ほっとしたようにも見えた。
「そうね。ココア淹れてもらったものね……」
「風呂も沸かした」
「じゃあ、いよいよ言わないわけにはいかないね」
リサはココアを飲み、ため息をつく。
沈黙は長く、もう少し長く続いたら、窒息して倒れていたかもしれなかった。
「昨日、トヤマさんが来たでしょう?」
「トヤマ? ああ」
「その話の延長」
そう言って、リサはココアを飲む。なんの説明にもなっていない言葉だが、催促しなくてもきちんと説明してくれるはず、という信頼感がリサにはある。
「昨日の話はね、なんというかまあ、単純な借金の催促」
「はあ?」
俺は思わず声を上げて聞き返す。
「利子は払ったばっかじゃんか」
「そう。トヤマさんも恐縮してた。だから、すごく丁寧だったでしょう?」
そう言われ、確かにトヤマは威圧的になるわけでもなく、むしろ下手に出て、申し訳なさそうにしていた。しかも、あいつは教会の聖堂の方で、磔になった髭男に向かって祈りを捧げていた。自分がなにか無茶なことを言いにきている、という自覚があったのかもしれない。
「借金のね、全額返済をお願いされたの」
「ぜっ」
言葉がそこで途切れ、同時に頭の中ではこの教会の大まかな経済状況が駆け巡る。
借金は三万ムールで、毎月の利子の負担は三百ムール。もちろん俺は立て替えた三百ムールの利子も受け取っていないし、すぐに返ってきそうには見えない。
そんなところが、いきなり全額返済してくれと言われて、返済できるわけがない。
「なんでそんな? 契約書に書いてあったんか?」
「ううん。借金は、無期限だったからね。トヤマさんはいつもそうなのよ。信用できる人にしか金を貸さないから、いつか返してくれればいいって」
一見いい話のように聞こえもするが、どの道利子は取るのだから、事情は同じだ。
「でも、一応トヤマさんにも金主さんがいるのね」
「金主?」
「トヤマさんがお金貸しをするための、最初の資金を融通してくれた人」
「ああ……で?」
「その金主さんが、病気で亡くなったらしいの」
そのこととリサの全額返済になんの関係が。
むしろ、金を借りてた相手が死んだのだから、トヤマとしてはハッピーなことではないのか?
「トヤマさんにお金を渡していた人も、地球からの付き合いがあった人みたいで、すごくいい加減な条件で貸してたんだって。それがね、亡くなると同時に地球からやってきたその親戚の人が、トヤマさんに貸した金の契約書を別の人に売っちゃったんだって」
「ああ、まあ……」
わからなくもない話だ。
「うん。私もその人たちを責めるつもりはないけれど、トヤマさんとしては困った事態になったわけ。これまではいい加減な契約で、古い付き合いだったからなあなあで済んでいたことが、契約書どおりに行われる羽目になった。トヤマさん、実は全然儲かってないんだって」
「それはすごくわかる。無担保で12%の利子とかあり得ない」
「そういえばハルはそんなこと言ってたわね……。で、そういうわけだから、突然トヤマさんに貸した金をまとめて返せと言われているらしいのね。その総額が、八十万ムールとかだって」
「八十……」
ホワイトベルトに小綺麗な家が建つレベルだ。地球に降りたら、ドルにしても円にしてもマルクにしても、立派なひと財産として考えていい金額のはずだ。
「トヤマさんは当然そんなお金を持っているはずがない。困ってる人がいて、その人が信用に足ると思ったらどんどん貸しちゃう人だから、自分の家にお金がなくなるくらい人に貸しちゃうんだって。だから、トヤマさんの手元にあるのは借金の契約書だけ。で、トヤマさんに金を返せと迫っている人たちは、金を返せなければその契約書を安く買い取ると言ってるんだって」
「へえ」
なら、それでいいじゃんか。
俺は一瞬そう思ってリサを見返したのだが、まてよ、と思った。
「それはつまり……借金の相手がトヤマから、そのわけのわからん奴らになるってことか」
「そう。うちも、契約書には無期限とあるけど、念のためにということで、三年ごとに契約の見直しって入ってるの。トヤマさんが言うには、この更新の時に難癖をつけられたら、まずいって」
「まずい?」
「つまり、なにもかもを処分してでも払えってこと」
「……」
「私もよく知らないんだけど、裁判所で強制的に処分ができるらしいの。それで、そうなるとどんな財産でもものすごく買い叩かれるから、三万ムールの借金でも大変なことになるって」
「だから、今のうちに全額返せって?」
「そういうこと。慌てて叩き売るより、時間をかけて高値で財産を買ってくれる人を探したほうがいいって。トヤマさんは、本当に親切で来てくれたのよ」
トヤマの話をすべて信じるならば、と俺は思ったが、口にはしなかった。
俺自身、トヤマはそんなこずるいことをしそうな奴には思えなかった。もちろん、手練手管を備えた汚い大人という可能性はあるだろうが、もしもそんなことができるのなら、トヤマはもう少しいい身なりをしているような気がした。
「けど」
そして、リサの話を区切るような言い方に、俺の黙考も中断される。
「ハガナは……あの子はあれですごく鋭いところがあるから、昨日、私になにかあったって感づいちゃったみたいなのね。それで、その話をどこかで聞きかじってきたみたいで……」
「怒り狂って、トヤマのところに押しかけた?」
俺がこわごわ尋ねると、リサはがっくりとうなだれるようにうなずいた。
その瞬間、俺の脳裏をよぎったのは、トンネル上でクリスを探してやってきたハガナの姿だ。
俺が、クリスならハガナのことを知っていると思ったように、ハガナはハガナでクリスが町のことに詳しいと思ったのかもしれない。トヤマがこの近辺で金貸しをしているのなら、トヤマの窮状は知れ渡っているはずだ。
「電話を受けて慌てて駆け付けたけど、凄かったんだから……。本当に、トヤマさんには迷惑かけてしまって……。ただでさえお金貸しだと、悪いことなんてしてないのに悪いことしているみたいに思われがちだから、よく事情を知らない人が見たら、トヤマさんが悪いと思うでしょう? それでも、トヤマさんもこの辺では知られた人だから、なんとか大惨事にはならずに済んだんだけど……」
「その怪我は?」
「ああ、これ?」
リサは苦笑して、視線を居間から続く廊下に向ける。
そして、本当に小さく、声をひそめて言った。
「暴れるハガナが大人しくなってくれたのは、これのお陰」
つまり、なにかの拍子にハガナが投げた物かなにかが当たったのだろう。
「あの娘が私のために、と思ってしてくれているのはわかる。けどね……」
いつも結果は、こういうことになる。
俺の服屋の時もそうだった。
「あの娘は常に自分を責めているみたい。それで、自分にできることならどんなことでも、どこまででもやろう、って思っちゃうのかもしれない」
トヤマから聞いた話だ。
「難儀な性格」
俺の呟きを、リサは否定しない。
「まじめな娘なのよ。どこまでもまじめ。どうして、そんな娘が報われないのかしら。本当に、神様はどこでなにをしてるのかしらね?」
悲しそうに微笑んだリサは、そのままうつむいて黙ってしまう。
ただ、俺は沈黙に耐えられず、すぐにこう言っていた。
「で、どうすんだよ」
「え?」
「借金」
借りた物は返す。当たり前のことだ。
だが、万事そんな風に進むのであれば、俺は今頃ニュートンシティのペントハウスに住んでいる。
「うん……どうしよっかね」
リサは言って、困ったように笑った。
もしも本当に返す金がないのならば、いっそ俺は怒ったかもしれない。働くなりなんなりしろよ、と思ったかもしれない。
だが、リサには返す当てがある。本当はある。本を売れば借金などたちまちのうちに返せるらしい。それでも、リサはその方法を前に逡巡し、途方に暮れていた。
リサは本を自分の体の一部のように愛し、しかもその手の本は売りに出したら最後、二度と手に入らないらしい。
月の大学で地球の古い宗教のことを学び、教会なんていう前世紀の代物をおっ建てて、家出中や行く当てのない者を匿い、雨の日には地球中の神様の話が書かれた百年も前の本を読むのが好きだと言う。
これ以上ないくらいに月にはふさわしくない奴なのに、俺はリサをすごく大人だと思っている。それに、今頼れる誰かを一人だけ挙げるとしたら、多分真っ先にリサの名前を挙げる。
そのリサが、この期に及んで、困ったように笑っている。
ハガナはきっと、トヤマのもとに行って、襲い掛かったに違いない。そして、自分を売れと詰め寄ったのだろう。
リサは俺が淹れたココアのカップを両手で包み、ゆっくりと傾けて、口をつける。
「ココアはいつもおいしいのね」
ぽつりと言った言葉が、なぜか無性に胸に染みる。
「お風呂も沸いてるの?」
「沸かせって言われたから」
「ふふ。ありがとう。なら、これからは電話で行儀よくご飯を食べろとか、ハガナと仲良くしろとか言おうかな」
「はっ」
笑えもしない冗談なので、俺は鼻息で吹き飛ばしておいた。
リサも笑ってもらうことを望んでいたわけではないようで、カップを置くと立ち上がった。
「ごちそうさま」
「まだもう一杯あるけど」
「ん」
リサは少し立ち止まるが、軽く笑って首をすくめた。
「太るから。それより、お風呂先に入っていいかな」
「あ? ああ、別にいいけど」
「覗いたら怒るわよ」
「覗かねえよ!」
思わず反応してしまって、リサはここだけは楽しそうに笑っていた。
そして、そんな笑顔を残したまま、脱衣所のほうに歩いて行った。
その足取りはどこか頼りなく、ふらふらとしているような気がした。
ぱたん、と扉が閉じた後も、俺は意味もなくその扉を見つめていた。やがて風呂場の扉を開け閉めする音がしてから、俺は監視カメラで見張られているかのように目を逸らす。
次に目が向いたのは、シンクに残されたもう一つのカップ。とっくに冷めてしまっていて、牛乳の薄い膜が浮いている。リサはこの後どうするだろうか?
どうするかなんて決まっている。間違いなく、本を売るだろう。答えは最初から決まっているのであって、後はいつ決断するかの話だった。
他人事だから、そんなふうに言うことができる。
俺はそのことがわかっている。
だから、リサが風呂場で泣いていたってまったく驚かない。大人が泣ける場所は海辺か風呂場くらいのものだなんて、実家の荒くれ者たちに聞いたことがある。
うまい解決法はあるのか?
多分ないだろう。あるのならば間違いなくすでになされている。そうでなければ、毎月の利子の支払いにも事欠くのに、行くあてのない奴らを格安でかくまったりと、緩慢な自殺みたいなことをしている理由がない。元本を減らせるならいつか借金はなくなるが、利子をずっと払い続けても借金は減らないことくらい小学生にだってわかる。
だが、それもこうなったら最後の手段に頼るしかない。
リサは自分の体の一部を売る。ハガナが体のすべてを売るよりかはいい。多分、そんなふうにハガナを説得したのではないか。月面都市は地球のどこよりも弱肉強食だ。生命の住めない場所に無理やり町を作っているのだから、ぬるいことをやっている余裕はない。
宇宙は冷たく、暗いのだ。
俺は、ハガナは泣くだろうか? と思った。多分、泣くだろうし、自分を責めるだろう。自分が同じ立場になったとしたら、きっとものすごく辛いと思う。リサはいい奴だから、その分だけ、辛さもきっと増す。
トヤマのおっさんは、ハガナがあれだけリサのことを思うのは、リサが初めて自分のことをかばってくれた相手だからではなかろうか、と言っていた。
俺もそんな気がする。この月面都市で他人のことを気にかけるなんてのは、リサくらい頭のおかしい奴じゃないとやりはしないからだ。
その頭のおかしいリサの借金は、三万ムール。
俺は、その金額を口中で繰り返す。
三万ムール?
俺はシンクの上で冷めているココアを見つめながら、神がいるのなら罵りたかった。
三万ムール。
俺の財産は、いくらだった?