◆◆第四章◆◆
ラッツィンガー経済研究所主催投資コンテスト。
仮想空間上で行われる投資コンテストであり、仮想空間上に用意される証券市場はほぼ実際の市場と変わらない。会社があり、決算があり、配当があり、時には予期せぬ事故や合併、または倒産がある。現実とリンクしているのは為替相場と銀行間金利相場、各種エネルギー相場、それに月の時間軸だけ。
コンテストは半年にわたって行われており、随時およそ二万人、トータルでは十万人からの人間が仮の一千万ムールを手に、好きなタイミングで六十日間だけ取引を行うことができる。
参加資格は、経済研究所や協賛の証券会社が逐次選んだ者のみに与えられる招待制を採っている。そのため、最初期に招待された者の中にはすでに取引を終え、結果が確定している者も大勢いる。
投資結果はリアルタイムで公開、更新されている。現状の一位はミスター・トローチというハンドルネームの参加者で、取引十九日目で四千五百万ムールあまり。
研究所の案内には、プロの大物投資家も何人か遊びで参加していると書かれているため、コンテスト用に用意されているSNS上では、ミスター・トローチは大物のファンドマネージャーだとか、投資銀行の自己取引部門の人間だとか憶測が流れていた。
朝の食卓で、上の空でリサの作ったハムエッグを食べながら、コーヒーを膝にこぼしたのは、それだけの情報を集め終わったころだった。
「注意する気も起きないわね。やけどは?」
「……ああ」
手渡された布巾で適当にぬぐい、布巾をテーブルに戻す間も惜しくて、俺は端末を見たままだった。
「ハル!」
「っ!」
リサの大きな声で俺はようやく我に返った。
「やけどは大丈夫?」
リサはにっこり笑って俺のことを見ている。
俺は胸に手を当てなくてもわかるくらいにドキドキしながら、ようやく布巾を持ったままだったことに気がついて、それをリサに手渡した。
「で、やけどは?」
「あ? ああ、大丈夫……」
「なにするにしても、ご飯を食べてからにしなさい」
かんかんかん、と食器を叩く音がして、俺はまたしても視線を引き寄せられていた画面から現実に戻される。言い争う時間も惜しかったので、俺は残りを頬いっぱいにかっ込んで、その隙間から言う。
「ごっふぉはん……」
「……まったく」
リサは呆れたように言って、俺が食い終わった食器類を下げるのがちょっとだけ視界の隅に見えた。
投資コンテストは月の時間軸にあわされ、月の証券取引所と同じ時間だけ開く。つまり、このコンテストに全身全霊を傾ければ、現実の取引をしている暇はなくなることになる。
ただ、俺の資産は七万ムールで、このコンテストの優勝賞金は二十万ムールなので、こちらに注力したほうが得な気がするし、なによりも重要なこととして、優勝者や上位入賞者にはシュレーディンガーストリートからヘッドハンティングが来るということがあった。
うまくいっていない現実の取引でずるずる損を出すよりも、架空の金銭で取引ができて、しかも見返りが莫大なコンテストに没頭したほうが、明らかに得策だった。
それに、専用SNSを見て回ると、どうやらコンテスト内で取引される銘柄は架空の会社とはいえ、その値動きや振る舞いは実際の銘柄のそれとほとんど変わらないらしい。真偽のほどは定かではないが、暇で親切な誰かが、コンテスト内の架空の銘柄と現実の銘柄の対応表をアップしていた。
確かに、値動きをプロットしたグラフを見ると、酷似しているように思える。俺はひとまずその表をダウンロードして、保存しておく。そして、画面から片時も目を離さず、手探りでコーヒーカップを探そうとして、手の甲を叩かれた。
「いい加減にしなさい」
リサに怒られて、俺はコーヒーカップを手にとると、隠れるように首をすくめてすすった。
「まったく……あ、そうだ。ハガナ」
俺は端末にすぐに舞い戻ろうとしていたのだが、最後のハガナの一言でがくんと引っかかる。
投資コンテストのことでいっぱいだった頭の中に、昨日の出来事がよみがえる。
「私、今日は大学の講義の手伝いでいないから。お昼はきちんと食べなさいね?」
「……」
返事が聞こえなかったので、ちらりと横目で見ると、ハガナはいつもの仏頂面でそっぽをむいてもそもそとパンをかじっていた。
「返事は?」
リサの笑顔。ハガナのパンをかじる口が止まり、嫌そうにリサを振り向く。
どうやら、昼飯を食べる食べないは、リサにすら反抗するようなことらしい。
とは言うものの、俺も取引に没頭していると昼飯なぞ食っている暇はない。ハガナはハガナで数学の定理の証明とやらに夢中らしいので、それを邪魔されたくないというのはよくわかる。
しかし、リサが許すかというと、また別問題だ。
「お昼作っておくから。きちんと食べること。はい。返事は?」
「……」
ハガナは答えず、そして、リサの笑顔に根負けするかのように、ようやく一言だけ言う。
「どうして……私だけ」
俺のことを見もしないが、言外に示しているのが俺だということくらいわかる。
リサも当然、すぐに理解する。
「ハルが食べないからと言って、あなたが食べない理由にはなりません」
「……」
服屋であれほど強引な値切り方をしたハガナが、リサの前では子供のようだ。
俺はそんなことを思いながらほとんど上の空でネットの海を回っていたのだが、ふと、リサがこちらを振り向いたのに気がついた。
「でも、ハルももちろん食べるわよね?」
これまでは俺が取引に没頭しているのを邪魔することはなかったのに、どういうわけか今日に限ってそんなことを言う。
俺がリサを見ると、いつもの笑顔で出迎えられる。
たちの悪い笑顔だ。
「……追加料金はかかるのかよ」
苦し紛れに質問を向けると、リサは呆れ顔でため息をついた。
「そんなことしないわよ。育ちざかりなんだからきちんと毎日食べなさい。背が伸びないわよ」
「うるせえな……」
同年代の中でそこまで低いわけでもないが、どちらかというと小柄なほうだ。
俺が唸るように返事をすると、リサは今度はハガナを振り向いて、何事かを耳打ちしている。
すると、ハガナはなにか重要な秘密を言い当てられたかのようにピクリと体をすくませた。
そして、うつむいて唇を固く引き結んでいる。
「それでいいの?」
リサに問いかけられると、ハガナはしばし葛藤しているようだったが、やがて屈するように首を横に振った。
一体なにを言ったんだ? と思いつつ、ちょっと顔を上げたハガナの視線がどこに向いているか丸わかりだったので、すぐに予測がついた。というか、リサのそれを苦しげに見つめた後、自分の胸を見つめていた。どうやら、小さいことを気にしているらしかった。
まあ、確かにリサの胸は結構あるもんな、とそっちを見ようとして、リサが俺のことを見ていたことに気がつく。
「ん?」
「あ、わっ……な、なんだよ」
「なに? 慌てて……」
リサは軽く首を傾げ、軽く咳払いをしてから、言った。
「では、そういうわけで、二人ともきちんとお昼ご飯を食べること。ただし、自分の部屋に持っていって、横着して食べるのは許さないわよ。きちんと、ここで食べること。わかった?」
そのリサの言葉で、どうして今日に限って昼飯を食えなんてしつこく言ってきたのか、その理由がわかった。時間が解決してくれる云々とか言いつつ、やっぱり大きな世話を焼いてくる。
俺が呆れと気疲れに似たものを込めてリサを見ると、リサはウインクを返してきやがった。
確かに、ハガナは俺が居間に来てから、一度も俺のことをまともに見ていないはずだった。
それに、もしもさっさと仲直りできるのなら、ハガナの力を借りられる可能性も出てくる。
金儲けのためになら、親の仇とも手を組むことがありうる、と豪語する凄腕の投資家たちを見習うべきだ。
俺はリサを見返して、軽く肩をすくめておいた。
「じゃあ、そういうことで」
リサはぱんと手を打って、片づけをはじめていた。
俺は端末を見ながら、視界の端でちらりとハガナを盗み見る。
ハガナは相変わらずむすっとしたままで、俺のことなど存在しないかのようにパンをかじっていた。
投資コンテストの投資方法には、特に大きな縛りはない。普通の株式市場と変わらないように思えた。
通常の売り買いに加えて、借金をして株を買う信用買いに、株を借りてきて売りさばく信用売りもできる。先物や指数取引、オプションといった複雑な取引は行えなかったが、俺も普段から手を出しているわけではないので、問題ない。
一日の取引回数にも制限はなく、手数料は売買ごとに売買金額の0.1%が取られる。
唯一の特殊なルールが、参加者は取引開始から六十日間だけしか取引をできないということだ。しかも、六十日目になったらすべての持ち高を精算して、結果を算出するのではなくて、その時点で取引に携わることができなくなる。もしも六十日目までにすべての売買を終えなければ、買った株はそのままで、その後も変動を続けていくことになる。つまり、投資コンテストが開催された直後に取引を開始し、株を買ったまま六十日間の取引をすでに終えた人の中には、その後の市場の変動で大儲けしている人も、大損している人もいるというわけだ。
これはおそらく、俺のように一日のうちに何度も頻繁に売り買いする投資手法ではなくて、もう少し長い時間軸で取引するのを得意としているような連中への配慮なのだろう。
ただ、ここは注意しないとならないなと思った。うっかり変な銘柄を持ったままにしておいたら、それがその後暴落してもなにもできないし、逆に言えば、六十日目までにトップの利益に追いつかなくても、有望そうな銘柄を保有しておいて、それがその後値上がるのに期待することもできる。
とはいえ、俺の場合はこのままだと六十日間の取引が終わるのと同時に投資コンテストも終わることになりそうだったので、俺自身の問題としてとらえていたわけではない。
他人の状況を利用するために、注意しようと思ったのだ。
また、コンテスト専用SNSに公開されている情報を漁ってみたところ、仮想空間上の取引所には、現実のそれと同じように調子の良い日と悪い日があるようだった。全体的に下がる日もあれば、上がる日もある。
コンテストが始まってからの流れを見るならば、雰囲気的には全体としてゆるやかな上昇相場といったところだった。
SNSを見ても、全体の相場の調子がよさそうな頃合いを見計らって投資を開始して、六十日間フルに取引をしてから最後に上がりそうな銘柄にすべてを賭けて、値上がりするのを祈る、というのが大多数の投資スタイルのようだった。
長い時間取引できれば、それだけ儲けも大きくなる、という考えの奴らには、正しい方法だろう。俺のように文字通り六十日間だけしか市場と関われない人間は、その点不利にも思えるが、周りを見てから行動できるという利点もある。
特に、仮想空間上の取引だから、現実の取引と違って序盤は勝手がわからない。
今は参加者の中の暇で親切な連中があれこれデータを集めて公開していたりする。
彼らの話だと、序盤に呼ばれたのは長期で投資するスタイルの連中が多く、後半になるにつれ活発に取引するスタイルの人間が呼ばれているらしかった。
俺などはその最たるものなので、残り時間がぎりぎりになってから呼ばれたのだろう。
それに、実際のところ、俺は場の雰囲気というものをあまり気にしない。
まったく動かない時はどうしても困るが、それ以外なら上がろうが下がろうが気にしない。
全体が下がる雰囲気の時ならば、下げすぎているものを見つけて安く拾い、その日のうちか、さもなくば皆が冷静になった翌日に売る。全体が上げているのなら、それに乗っかるだけだ。
世の中には取引手法が数あれど、俺はその単純な戦略を軸にして、取引を行っていた。
これまではそれであほみたいに儲かった。
だから今回もそうするまでのこと。
俺はそう強がってみたものの、冷静であるがゆえに、現実が見えてしまう。
「……うまくいくわけねえよな……」
端末を前に、そんなことを一人つぶやいてしまう。
取引を開始すれば、問答無用の六十日間が始まってしまう。あまり迷う時間はなかったが、それでも俺は迷ってしまって取引開始のボタンを押せなかった。
もしもこのコンテストが現実をかなり正確に表しているのなら、同じことをやれば同じ結果が待っているだろう。
コンテストには次回開催の確約がないし、仮に開催されるとしても、次も自分が呼ばれるかどうかはわからない。とすれば、シュレーディンガーストリートに賞金と共にヘッドハントされるなんていうチャンスは、金輪際なくなってしまうかもしれない。
そう考えると、迂闊に動くことはできなかった。
だから俺は、現実の市場と同時に仮想空間上の市場が動き出すのを、歯噛みしながら見つめていた。
「でも、今更どうするんだ」
いつもの定位置で、あぐらをかいて呻いていた。
「新しい方法たってな……」
ハガナのことはあったが、協力が得られるかどうかわからないし、そもそもハガナにその能力があるかも疑わしい。
考えるべきは、結局自分の力でどうにかできないか、だった。
しかし、天井を見つめながら、これまで見聞きしてきた投資手法を思い返しても、今更新たな発見は望めなさそうだった。それでも、考えをまとめるために、俺はテキストエディタを開き、書き込んでいく。
株取引の投資手法には、大きく分けて三つある。
一つは、株は企業の所有権なのだから、調子のいい企業の株は上がり、悪い企業の株は下がる、という至極当たり前のことを基礎にした投資方法だ。企業の業績を事細かに記した財務諸表を調べたり、その会社が作っている製品のことを調べたりして投資する、会社の基礎に賭けるという意味で、ファンダメンタルズなんて呼ばれる投資手法だ。
二つ目は、ファンダメンタルズなど気にせずに、株価の値動きだけから利益を得ようとするものだ。特に、株価の値段をグラフにプロットしたものをチャートと呼び、そのチャートの動きに従って取引する方法がある。過去の無数の銘柄のチャートを分析して、こういう形の時は値が上がりやすいとか、こんな形の時は暴落が待っている、などと予測する。その名のとおりに、チャート分析なんて呼ばれている。
三つ目は、株の値動きはランダムだから、人間に予測することなどできないと開き直る投資手法だ。額に汗して企業の業績を調べ、目を真っ赤にし徹夜してチャート分析をして万全を期して銘柄を選んでも、無駄だと言い切るのだ。この説を信望する学者は、猿に会社名を書いた紙に向けてダーツを投げさせ、たまたま当たった銘柄を買わせても、投資結果は他の方法と大して変わらなかった、という統計結果を振りかざす。彼らは株の値動きはランダムだと主張するので、ランダムウォーカーと呼ばれている。
俺の場合は、それら三つのいいとこどりだった。
企業の情報を注意して見て、株の値動きの軌跡からも予測して、それでも株価がどうなるかなんてわかんないから、最後は勘に頼って取引をする。
最初は恐ろしくうまくいって、自分は天才なのではないかと思ったりもした。
もっとも、時折絶対の自信があって買ったものが下がったり、これはやばいと思って慌てて手放したものが天井知らずに上がるなんていうことが数知れずあった。
全体として見ると儲かっていたので、それでも俺の投資方法は正しいと思っていたのだが、いよいよ全体の動きが鈍くなってくると、根源的な疑問がむっくりと頭をもたげてやってくる。
自分のやっていることは、はたして正しいのだろうか。
三つの投資手法のいいとこどりなど無意味なことで、どれか一つを極めたほうがよかったのではないか。
俺の悩みと迷いは、要するに、それだ。
だから、ハガナに数学の才能があると聞いて、俺は四つ目の投資手法の可能性を感じたのだ。
数学を使っての未来予測は、物理学では普通のことだ。
たとえば軌道エレベーターの運行ページを見に行けば、地球の周りを飛んでいる塵が軌道エレベーターのどこにいつどれだけ当たるのかの予報が出ていて、運行にかかる時間や危険度が表示されている。宇宙局が予測するのは親指の頭以上の大きさの塵の地球周回軌道で、あまりにも大きな物は衝突の可能性があればレーザーで砕くか、地球に落下させる。今のところ、大きな事故やミスは一度も起きていない。
秒速数十キロメートルで衛星軌道上を動く親指大の塵を、数万個という数で把握しその動きを完璧に予測できる。
それだけ高度な計算手法が使えるのなら、株価の値動きが予測できないわけがない。
そんな信念を持っている連中が数量分析家、つまりクオンツと呼ばれている。
もしもハガナの才能がずば抜けていて、本来ならば大学院にまで行って学ばなければならないクオンツの投資手法を真似ることができれば……。
俺はそう思うのだが、やっぱり夢物語だったのかもしれない。
ハガナがそれらを理解できるという意味でも、ハガナが俺に協力してくれるという意味でも。
俺が午前中いっぱいを使って、仮想空間上の取引になにかうまい抜け道はないのかとあれこれ考察しているページを熟読し終えた後のことだ。
リサの言いつけを思いだし、立ち上がるとテーブルの上にはラップがされたサンドイッチが置かれていた。
「先にトイレ行くか……」
俺はコーヒーメーカーに残ったコーヒーをカップに注ぎ、電子レンジにセットしてからトイレに向かう。
三食ついて一日十ムールならやっぱり安い。
用を足して手を洗い、やれやれと居間に出て、俺はぴたりと足が止まった。
ちょうど時同じくして、ハガナも居間に入ってくるところだったのだ。
「……」
「……」
互いに互いの姿に驚きながら、目を逸らして見なかったことにする。
ただ、ハガナが先にテーブルに座ってしまい、俺は「う」と喉の奥で唸ってしまっていた。
自分は昨日のことにこだわってはいない、と思いつつ、なんだか苦手意識みたいなものが構築されてしまっている。
俺はひとまず遠回りに電子レンジまで行って、温まっているコーヒーカップを手に取った。
すぐそばではハガナが黙々とサンドイッチを食べているが、こちらをちらりとも見ようとはしない。
それに、昨日の服屋での強引な値切りが、ハガナなりの礼の仕方だったらしいことはリサから聞いたが、どっちかというとハガナが謝ってしかるべきではないのだろうか、と思ってしまう。
だというのに、無言のハガナの雰囲気からは、明らかに怒りが感じられる。
察せなかった俺が悪いっていうのか? と聞きたくなる。やっぱりハガナはお姫様気質で、まともにコミュニケーションなんて取れないのかもしれない。
俺は軽く肩をすくめコーヒーをすすり、サンドイッチを窓際に持って行って食べようと、テーブルに歩み寄る。
シンクの上に不自然に置かれたリサの端末に気がついたのはその時のことで、電源が入ったそれは、テレビ電話用のピンホールカメラが、きっちりテーブルに向けられていた。
そこまでするか……。
内心呆れてしまったが、そのお節介さには正直頭が下がる思いだ。
それに、深呼吸して冷静に考えてみれば、ひとつ屋根の下で生活しているのに、いつまでもこんな関係を続けるというのも気が滅入ることだ。
狭い空間なのだから、トイレだの風呂だの、ちょっとしたなにかで顔を合わせることは多々あるし、そのたびに気まずい沈黙をやり過ごすのも面倒だ。
俺は自分には非がないと思っているし、悪いのはハガナだと思うのだが、それでもこここそ男としての度量の見せどころだと、そう決心した。
コーヒーカップを手に、テーブルにつく。ハガナの席からは対角線上に位置し、理論上最も遠い場所だ。サンドイッチはご丁寧に一つの皿に盛られ、テーブルの真ん中に置かれている。俺はそれを一つ手にとって、かじった。リサの手作りらしいというか、具がとても大人っぽい。ツナに野菜に豆が入っていて、肉は脂身の少ない奴が申し訳程度に挟まっているだけだ。
ハガナがその小さな口で半分食べる前に、俺は一つ目を平らげてしまう。
指をなめ、コーヒーを軽く飲んでから、二つ目に手を伸ばす。
ハガナに声をかけたのは、そのタイミングだった。
「飲み物なくても平気なのかよ」
当たり障りのないものを選んだつもりだったが、ハガナは視線を上げもしない。
「コーヒー淹れてやろうか?」
もう一度声をかけるが、ハガナは欠片も反応を見せない。
すがすがしいほどの無視だ。
こっちから歩み寄ってやったのに、向こうは譲歩する気がさらさらないらしい。
なんで俺が下手に出なきゃなんねえんだとは思いながらも、せっかく声をかけたのだから、一気にいってしまうことにした。
「なあ」
俺がちょっと声音を変えて言うと、ハガナは敏感に反応した。
無視していたって、耳を閉じられるわけではない。
ハガナの食事の手が止まり、俺はそこに言葉をつなぐ。
「昨日のこと、リサから聞いたよ」
「……」
ハガナは返事をせず、視線も上げない。
「礼のつもりだったんだろ?」
質問に、ハガナはやっぱり返事をしない。
しかし、サンドイッチを食べることだけは再開する。しかも、その速度はさっきより速い。
「なんつーか……知らなかったから、思ったこと言っちまったけど……別に値切ってもらってありがたくなかったとか、そういうわけじゃ……」
と、なんで俺のほうがこんな言い訳がましく言う羽目になってるんだ、と思いながらも、状況の打破のために可能な限りの言葉を選んだつもりだった。
ところが。
「うるさい」
ハガナは一言、言い放った。
「……」
俺はほとんど呆気にとられて、ハガナをまじまじと見つめていた。
ハガナのほうはテーブルに自分の悪口でも書かれていたのを見つけたかのように、テーブルをじっと見つめている。
そして、しばらくしてから、またサンドイッチを食べ始める。
その速度はさっきよりももっと速い。
怒っているのが明らかだった。
「……いや……」
俺はあっけにとられつつ、なにか大きな予感みたいなものを感じていた。
この数瞬後、頭に血が上るでしょう、なんて天気予報みたいに胸中でつぶやいていた。
それくらい、ハガナの行動はむちゃくちゃだった。
「意味わからん」
「うるさいと言った」
ぶわ、とこめかみのあたりの髪の毛が逆立つような感じがした。
「はあ? うるせえってなんだよ。こっちはお前にいきなり足蹴られて、それでも下手にでてやってんのに、なんだ、それ?」
ハガナは視線を上げようとしない。
サンドイッチを食べる手は、さすがに止まっている。
俺は手にしたコーヒーカップを投げたくなる衝動を抑えるために深呼吸をする。
けれど、こっちの怒りだって収まらない。
ハガナを睨みつけて、言った。
「もとはと言えば、お前がむちゃくちゃな値切り方すんのがいけねえんだろが」
リサの弁ではハガナなりに精いっぱい張り切り過ぎた結果だそうだが、悪気がなければなんでも許されるのであれば、世の中苦労はしないのだ。
しかし、ハガナは返事をせずにサンドイッチの残りを食べると、椅子から立ち上がる。
そして、俺のことを怒りと軽蔑の眼で見るとこう言った。
「働いてないくせに」
俺はその言葉に、一瞬怒りも忘れて、聞き返した。
「は?」
「家出する時にママのお金を盗んできたの? だからお金持ち気取りなの?」
ハガナの言葉に明確すぎるほどの毒がふくまれているのはわかる。
だが、俺はその言葉が予想外すぎて怒ることすらできない。
「働きもしないで、毎日ネットして、それで、それで、利子を払ったからって何様のつもりなの?」
俺はあっけにとられてハガナを見つめ返す。
働きもしない?
「私たちは一生懸命生きている。月で生まれたお前なんかとは違う」
地球からの移民に一番言われたくない一言だ。
ハガナの言葉が矢継ぎ早に出る。
「リサは優しすぎる。なんでお前みたいな奴をかくまうのか分からない」
そして、さらになにかを言おうとしていたが、感情ばかり先走って言葉が出ないみたいだった。ハガナは苦しそうに眉をひそめ、そっぽを向くと唐突にテーブルから離れた。
「あ、おいっ」
思わず呼びとめようとするが、振り返るようなハガナではない。
服屋の時と同じように、ハガナは一度も振り返らずに居間から出て行ってしまう。
ほどなくして、部屋の扉が閉まるバタンという音がした。またもや俺は、呆然とその場に取り残されることになった。
ただ、服屋の時と違うのは、なにが起こったのか皆目分からない、という状況ではないというところだ。
ハガナは金で買われて月に来て、家出した先でも借金をこさえてしまったと思っている。その上、自分の数学の能力では子供たちに勉強を教えられても、彼らの現実的な問題は解決できないと嘆いていた。
そんなハガナからしたら、一日中教会にいて端末にかじりつき、リサから紹介されたアルバイトも断った俺は、家出したあげく遊び呆けているだけのクズ野郎に映ったかもしれない。それはまさしく月生まれで月育ちの、低重力のせいで頭が緩んだ馬鹿の見本だろう。
そのことがわかった今、ハガナの俺に対する手厳しいあれこれは、なんとなく理解できるようになった。
怒りなんてとっくにない。
しかし、それで問題が解決するわけでもなかった。
たとえばこれからあいつの部屋の扉をノックして、扉越しに誤解だと訴えるのか? 実は俺は株式投資で大儲けしているのであって、ネットで遊んでいるわけではないんだ、誤解しないでくれと言うのか?
そう言ったところで、ハガナが扉をすんなりと開けて、そうだったのね、ごめんなさい、と言うとはとても思えなかった。俺がハガナの立場であっても、多分無理だと思う。
物事はすべてタイミングだ。起こったことをなかったことにはできない。俺はそれを株取引で何度も学んできた。
頭を掻いて、ため息をつく。
俺は背もたれにぐったりと体を預けてから、シンクの上の端末に目を向ける。
どこかで盗み見しているとは思えないし、もしかしたらただ単に電源を入れて置いてあるだけで、撮影なんかしていないかもしれない。リサの性格を考えれば、ちょっとしたお茶目交じりの脅しと考えたほうがしっくりくる。
それでも俺はそのカメラのほうを見て、下唇を突きだした。
「どうしたものですかね」
端末からは当然返事などこない。
俺はもう一度ため息をついて、天井を仰いだのだった。
ハガナのことがあったせいと、結局うまい方法なんて見つからなかったせいで、俺は投資コンテストの架空取引所の取引を漫然と眺めていた。
実際に取引するわけではないが、銘柄の動きを眺めながら、ここで買ったらどうなるかとかも試してみた。うまくいっているようないっていないような、そんな変な手ごたえだった。
しかし、俺はその原因がなんとなくわかっている。やはり、ハガナのことだ。
ただし、ハガナに嫌われているとか、誤解されているとか、そんなことではない。
ハガナに言われた一言が、思いのほかじわじわと効いてきていたのだ。
私たちは一生懸命生きている。月で生まれたお前なんかとは違う。
実家の村にいた連中は、みんな地球の大変なところからやってきた者たちだった。月で生まれた俺は、月の大変さもまだよくわからない。しかし、地球から来た奴らは地球の大変さを知っていて、月の大変さも知っている。
なにより、もしも俺のこの投資がうまくいかず、行き詰まったらどうなるのか?
俺はきっと、情けなくも、実家に帰るかもしれない。
だが、地球から来た奴らの多くは、帰る故郷を持たないのだ。
地球から来た者は、必死さが違う。覚悟が違う。月生まれの奴らには、それがない。
そこを突かれたら、俺はなにも言い返すことができない。甘ったれの夢見がちなお子様だと言われたってどうしようもない。
地に足がついて、苦労して月にやってきた奴ら。辛い故郷を捨て、新たなる新天地へとやってきた奴ら。さもなければ、世の理不尽なシステムに巻き込まれて連れてこられた奴ら。
世間の厳しさを知っているという点では、俺はハガナのようなことは経験していないし、リサみたいに大人でもない。七万ムールもの金を稼ぎだしたとはいっても、真面目に働いている人間からすれば貯められない金額ではないし、一生食べていける金額ですらない。
むしろこのまま取引がうまくいかなければ、俺は学歴もない、金もない、地球での苦労も知らない典型的な月生まれの落伍者になってしまう。
ハガナに面と向かって言われて、俺は自分のやってきたことに自信が持てなくなっていた。
大体、自分のやり方がうまくいかなかったからと言って、数学ができるらしいハガナの力を借りたらどうだろうなんて、そんな安易な考えを抱く時点でどうかしていたのかもしれない。
そんなふうに世の中うまくいくのなら、誰も苦労したりはしないはずだ。
俺はたまたま最初に株の取引がうまくいって、世の中は意外に甘くてそれを皆が知らないだけだ、なんて思っていたのかもしれない。
世間知らずのお坊ちゃん。
なによりも耐えがたいそんな姿に、自分が思えて仕方がなかった。
「……」
俺の目はとっくに投資コンテスト上の取引銘柄などとらえておらず、そこでなにが行われているのかも頭には入ってこなかった。悩み、迷って、苦しんで床の上に伸びていた。
そして、俺の頭に浮かんだのは、リサの部屋に呼ばれた時、抱きしめられたあの感触だった。
リサは優しくて、賢い大人だ。
リサに相談したらどうだろう。正しい答えを教えてくれるだろうか?
そんな情けないことをほとんど本気で考えていた。
家を出た直後の、あの獣みたいなやる気はどこに行ってしまったのだろうか。
俺はやっぱり凡百の世間知らずのうちの一人だったのだろうか。
誰も到達したことのない、誰一人として立ったことのない場所に足跡をつけるなんて、そんな大それた夢を見るような人物ではなかったのだろうか。
俺はほとんど泣きそうになって、考えていた。
考えれば考えるほど不安になるのはわかっているのに、止めることはできなかった。
だから、遠くのほうから奇妙な音が聞こえてこなければ、俺は本当に不安の渦の中で溺れていたかもしれない。
「……?」
目を開けて扉のほうを見ていると、しばらく間を空けてもう一度音が聞こえてきた。カンコーンとかいう、木をたたいたような音だ。
俺はそれで、来客だと気がついた。
「……」
しかし、来客だとわかってもずっと床に寝っ転がったままだった。
三度目の音はさして間を空けず鳴らされた。なんとなく、焦っているような感じだった。
来客といえば、この間はクリスが来た。学校の昼休みの間に、飯も食わずに家業の配達を手伝っているらしい。もしもクリスなのだとしたら、時間を浪費させるのはかわいそうだ。
このままインターホンが鳴っていてもハガナが出るとは思えなかったから、立ち上がって部屋から出た。
インターホンは四度目が鳴り、連続して五回目が鳴った。
クリスだとしたら、トイレでも我慢しているのかもしれない。
そんなことを思って、念のため目をこすってから、教会の扉を開けた。
その瞬間、思わずこぶしが出ていなかったのは、本当に幸運としか思えなかった。
「……リサさんいるかい」
インターホンを五度も鳴らしてようやく出てきたことを末代まで恨んでやる、とでも言わんばかりの陰気な目つきがそこにあった。
金貸しのトヤマだ。
ただ、その陰気さに迫力がないのは、疲れが見て取れたからかもしれない。
「なんの用だよ」
「ん……リサさん、今日はいるだろ?」
トヤマは俺の質問に返事をせず、質問を返してくる。
一瞬イラッときたが、多分それは八つ当たりに近い感情だと自分でも分かった。
「いねえよ」
「いない?」
「なんか、大学に行くとかなんとか言って、出てった」
「……ああ、講義の手伝いか」
トヤマはすぐに合点がいったようにうなずく。
どうやら、リサのことを俺よりも知っているらしい。
「そうか。でも、大学での講義の手伝いなら、昼過ぎには帰ってくるだろう? ちょっと待たせてくれないか」
そう言って、すっと俺の脇をすり抜けて聖堂に入ろうとしたので、俺は反射的にその肩を掴む。力の差は歴然としている。
俺はてっきりそれでトヤマが怯むと思ったのに、トヤマはじろりと俺のことを見つめて、むしろ悲しそうな口調で言った。
「大事な用なんだ」
「っ」
俺は気がついたらトヤマの肩から手を離していた。
なにか得体のしれない迫力、言うなれば、子供にはないなにかがはっきりとそこにはあった。
「すまんね」
しかも、軽く頭を下げてくる。
俺はもうなにも言えなくなって、ああとかうんとかもごもごしていた。
「中に入っても?」
そんな状況でこう聞かれたら、通すしかない。
「けど」
「うん?」
「ハガナの奴、死ぬほど機嫌が悪い」
俺が真面目腐って言うと、トヤマは疲れたように笑う。
ひとしきり肩を揺らして声なく笑って、ため息交じりに咳ばらいをした。
「気をつけるよ。だが、あんちゃんは物事の道理をわかっているだろう?」
ハガナが襲い掛かってきたら、守ってくれと言いたいのだろう。
俺はその辺は公平だと自負がある。ただ、そのことを認められればそれだけで嬉しくなる。
リサの言葉どおりだ。
俺は照れ隠しにそっぽを向いていた。
「入れよ」
「お邪魔する」
トヤマを聖堂の中に通して、扉を閉じる。
入り口から真正面にいる磔にされた髭男に向かって、トヤマは帽子をとると両手を組んで軽く頭を垂れていた。
神に祈るような大事な用?
俺はトヤマを案内しながら、そんなことを思ったのだった。
トヤマのおっさんにコーヒーを出して、俺は部屋に引っ込みたかった。
けれど、そういうわけにもいかないかと、結局トヤマの対角線上の席に座って、見るともなしに市況を眺めていた。
現実の取引所に上場されている銘柄ならば大概わかるが、投資コンテストのほうは当然まったくわからない。さほど集中できなくても、どんな銘柄があるのかくらいは見て回れるし、勉強にもなる。とりあえず人気のある銘柄順に見ていって、やっぱりネット上の噂どおりに、架空の銘柄ではなくてこれらには元になる銘柄があるのではないだろうか、なんて思い始めたころだった。
「なんかのゲームかい」
トヤマが越境して声をかけてきた。
「……そんなもん」
「ふうん。そうか」
ずず、とコーヒーをすすり、興味もなさそうに遠くを見る。
ただ、そんな様子ながらに、また声をかけてくる。
「面白いのか」
妙なことを聞くな、と俺はちょっと顔を上げた。
「まあまあ」
「そうか」
「なんだ?」
「いやあ、別に。面白いならそれに越したことはないと思っただけだ」
俺は肩をすくめ、画面に視線を戻す。
「あんたは毎日辛そうだな」
俺の言葉に、トヤマはちょっと首をのばす。
しかし、怒るなんてことはせず、かすれたように笑った。
「辛くはないんだが、どうもこの顔でね。よくそう誤解される」
俺は、自分で言っておいて、笑みが強張ってしまう。
「あんちゃんはいい顔してるからな。この先なにかと得するだろう」
褒め言葉にしては直截すぎる。
俺が軽く顎を引いてトヤマを見ると、トヤマは軽く笑っていた。
「嘘だと思うだろうが、そういうことがあるんだ。別に、美男子だというわけじゃなくてな、第一印象であるんだよ」
褒められているのかいないのかわからずに鼻白むと、トヤマは低く笑う。
「要するに、こいつはできそうな奴だとか、だめそうな奴だとかな。金貸しやってきた中で得た数少ないものだ」
「……そう言うあんたは?」
「俺? 俺はまあ、だめな奴に分類されるだろうよ」
もう一度顎を撫でながら言う。
太っているわけでもないのにたるんだ皮膚と、疲れきったような目。
笑うと、ホラー映画のゾンビのような、不揃いの歯が見える。
「だが、しぶとさが売りでね。大きくはうまくいかないが、どんな場所でもそこそこ生きる場所を見つけられる。まあ、ネズミみたいなもんだ」
「はは……」
しっくりきすぎる自己評価に、乾いた笑い声をあげてしまう。
「その点、リサさんは若いのにしっかりしたもんだ。ああいうのは天性のもんだ。訓練したって得られるものじゃない」
しっかりしている。
確かに、リサを表現するのなら、その一言に尽きる。
「なら、ハガナは?」
俺は興が乗ってきて、ためしにそう聞いてみた。トヤマはハガナの名前にここでの騒ぎを思い出したのか、一瞬苦い顔をしたが「うむ」と唸ってから答えてくれた。
「あの娘は、まあ、よくわからんな……。いや、本当だ。賢そうなのは見てわかるが、それだけだ。自分の殻の中にこもっていると言うのかな、まだ卵からかえってない雛みたいなもんだ」
「……なんだそれ?」
「ううむ。うまく表現できないが……月で金貸しやってると、たまにああいうのに出くわすんだ。そういうのは、あれだな……地球から才能を金で買われてきた奴らに多い」
俺は表情が一瞬こわばったが、トヤマはちょうどコーヒーをすするためにカップに手を伸ばしていた。見られてはいないはずだ、と自分に言い聞かせる。
ただ、金で買われて来た奴ら、というところに突っ込めば、いらぬ邪推をさせることになるだろう。ハガナについてむかつきはしても、ハガナの事情は無暗に人に悟らせていいものではない、という分別くらいはある。
俺が表面上そっけなく取り繕っていると、トヤマは顎を撫でながら、話を続けた。
「金貸しってのは詰まるところカネのやり取りよりも、信用のやり取りなんだ。わかるか?」
わかるか、と聞かれて、わからないと答えるのは悔しいものだ。
だが、本当にわからないので、俺は悔しくても首を横に振った。
「はは。やはり見所がある。俺みたいな人間を相手にしても、きちんと知らないことを知らないと言えるのはそれだけで財産だ」
「……」
こいつに褒められたって嬉しくない。
そう言いたいのに、やっぱり褒められればそれだけで嬉しい。
「で、俺は地球で大学卒業してからずっと金貸しだからな。相手が金を返せるかどうかを判断してきた二十年だ。それで学んだことは、相手の懐具合ももちろんだが、やっぱり根っこのところは相手の人柄だ。金がなくても人のいい奴は必ず金を作って返しに来る。反対に、腐った根性の奴はどれだけ金があっても絶対に返さない。だが、金を貸してはならない相手にはもう一種類あって、あの娘みたいな連中だ」
トヤマはもう一度コーヒーをすする。幸薄そうな場末の金貸しのくせに、言葉にはとても重みがあった。トヤマが自分で言ったとおりに、人生でなに一つうまくいってこなかったからこそ得たような、妙な説得力があった。
「なんというか、希薄なんだな」
「……希薄?」
「そう。感情がないわけじゃないが、どこか根っこがしっかりしてない感じがある。些細なことがきっかけで破滅的な行動を取ったり、なぜそんなに、というほど思いつめた判断をしてしまう。最初は、責任感が強すぎたりする性格なのかと思っていたが……そうではないのだと気が付いた」
トヤマは、いったん言葉を切って、ちょっと遠くを見た。
「自分に価値がないと思っているんだろう。自分を大切なものだと思ったことがないんだろうな。そういう奴らに、金を貸してはだめだ。どれだけ頭が良くてもな」
「……そう、なのか?」
「ああ。自分に価値がないと思っている奴らは、自分の身に起きる幸運はすべてまやかしだと思っている。身に起こる悪いことだけが、現実として受け入れられるんだ。金を貸すという行為は、その金で相手のなにかしらの問題を解決するためにすることだ。でも、そういう奴らは根本のところで、自分の抱えている問題が解決するわけがないと信じている。砂漠に水を撒くようなものだよ」
聞いていて、愉快な話ではなかった。
話す側のトヤマも、楽しそうに話してはいない。
「あの娘は、そんな匂いがする。だが、なにより若いし、リサさんみたいなのに巡り合ったんだ。運がいい。運が良ければ卵から雛になれる。雛になれればぴーちくぱーちく鳴くことができる。声を上げられれば、周りに関心を持ってもらえる。そして、周りに関心を持ってもらえれば、自分の価値に気が付くことができる」
関心、という言葉にどきりとする。
リサの言っていたことそのままだった。
「その点、あんちゃんはほとんどのことに物怖じしなさそうだし、むしろ他人の頭を引っ掴んで自分のほうに向けさせるタイプだ。困ることはないだろうね」
トヤマがちょっとからかうような笑みを向けてくるので、俺は反射的にむっとしてしまう。
とはいえ、もうトヤマのことを悪く思ったりはしていない。
「それに、守るものがある点でも、あの娘は少しずつ殻を破りかけているんだ。花瓶で殴られるとはさすがに想像していなかったが……俺がここに利子を取りに来ると、本当に敵意むき出しだからな。あの娘、家出娘なんだろう?」
唐突に聞かれ、俺は表情を隠すことすらできない。
トヤマは穏やかな目で俺のことを見て、軽く肩をすくめる。
「家かどっかでひどい目に遭って、飛びだしても、月面の人間は他人に優しくない。そんな中で、初めて自分のことをかばってくれた相手が、リサさんなのかもな。そらあ、神か仏かってくらいに身を挺すだろう。あんちゃんよ」
「……な、なんだよ」
「いやあ、あの娘に襲われた俺が言うのはちょっと奇妙だが、ああいう娘は守ってやんねえとだめだぞ。ああいう連中は本人が悪いんじゃない。育った環境が悪かったのがほとんどだ」
岩ばかりが多い、針のように鋭い針葉樹林ばかりが目立つ灰色の国からやってきたという。
冬が長く、夏が短く、たまに空が晴れると神が作ったのだと言われても納得できるくらい青くなるらしい。
ハガナが幸せな人生を送ってきたとはとても思えない。それに、あの服屋に入るまでは、ハガナはとても俺の近くにいたような気がした。あの強引な値切り方も、ハガナなりに精いっぱい張り切った結果だとリサは言っていた。
俺は、そのことを知らなかったとはいえ、そのハガナの不器用な誠意を一蹴した。のみならず、ハガナが守りたくて仕方のなかったリサの、借金の利子の立て替えまでしていた。
そのことにハガナなりに感謝もしてくれていたかもしれないが、それ以上に大事なこととして、ハガナの立つ瀬をなくしてしまったのかもしれない。
ハガナは、自分の無力さを知っている。そこに、突然現れた俺が、ひょいとリサの力になってしまう。
ハガナがどうしようもなく俺のことを怒っていても、仕方がないかもしれない。
「それに、可愛い娘じゃねえか。まあ、口の悪さでも可愛さでも、うちの娘に匹敵するものがあるが」
最後に付け加えた言葉は、冗談なのかどうかわからない。
ただ、俺は聞くに値する言葉だと思いながら、無理やり鼻で笑っておいた。
「いや、ちょっと長く喋りすぎたな。俺の話を聞いてくれる奴なんてなかなかいないから」
トヤマは恥ずかしそうに笑い、コーヒーを飲む。
俺はその笑顔が無意味に格好よく見えて、そんなことねえよ、と言いかけた。
ただ、その言葉が出なかったのは、聖堂に続く廊下のほうから、扉を開け閉めする音が聞こえたからだ。
「お、リサさんのお帰りか」
トヤマは手にしていたコーヒーカップを置き、言った。
ほどなくしてリサが居間にやってきて、トヤマがいることに目をぱちくりとさせていた。
「あれ、今日ってもう返済の日でした?」
「いや、今日は別にお話がありましてね。ちょっと、お時間のほうよろしいですか」
立ち上がると、トヤマは猫背なこともあってリサよりもだいぶ身長が低い。
いかにも小物に見えるその様だが、本人が言ったみたいにやっぱりどこまでも食い下がるしつこさみたいなものが感じられた。
これもまた地に足のついた一つの形態なのだと思うと、このトヤマもそれなりの大人に見えてくる。
「ええ、構いませんけど……ハルがなにか失礼しませんでした?」
そんなことを思っていたら唐突にリサが言う。
トヤマはリサと一緒に俺に視線を向けてきて、軽く笑うとリサのほうに向き直る。
「楽しく会話させてもらいましたよ」
「あら」
リサは心底驚いたようだったが、俺はその反応にちょっと傷ついてしまう。
一体俺はなんだと思われているんだ。
「でも、ええ、はい。わかりました。お話って……借金のことですよね?」
「百合の花の栽培方法について切り出したら、逆に面食らうでしょう?」
リサはトヤマの冗談にちょっと悲しそうに笑い、うなずいた。
金貸しとその金を借りた人間は、決闘を宿命づけられた運命の相手みたいなものだ。
「では、狭いんですけど、私の部屋のほうに」
「そうしてもらえると助かりますな」
リサの先導にトヤマはついて行く。
俺がその様子を眺めていると、ふとリサが立ち止まってこちらを振り向いた。
「ハル」
「……なんだ?」
「ハガナをちょっと見張っておいてね」
わざとめかした言い方だが、確かにトヤマが来てリサの部屋で借金の話をしているなんて知ったらどんな怒り方をするか分からない。
ただ、先ほどのやり取りもあって、俺が監視役として機能するかどうかは保証の限りにない。
そう言いたかったが、言えるわけもないので適当にうなずいておいた。
あるいは、単に俺へのちょっとした気遣いだったのかもしれない。
ほどなくしてリサとトヤマの二人は二階に上がって行った。その場に残された俺は、妙に静かになった居間で一人、銘柄を順繰りに眺める作業に戻った。目は数字を追っているが、なにも頭には入ってこない。俺の容量の少ない頭では追い切れないくらい、たくさんの考えるべきことがあった。
その後、日が暮れてプログラム上の夜が来てようやく、トヤマは帰ったらしかった。
らしい、というのはリサが一人で一階に降りてきたからだ。
多分、ハガナと鉢合わせになるのを避けるために、三階の扉を抜けて帰ったのだろう。
そして、それくらいの用意をしないといけないような話だったらしいというのが、居間に戻ってきたリサの表情で分かった。
俺がまだ一度も見たことがないような無表情で、リサはコップに水を注いでしばらくそれを見つめていた。あまりにも空気が重くて、俺は声すらかけられない。
リサはコップの水を半分一気に飲み干して、小さくため息をついていた。
少し乱暴に口元をぬぐい、うつむかせていた顔を上げると、もういつものリサだった。
「ご飯にしよっか」
ただ、その言葉にはどことなく緊張と疲れがある。
トヤマの話はなんだったのだろうか。いい話であったとはとても思えない。
それでも、リサの振る舞いにはもうトヤマと出会ったことなんてなかったかのような柔らかさがあった。リサは大人なんだ。俺はそのことを強く思った。だからこちらからも聞けず、ただうなずくのみだった。
それと、シンクの上の端末はやっぱりリサのいたずら兼脅しだった。そのことが幸運だったのかどうかはわからない。わかっていることは、夕食で顔を合わせたハガナは、朝にも増して俺のことを無視していたことだけ。それと、俺の最悪感が増したことだけ。
投資は暗礁に乗り上げようとしている。
問題がたくさんある。
どこから解決すればいいのだろうかと、俺はその日の夜、ベッドの中で思った。