◆◆第三章◆◆


「寝てた?」

 顔を見せたのは、リサだった。

 もしかしたら、部屋の中で端末を見つめ過ぎて目が乾き、しょぼしょぼしていたのが寝起きに見えたのかもしれない。

「……子供じゃないんだから、そんな昼寝ばっかしねえよ」

 ベッドの上に胡坐をかいて端末を開いていた俺は、相変わらず子供扱いしてくるリサに、子供っぽくむきになって言いかえしていた。

「似たようなものじゃない」

 ただ、リサの丸め込みには、こう切り返す。

「まあ、おばさんから見るとそうかもな」

「な、おばっ──」

「それで、なんだよ」

 思いのほか反応が良くて、俺はちょっと仕返しができてにやりとする。

 リサはまだなにか言いたそうだったが、軽く咳払いをして、言った。

「ちょっと、上にいい?」

「は?」

 リサは居間のほうを見てから、答える。

「話があるの」

 端末をちらりと見たのは、今まさに投資コンテストのメールの件で、やらなければならないことが一つ増えたところだったから。

 しかし、リサの様子もどこか妙だったので、付き合うことにした。

「……まあ、いいけど。ちょっと待ってろ」

 俺は端末をパスワードのかかるスリープモードにしてから、廊下に出る。

「思いのほか几帳面よね」

 俺は肩をすくめるだけで、無言でその後をついていく。リサは急な階段を上っていく。

 階段に設けられた窓からは、二階部分に小さな中庭と、部屋が一つ見えた。

 どうやら、そこがリサの自室らしい。

「どうぞ」

 と、扉を開けられて入った俺が絶句したのは、その部屋がピンク色で少女趣味だったから、とかいうわけではない。むしろ、そうであったらきっと驚く前に、大笑いしていたことだろう。

 リサの部屋は俺が借りている部屋より狭く、ベッドと机が置かれたシンプルな部屋だ。

 ただ、狭苦しいのには理由があった。壁一面に、実物の本が並べられていたからだ。

「これ……全部、本物なのか?」

「そうよ。買ったら高いんだから」

 リサは椅子を引くと俺に勧めてくる。

 それから、机の引き出しを開けて、小さな瓶を取り出した。

「あ」

「ハルは飲めるの?」

「酒、か?」

 月面では、アルコールは自己責任だ。

「それとも、飲んだことない?」

「……馬鹿にすんな」

「ふふ」

 馬鹿にするな、と答えた時点でもう俺は本物の馬鹿だ。

 リサはこの手の丸め込み方が本当にうまい。

 それとも、俺がやっぱり単に子供なだけなのかもしれない。

「ま、物は試しに」

 リサは言って、銀色の安っぽいグラスに軽く注いで、渡してくる。

 琥珀色の液体で、匂いを嗅ぐと、酷く煙臭い。

「一気に飲んじゃ駄目よ」

 俺はまた子供扱いされている、と思って一気に飲んで見せてやろうと思ったが、リサの言葉がするりと先に回りこむ。

「味わって欲しいから」

 この女は、本当に、ずるい。

 俺は不貞腐れるように軽く口をつけて、危うく咳き込むところだった。

「ぐ……それ、で……よ、用件はなんだよ。酒を飲ませたかっただけか?」

「まあ、そういう理由がなくもないけれど、もっと別のこと」

「別の?」

「そう。トヤマさんが来たでしょ?」

「トヤ……? あ、ああ、あいつか」

 頭に詰め込めるだけ投資の情報を詰め込んで、その上で投資コンテストのことがあったので、ついさっきのことなのに思い出すのに苦労した。投資の世界の一年は、現実世界の十年に匹敵する。

「来たよ。そうだ。利子も立て替えておいたからな」

 そのことを告げると、リサは疲れたように笑って、ため息をついた。

「取立人があなたになるわけね」

「宿泊費と相殺でもいいけど」

「それは助かるかも」

 とリサは軽く言っていたが、本気で助かると思っているわけではない、ということくらい顔つきからわかった。俺は、債権者として、聞いた。

「前借りできなかったのか?」

 月面で教会などというものをおったてて、時には家出中の迷い人を匿うようなことをしているリサは、嘘をつくには純粋すぎたようだ。

「……そのとおり」

 俺は肩をすくめ、酒の入ったグラスを傾け、中の液体を見つめた。

「それで、利子の支払いを待ってもらうために呼んだってわけか?」

 なんだか信用されていないように思えた。しかも、そのことに不機嫌な自分に気が付く。

「匿ってもらってるんだ。そんなケチなことは言わねえよ」

「うん。ハルがそういうところでは信用できそうっていうのもわかる」

 リサは屈託なく微笑み、そんなことを言う。

 望んでいた言葉なのに、いざ言われるとますます俺の顔は苦くなる。

「じゃあ、なんだよ」

 不貞腐れるように聞く俺に、リサは言った。

「ハガナのこと」

 俺は、虚を衝かれたように、リサを見た。

「やっぱり、なにかあった?」

 俺の視線を受け止めたリサは、困ったように笑っていた。

 ただ、俺もちょっと混乱する。トヤマが来たことは知っていて、俺が利子を立て替えたことも知っている。けれど、ハガナのことは知らないというのはどういうことか。

「なにかって……あいつからあのおっさんのこと聞いたんじゃねえの?」

「ううん。違うわ。ハガナは話してくれないの。聞いたけど、口をつぐんだまま先生の仕事に行っちゃった」

「は? じゃあ、なんで来たってわかるんだよ」

「床に水濡れの跡。ずれたソファーとカーペット。ごみ箱に捨てられていた、潰れたお花。想像はつくわ」

「……」

 どうやら、トヤマの言っていた通り、ハガナが暴れたのはこれが初めてではないらしい。

「なにがあったの?」

 隠すことでもないが、あの状況をどうまとめようかと思案していると、リサが視線を上げて、言葉を続けた。

「トヤマさんに電話して大体は聞いたんだけど……ハガナをかばってくれたんだって?」

 俺は肩をすくめるしかない。

「早とちりだったけどな」

「行動したことが大事。やっぱりハルはいい男の子ね」

 リサはからかいの笑みをつまみに、酒を口に含む。俺は口に入れた瞬間に煙の塊でも突っ込まれたのかと思ったが、リサの飲み方はとても様になっていた。

 それは問答無用なほどリサを大人に見せ、いかに自分が子供かを思い知らせてきた。

 ただ、リサはそんなことで大人ぶろうとは思っていなかったらしい。

 むしろ、それは酒の力を借りて、口を動かそうとしているようですらあった。

「で、本当はなにがあったの? トヤマさんは、行き違いがあってちょっと揉めた……的なこと言ってたけど、どう言い繕っても、嘘よね」

「……俺も、途中からだったから、全部が全部、正しいかはわからない」

「うん」

「怒鳴りあいみたいな声が聞こえたから、強盗かと思って割って入った。で、あのおっさんを殴り倒して締め上げて、あれこれ事情を聞いた結果……」

 告げ口になりそうで、言おうかどうしようか迷ったが、リサには言っておくべきな気がした。

「どうやら、あいつが最初に手を出したらしい。花瓶でトヤマのおっさんの頭を殴りつけたんだと。ぶっ飛びすぎだろ、あいつ」

 リサは花瓶の件に目を丸くしていたが、それがゆっくり落ち着いてくると、静かに言った。

「あいつじゃなくて、ハガナ。それで?」

 リサの訂正に、俺はため息をついて、続けた。

「……事情を聞いたら悪いのはおっさんじゃなくてハガナだと思ったから、なんか悪いことしたなと思って、利子を払っといた。そんだけ」

 リサはしばらくじっとグラスの中身を見つめていたが、ため息を飲み込むようにもう一口酒を飲む。額に手を当てたのは、頭痛を堪えるためだったのかもしれない。

「……借金のこと、トヤマさんから聞いた? それとも、ハガナ?」

「おっさんから。ちょくちょく滞納してるってこともな」

「はあ……」

 リサらしくないため息をついて、肩を落としていた。

 借金を返すために借金をするのは、典型的な泥沼の手法だ。

 それに、一体なぜ借金などしているのかもよくわからない。三万ムールは、このあたりではまとまった金だろう。それも人助けとして背負ったものなのだろうか?

 だとすればあまりにも馬鹿げているが、俺はもっと気になっていたことが、一つあった。

「一つ、聞いていいか」

「……なに?」

「なんであいつは……ハガナは、あんなことしたんだ?」

 他人の頭を花瓶で殴りつけるなんて、普通ではない。

 しかも、思い付きという感じではなかった。話を聞くと、わざわざ誘い込んだうえで、そうしたように思えた。

「普通じゃないぞ。それに……目だ」

「目?」

「殺すか、殺されるかみたいな目をしてた。すげえびびってるようにも見えたけど、同時に、刺し違えるような雰囲気だった。花瓶じゃなくてナイフがあったら、やばかったかもしれない」

 大げさだと笑うだろうか、と思ったが、リサは酒でゆっくりと唇を湿らせてから、言った。

「あの子、借金は自分のせいだと思っているのよ」

「……え?」

「元々は、私が大学から借りてた本を、紛失しちゃったのが借金の原因。貴重な本でね。確かにどう見てもゴミみたいなものだったから、もしかしたら、あの子が捨てちゃったのかもしれないけど……少なくともあの子はそう固く信じて、そのことをすごく気に病んでる」

「それ……で?」

「それで、少なくない金額だったし、うちは貧乏だから、弁償するには借りざるを得なかった。銀行は門前払いだし、そうなると貸してくれるのはトヤマさんみたいな地域密着型だけだった。トヤマさんはいい人よ。担保も取らずに貸してくれるんだもの」

「……マジで? 無担保なの? 金利も低いよな」

「え、金利は低くないでしょ?」

「馬鹿言うな。低いよ。銀行の金利が5%からなんだぞ? 銀行に預けるだけで5%取れるのに、担保もなしに金のない奴に12%で金貸すとか、狂気の沙汰だぜ。20%か30%、あるいはもっととってもいいくらいだと思う」

「……知らなかった」

「お前、大人じゃないのかよ」

 俺が呆れて言うと、リサは苦笑いして、肩をすくめただけだった。

「で? あいつが借金を自分のせいだと思ってるのはわかったが……それだけか?」

 俺の言葉に、リサはうっすらと笑う。一瞬、はぐらかされたのかと思って言葉を続けようとしたが、そうではないのだと気がついて、開きかけた口を閉じた。

 リサの笑みは酷く悲しそうだった。

 人は悲しそうに笑うことができるのだと、初めて知った。

「私は、ハルをかなり信用できると思っている」

「あ……? なんだよ、いきなり」

「お世辞じゃないわ。人の内面って、端々を見ていればある程度わかるものだからね。それに、ハガナを助けようとしてくれた。悪ぶってるけど、あなたはとてもいい子だと思う」

 馬鹿にされてる、と思いつつも、リサの顔が真剣なので、怒ることもできない。

「だから、話すのよ? わかってね?」

 酒を手にしたリサは、それにすがるように、銀色のグラスをぎゅっと両手で握り締めた。

「私は、以前に、そのことを酷く怒ったの」

「そのこと?」

「あの子が、トヤマさんをわざと怒らせようとすること」

「……わざ、と? 怒らせようとする?」

「そうなの。あの子、私が見ていないところだと、どうにかしてトヤマさんを怒らせようとするのよ。それも、あなたが言ったとおり、本当は怖いのに」

 あの時のハガナの様子を思い返す。顔は真っ白で、完全にびびってるのに、目だけは相手を殺すような勢いだった。

 でも、怒らせる? 借金を無かったことにするために、殺すのではなく?

「なんでかわかる?」

「……いいや」

「そうよね。私も最初はわからなかったわ。でも、あの子は私が最初に怒った時に、こう言ったのよ。『返すお金がなくても、私が連れて行かれれば解決するでしょう?』って」

「……あ、あー……あ?」

「普通はなんのことかわからないわよね。でも、私はすぐに気がついた。私が地球にいた頃も、そんな話はいくらでもあったわ」

 リサはグラスの中身を見ているのに、ひどく遠い目をして、そう言った。

 俺はなにか、自分が酷く嫌なものの上にいるのではないかという予感に見舞われた。

 それこそ、犬の糞よりももっと酷いなにかの上に。

「あの子は自分のことを話してくれないから、私も推測するしかないのだけど、それでほとんど確信したの。あの子、お金で買われてきた子供なのだと思う」

「ま」

 まさか、と言おうとして、俺の言葉は続かなかった。

 俺の村にいた連中も、地球の最も暗い場所からやってきたのが多かった。

 明るい性格の奴らが多かったけれど、それはなにかの裏返しだったように思えることもあった。地球には、幸福な国の住人が気がつかない場所がたくさんあって、それは幸福な国の中でも例外ではない、と言っていた。月面都市は地球から金を吸い上げる強力な装置で、金はあらゆるものを手に入れる万能の道具だ。

 そういうことが、あってもおかしくはない。

 むしろ、ないほうがおかしかった。

「才能豊かな子供を養子に迎えるなんて、珍しいことじゃないでしょう? 養子を迎える側にそういう意識が無くても、迎えられる側には、お金で買われたという気持ちが芽生えてしまうこともあると思う。もちろん、実際にお金で買われるような不幸もあるでしょうね。だから、ハガナはトヤマさんを怒らせて、トヤマさんが言いだすのを待っているのよ。お前を売り飛ばしてもいいんだぞって」

 リサの口ぶりは、軽率な思い込みから喋っているような感じではない。

 俺はリサを見たこともないほど地に足のついた人間だと思っている。多分、リサなりに調べたのだ。

「ハガナは、本当に頭がいいの。数学の天才よ」

「へ?」

「月面都市大学の特種入学試験問題を満点だからね。地球上のどんな大学でも飛び級入学できる。絶対に奨学金は取れるし、大学側が衣食住すべての面倒を見たがるほどだと思う。家出なんかしてなければ、今頃神童として活躍してるはずなのに……」

 まじかよ、と言葉にもならない。

 てっきり、近所で評判の頭のいい子、程度だと思っていた。

 月面の大学に来たがる奴らは、地球の重力を振り切るほどの上昇志向の塊だから、そこがどれだけの難関か、俺でも知っている。なにせ、人口が三億とか五億とか十億とかの国の、全国的な学力試験で一桁に入るような奴らがやってくる場所なのだ。

 それは、はっきり言って、化け物の領域だろう。

「そんなあの子が、今一番興味があることってなんだと思う?」

「……」

「お金を稼ぐことよ」

 俺の口の中に、嫌な味が広がっていく。

 他人がどうなろうが知ったこっちゃない、と自分なりに思っているつもりでも、目の当たりにしてしまえば、この様だ。

「でも、そんなに、金がないのか? その……あいつが、自分を、売らないとならないくらいに……」

 自分を売るということが実感できなくて、とても間抜けなことを喋っているような感じになってしまう。しかし、ハガナは才能豊からしいし、なによりも見た目は悪くない。そういう売り方だって、あるだろう。

「そうよ、と、言いたいところなんだけど……」

 リサは大きくため息をついて、酒を飲む。

 そして、さらにもう一口飲んでから、乱暴にグラスに酒を注いだ。

「返せるの。本当は、今すぐにでも」

「はあ?」

 俺は訝しげにリサを見る。

 それから、こう言った。

「お前が売られるの?」

「ぶっ」

 リサは酒を噴き出して、咳き込んだ。

「うわ、きったねえ」

「っげほ……ごっほ……もう、変なこと言わないでよっ」

「だって、話の流れ的に、そうだろ」

「……まったく……でも、そうね。あんまり外れてないかも」

「あ?」

「売る物はあるのよ。でも、それはほとんど私の体の一部でね、売るのを躊躇ってるの」

 リサは顔を上げて、宇宙観察をしている子供のように遠い目をしている。

 ただ、その目が見ているのは遥か彼方のなんとか星雲ではなく、もっと近いものだった。

 本棚。

 俺がそのことに気がつくと、リサはため息をついて、言った。

「ハルが仕事したくないって逃げるのと一緒。私も問題を先送りしてばっかり」

 仕事をしたくないと逃げているわけではなく、効率が悪いだけなのだが、そこは黙っておく。

 なにより、リサの言葉に驚いてそれどころではない。

「ここの本棚に並んでいる物を売れば、借金なんて返せるのよ」

 借金の総額は、三万ムールだった。

「……嘘だろ……そんなにすげえものなのか、これ」

「この先、数が減ることはあっても、増えることはない、という意味で貴重だし、人類の知恵の一端を担っている、という意味では、すげえもの、だけど」

「……口真似やめろよ」

「ふふ。でも、無くても生活に困らない、という意味ではそうではないし、これらを売るのは自分の身を引き剥がすような苦しみがあるという意味で、そうでもある」

「なに言ってんのかわかんねえよ……。それに、売っても、また買い戻せばいいんじゃねえの?」

「気軽にそうできたらいいんだけど……」

「できないのか?」

「この手の本はね、どこにでもあるものではないし、誰もが欲しがるものでもない。だから、欲しがる人は強烈に欲しがるし、一度手に入れると滅多に放出しない。つまり、私が売りに出せばきっと買い手はつくでしょうけど、もう二度と私の手には戻ってこない可能性が高い。大金を積まれたから売りに出す、というものではないのよ。それこそ、友人や仲間みたいなもの。言っている意味、わかる?」

 俺は、ちらりと向けられたリサの視線に、ぞくりとしたなにかを感じた。

 仲間を売れば確かに買い手はつく。だが、一度売った仲間は二度と買い戻せはしないだろう。

「だから、だらだらと二の足を踏んでいるの」

 するべきことがわかっているのにぐずぐずしている大人を見つけたら、俺はきっと尻を蹴飛ばして唾でも吐きかけたくなる。そう思っていたのに、目の前のリサには、そんなことを思わなかった。

 リサは本当にそれらの本が好きで、それこそ、生身の人間の友人や仲間と同じくらい愛しているように見えた。本棚を前に、ベッドに腰掛け、ぼんやりと話をするリサが、途方に暮れている少女のように見えた。

 そして、それを情けないことではなく、リサが途方に暮れるくらいなのだから、本当に途方に暮れるようなことなのだろう、と思わせるなにかがあった。

 そこには紛れもなく、本への愛があったのだ。

「じゃあ、ちびちびとでも返すほかねえよな。あいつが、トヤマのおっさんを殺す前に」

 たちの悪い冗談だとはわかっていたし、リサも笑ってはいけないという顔をしていた。

 けれど、笑うしかないほど、切実な冗談でもあった。

「そうね。そうよね。そうなんだけど」

 リサは現実に返ってきたことを示すように、大人びた苦笑いを浮かべて、強烈な酒をジュースのように軽く飲み干した。

「けど、あなたもよ。きちんと収入の当てを手に入れてもらわないと」

「……そのうちな」

 俺は株のことはおくびにも出さず、不貞腐れるように言ってやった。

「まあ、私もごらんのとおり、偉そうなことは言えない身分だけど」

「あ?」

「さっきのハガナの話」

「……あ、ああ」

「私からのお願いがあるの。それで、ちょっとここに来てもらったのよ」

 話が回りくどいのは、リサ自身、どうすべきか迷っていたのかもしれない。

 けど、結局俺に対してハガナのことを教えてくれたのは、リサが俺のことを信用してくれたからだろう。それは嬉しい反面、照れくさくて、こう言っていた。

「可哀想なあの子のために、仲良くしてやって欲しいの、って?」

 ただ、それは照れ隠し以上に、面倒なことはごめんだ、という意味合いもあった。ここは月なのだ。上を目指して飛び上がるとき、どうしてわざわざ荷物を背負いたいと考える?

「その通りよ」

 リサは怒らず、あくまでも真面目だった。

「でも、仲良くやってほしい、とはちょっと違うかな。反りが合わないことなんて、普通にありうるでしょう?」

「あいつと反りが合う奴なんているのか……?」

 素直な感想だったし、リサも少しだけ理解できるのか、苦笑いだ。

「でも、あなたはハガナを庇ってくれた。違う?」

「……違わない」

「それでいいの。私があなたにして欲しいのは、あの子を認めること」

「認める?」

「そう。人の存在なんてとても儚いものよ。古い古い妖精譚などにあるじゃない。その妖精は、人々に存在を意識されることで存在し続けることができる。人々がその妖精の存在を忘れてしまうと、その妖精は存在することができなくなる……なんてお話。知らない?」

「……残念ながら」

「そういう話があるの。で、それは別に妖精に限らないのよ。褒められれば誰だって嬉しいし、気にかけてもらえれば自分は相手にとって意味のある存在なんだ、と思うことができる。人間は、一人じゃ自分を人間だと思えないのよ」

「まさか」

「本当よ。生まれたときからずっと犬と暮らしていれば、自分は犬なんだ、と思ってしまう事例が地球にはあるくらい。誰かを認めるというのは、相手にきちんと反応を返すということ。それがたとえ、嫌っていたとしてもね」

 リサは一呼吸を置いて、俺のことをじっと見据えてきた。

 俺は、少し呼吸が苦しくなる。リサに妙な信用をおいてしまうのは、なんだかんだ言ってもリサが俺のことを尊重してくれているからだ。

「口喧嘩をするくらいなら構わないし、多分、ハルとハガナはそんなに反りが合わないとは思わない」

「はっ。そんなわけ──」

「でも、なによりお願いしたいのは」

 リサは俺の言葉を遮ってそう言うと、ベッドから立ち上がって、俺の手に自分の手を重ねてきた。

「あの子を無視したり、敬遠したりしないで。あの子は自分の価値を見失っているの。借金のカタに自分を売ろうとする思考がまともなわけないわ。神の前にすべての者は平等であると、私なら言いたいけど、それよりももっと前の話。あの子に、自分は単なる商品ではなく、一人の人間であるということを忘れさせないで欲しいの。ここは月だから、お金にならない物には何の価値もないという風潮がある、というのはもちろんわかっているけれど」

 俺は最後のその言葉に、思い切り胸を突き刺された。

 そして、きっとそのときの痛みの表情を、目の前のリサには見抜かれていた。

 リサはそんな俺を見て、うっすらと笑っていた。

 俺は照れ隠しもあって、咄嗟に怒鳴りつけようと思ったが、かなわなかった。

 その瞬間、リサが俺のことを真正面から柔らかく抱きしめていたからだ。

「ハルはしっかり自分を持っているみたいだけど、それはきっとご両親のおかげ」

「っ、ば、馬鹿言うな、俺はあいつらとは──」

「考え方は全然違うかもしれないけど、きっと、ハルがうんざりするくらいあれこれ口出ししてきたと思う」

 反論できなかったのは、思い切りそのとおりだったからだし、なによりあの村を出てきたのは、糞親父たちの強固な信念が反吐が出るくらいに嫌いだったからだ。

「でも、それはそれで、素晴らしい愛情の証。だって、関心が無ければそんなことしないもの。そして、ハルだって『すげえうぜえ』ご両親がいなければ、自分の考えを整理するのは難しかったでしょう?」

 また口真似をされて、俺ははっきりと苦り顔だったが、気配でそのことを察したらしいリサは小さく笑う。

 俺の右耳にリサの吐息が少しかかって、眠くなるようなくすぐったさがあった。

「私が、家出をしたり行くあてのない人を匿うのは、彼らを認めてあげる人が必要だと思うからなの。なにせ、月は忙しくて、賑やかで刺激的だから、他人に構っている余裕なんてないでしょう? でも、私には神の教えもあるし、なんとかそれくらいのことできるからね」

 リサは、俺から離れて、俺の手から酒の入ったグラスをそっと取り上げた。

「どう?」

 そして、最後に尋ねられた。

 ここで断ることができる奴がいたら、尊敬するよ、と俺は思う。

 ただ、腹が立つことにリサの言うことも多少はわかる。

 あのうざい親父たちが俺のことを愛しているとか死んでも思いたくないが、あいつらのおかげでこの月で成功するにはどうすればいいのか、反面教師になった感はある。

 それに、考え方こそ違うものの、村の連中から学んだことは実際にたくさん役に立った。

 関心? 人としての価値?

 俺はいまいち眉唾だったけれど、少なくともハガナはあんまり幸せな人生を歩んではいないらしい。だったら、まあ、多少でも優しくしてやるのはやぶさかではない。

 それに、喧嘩だろうがなんだろうが、無視さえしなければそれでいいらしいのだし。

 俺はリサを見返して、ぶっきらぼうに言った。

「わかった」

 その瞬間、リサは焼きたてのパンみたいに笑っていた。

「ありがとう」

「……ふん」

「あ、それと、言わなくても大丈夫だと思うけど、ハガナのことは内緒にしてね。お酒も、ハルにはまだ早いみたいだからね。私がいない間に飲んでは駄目よ?」

 俺はうるせえとかなんとか言う代わりに、ケッと舌打ちをするように息を吐いた。リサがまたくすくすと笑うような子供っぽい振る舞いだとは自覚していたが、俺はそうせざるを得なかった。

「さて、今日の晩御飯、なににしようか」

 リサはそう言って、柔らかく微笑んだのだった。



 翌日、月面では久しぶりの雨だった。

 当然自然現象ではなく、管理されたプログラム上の雨だ。

 月面では低重力のため、人々の生活や建造物の風化などででる粉じんが、どうしても空中を漂いやすくなる。空気を清浄にするための装置があちこちにあるとはいえ、雨を降らせて洗い流すほうが効率がいいらしい。

 そういうわけで、ドームの接合面に沿って張り巡らされている導管を通じて、朝から雨がしとしとと降っていた。しかも、きちんと情緒を出すということで、光の透過率をかなり落とし、曇り空まで演出している。

 地球では時折家が吹き飛んだり、見渡す限りが水没してしまうような大雨が降るらしいが、月面の雨はいつもこんな風におしとやかな雨だ。

 しかし、やはり雨だといまいち元気が出ない。都市では客足の落ちる雨の日は店を閉めるところが多く、町全体が静まり返るせいかもしれない。

 俺は目を覚ますと軽く体操をして、端末を抱えたまま部屋を出た。

 明かりをつけていてもうす暗い居間にはリサとハガナがいて、二人ともパンを食べている最中だった。

「あら、おはよ」

「ああ」

 俺はぶっきらぼうに答えて、テーブルに端末を置いて画面を開く。

 昨晩はリサからハガナの話を聞いたせいか、いまいち情報収集に集中できなかった。それに、コンテストのことをどうするかという問題もあって、今日の取引の準備ができていない。

 取引開始までの一時間で、可能な限りニュースはチェックしておきたい。

「本当中毒よね。パン、何枚?」

「一枚」

「一枚? 男の子でしょう。足りるの?」

「じゃあ二枚」

 俺が画面を見たまま答えると、「じゃあってなによ、じゃあって」とリサは呟いている。

 が、楽しそうなのでよくわからない。

 俺がそんなリサを横目に見ていると、流れ的にハガナも視界に入る。

 昨日のリサからの話は衝撃的だったので、ちょっと意識してしまうところがあるが、ハガナは当然いつもどおり俺には無関心だった。眠気も見せずに淡々とパンを食べている。

 作り物みたいな艶々の黒髪に、作り物みたいな細い指。生意気そうな目。性格を割り引いて見た目だけで言うのなら、確かに、こいつを金で買おうという輩がいても、そんなにおかしくはないような気がする。しかも数学の天才というのなら、ソフトウェア会社の経営者なんかが、どれだけ金を積んでも買いたがるだろう。

 そして、月には途方もない資金を持つ連中が本当にごろごろいる。

 金で、人を買う。

 賃金を支払って誰かになにかをやってもらう、ということの延長線上だと漠然と思っていたのに、いざそんな話の渦中にいるらしい人間を目の当たりにすると、不憫とかなんとかいう前に、とても不思議な気がした。

「なに?」

 そして、俺はハガナに不審な視線を向けられて、我に返った。ハガナを知らず眺めていたらしい。

 ハガナはしばらく不審げに俺を見つめ、それから、自分の体を見回したり、口元を拭ったりしている。それからなにもないとわかると、さらに険しい目つきで俺を睨んでくる。

「なんもついてねえよ」

「言われなくても確認した」

 相変わらずつんけんした口調だが、俺はハガナの後ろで俺のことをちょっと心配げに見ているリサの視線がなくても、別に無視する気はなかった。

「お前、なんでいつも黒い服着てんの?」

「それがなに?」

 あんたになんの関係があるの?

 いかにもそんな言葉が続きそうだったが、俺は肩をすくめて、言った。

「同じ服ばっか持ってんのか、気になっただけ」

「お前も同じじゃない」

 言われ、そのとおりだと納得する。

 そこに、焼けたパンを皿に載せたリサがするりと口を挟んだ。

「ハガナ。お前じゃなくて、ハル」

 俺がハガナとやりとりしているのが嬉しかったのか、ちょっとにこにこしながらリサが言う。

 一方のハガナは、不満顔だ。

「……。あいつも私のことをお前と呼ぶけど」

「ハル」

 リサはパンにバターを塗りながら、俺の名前を呼び、軽くハガナのほうを顎でしゃくる。

「ハガナ」

 犬の躾か、と思うが、意地を張るのは子供のすることだ。

 俺はやれやれと、口を開く。

「ハガナさんは、どうして同じ服ばかり持っているのか、気になりました」

 小学校のときのように言ってやった。

「よくできました」

 リサが先生のように言う。

「はい、ハガナ」

 リサはハガナに視線を向ける。

 すると、ハガナは意外なことにちょっと戸惑っていた。俺とリサの顔を二度くらい見比べたような気がする。

 戸惑うハガナは、顔に水をたらされた小動物みたいだ。

「……う……は、ハル、も、お、同じ、じゃない」

「はい。よくできました」

 ハガナが口ごもるのを初めて見た。お姫様でなければ血も涙もないロボットかというような乏しい表情だったのに、それだけで途端に女の子らしく見える。

 俺は自分が単純な男だと実感せざるを得ない。

 ハガナの見た目は、やっぱり可愛いのだ。

「で、今のやり取りについてですが、私なりに意見があります」

 と、リサは俺にパンを渡しながら言う。俺とハガナは揃ってリサを見る。

 リサは咳払いをして、こう言った。

「あなたたち、もう少し服に気を遣いなさい」

 俺とハガナが同じタイミングで眉をひそめるのを見計らって、リサは続けた。

「過度に飾り付けるのは堕落だけれど、襤褸を着たままというのもまた堕落よ」

「まだ着れるのに、勿体ねえよ」

「その精神は大事だけれど、あるていどきちんとした身なりもまた大事よ」

「私のは襤褸じゃないわ」

「でも、それ一着だけでしょう」

「え」

 俺が驚くと、リサとハガナが揃って俺を見る。

 ハガナが、もう一度言う。

「私のは襤褸ではない」

 俺の鼻の頭に皺が寄る。

「それに、臭くない」

 そして、その一言で怒るよりも不安になった。

「……もう、臭いか?」

 気弱になって、つい、自分の匂いを嗅いでしまう。リサは苦笑いで言った。

「まだ大丈夫よ。まだ、ね」

「なんだ、大丈夫じゃねえか」

「でも、臭かったわ」

「うるせえな」

「うるさい?」

 思い切り眉をひそめ、ハガナに真正面から聞きかえされて俺は少しいらっとする。

 じりじりと睨みあっていると、リサがフォークで皿をかんかんかんと叩いた。

「やめなさい。というか、どちらも服が一着しかないなんて、この辺でも珍しいわよ」

 俺とハガナがそろって「でも」と言いかけたのを、リサは言葉を続けて封じ込めた。

「ハガナ、今日は教室お休みよね」

 リサは急に話題を変えたが、ハガナは特に驚きもせず、即座に答える。

「お休み」

「じゃあ、ハルは? 夕方は暇?」

 俺は聞かれ、馬鹿正直に答えてしまう。

「五時以降なら……て、おい、まさか」

「そのまさかよ。夕方になって雨が上がったら、二人で服を買いに行ってきなさい。二丁目の商店街に安い服屋さんがたくさんあるから」

 俺とハガナは、顔を見合わせる。

「返事は?」

 その質問に、ハガナがパブロフの犬みたいにリサのほうを向く。

 そして、向いてしまってから、ハガナなりにしまったといった顔つきをしていた。

 リサはそんなハガナを真正面から見返して、にっこりと笑っている。

 リサの大事な本を捨ててしまい、この教会に多大な借金を背負わせてしまったと思っているらしいハガナからすれば、リサの笑顔に抗する術はないだろう。それに、なにかとリサにやり込められているのを見ると、負い目もあるだろうが、ハガナは元々リサにはかなり懐いているように見えた。

 あるいは、懐いていたからこそ、リサに大きな迷惑をかけてしまったと、ひどく思いつめているのかもしれない。

「わかった」

「ん。ハルは?」

 ここで嫌だと言えば、誰が子供かは一目瞭然だ。

 しかし、仲良くしなくても無視をしなければそれでいい、と言っていた癖に、結局余計なことをするじゃないか、とリサを睨む。

 リサはそんな俺の視線を受けて、俺になにかを頼み込むような、そんな笑顔をしていた。

 俺はそれで、リサがどうしてとても大人に見えるのか、その理由がわかった気がする。

 この女は、笑顔一つで色々な感情を表すことができるのだ。

 それはきっと年の功。

 俺は諦めのため息をついて、こう言った。

「わかりましたよ」

「はい」

 リサはそう言って、嬉しそうに笑ったのだった。



 その日は天気が関係しているのか、株式市場もこれといった動きがなくてどうにもやりづらかった。株は極端に言えば上がるか下がるかしかないので、その日に明確な動きがないと、やることがない。

 ある銘柄を十ムールで買ったはいいものの、一日中十ムールで取引され続ければ、結局俺は手数料の分だけ負けることになる。

 投資コンテストのこともあったし、自分なりに考えた新しい投資手法なんかを試したく、じりじりと午前の取引が終わるまで様子を見続けたが、今日は一日中駄目そうだった。

 動いた奴から順に負けていく日、というものがある。それが、今日だ。

 こういう日は、無理に取引しようとすればまず間違いなく損をする。損だけは、避けなければならない。それは伝説の投資家が示してくれた取引のルールを守るため、というわけではない。損というのは、資金が減る以上に、心がすり減る状況なのだ。体温は下がり、冷たいべとつく汗が流れ、冷静な思考ができず、長期的な展望が持てなくなる。

 恐慌状態から抜け出すのは容易ではなく、俺は取引の初期に地雷を踏んだ時、慌てるな、と書いた紙を端末に張っておいたくらいだ。

 あの時のことを思いだし、無理をしないことにした。

 端末を閉じ、新たなる機会をうかがう。

 急がなければならないが、市場が消えてなくなるわけではない。

「けど、雨か……」

 窓の外は暗く、雨がそぼ降り続けている。

 端末を閉じてしまうと情報の奔流も止まり、居間の中はとても静かで、軒先から地面に落ちるしずくの音くらいしかしない。

「どうすっかな……」

 取引をしないと決めた途端にこれだ。市場のニュースやら株式の分析に時間を費やすべきなのかもしれないが、一度切れてしまった集中力を繋ぎ直すのはなかなか難しいし、調べれば取引をしたくなるだろうが、市場はあの有様だ。

 かといってほかにすることも見つからず、途方に暮れてしまう。

 俺は結局、端末に再び光を灯し、オンライン図書館の検索画面を開く。投資に関するあれこれの書籍でも読もうかと思ったのだが、そこで手が止まってしまう。

 俺は山ほど投資に関する本を読んできた。今更なにか新しい物が見つかるだろうか?

 しかも、投資コンテストに参加するのなら、もう数日しか残された時間はない。

 黒い霧のようなものが頭に湧いてきそうな不吉な予感にそわそわし、外でも思い切り走ってこようかと窓の外を見る。

 すると、ぼろいソファーに座って本を読んでいたリサが声をかけてきた。

「あら? 今日はパソコン終わり?」

 文明の利器に疎そうな物言いに、俺はなんだか拍子抜けしてしまう。

 同時に、黒いなにかは頭から失せていた。

「……気分が乗らない」

「ふうん? ま、そんな日もあるわよね」

 リサは特に気にしたふうもなく、姿勢を戻すとまた本を読み始める。

 電子媒体ではなくて、本物の本だ。

 その細い指が薄いページをめくると、はらり、と頼りない音がする。

「なに読んでんだ?」

「ん?」

 リサはこちらを見て、しばし間を開けた。

 俺の質問を、じっくり考えているかのようだった。

「ふるーい、わけわかんねえ歴史の本、よ」

 わけわかんねえ、とは当然俺の口真似だ。

 俺が嫌がると、リサは本に視線を戻し、子供みたいにくつくつと肩を揺らしている。

「フレイザーの『金枝篇』」

「……なに?」

「百年以上前に物好きなイギリス人が、世界中の神様の話を集めた本。雨の日にはなんでか読み返したくなるのよね」

 リサは言いながら、また、ぺらりとページをめくる。

「面白いのか?」

「んー? どうだろう。名著とは言われるけど、はっきり言って大嘘も山ほど入ってるし……まあ、それでも人類数千年分、数万年分の文化的な営みが凝縮されているといえば、面白いかな」

 リサはそこで言葉を切って、本の匂いを嗅ぐようにページに顔をつける。

「なんにせよ、クリスチャンの私が月に降る雨の下で読むには、うってつけじゃないかしら」

「……意味わかんねえ」

「ふふ。世の中一筋縄ではいかないということよ」

 俺はまた子供扱いされてはぐらかされたような気がして、ぼりぼりと頭をかく。

「結局のところ、優雅な暇つぶしってことだろ?」

「そのとおり」

 あっさりと返事をされ、ますます面白くない。

 かといってこれ以上絡むのも馬鹿らしくて、ため息をついた。

「というか、暇そうね」

「……まあな」

 暇ではないのだが、そういうことにしておいた。

「あら。いい若い者が暇だなんて、よくないわね」

 うるせえ、とはねのけることすらできない。

 ため息をついて、言った。

「こういう日はおとなしくしてるのが一番なんだよ」

「それには賛成だけど、でも、問題よね」

「問題?」

「問題でしょう。少年がそんな覇気もなくぶらぶらするしかないだなんて、不健全よ」

「……実際やることねーし。どうしろっつーんだよ」

「なにかないの?」

「お勉強でもしろって?」

 リサはその言葉に、困ったように笑った。

「私がそんなこと言う性格に見えるかしら」

「……意外に見えない」

 俺の答えに、楽しそうにけらけら笑う。

「パソコン以外に趣味とかないの?」

「趣味?」

 思わず、眉根にしわを寄せて聞き返していた。

 趣味。

 趣味だと?

「……もしかして、本当にないの?」

「な、なんだよ……」

 リサがあまりにも真剣にこちらを見るので、俺はちょっとたじろいでしまう。

「別にいいだろ……」

「ふうん?」

「趣味なんて持つ暇ねえよ」

 心の底からの言葉のはずなのに、どこか言い訳がましくなってしまう。

 生きるためには株取引で勝つ必要があり、夢のためにはさらに勝つ必要があった。

 自分に生きる理由があるのだとすれば、前人未踏の地に立つというその夢を叶えること以外にあり得ない。リサみたいにくその役にもたたない歴史の本を読んで時間をつぶすなどという悠長なことをしている暇はない。今は確かにやることがなくてちょっと時間を持てあましているが、それは市場に活気がないせいで、俺のせいではない。

「まあ、ハルがそれでいいならいいけど」

 リサはしばらく俺のことを見つめた後、また視線を本に戻してしまう。

 なにか納得のいかないものが胸中にはあった。

 それは多分、反発心というか、事実を認めたくない心境に近いものだったのだと思う。

 俺から投資を取り去ったらなにが残る?

 その不気味な質問の答えを、垣間見た気がした。

 そんな折、ジリリリリ、とリサの携帯端末が音を立てた。

「あら、電話?」

 リサは本を置いて端末を手に取ると、番号を見てちょっと驚いている。

「大学から……もしかして、講義の依頼かな」

 収入の当て、というより、純粋に嬉しそうだった。借金があって青息吐息なのに、あくせくと仕事を詰め込もうとしないのは、本来ならば責められるべきなのだろう。

 けれど、そういう生き方も、あるいはありなのかもしれない、とリサを見ていると思う。

 夢を持たない生き方。

 がむしゃらにならず、のんびりと……。

 俺はそんな思いに心惹かれている自分に気が付き、こめかみを拳で叩いた。

 この教会に来てからこっち、心が緩んでいる気がする。

 やはり、あのアフロのいるカフェで、ずたぼろになりながら、獣のように集中して取引をすべきではないのか。

 俺がそんなことを考えていると、リサは会話が長くなるとでも思ったのか、端末を手に、風呂場のほうに行ってしまう。扉の向こうからくぐもった声が聞こえてきたが、ずいぶん楽しそうな感じがした。俺がなんの気なしにそちらに耳を澄ましていたのは、ちょっとした嫉妬だったのかもしれない。

 だから、カンコーンという音が響いた時、俺は悪いことをしているのを見とがめられたかのようにびくりとした。

「な、なんだ?」

 と、辺りを見回していると、風呂場に続く脱衣所の扉を開けて、端末に話しかけながらリサが顔をのぞかせた。

「ちょっと待っててもらっていいですか? ハル! 出て!」

「あ?」

「お客さん」

「……ああ」

 そういえば、インターホンの音がこんな感じだった。

 俺は立ち上がり、やれやれと教会の入り口のほうに向かう。リサは再び風呂場に入って、なにやら話しこんでいる。

 しかし、こんなところに来客とは誰なのか。またあの借金取りのトヤマなにがしだろうか。

 そんなことを思いながら聖堂に向かい、扉に取り付けられている覗き穴から、外を見た。

 万が一警官だったら目も当てられない。

 すると、そこにいたのは、カッパを着こんで手元の電子ノートに目を落とし、いじくりまわしている小柄な奴だった。奴、というのは、男か女かわからなかったからだ。カッパは腰の両脇のところがこんもりと膨らんでいて、下になにか大きな荷物があることが察せられる。

 体の線は細そうだが、荷物の量からして男なのかもしれない。

 俺はそんなことを思いながら扉を開けた。

 すると、そいつは顔も上げず、しょっちゅうここに来ていることをうかがわせる感じで、言った。

「こんにちはー、クーン商会です。いつものお野菜なんかと、それと先生に質問が──」

 そして、そいつは顔を上げて、そのまま固まった。

 大きな眼鏡の向こう側で、綺麗な青い目がこちらを見つめている。小さな鼻の周りには少しだけそばかすがあって、紫外線の強い地球から来たのだとすぐにわかる。

 ただ、それ以上に、こいつどんくさそうだな、と一目見てわかった。

「なんだって?」

 固まっているところに尋ねると、そいつは俺を見たまま思い切り後ずさる。

「あ……あっ……あれ? えっと……」

 そして、我に返ると手にしていた電子ノートを傾け、それから辺りを見回して、もう一度俺のことを見る。

「なんだよ」

 そいつはびくりと肩をすくませて、それでも恐る恐る、こう尋ねてきた。

「ろ、六番街教会……ですよね?」

「……」

 俺はちょっと考えて、答える。

「確か、そんな名前」

「……あ、あの……ハガナ、先生はいらっしゃい、ますか?」

「ハガナ先生」

 俺は繰り返し、ちょっと苦笑してしまう。

 どうやら先生をやっているというのは本当のようだ。

「いるよ。つーか、そこ、濡れるだろ」

 指摘すると、ようやくそいつは自分が雨に降られていると気が付いたらしい。どんくせえなあと思いつつも、大きな荷物を抱えながら強い足取りでやってくる姿には感心する。

 大きな荷物を持ち慣れている感じがしたのだ。

「で、なんだっけ?」

「は、はい?」

「野菜、とか言ってなかったか」

「あ、あ、はい。あの」

 そう言って、こほん、と空咳をして、大きく息を吸った。

「わ、私、クーン商会のクリス・クーンと申します。野菜などの生鮮食品から文房具まで、六番街ならどこでも一つからでもお届けします。ご用命は、クーン商会まで!」

 そして、はっきりしゃっきり一気に言い終えた。多分、親に散々仕込まれたのだろう。

 背筋を伸ばして立っても俺より明らかに背が低く、ハガナが俺より低いので、それよりさらにちょっとだけ低い。

 やれやれ、と思いながら、俺は体を引いた。

「ハガナなら中にいるよ」

「あ、し、失礼します」

 やはりきびきびしているのは口上だけで、クリスと名乗ったそいつは目を伏せて聖堂の中に入ってくる。

 ここまではやっぱり男か女か分からない。聖堂の中に入ってカッパを脱いでも、ちょっと自信がもてなかった。

 明らかにサイズの合ってないよれよれで擦り切れたトレーナーに、裾を思い切りたくしあげたジーンズと、ボロボロのスニーカーを履いている。金髪はもしゃもしゃのぼさぼさで、櫛を入れたことなんて生まれてこの方なさそうな勢いだ。

 ただ、カッパを折りたたんで、肩から左右にたすき掛けにして持っていた大きな鞄の中に詰め込もうとしているときに、あまりにサイズの合っていないトレーナーのせいで、襟口の隙間からちらりと胸が見えた。

 多分なのだが、女だった。

「い、今って学校じゃねえの」

 俺は若干の罪悪感を抱えながら扉を閉じて、そう尋ねた。

「あ、え? えっと、が、学校はお昼休みなので……お昼の分の、配達を……」

「ああ、そうか……そういや昼休み長かったな……」

 ということは、クリスは初等学校に通う十四歳以下というわけだ。

 月の初等学校は一部を除いて昼休みが二時間以上ある。

 学校なんてほとんど行かなかったから忘れていた。

「で、配達ついでに勉強か?」

「え? な、なんでわかったんですか?」

 そのままにしておくとクリスはまごまごして歩きだしそうになかったので、俺は鶏を追い立てる要領でクリスを前に立たせて歩かせていた。

「さっき言ってたろ。ハガナに質問があるとかなんとか」

「あ、あ、そ、そうですか……」

 クリスは気弱そうなのに、足取りだけはとてもしっかりしている。

 身につけている物がいかにも外区の低所得者層なので、単純労働の移民組だろう。世渡りは下手そうなのに、大きな荷物を担いで昼休みに家の仕事の手伝いをして、なおかつ勉強までしにやってくる。俺はクリスを追い立てて廊下を進みながら、その逞しさに軽く嫉妬していた。

 居間に戻ると、リサは電話が終わっていたようで、再び本を開いていた。

「あれ、クリスちゃんじゃない」

「こ、こんにちは」

「あ、そっか。今日配達の日だったっけ……すっかり忘れてた」

 リサは言いながら、クリスが担いできた大きな荷物から、野菜だの小麦粉だのを受け取っていく。

「今回はちょっと量が多いですけど……間違ってないですか?」

「うん。大丈夫。そこのハルが住むことになったからね。この間は食材なくなっちゃって別のところに買いに行っちゃった」

「あ、そ、そうだったんですか……。リサさんが別の商店に買いに行ってるって、その話聞いて……私、量を間違えて配達してたかなって心配になってて……」

 気弱で心配性。

 リサはあれこれ言う前に、そんなクリスの頭をぐしぐしと撫でる。

 心配しなくてもいいと百回言うより、効果があるのだろう。

「で、ハガナよね? 部屋にいるわ」

「あ、あの」

「こっちは私がやっとくから。時間は有効に使うべきね」

 リサはにっこり笑ってそんなことを言う。地球のなんたらいう本をのんびり読んでいたリサの口から出るとは驚きだが、なぜか説得力がある。まごまごしていたクリスは頷いて、感謝するように一礼して、奥の部屋に小走りに駆けて行った。

「さて、食材も届いたことだし、お昼ご飯にしようかな。ハルも食べるでしょ?」

 クリスのことを眺めていた俺は、ふっと我に返る。

「んあ? ああ、追加料金がかからないならな」

「可愛げないわね……。まあ、取らないから食べなさいな。それよりも、クリスちゃんがいるからね……なににしようかな」

「あれ、あいつは学校で食ってんじゃねーの」

 俺は何気なく言ったのだが、リサは困ったように笑う。

「月で無料のものなんてなかなかないから」

 クリスは小柄でやせぎすだった。あのくらいの年ごろならよくある体型かもしれないが、もしかしたら昼食を食べる金もないのかもしれない。

「ハガナの数学の授業を受けるために、節約してるのよ」

 食材を詰め込んだばかりの冷蔵庫からあれこれ取り出して、リサはそう言った。

「クリスちゃんも信じられないほど頭いいんだけど、現実的に考えて、進学するなら奨学生以外にないからね。得意な数学だけ鍛え抜いて、奨学金で大学まで行くんだって」

 そのための、一点突破の投資ということだ。気弱そうなのは表面だけで、芯はしっかりとした秀才肌、とそんなところだろうが、俺はやっぱり地球からやってきたそういう連中を見ると、胸の奥がちくちくする。

 無意味な焦りと嫉妬なんだとわかっていても、どうしようもない。

「まあ、げに恐ろしきはハガナよね。学校じゃ誰も数学を教えられないクリスちゃんに、天才だと言わしめてるらしいから。成人したら、即座に大学院まで奨学金で飛び級できそう」

「……」

 人が褒められている話を聞いて素直に楽しめるほど俺は心が綺麗じゃないのだが、そこまで言うのだからやっぱりハガナは数学に関しては相当なものなのかもしれない、とは思う。

「けど、どっちも性格に難ありだよな。数学得意な奴って皆ああなのか?」

 俺が憎まれ口をたたくと、リサは少し考えて、くすりと笑った。

「難ありとは言わないけど、芸術家っぽいところがあるのは確かよね。クリスちゃんもよく見晴らしのいい場所で、難しい問題をずっと考えてるって言うし」

「へえ……まあ、才にはそれなりの代償を、か……」

「もっとも、才能というのは結局努力に支えられているんだなって、二人を見てると思う。ハガナも部屋に籠もってずっと勉強してるんだもの」

「うえ、そうなの?」

「そうよ。しかも、私が月面都市大学図書館を利用できると知ったら、珍しく頼みごとをしてきてね。どれだっけなあ」

 と、リサはテーブルに置かれていた自分の端末をいじり、なにかのファイルを呼び出すと、俺に見せてくれた。

「あったあった。これの電子書籍版を借りて欲しいって」

「……なんだこれ?」

「ロイド・F・スティール著『数学定理』。有史以来の数学の定理を集めた本だって。これを、最初から逆算してるみたい」

 どういうことだ、と首をひねっていると、リサも半笑いで言った。

「人類がこれまで積み重ねてきた数学の偉業を、自力で再構築しようとしてるのよ」

「……はあ!?」

「本には千いくつか数学の定理が載ってるらしいんだけど、ついこの間、八百個目の定理を導き終えたとか言ってたわ。想像もつかないわよね。その当時の人たちとはもちろん単純に比べられないけど、あの子は過去の偉人の業績を、自力で捻り出してるのよ。ちょっと、怖いくらいよね」

 リサはいたずらっぽく肩をすくめているが、俺はそれすらできない。自分は同年代の中では図抜けた位置をひた走っていると思っていたが、世の広さを見せつけられたような気がした。

 これが本物の、金で買われるほどの才能なのだ。

 悔しさと、足踏みを続けている自分の不甲斐なさに、顔が歪む。

 つい思わず、数学なんてできたって金持ちにはなれやしない、と悔し紛れの悪態を胸中でついてしまう。

 その、直後だ。

 数学なんてできたって?

 その言葉に、妙な引っ掛かりを感じる。なにか大事なことを見落としているような気がする。

 なんだろうか? 数学と金で真っ先に思いつくのは、ソフトウェア会社なんかの求人だが、そういえば、リサが大学の話をしている時にも同じようなことを考えた気がする。

 あれは、一体どんな話だったか。

「どうしたの?」

 リサの顔をじっと見つめていた俺は、リサに聞き返され、はっと我に返る。

 文系科目は学んでも金になりやしない。学ぶなら、数学か物理かという会話だ。

 そして、その二つはどうして重要だと思ったのか? それは、世界の法則を司る道具だからだ!

 ハガナにそこまでの数学の才能があるのだとしたら、取引に利用できるかもしれない。

 天才たちだけの特権だと思われた、現代の錬金術の世界にアクセスできるかもしれない。

 投資で行き詰まっている俺の、突破口になるかもしれなかった。

「どうしたの?」

「あ? あ、いや……」

 俺の頭の中には、思いついたアイデアが怒涛のごとく駆け巡っていた。

 リサは俺のことを怪訝そうに見ていたが、やがて肩をすくめ、エプロンをつけた。

「さて、じゃあお昼ご飯に取り掛かろうかな」

 リサが言うのにあわせて、俺は行動に移っていた。

「飯いらねえ」

「え? あ、こら、ハル!」

 リサに呼びとめられても、俺は端末をひっつかむと、無視して部屋に駆け戻る。

 そして、端末の電源を入れて、はやる気持ちで検索エンジンを開く。

 数学を使っての投資は、俺にはとても手の出ない手法なため、詳しく検討したことがない。

 だが、数学の天才たちが大儲けをしているという逸話ならば、いくらでも聞いたことがあった。もしも同じことができるのなら、その先にどれだけの可能性が広がっているのか、想像もつかなかった。

 俺ははちきれそうになる期待を胸に、ネットの世界に潜っていったのだった。