「五時よ」
突然人の声がして、俺はがばっと体を起こした。
すると、扉のところにハガナが立っていた。
まっすぐに俺を睨みつけていて、今から花瓶で殴りかかられそうな気すらする。
「五時になったのに、なぜ来ないの?」
俺はそれで、ようやく朝のやり取りのことを思い出した。
「……あ、ああ」
俺の喉はかさかさに渇いていて、うまく言葉が出なかった。ハガナに数学の能力を使わせて株取引で新しい道を試せないだろうか、と調べまくっていたのだが、夢中になっていたらしい。
ひどく消耗しているのは、興奮もあったが、もともと数学のことなんて全くわからないせいもある。一つの文章を読み進めるのに、十回は辞書を引かなければならなかった。
ハガナはそんな俺を見て「?」と訝しげに眉をひそめたが、特になにも聞いてこない。ハガナのほうは俺に特に関心があるわけではなく、リサの命令に従って呼びに来たにすぎない。
ただ、俺のほうにはもしかしたら、という考えがあるために、ハガナを怒らせないようにと、手早く準備をした。習慣として端末を鞄に入れ、文字どおり全財産を背負ってから、部屋を出る。ハガナはいつもの黒い服に黒い鞄を持ち、これから葬式にでも行くのかというような陰気さだった。
「服はともかく、鞄まで黒かよ」
「この服の色にオレンジはあわない」
「……なんだ。美的感覚はまともなんだな」
廊下で前を行くハガナは、顔を思い切りしかめて、振り向いた。
「まともよ。お前とは違う」
初対面では臭いと連呼し、今朝は襤褸とまで言われた。
その数学の能力を借りることになるかもしれないが、ささやかな仕返しくらいは許されるだろう。
「あ、お前って言った」
「は?」
「リサに言ーってやろ」
リサには絶対服従らしいハガナだ。正直、子供の口喧嘩以下だが、効果はあったようだ。
ハガナは重大なミスでも犯してしまったかのように立ち尽くし、俺はそんなハガナの脇をざまーみろとばかりに通り過ぎる。
その小さな手が俺の服の裾を掴んだのは、その瞬間だった。
「リ、リサには言わないで」
今にも泣きそうな顔だった。
俺は自分の認識が追いつかない。
同い年くらいの女の子が、細い眉を八の字にして唇をわななかせるように尖らせている。
しかも、その細い手は命綱を握るみたいに、ちょこんと俺の服の裾をつまんでいるのだ。
そんな状況、いくら筋トレしたところでどうにかなるものではない。
俺は相手がハガナだということも完全に忘れて、必死に言葉を探しまくっていた。
それこそ、死ぬ間際に見るという走馬灯のように過去の記憶を探した。あの走馬灯も、死に瀕した際に過去の記憶の中から助かる術を探すものらしい。
そして、俺が結局思いついたのは、至極単純なものだった。
「い、言わねえよ」
「……本当?」
すがるような上目遣い。
どうやら、俺が想像している以上に、リサに対しては取り繕いたい体裁があるらしい。
気圧され気味にうなずくと、ハガナはそれでもしばらくじっと俺のことを見た後に、ようやく、手を離した。
「それで、なに?」
そして、ハガナがゆっくりといつもの無表情に戻ってから口にしたのは、そんな意味不明な質問だった。
「は?」
「なにって聞いているの」
少し苛立つように動く眉。
俺はその変貌振りに呆気に取られつつ、やはり言葉の意味がわからないので、聞き返した。
「な、なにを聞いてんだ? 意味がわからん」
本当にわからなかった。ハガナはそんな意味不明な質問をしておきながら、答えられないこちらを見て苛立っている。俺は理不尽を前に、戸惑うことしかできない。
ただ、ハガナのほうもやや挙動が妙だった。
そして、その原因はほどなく明らかにされた。
いらいらしつつも、やがて目を逸らして、苦しそうに、言ったのだ。
「その……名前」
俺はなんとか頑張って笑うのを堪えようとしたが、軽く噴き出してしまった。
ハガナはそんな俺に対し、なんて無礼な奴だと言わんばかりに蔑みの目をしている。
しかし、唇が真一文字に引き結ばれているのを見れば、恥ずかしいのを必死に堪えていることくらい俺にだってわかる。
俺は疲れたように笑いながら、言ってやった。
「川浦ヨシハル」
「……は? リサが呼んでる時、そんなに長くなかった」
馬鹿にしているの?
ハガナの睨むような目は露骨にその言葉を含ませていたが、俺はあっさりと受け止めながら、答えた。
「ああ、それが本名。ハルってのはリサがつけたあだなだ」
「……」
ハガナははっきりと驚いて、俺を見る。
「……本名? 馬鹿なの?」
その言葉も、ついに口からポロリと出た。
「お前も家出してんなら、通報しようなんて馬鹿なことしないだろ」
ハガナは変わってはいるが、この月面都市で家出中の未成年が本名を知られるということの意味を、きちんと理解していた。突拍子もないことばかりするが、常識が無いわけでもないのだ。
「……でも、教える理由がない」
「あ? 理由……てまあ、その、あれだ」
「なに」
ハガナは無表情に、怒ったようにたずねてくる。
今度は俺がやや照れながら、答えていた。
「あだなで呼ばれたことってねえんだよ」
「……は?」
「周りは年上の荒くれ者が多かったからな。呼び捨てばっかで。学校もほとんど行ってねえし、その、あだなってなんかいかにもっぽくて嫌なんだよ。くすぐったいっていうか……」
リサにハルと呼ばれると、なんともいえない感覚に包まれる。
決して悪い感覚ではない。
でも、今の状況には、なんとなく相応しくないような気がした。
女にあだなで呼ばれてへらへらしているなんて、腑抜けもいいところだ。
「だから、呼ぶんなら、川浦は……ちょっとまずいな。下の名前呼び捨てとか、まあ、あのうるせえのが側にいなければ、『お前』でもいいよ」
俺があっけらかんと言うと、ハガナはその言葉を訝しむように顎を引く。
なんだか、騙されてばかりいた子供みたいに見えた。
黒い服の、疑り深い少女。
葬式みたいな服、というさっきの印象が再度浮かび上がってくる。
あるいは、それはハガナが売られていく時に着ていた服なのかもしれない。
「で、俺のほうはハガナと呼べばいいんかね」
俺が尋ねると、ハガナはうなずいた。
そして、うなずいてから、一瞬なにかを言いかけようと口を開きかけた。
「……っ」
「ん?」
俺が聞き逃して聞き返すと、ハガナはハッと我に返ったように口を閉じた。
それから、過度に表情を消した冷たい氷のような顔になって、そっぽを向いた。
目の前にあるのは、性格のきつい女特有の、すべての言葉を弾き返す横顔だ。
「服を買いに行かないと」
ハガナは機械的に言って、歩き出した。
目まぐるしく変わる表情と言動に、俺は呆気に取られていた。
すると、ハガナは数歩行ったところでぴたりと止まる。歩き出さない俺に気がついたらしい。
よくできた玩具のようにくるりと振り向いた。
「なにをしているの?」
こないの? 馬鹿なの?
俺は「はいはい」と疲れたように返事をして歩き出す。
ハガナはその返事が気に食わなかったのか、片眉を吊り上げた。
しかし、結局なにも言わずに前に向き直って、無言で歩き出した。
教会の掃除をしていたリサは、離れて歩く俺とハガナを見て、苦笑しながら「いってらっしゃい」と言っていた。
雨はすでに上がっていた。
ごちゃごちゃした狭苦しい町は、いつもの夕方の演出の下で、水に濡れてキラキラと輝いている。いつもならば低重力を生かして壁から屋根、屋根からまた壁に、と飛んで行くところだが、ハガナはそんな芸当できやしないので、おとなしく歩いている。もちろん、女だからそういうことができないという意味ではない。スポーツ番組の中では猫みたいにしなやかな体をした女たちが、ニンジャスタイルで複雑な地形を走り抜ける競技がある。ただ、ハガナには根本から似合わない。汗と歓声の沸き立つ会場の外で、騒がしさに眉をひそめながら紅茶でも飲んでいるのがお似合いだろう。
そういうわけで、俺とハガナは二丁目にあるらしい商店街にちんたらと向かっているのだが、ハガナは時折俺のことを振り向いていた。それは別に俺のことが愛しいとかそういうわけじゃない。俺のほうがとてもではないが女と二人連れで歩くことなんてできないので、少し距離を開けているせいだ。それに、じっくり町を歩くなら歩くで見たい物がたくさんあるせいで、ハガナの苛立ちがよくわかるくらい、遅れがちになっていた。
なにせ、この世に存在する物で値段のつかない物はない。それはつまり、あらゆることが商売に利用され、経済活動の担い手になっているというわけだ。投資を行う俺のような人間にとって、町というのは情報の宝庫だった。
なにかが売られていれば、必ず誰かが利益を上げているからであり、その利益が積み重なって、企業は繁栄する。
もちろん、俺は会社を興して髭剃りを売ろうなどとは思っていない。髭剃りを作る会社に投資をすることで、その利益のご相伴に与りたいのであり、その方法が、株式投資だった。
わざわざ自分で汗水流さなくても稼げる方法があるのなら、そうするべきだろう?
俺は親父たちのように手作業で家具を作るより、その家具を買い付けて誰かに高値で売る奴らのほうを尊敬するし、俺はそういう奴に投資をすることで、転売の労すらも省きたい。
道沿いに建つ家を軽く眺めたって、建物の建材、扉から、窓枠に飾られる玩具、軽く覗き込んだときの家具、電子機器から、この辺の所得層はなにを買って、なにが流行っているのかを知ることができる。
すれ違う連中の着ている服、持っている端末、入っていく店。証券取引所に四千いくつも会社があれば、その中の会社が作っているなにか、売っているなにかがどこにいても必ず目に入る。金儲けの種はそこいらじゅうに蒔かれている。俺はその種がつけた実を刈り取るだけ。
そして、その方法だけが、手っ取り早く、しかも超絶な金持ちになれる唯一の方法……のはずだった。
今はやや調子を落としていて、その方法も間違いだったのか? と自信が揺らいでいる。その結果、一つの選択肢としてハガナに数学の力を貸してもらう、なんて思いついたのだが、果たしてそんなことが可能なのかどうか。
俺が必死になって、辞書を引きながら調べたところによれば、やはり数学者たちが考案した、数学者たちだけが用いることのできる投資手法というものがあった。
金融数理とも、金融工学とも呼ばれる厳めしい名前のそれは、専門課程の人間が大学院にまで行かなければ学べないようなものだという。
その代わり、もしも自由自在に扱えるのならば、科学的に株取引を行えるとあった。
数学の力というものは、凄まじい。
軌道エレベーターが事故なく運営できるのは、地球の周りを時速数十キロメートルで飛び交う拳大のゴミの軌道を、完璧に予測できたりするからだ。
その正確さで、取引が行える。
もしも俺もその方法の恩恵に与れるのなら、間違いなく今のもやもやを突破できるはずだった。
しかし、当然、懸念はあった。
一つには、ハガナが金融工学とやらを理解できるのか。
もう一つには、単純に、ハガナが俺に協力してくれるかどうかだった。
「ついた」
と、ハガナは立ち止まって言った。
気が付くと、俺たちは大きな階段を上り終えていた。
そこからは、道の両脇に七階建てくらいのビルが今にも道に覆いかぶさらんばかりに建っている、息が詰まりそうなほど密度の高い商店街が続いていた。ここが、二丁目商店街らしい。
商店街は細く、長く、道は軽く右に折れ曲がっていた。商店街は人の流れが両脇のぼろい商業ビルに挟まれ、細い川のようになっている。商店街の道は、今いる場所よりも少し低くなっていて、また階段を下りなければならない。さしずめ、俺たちのいる場所は用水路の水門みたいな感じになっているのだが、それでふと気が付いた。どうやら今いる場所は、月面都市が大昔に拡張工事をしていた頃の名残らしいと気がついたのだ。この高台の部分は、プログラムによって朝から夜までを演出する、月面都市を覆うドームの基礎部分があった場所だった。
今はドームの端はかなり後方にあるし、技術の進歩によってこんな原始的な堤防など用いてはいない。その代わり、原始的ゆえに、実際にその上に立ってみると迫力があった。コンクリートなのか、それとも月の地形を削りだしたものなのかはわからないが、確かに左右に堤防のようなものが延々と続いている。今となってはごちゃごちゃしたビル群に飲み込まれて、さほど遠くまで追いかけられはしないが、はっきりとそこに月の歴史を見て取ることができた。
「なに?」
ハガナは俺のことを見ながら、怪訝そうな顔をしていた。
俺は顔を上げて、説明してやった。
「これ、あの天井のドームの端っこがあった頃の名残だぜ」
「……」
ハガナは空を見上げ、はるか遠くにうっすらと接合部が見えるドームに目を凝らす。
「まさか」
「嘘なんかつかねえよ。俺が八歳くらいだっけなあ。小さいドームの上にさらに大きい今のドームを重ねて造ってたからな」
「……本当、なの?」
ハガナは疑わしげに俺を見る。
俺は肩をすくめて答える。
「調べればすぐにわかることで嘘なんかつかねえよ……って、ほら、そこに看板立ってる」
商店街の入り口には、手入れもされずぼろぼろに錆びた小さな看板ではあったが、旧ドーム基礎跡地、と書かれていた。
ハガナはそれを見て、目を丸くしていた。
「だから、今でもよく覚えてるよ。昔は、月の空は二重だったんだぜ」
俺が空を見上げながら喋ると、ハガナも釣られて顔を上げていた。
行動の端々に猫らしさがあったが、つい視線を釣られてしまうのもまさしく猫のようだ。
ただ、それは単に、複雑怪奇な性格をしているハガナも、根っこのところは単純なだけなのかもしれないと思った。
「すごい」
端的だが、それゆえに力の籠った感想が聞けたからだ。
俺は自分が褒められたかのように、鼻の穴が膨らんでしまう。
「月生まれだからな。地球のことはよくわかんねえけど、月のことなら大体知ってる」
「月、生まれ?」
顔を戻したハガナは、目をしばたたかせて、聞き返してきた。
「あ? 言ってなかったか? 俺は第一次移民団の最初のグループが、この地についた瞬間に生まれたからな。俺と、月面都市は大体同い年」
「……」
ハガナはとても素直に驚いているようで、俺はまたしてもちょっと得意になってしまう。
しかし、やがてハガナの顔からは驚きがゆっくりと消えていって、いつもの無表情に戻る。
「建設に年月がたくさんかかっているから、年齢は同じじゃない」
「……人間だって構築中は年齢に数えないだろ」
「……。そうね」
しばし虚を衝かれたようだったが、ハガナは意義深い真実に納得するかのようにうなずいていた。
「でもまあ、改めて見ると、よくこんなもん造ったと思うよな」
俺はこの月面に空を造りだすドームを、目を細めて見上げながら言った。
月面の歴史で五本の指に入る大規模公共工事には、千を超える企業が参加したらしい。
ただ、俺がこのドームを見るたびに感嘆のため息を漏らすのは、このドームを支える科学技術云々にではなくて、もっとわかりやすい事実にだ。
この都市のインフラを支えるエメラルドインダストリー関連会社は、工事の参加企業のうちの四割を数えたらしく、そのときの年間最大利益である二百九十億ムールは未だに月史上で最高記録になっている。
競争が阻害されないための独占禁止法がありつつもこのありさまなので、その法律がなかったら月面の静かの海にはとっくにエメラルドインダストリーのロゴが刻まれているだろう、なんて言われているのも理解できる。
エメラルドインダストリーは、金と権力で、月の歴史に前人未到の記録を残し続けている。
そして、この世には、個人でそれに匹敵する資産を築き上げた人間が、確かに存在するのだ。
「空になにかいるの?」
俺は、ハガナのその言葉ではっと我に返った。
「いや……。雲の上の存在をちょっと考えてた」
もちろん、月生まれの俺は本物の雲を見たことがない。しかし、映像や知識で知っている、という意味では、雲の上の存在なんていう慣用句はぴったりな表現な気がした。
エメラルドインダストリーのことなんて絶対に知らないだろうハガナは、疑問顔で空を見上げ、それから俺のことを怪訝そうに見つめていた。
「神を、信じるの?」
「は? はは。リサの言うあれか?」
天の国にまします我らが神よ。
地球人は空の向こうに死後の世界があると思っていた。
確かにここは金を稼ぐ者たちにとっては天国かもしれないが、このご時世、天国という言葉がどこかハッピーな場所、という以外の意味で使っている奴などほとんどいないだろう。
本と聞いて、あのリサが大切にしているボロボロで使いづらい実物の本を思い浮かべなくなるようなものだ。
「神なんていないだろ」
俺が言うと、ハガナは否定も肯定もせず、じっと俺のことを見つめていた。
その顔はいつもの無表情にも見えたが、いつも以上に真剣にも見えた。
俺は、リサのことを揶揄するような言い方だったことに怒ったのだろうか、とも思ったが、ハガナはしばらくするとゆっくりと目を閉じた。
そして、高慢ちきな野良猫がそっぽを向くように、すいっと目を逸らした。
「私もそう思う」
同意を示してくれるなんて意外だな、と軽口を叩こうと思ったが結局口にはしなかった。
その横顔が、ひどく寂しそうなものだったからだ。
俺はそれを見て、リサの話を思い出す。リサは、ハガナは金で買われてきた子供ではないかと言っていた。そんな過去のありそうな少女が、神などいないという言葉に悲しそうに同意するのは、とても意味深なことだった。
俺は沈黙が気まずく、言葉を向けた。
「……お前んところは、どうだったんだ?」
「え?」
「地球生まれだろ? 空ってどんなんだったんだ? やっぱ、眺めてると神がいるかもしれない、なんて思うような空だったんか?」
リサにすら氏素性を隠しているらしいハガナなのだから、身元につながりそうなことは教えてくれないかもしれない。そう思いつつも、ちょっと聞いてみたかった。
純粋に地球のことは映像でしか知らなかったし、空がどうなっているかなんて聞いたことがなかったからだ。
ハガナは、意外なことに空を見上げながら答えてくれた。
「風景は、ここと同じような感じ」
「月みたいってことか?」
「そう。山ばかりで、岩がたくさんあった。生える木々は触ると手に刺さりそうな刺々しい物ばかり。冬は寒かったし、夏は短かった。霧がとても多くて、灰色の場所」
地球に行ったことはなくても、地球の土地のイメージは俺も大体は把握している。
どことなく、高緯度のヨーロッパ、あるいは、東欧を想像した。
「でも……」
ハガナは目を細めて、ドームの先にある地球の一点に目を凝らすようにしながら、言葉を続けた。
「たまに晴れると、空はとても青かった。鬱蒼としたなにもかもが、その時だけは輝いて見えた。それを神様が創ったと言うのなら……悪くはない妄言かもしれない」
ハガナは最後に、珍しく感想らしきものを添えた。
ただ、その口ぶりから言って、故郷では楽しそうな毎日だったとはとても思えない。もしかしたら、実家にいた荒くれどもの誰かに聞けば、心当たりがあるような場所かもしれない。
それでも、神が創っていてもおかしくないほどに青い空、と言われても、俺にはまったく想像もできない。
青い空というのは、月面都市を覆うドームでも科学的に再現ができるものだ。しかし、月のそれを見て神がお創りになられたに違いない、なんて言う奴は一人もいないので、地球のそれはやはり一味違うのかもしれない。
地球の奴らの地球自慢はいらいらすること以外の何物でもないが、ハガナが言うくらいなのであれば、ちょっと見てみたい気もする。
俺はそんなことを思いながら、ハガナと一緒にドームを見上げていた。
「それより、早く服を買いに行かないと」
ただ、ハガナはさっさと視線を戻すと、事務的に言った。
なにか、ハガナに妙な親近感を抱いていた俺は、突然夢から覚めたような感覚になった。
「あ、ああ」
俺は答えてから、言った。
「じゃあ、三十分後にここで待ち合わせにするか」
女の買い物はとかく長いと聞くが、こいつはそういう一般的な女ではなさそうだ。
そんなに時間はかからないよな、とハガナに視線を向けると、黒尽くめの少女は怪訝そうな目を俺に向けていた。
「バラバラに行動するの?」
「は? だって、同じ店に行くのか?」
商店街には、一日では回りきれそうにないくらい、細々とした店がたくさんある。都市の中心部のように、巨大な資本が入っていないのだ。
しかし、ハガナは欠片も揺らがず、こう言った。
「一緒の店で買ったほうが、値引きができる」
彫像のようなハガナには、あまりに似合わない生活感あふれる一言だった。
「そ、そう、だな……。けど……なら、どっちの服も置いてあるような店か……」
「男物でも構わない。お前に似合う物なら、私に似合わないはずがないから」
すらりとした手足に、端整な顔つきのハガナが、背筋を伸ばしたまま真顔で言う。
ボーイッシュな格好をしたハガナを想像して、不覚にもそれもいい、と思ってしまったくらいなので、否定もできなかった。
「んじゃあ……ちょっと検索してみるか。歩いて探すの面倒だよな」
「わかった」
手伝うつもりとか、礼の一言を口にする気遣いとかは、欠片もないらしい。
とはいえ、さっきの空を巡るやり取りを経たからか、なんとなくハガナのことがわかってきた気がして、いらつきもしない。
気難しそうではあるが、リサの言うとおり、根っから悪い奴ではなさそうなのだ。
これなら、数学を用いての取引のことも、持ちかけたら案外乗ってくるかもしれない。
そんなことを思いつつ、店を検索している時だった。
「せんせー!」
「せんせー!」
そんな声が聞こえてきた。
俺は顔を上げて、声のしたほうを見る。
すると、商店街の両脇に建つ建物を結ぶ空中廊下から、クリスと同じくらいの年齢の初等学校の生徒らしい数人が手を振っていた。嬉しそうに、きゃいきゃいはしゃいでいる。
「なんだ?」
俺がつぶやくと、ちょうど目の合った栗色の髪の毛の女の子が、きゃあとばかりに口元に手を当てて、楽しそうに隣の子になにか耳打ちをしている。
「知り合いか?」
隣のハガナに尋ねると、静かに言葉が返ってくる。
「生徒」
「ふうん?」
「せんせー、さようならー!」
そして、俺のことを見てなにごとか話し合っていた女の子たちが、満面の笑みでそう言って、手を大きく振っている。
隣ではなぜか男子が二人ほど、呆然とこちらを見つめていた。
それから、女の子らは呆けている男子の耳を引っ張って、手を振りながら強引に引きずっていった。
「はは、なんだあれ」
俺はちょっと呆れ交じりにそう言ったのだが、隣のハガナを見て驚いた。
ハガナは彼らに、うっすら笑いながら手を振り返していたのだ。
「……なに?」
ただし、俺に見られていることに気がついた直後、その顔からはすっと笑顔が消える。ひどい扱いと言えばそうだが、俺はハガナの笑顔にどぎまぎしていて、それどころではなかった。
笑うと、あんなに優しそうな顔になるのだと、心底驚いていた。
「い、いや……」
俺は高鳴る動悸を抑えて、単に見た目がいいだけだ、と自分に言い聞かせる。
そして、いくらか落ち着きを取り戻してから、こう言った。
「本当に先生やってんだって驚いた」
その点に驚いたのも間違いないので嘘ではない。
クリスもそうだが、あんな言うこと聞かなそうな子供らに慕われているなんて、なかなかのものだと思う。少なくとも、俺には無理だろう。
「……数学を教えるだけだから、私でもできる」
意外に謙遜するんだな、と俺はまた驚いた。
それに、妙に硬いハガナの表情を見て、もしかして照れているのだろうか、と思った。
「でも、それだけ」
「え?」
ハガナは子供らの消えて行ったほうを見て、遠い目のまま呟いた。
「それだけしかできない」
「それだけって……それでいいじゃんか」
俺が無邪気に聞き返すと、ハガナは目を閉じて、ゆっくりと開く。
「数学は、現実の問題を解決しないもの」
俺は、思わずじっとハガナの横顔を見つめてしまう。
いつもならば、「なに?」とか言って睨みつけられそうなものだったのに、ハガナは俺のことを軽く一瞥しただけで、やっぱり遠くを見ていた。
ハガナの言葉は、自分自身に向けているものなのだろうか?
多分、そうだろうと思う。
才能を買われて月に連れて来られ、なにがしかの理由があって家出をしてきた。
それに、リサはクリスのことを少しだけ話していた。頭が良くて勉強が好きで、昼飯を抜いてハガナへの授業料を工面して数学を学んでも、大学に奨学金で行けるかどうかわからない。
それは、言うなれば貧困から抜け出せるかどうかの人生最大の賭けだとも言える。
ハガナはきっと、クリスたちの家の事情も知っているのだろう。
そして、その問題の前に、自分の才能がいかに無力かを、よく知っているのだ。
だから、そんなハガナの横顔を見るうちに、俺は自分の鼓動が高鳴っていくのを感じていた。
俺の頭にあったのは、数学を駆使した株取引のことだ。それは明らかに俺の利益のために持ちかけようと思っていたことだが、同時に、ハガナの抱える問題の多くが解決されるかもしれないことだと気が付いたのだ。
性格的に難がありそうだとも思っていたが、ハガナは生徒たちに懐かれ、優しげに微笑み返していた。
だとすれば。
可能性は、十分にあるのでは。むしろ、ハガナにとって良い話なのでは。
俺はハガナに声をかけようと、息を吸い込んでいた。
唐突にハガナが俺のことを振り向いたのは、その瞬間のことだった。
「店は見つかった?」
真正面から聞かれ、俺は出しかけた言葉を飲みこんだ。
なぜかわからないが、顔が赤くなり、言葉が霧散してしまう。
ハガナがまた怪訝そうにしているので、俺は慌てて端末に目を戻していた。
「あ、ああ、あった、あった」
「どこ?」
俺が答えるより先に、ハガナは画面を覗き込む。屈託もなく近寄られて、俺は体が強張ってしまう。
「……この近くね」
もちろんハガナは気にもせず、そう言ってさっさと歩き出す。
「あ……」
俺はハガナの背中を目で追いかけて、口がなにかを言おうとするが、声は出てこない。
完全にタイミングを逸してしまっていた。
俺がその場に立ち尽くす一方、ハガナは商店街の道に降りる階段に差し掛かったところで、くるりとこちらを振り向いた。
「なぜこないの?」
その言葉に、俺は慌てて端末をしまいかけ、これではまるで子分みたいではないかと憤る。
ハガナはふんと軽く鼻を鳴らすようにして、再び前を向いて歩きだす。
無意味な敵愾心だとはわかっていたが、なんとなく悔しい。
そのせいもあって、別に今無理して誘う必要はないか、と思った。
教会に戻ってから、折を見て話を切り出せばいい。
俺はそう思いなおし、ハガナの後を追いかけたのだった。
「なぜ、この縫製で一着二十ムールなの?」
ハガナは、俺の手から服を取り上げるなりカウンターに置いて、言い放った。カウンターの中で商品のほつれを直していた店員は、きょとんとしてハガナを見上げていた。
「は?」
「こっちは二着で二十ムールのところにあった服。生地も、縫製も、こちらの方が上なのはなぜ?」
俺が選んだのは二十ムールの古着のパーカーだった。
なにもかもを輸入に頼る月面では、食事よりも服のほうがはるかに高い。
月面の限られたスペースで栽培されるのは、綿花や麻よりも穀物のほうが優先される。軌道エレベーターが停止して輸入が滞った場合、裸で死ぬことはないが飢えて死ぬことは十分にあり得るからだ。
だから、古着で二十ムールでも決して高い部類ではない。
それに、状態もいい。
おおかたホワイトベルトやニュートンシティの量販店で売れ残った品物なのだろう。
ただ、ハガナは店員にさらに詰めよった。
「値札のつけ間違え?」
「あー……いや、これはちょっとしたメーカーの品で、高いんですよ」
「でも、これと同じメーカーの物が、一着十ムールの棚にあったわ」
「え? ああ、でも、あれは半袖でしょう? こっちは長袖で布が多いっすからね」
「なら、なぜ七分袖の物の値段が同じなの? 整合性がないわ」
ハガナの言葉に、店員は一瞬あっけにとられ、まじまじとハガナを見てから、面倒そうにため息をついた。
「まけろってことかな」
「話が早いわ」
「まいったなあ……うち、値引きはしてないんだよ」
「おかしな話。値下げ品の棚があるのに?」
「あれはこっちの都合で下げてるだけで……」
「わかったわ。今日は、これだけを買いに来たのではなくて、これらも買いに来たの」
ハガナは言って、足元に置いていた籠から、自分用のものらしい服をカウンターの上に置いた。俺がちょっと呆れたのは、籠に入っているのは黒のブラウスに黒のスカート、それに黒のストッキングだったからだ。
「そりゃあどうも」
「まとめて、いくら安くなる?」
「いや、値引きはしないの。うちはぎりぎりの値段設定だからね」
「では、どうして売れ残りを安くするの?」
「そりゃあ……売れ残ったからだよ」
「なら、これも私たちが買わなければ売れ残ると思って、安くして欲しい」
無茶な理屈だ。
俺が思うくらいだから、店員も当然思っていたらしい。
「俺らはそれが二十ムールで売れると思っているから、その値段にしている。俺らが音を上げて十ムールにしたら、また買いに来ればいい」
「売れてしまう可能性がある。だから、私は値下げした十ムールに三ムールを足して、早めに買いたいと思う」
店員は体を引いて、唇をひねりながらハガナを見下ろしている。
俺はちょっとはらはらしながらその様子を見守っていた。
「その品はわりかしいい品だって言ったろ? 多分、二十で売れる」
「似たような形の似たような品が安売りの棚にあったのに?」
「だから、メーカーが違うんだって」
「同じメーカーの物もあったわ」
「いや、だからそれはパーカーじゃなくてだろ?」
「パーカーもあった」
「メーカーが違うだろって言ってんの」
ハガナはわざと話をループさせ、根負けを狙っているのが見え見えだった。
正直、俺はいつ店員が怒鳴り出すかと気が気じゃなかった。こんなことまでしても安くなるのは数ムール、せいぜい十ムール程度だ。
もうこの先この店に来られなくなるかもしれないことを考えたら、十ムールくらい、なんてことはない。
「つーか、文句があんならほかで買えよ」
堪忍袋の緒が切れかかっている店員が言う。
ハガナは自分よりはるかに高い身長の男を見据えて、言う。
「店員の誰々がそう言った、と覚えておく」
「ぐっ……」
二丁目商店街だけを見たって、店は山ほどある。
どこも細々やっているはずなので、ちょっとした悪評が命取りになりかねない。
ハガナは冷酷にそこを突く。
「じゃあ、十五ムール」
そして、ハガナは自分が根負けしたかのように言った。
店員は言葉が通じない宇宙人にでも出会ったかのように、額に手を当ててうつむいてしまう。
そして、がばっと顔を上げた。
俺は思わず殴り合いを想定して構えを取ってしまったが、店員はしかめっ面でこう言った。
「わかったわかった。じゃあ、十七でどうだ」
「……いいわ」
「ったく……こんな強引な値切り見たことねえよ……」
不平を言う店員の気持ちがよくわかる。
こんなことまでして三ムール安くする意味が俺には分からない。俺も大概自分のことを図々しい奴と思っているが、意外に繊細なのだと思い知らされた。店員と一触即発の雰囲気になってまで三ムールの節約なら、笑顔で三ムール上乗せしたほうがましだ。
店員は面倒な客に当たってしまったという思いをまったく隠さず、籠から商品を取り出し、俺の物と合わせてレジに入力していく。
ハガナがそこに、おもむろに言葉を向ける。
「それで、値下がりの可能性はすべての商品にあると思うのだけど」
店員と俺が、揃って目を剥いてハガナを見る。
ハガナはまっすぐに店員を見返して、こう言った。
「それと、私は私塾を開いている。生徒はお喋りで育ち盛りの子供たち」
どういう意味かわかる?
ハガナの無言のメッセージが、沈黙と共に店員に突き刺さる。
うまくいけば新規の顧客。悪くすれば悪評を言い触らされる。
どう見繕っても儲かってそうにないこんな個人の店では、結構大きなことだろう。
ついに店員は勘弁してくれという顔になって俺を見る。
俺に振るのかよ、と思った直後、ハガナの凛とした声が響く。
「総額からあと五ムール下げて」
できなくもない譲歩。
店員は、わなわなと唇を震わせてハガナを罵倒したそうだったが、結局はがっくりとうなだれて、全部で八ムールまけてくれたのだった。
店から出た俺は、ぐったりとしていた。
店員からはありがとうございましたという挨拶の代わりに、二度と来るなと言わんばかりの恨みのこもった視線をもらった。
けれどもハガナだけはどこ吹く風だ。
店を出てすぐに、代金を請求してきた。
「三十三ムール」
流れ的にハガナがすべて払ったので、代金を請求されることになんらの間違いもない。
しかし、あんな値切り模様を目の前で見せられたあとだと、こっちが慰謝料を請求したいくらいの思いに駆られてしまう。
「……なに?」
「いや……」
俺はなにかを言う気力もなく、言われるままに三十三ムールを支払おうとして、気がついた。
「三十三ムール?」
「なに?」
「おかしくねえか。俺が買ったのって、二十ムールのパーカーと、二枚で十八ムールのシャツと、三ムールのタオルだけど」
しめて四十一ムールになるはずだ。
「それから八ムール引けばいい」
ハガナが言うが、俺はちょっとためらった。
「いや……四十一ムール払うよ」
二十ムール札二枚と、一ムール札が一枚ぴったりあったので、俺はそれをまとめてハガナに差し出した。
「……三十三ムールでいい」
しかし、ハガナは断固とした口調でそう言った。
「まけたのはお前だろう? 俺はなんもしてねえもん」
「でも、三十三でいい」
「……」
なんだそりゃ?
俺はちょっと鼻白んで、ハガナを見る。
これじゃあまるで小銭をめぐまれているようなものだ。
「いいよ」
「よくない」
「なんで」
「……」
ハガナは答えず、仏頂面のまま視線を逸らす。
俺はため息をついて、四十一ムールをハガナの鞄の中にひょいと押し込んだ。
「あっ」
「俺は別に小銭に困ってねえ。つーか、あんな値切り方やりすぎだろ」
鞄の中のお札を取ろうとしていたハガナの手が止まる。
けれども、俺の口は止まらない。
「店員が気の毒だし、次から行けねえよ。あそこ、確かにネットの評判通りに結構安かったのに……」
俺は頭をかきながら、店の入り口を見る。
両親の故郷の日本では、嫌な客が出て行った時には塩を撒くらしいが、俺は塩つぼを持ったあの店員が今すぐにでも出てきたっておかしくないと思う。
「全体で見たらマイナスだろ。それに、お前も少しは人の気持ちを──」
俺がそこまで言った瞬間だった。
ごす、とすごい音がして、俺は向こうずねを抱えてその場にひっくり返っていた。
「ぁっ……っつ、痛ってえ! なにすんだこの──」
クソアマ……と続けようとしたまま、俺の口は固まっていた。
「……っ」
いきなり蹴り飛ばされたら、普通なら反撃して馬乗りになって泣こうが喚こうがぼこぼこにするところだ。
けれども、俺は立ち上がることすらできなかった。
なぜなら、ハガナが俺のことを見下ろす目には、涙がいっぱい溜まっていたからだ。
「……あ……?」
突然蹴り飛ばされたこと以上に頭が混乱して、なにを言ったらいいのかわからない。あほのように、ハガナの今にも泣き出しそうな目を見つめていた。だって、泣くのはどちらかと言うと、蹴られた俺のほうだろう?
その呪縛が解けたのは、ハガナが乱暴に目を拭い、踵を返して歩き始めたからだ。
止める間もない。
俺は慌てて起き上がろうとするものの、あまりの向こうずねの痛さに足が上がらず、つまずいてすっ転んだ。折れてんじゃないのかと思うくらいだが、それでも視線だけはハガナを追いかけていた。階段を下りて、空中廊下を小走りに渡って行くのが柵の隙間から見える。すれ違う連中が皆ハガナを振り返り、ハガナは走りながら袖口で目を拭っていた。
だが、俺にはまったくわけがわからない。
一体全体、どうして俺がこんな目にあって、しかも泣いているのがあいつなんだ?
俺は痛みと混乱に耐えながらなんとか立ち上がり、鞄を背負いなおしてふと気がつく。
廊下にはムール札が散らばっている。
俺がハガナの鞄に押し込んだ四十一ムールだ。
俺はくしゃくしゃのそれを拾い集め、ポケットにしまいながら、ため息をついた。
「わけわかんねえ……」
向こうずねは痛く、日は暮れようとしていたのだった。
俺が教会に戻るころにはすっかり日も暮れていて、道や軒先には夜のささやかな楽しみをするための椅子やテーブルが並んでいた。よれよれの労務服に身を包んだ者たちが酒を飲んだり、軽食を取りながら雑談をしていた。
俺はいつものように軽快に走りまわることもできず、やっとのことで帰り着く。
「遅かったわね」
教会の閂もかけられていて、インターホンを押してリサに開けてもらった。扉を開けてくれたリサの顔には、困惑のような呆れのような、なんだか妙なものがあった。
広くてがらんとした聖堂に入ると、俺の後ろで扉が閉じられる。
「で、どうしてハガナを泣かせたのかしら」
そして、リサがため息交じりに言う。
ようやく帰ってきたと思ったらいきなり尋問かと、俺まで泣きたくなってしまう。
「俺だってわかんねえよ」
「あれ、怪我してるの?」
「そうだよ! ったく、いきなり向こうずね蹴り飛ばされて、この様だよ」
俺が脚を見せると、リサはなんとも言えない顔をして、自分の向こうずねを撫でている。
「もう、怒る暇もねえよ。わけわかんねえし、それに、泣かれたらなんもできねえじゃんか。なんだっつーんだよ。それで帰ってきたら俺が悪者か?」
「ごめん、ごめん。怒らないで」
俺がまくしたてると、リサは歩み寄って、俺の両肩を押さえながら本当に申し訳なさそうに謝ってくる。俺はその手を振り払うが、リサは特に抵抗もせず、けれどもじっと俺のことを見つめている。
この按配がとても上手なのだ。
俺はもう、怒るのも馬鹿らしくなって、側の長椅子に腰かけた。
「でも、女の子が泣いてたらハルだってそっちのほうを先に心配するでしょ?」
腹立たしいが、リサの言う理屈がとてもよくわかるので、うなずくしかない。
「それに、私もわけがわからないのよ。てっきり仲良くなって帰ってくると思ったのに」
「はあ?」
俺が思い切り不機嫌そうに聞き返すと、リサはちょっとたじろいだ。
「落ち着いて」
と、両掌で俺のことを扇いでくる。
「だって、ハガナにお礼言われなかった?」
そして、リサのそんな言葉に、俺は眉間のしわが捩じ切れそうなほどに怪訝な顔をした。
「はあ? お礼? 言われるわけねえだろ。つーか、なんの礼だよ」
「あれ……ねえ、本当に、なにがあったの?」
リサもまた当惑して聞いてくる。
俺はため息をついてから、答えた。
「わかんねえよ。服買いに行って、ハガナが超強引に値切って支払いして、俺がちゃんとした代金払おうと思ったら、あいつは値切った分を全部俺によこそうとしたから、俺はなんもしなかったし、正直ありえないくらい強引な値切り方だったから普通に支払うって言って、金を渡した。で、脛を蹴り飛ばされた」
喋っているうちに、またあの理不尽さを思い出してしまう。それに、思いつくままに喋ったのでリサに通じているかは怪しいが、それ以上細かく説明するのも嫌だった。
ただ、リサは俺の話を聞くと、しばらく頭痛をこらえるかのようにこめかみに指を当てていた。そして、俺の前の長椅子に座ると、背もたれにうつぶせになって、こう言った。
「あの子の不器用さを考えてなかったわ……」
「あ?」
リサは大きくため息をついてから、顔を上げる。
「ハルとの買い物で、値切りなさいって言ったの私なのよ」
「……はあ?」
「あの子、そういうのすごく得意だから。でも、そうか……そんなことになるなんて……」
「待てよ、意味わかんねえけど」
「ああ、ごめんね。最初から言うね」
リサは言って、ふとなにかに気がついたように後ろを振り向くと、椅子から立ち上がって母屋の方につながる扉を軽く開けて、向こう側の様子をうかがっている。
それから、そっと閉じると、また戻ってきて、話し始めた。
「あのね、この前、トヤマさんが来たときのことあったじゃない?」
「あ? ああ……」
「トヤマさんはいい人だから、大事にならなくて済んだけど、普通なら、そうじゃないでしょ?」
俺は同意するのも馬鹿らしく、肩をすくめるだけだ。
「それに、ハルは結果としては早とちりだったけど、ハガナのために割って入ってくれた。その上、結局利子も含めて、ハルが助けてくれた」
「ああ……」
「それでね、私はハガナに言ったの。きちんとお礼言った? って」
いかにもリサらしいことだが、そう言われたハガナの顔が目に浮かぶようだ。
「多分、ハルが想像している反応で間違いないと思う」
「だよな」
「でも、助けてもらったのは事実なんだから、きちんとお礼をしなさいと言ったの」
「ああ、それで、値切るとかどうとか?」
「そう。あの子、すごく得意だからね。ハルもお金ないだろうから、値切ってあげて、それでお礼にしなさいって。だから、その……ハルは否定するかもしれないけど……もしかしたら、ハガナなりにすごく張り切ってたのかも」
リサの申し訳なさそうな言葉は、実際俺の胸にぐるりとねじ込まれた。
確かに、ハガナのあんな値切り方は、性格がきついにせよ異常だ。
もしもあんな値切り方をいつもしているのなら、リサみたいなやつが注意しないはずがない。
「いや、けど……本当にひどかったぜ。俺、もうあの店いけねえよ」
「そんなに? もう……」
リサもどうしたらいいのかという具合に額に手を当てる。
「それによ、あいつが値切ったのに、理由も言わずに値切った分全部俺に押し付けてきたら、誰だって断るだろう?」
「うん、そうよね。ハルは悪くない。悪かったとしたら、私ね」
「あ、いや、お前も別に悪くねえだろ」
俺が慌てて言うと、リサは額に当てた手の下で、疲れたような笑みを浮かべる。
「ありがとう。でも、お前じゃなくて?」
「っ……リサ、は、悪くねえだろ……」
「うん。ありがとう」
リサは笑顔でうなずくが、頭痛はひかなそうだ。俺だってなにをどうしたらいいのかわからない。ハガナはお礼のつもりであんなに強引な値切り方をして、しかも、礼なのだからと全部俺に押し付けてきた。
一方の俺はといえば、数ムールであんな思いをするなら金を払ったほうがいいと思っていた。
なんというか、意思疎通が取れていなかったせいで起きた、不幸な事故だ。
そうとしか言いようがない。
「ハルのほうからハガナに謝ってもらうのも変な話だしね……」
「俺は被害者だろ」
「はあ……私はこういうところでよく失敗するのよね……」
リサは、助けられたら礼を言うべきという当たり前の考えから、ハガナにアドバイスした。
あるいは、これは邪推だが、俺とハガナを仲良くさせようと目論んでいたところもあるだろう。それが、完全に裏目に出た。
ただ、それでリサに落ち込んでもらっても、俺としては心苦しいものがある。
「まあ、時間が解決してくれるかな。ハルも、ハガナを嫌っているわけじゃないでしょう?」
リサは俺のことを真正面から見て、言う。嫌っているかどうかと言われたら、否、と答えるだろう。というか、どっちかと言うと、故郷のことを少し話してくれたり、教え子たちに微笑んだりしているのを見て、少し親近感を抱きかけていた。
それに、今回のことはハガナが不器用すぎたせいの事故としか言いようがなくて、恨む気にもなれない。
「一応、な」
「ありがとう」
「お前が礼を言う所じゃないだろ……あ」
「もう……本当に口が悪いのね」
リサは苦笑して、椅子から立ち上がった。
「でも、まあ、そういうこと」
「ああ」
「じゃあ、ごはん食べようか。おなかすいたでしょう?」
リサは笑顔になって俺に手を差し伸べてくる。俺はその手を取って、立ち上がった。
胸にあったのは、ひどい後味の悪さ。
それと、ハガナに金融工学だのの話を持ちかけるのは当分無理だな、という落胆だった。
俺はその夜、投資コンテストにはこれまで通りの手法で立ち向かおうと決意した。
なに、独力でも優勝は狙えるはずだ、と。
そして、そうと決めたからには、投資先の状況を調べるべく、招待メールのURL先に飛び、情報の海に深く潜っていったのだった。