リサが風呂から出る前に、俺は自分の部屋に戻って端末を開いていた。画面には、取引口座が開かれている。現金残高、七万二千六百十ムール。

 月面都市で一流企業に勤めている者たちならば屁みたいな金額だが、それ以外の連中には途方もない金額だ。俺はこれを、元手の二千ムールから作り上げた。

 毎日朝から晩まで、飯も食わず水も飲まず集中して、文字通り血道を上げて築き上げた。ここから三万ムールを引くと、四万二千ムールが残る。俺はその数字に、吐き気に似たものを感じていた。

 数十ムールの出費だってしたくないのに、三万ムールをどうして他人のために差し出す必要がある? リサはいったい俺にとってのなんだ?

 もちろん、警察の手から救い出してくれたという恩はある。でも、それだけだ。ここに住むにあたっても、俺はきちんとその対価を支払っている。だとしたら、リサが困っているからと言って俺が身銭を切る理由なんてまったくない。ましてや、リサには本当は借金を返す方法があるのだ。自分の部屋にある古びた本を売る。それだけでいい。

 だというのに、俺はリサのあの疲れ切った姿を忘れることができなかった。

 人が本当に大事だと思っている物を手放そうとする姿は、見ている者の身も切るほど辛いことなのだと初めて知った。だから俺は端末を見つめたまま、身動きが取れなかった。自分の手元には、リサの窮状を救う方法がある。しかも、それを渡すことは理に適っているはずだった。

 なぜなら、リサの本は売ったら最後、二度と手に入らない物ばかりらしい。

 しかし、俺の場合はそうではない。

 もしも俺の投資手法が本当にすごくて、この先、自分の夢を叶えるのにふさわしいほどの結果を出せるのだとしたら、今三万ムールを差し出したところでなんの痛手にもなりはしないはずなのだから。残った金を増やしまくれば、数年後には、三万ムールなんて本当に鼻紙みたいなものになっているだろう。

 俺は元手の二千ムールを三ヶ月で三十五倍の七万ムールにした。自分の力が正しいと信じられるなら、ここで三万ムールを渡すことになんのためらいも感じないはずだ。ためらってしまうのは、薄汚い吝嗇か、さもなければ自分の投資の手腕を信じていないからということになる。

 俺は自分の夢を叶えられなければ、生きている価値はないとまで決意したはずだ。

 だというのに、今の俺は自分で自分の夢を叶えられないと宣言するような事態を前にして、足をすくませていた。

 三万ムールをぽんと出せるようでなければ嘘だ。嘘つきだ。

 端末の前で、拳を握りしめる。

 自分の不甲斐なさに歯噛みして、泣きたくなる。

 自分はやっぱり小物なのか、汲々とした小銭を拾う能力しかない、しがない奴なのか。

 そんな言葉で自分自身を罵りまくっていた。

 俺は顔を上げて部屋をあてどもなく見まわした。部屋の中のどこかに正解があるのではないかと思ったくらいだ。

 いいや、正解はわかっている。ただ、踏み出す度胸がないだけだ。

 そして、俺は視線が隣の部屋との境目に向かった時、ハガナのことを思い出した。

 ハガナは踏み出す勇気がある。自分のことを買ってくれと言いだす勇気がある。しかも、それを世間知らずの馬鹿が言うのではなく、本当に地球から売られてきた人間が口にしているのだ。売られるということがどういうことか知っている人間が、もう一度その地獄に足を踏み入れる勇気を持っているのだ。ハガナはきっと本当に、リサの助けになりさえすれば、自分はどうなってもいいと思っているのだろう。

 だが、リサがそんな方法を受け入れてくれるわけがない。そのハガナの悔しさに比べれば、自分のこの迷いはなんと贅沢なのだろうと思う。ハガナと仲直りをしようと思って、歩み寄った居間でのやり取りが思い出された。

 私たちは一生懸命生きている。月で生まれたお前なんかとは……。

 ハガナのあの一言が、俺の胸をもう一度叩く。

 俺は本当に一生懸命に生きているのか? できる限りのことをやっているのか?

 その瞬間だ。

 その瞬間、俺は投資コンテストのことを思い出していた。

「……っ賞金」

 経済研究所のホームページに飛び、ログインをしてコンテスト概要を改めて見る。

 上位入賞者には賞金が出る。一位は二十万ムール。二位は五万ムール。三位にも二万ムール、四位と五位には一万ムールずつが出る。

 二位を取れれば万々歳。三位だってかなりありがたい。

 だが、それ以上に俺の胸を衝いたのは、投資コンテストという存在そのものだった。

 俺はもう一度顔を上げ、後ろを振り向いた。そこには壁があって、隣の部屋とを分けている。

 その先では、ハガナがきっと泣いているはずだった。大切なリサのためになにもできない自分を責めて、泣いているはずだった。

 俺への礼の時だって、不器用なほど強引な値切り方をした。しかも俺にひどい値切り方だと言われて、脛を蹴り飛ばすほど怒って泣いた。

 いくらかは元々そういう性格なのだとしても、ハガナには余裕がないのだ。たとえば教え子たちには数学を教えられても、彼らを取り巻く経済環境は変えられず、彼らが進学できるかどうかの手助けをできるわけではない。

 ハガナはそんなことばかりに翻弄され、月に連れて来られ、家出をしてリサの家に転がり込んだ挙句、借金をこさえてしまったと信じている。

 数学は美しく問題を解決できるらしい。

 しかし、ハガナは現実的な問題をなに一つ解決できずにいる。トヤマに言わせれば、卵の殻を破って雛になることすらできずにいるという。

 そんなハガナに対し、投資コンテストはやはり大きなチャンスだった。

 もしもハガナの力が使えるのなら、リサの助けになれて、俺はハガナの誤解を解くことができる。しかも、すべてがうまくいけば全員がハッピーになれる。

 ハガナの能力が本当に金融工学を扱えるほどにすごいのかとか、あいつが俺の目的のために協力してくれるのかだとかはどうでもよかった。

 細かいことなんて気にせずに、ただやることが正しいということもこの世にはあるのだと理解した。

 俺は端末をひっつかみ、部屋を飛び出して居間に向かった。居間はがらんと静まり返っていて、リサはいない。すぐに引き返して廊下を走り、急な階段を上がって二階に向かう。途中の窓からリサの自室に明かりがともっているのが見えた。

 俺はためらいもノックもせずに、リサの部屋の扉を開けた。

 驚いて振り向いたリサは、本棚から本を何冊か取り出しているところだった。

 その髪は濡れたままで、目は赤く泣き腫れていた。その姿はまるで雨の日に道に迷った女の子のようだった。

 リサのそんな顔は見たくない。

 だから俺は、呆然とするリサに、端末の画面を突き付けた。

「……?」

「方法がある」

 リサは子供みたいに洟をすする。

「ハガナを説得して欲しい」

「え?」

「あいつの才能を借りたい」

 俺は洗いざらいリサに説明した。

 十分後には、ハガナの部屋の扉を、二人揃ってノックしていたのだった。



 ノックをしてもハガナは出てこなかった。

「ハガナ、起きてる?」

 リサは小さな声で聞いた。泣き疲れて寝ているのなら、明日の朝を待てばいい。どんなに辛いことがあったって、暗い夜を越えれば大抵どうにかなる。それなら明日のほうが落ち着いているだろうし、話を持ちかけるならむしろそっちのほうがいいかもしれない。

 俺はそう思ったのだが、リサはノックして声をかけたあと、そっと耳を扉に近づけていた。

 そして、その瞬間に顔つきが変わった。金属同士をこすりあわせたような、恐ろしく嫌な音が聞こえたかのようだ。

 俺が尋ねる間もなく、リサはドアノブに手をかけて、ゆっくりと回した。些細な衝撃でさえも、部屋の中のなにかを傷つけてしまいそうな、そんな静かな開け方だった。

「……」

 扉がゆっくりと開き、廊下の明かりが暗い部屋の中に入っていく。リサは扉を開けたものの、すぐに部屋に入ろうとはしなかった。俺は一瞬怪訝に思って、その理由がすぐにわかった。俺が借りている部屋よりも殺風景なハガナの部屋は、完全に真っ暗だった。

 ただ、その真っ暗な部屋の中でも一段と闇の濃い場所があった。

 それは、黒だ。闇よりも黒い黒だ。俺は、なにを言ってなにを考えればいいのかわからないくらい、口の中に嫌な味が広がっていた。

 部屋の隅で、ハガナが膝を抱えて泣いていたのだ。

「ハガナ」

 リサがようやくその名を呼ぶと、ハガナは怯えきった子供のように体を震わせた。

「ハガナ、話があるの」

 リサの言葉に、ハガナはただでさえ華奢な体を縮めて、もっともっと縮めようとして必死に膝を抱え、顔を押しつけているように見えた。その様は、悲しくて泣いているというよりも、怒って泣いているというほうが近いような気がした。

 体を縮め、もっと縮めて、自分などいっそのこといなくなってしまえばいいのにと、そんな怒りが感じられた。

「ハガナ……」

 リサは小さく言って、ゆっくりと進む。広い部屋でもないので、すぐにハガナの前に立つ。

 ハガナの体が震え、そして、形を変えた。

 これ以上小さくならないと思っていたのに、もっと足を引き寄せて、もっと顔をうつむかせて、それから、膝を抱えていた腕で頭をかばうようにしたのだ。

「……なさ……」

「え?」

「ごめ……なさ……」

 ハガナは部屋の入り口に立つ俺からでもわかるくらい、震えていた。

 リサの横顔が、どんな罵詈雑言を向けられたよりも強く、強張った。

 リサもまた怒っていた。

 だが、それはハガナに対して怒っているのではない。

 俺だってハガナの様子を見ればなんとなくわかる。真っ暗な部屋の隅で、頭をかばうようにして、見てわかるほどに震えているのだ。リサがどれだけ怒ったって、そこまで怯える必要なんてないことくらいわかるはずだ。あのクリスだって、きっとここまでは怯えないだろう。

 ハガナは、なにか過ちをしでかしてしまったら、部屋の隅で頭をかばうようにして震えなければならないような人生を歩んできたのだ。

 ハガナは顔も上げず、リサのこともリサだとわかっていないようだった。言葉にならないくらい必死に、ごめんなさいと繰り返していた。

 リサが怒っているのは、ハガナに降りかかってきたたくさんの不幸に対してだ。ハガナが怯えているのは、これまでに降りかかってきたすべての不幸に対してだ。

 リサは怯えるハガナの前にしゃがみこむ。ハガナがそれを察して体を引いて、もうそれ以上下がる場所などないのに、後ずさろうとする。

 リサはハガナの細い手首をそっと掴み、それから、ハガナの震える指を包み込んだ。

「ハガナ、大丈夫。大丈夫だから」

 リサはハガナの頭に自分の頭を乗せるようにして、囁くように繰り返した。

 ハガナがごめんなさいと謝った回数だけ、大丈夫と繰り返しているようにも見えた。

「落ち着いた?」

 ハガナの耳元で、本当に優しくそう言った。

 その横顔は、どこかからかうような、楽しく笑っているようにすら見えた。

 ハガナはひっくひっくとしゃくりあげている。リサは決して焦らない。

 やがて、ハガナの小さな頭が動く。くしゃくしゃになった前髪の向こうから、ハガナが溶け落ちそうな目を向けた。

「ハガナ、私がわかる?」

 リサはそう尋ねた。

 ハガナは泣きじゃくって疲れきったような顔のまま、じっとリサを見つめていた。

 そして、またぼろぼろと涙をこぼし始めてから、ゆっくりとうなずいた。

「そう。いい子ね」

 リサは言って、ハガナの頭を抱えるようにして抱きしめた。

「ごめ……なさい……」

 ハガナがまたそう言ったが、それはさっきのような、どこか幼児じみたものではなかった。

 もっとはっきりとした、形のあるものだった。

「うん。ハガナの肘は、正直すごく痛かった」

 リサの顔の傷はハガナの肘が当たったものらしい。相当な勢いだったのだろう。

「とはいえ、あれは事故みたいなものだもの。私は怒ってない」

「……でも……」

「後先考えずにトヤマさんのところに行ったのは、確かに感心しない。そこでやったこともね」

「……」

 ハガナは言葉に詰まるが、それはもう怯えているのとは少し違う。リサの腕の下でなにか言い訳をしたがっているハガナの雰囲気が、こちらにも伝わってくる。

 そんな具合だから、ハガナを抱きしめているリサは、ちょっと困ったように笑っていた。

「でも、ハガナは私のためにやってくれたんでしょう?」

 リサはハガナの体を抱きしめ直してから、そう尋ねた。

 黒尽くめの小さい少女は、リサの腕の中で、鼓動するようにうなずいた。冷えて固まり切ってしまった体に、新しい血をかすかに流そうとするかのように。

「私はその気持ちが嬉しい。すごくね」

 ハガナは顔を上げ、リサが真正面からその表情を笑顔で受け止める。

 だいぶ落ち着き始めていたハガナが、また泣きだしそうになって、リサはそれをかばうように胸元に頭を抱き寄せた。

「ハガナ、部屋の入り口の脇にハルがいるの。あんまり泣いてるとばれるわよ」

「っ」

 と、リサの腕の中で体をすくませているのがわかった。

 俺をそういうダシに使うのかよ、とリサを睨んだが、リサは俺のことを横目で見て軽くウインクした。仕方なく、俺は入り口の脇に隠れる。

「それでね、ハルがあなたにいくつか話があるんだって」

「……、……」

「え? そんなこと言わないで」

 俺の耳には届かなかったが、リサにはなにか聞こえたらしい。

 どうせ、あいつには話なんてないとか、そんなことを言ったのだろう。

「あなた、ハルのことを散々言ったんだって?」

「……」

「ハル、すごく傷ついていたわよ」

 投資コンテストや、ハガナの数学の才能が取引に利用できるかもしれないという話をしたとき、月生まれを馬鹿にされた話もリサには洗いざらい伝えてある。

 もちろん、俺のことを働きもしないでぶらぶらするクズ野郎だと思うのは、勝手にしろと思う。ただ、俺のプライドはともかく、誤解されたままではこの計画がそもそも滑りだすことすらできなくなる。

 それでもリサの言葉に、俺はもっと言ってやれと胸中でエールを送る。

 ハガナはもう少し、自分の言葉で他人が傷つくのだということを学んだほうがいい。

「それに、それらは全部ハガナの勘違いだって」

「嘘」

 明確にその単語だけは聞こえた。

 続いて、リサが軽く笑うのも聞こえてきた。

「ハガナも意外に子供っぽいのね」

「っ……」

 リサは人のプライドを突くのがうまい。

「もしかしたら、私は本を売らなくて済むかもしれない」

「……ぇ」

「ハルのお陰でね」

 衣擦れの音で、ハガナが顔を上げたのだろうとわかる。

 ついでに、リサの言葉に顔をしかめる音も聞こえてきそうだった。

「ハルはちゃんと働いてたみたい。いや、働いてるのかな……私にはちょっとよくわからないけど、とにかくお金は稼いでた。それも、すごい金額をね」

「っ……そう、なの?」

「そう。私も驚いちゃった。すごい金額だったから、ハルも怖くて言いだせなかったみたい。まあ、そうよね。ハガナがハルを信用できないのだとしたら、ハルもハガナを信用できないもの。言っていること、わかる?」

 俺が軽く部屋の中を覗くと、リサが頑なな顔をしているハガナの髪の毛を、頬を包むようにしながら指で梳いていた。

「でも、ハルはすごく苦労してためたお金を、場合によっては私にくれてもいいって。三万ムールものお金をよ?」

 リサの言葉に、ハガナは苦しそうな顔をする。

 ハガナは自分の力ではその金を用意できず、自分を売るしかないと思い込んでいた。

「でも、ハルはあのとおり、結構しっかりしている性格だからね。条件があるって」

「……」

「それが、あなたの力を借りることだって」

「え」

 ハガナは明確に驚いて、リサに髪を梳かれながら今にも寝てしまいそうだった目を見開いた。

「わかる? ハルは、ハガナの力を借りたがっているの」

「……私、の?」

「そう。ハガナの数学の力をね」

 ハガナがその才能を文字通り買われ、地球から連れて来られたのなら、その申し出はとても微妙なものになる。

 でも、俺はお前の力を買いたいとか言うつもりはまったくない。

 リサも、そこのところは強く確認してきた。

「本当は、もっと早くに言いだしたかったんだって。でも、ハガナがすごい剣幕で怒鳴ったり、足を蹴っ飛ばしたりするから、言いだせなかったって」

「……」

 ハガナは子供のようにむくれて、うつむく。

 リサが笑うと、うつむきながらも、視線を上げる。

「これ以上ない条件だと思う。ハガナ。あなたの一番得意なことが、必要とされてるのよ」

 それはリサを救い、のみならず、俺にも役に立つし、多分なによりハガナ自身を救う。

 もしも取引で数学の能力が効果を発揮するのなら、ハガナは自分自身で金を稼ぐ方法を見いだせることになる。それはハガナが苦しんできた多くのことを、自力で解決できる道具を手に入れられるのと同じことだ。

「ハガナ」

 リサの呼びかけに、ハガナはゆっくりと顔を上げた。

「なにを……するの?」

「なにを? えっと……」

 と、リサも言葉に詰まる。

 おいおい、と思うのだが、リサはそういうことに疎そうなので、仕方ないかとも思う。

「ハル!」

 リサは声を上げる。

 俺は入り口脇の壁に背中をつけて座りこみながら、返事をする。

「なに!」

「ハガナに説明してあげて」

 リサが言って、俺は腰を浮かしかけて、思いとどまる。

「俺、そっちに行っていいわけ?」

 ハガナは俺なんかに泣き顔を見られたくないだろう。

 そんな自虐も含めた質問に、リサは小さく笑っていた。

「どうなの? ハガナ」

 リサが質問し、ハガナは耳打ちでもしたらしい。

 こそこそとしたやり取りの後、答えたのはリサだった。

「十分待ってもらってもいい?」

「はあ?」

 俺が聞き返すと、リサはハガナになにか言い置いてから立ち上がった。

 そして、部屋の中から顔を出すと、俺のことを見下ろして、言った。

「レディーには支度が必要なのよ」

「……そうですか」

「ちょっと待っててね」

 俺は座ったまま肩をすくめて、やれやれと自分の部屋に行こうとする。

 その背中に、リサが声をかけてきた。

「ハル」

「あんだよ」

「ありがとね」

 振り向いた俺に、リサはそう言って、顔をひっこめた。

 俺は振り向いたままの姿勢で、しばらくじっとしていた。

 別に今のところなにか問題が解決したわけではない。

 それでも、きしんで今にも壊れそうだったいくつかの歯車は、どうにかこうにか噛み合った。

 うまく回るかどうかはわからない。

 ただ、部屋に戻る俺の胸には、ふわふわしたなにかがあった。

 十分後、俺はリサに呼ばれて居間に行ったのだった。



「ごめんなさい」

 俺が居間に戻り、テーブルを挟んでハガナと対峙した瞬間、最初に言われたのがその言葉だった。俺は唐突過ぎて、息をするのも忘れていた。

 ハガナの目元にはまだ若干泣いていた跡が残り、唇は頑固さをうかがわせる固結びだ。視線も逸らし、ずっとテーブルを見つめている。

 それでも、確かに俺の耳は、はっきりとごめんなさいと聞いた。

 ぎぎぎ、とリサを見ると、リサは満足げに微笑んでいる。

「謝ったわ」

 ハガナがようやく口を開くと、出てきたのはそんな言葉。

 リサは顔を笑顔のままひきつらせたが、俺はむしろその言葉にホッとする。

「聞いたよ」

 俺が言うと、ハガナはようやく俺のことを見る。

 睨みつけるようないつもの目つきだが、野良猫が警戒するような鋭さはない。

 どちらかというと、意地になった子供が必死に虚勢を張っているように見えた。

「それじゃあ、ハルもこれでいいのね?」

「いいよ」

 肩をすくめて答える。

「では、具体的に説明してもらっていい? 私も、一回の説明じゃよくわからなくて……」

 照れ笑うところを見ると、本当によくわからなかったのではないかと思う。

 ただ、もしもそうなのだとしたら、リサは俺の言葉をよくわかっていない中でも信用してくれたということだ。

「難しいことじゃない。投資コンテストで優勝すれば二十万ムールがもらえる」

 単刀直入に言うと、ハガナの目がまんまるになるくらい見開かれた。

「株式投資ってあるだろ。あれのシミュレーションで、ほかの連中と競い合って、一番儲けた奴の勝ち。一位の賞金が二十万ムール。二位が五万ムール」

「つまり、二位までに入ればいいのね?」

「三位でも二万ムール出るから、俺としてはありがたいね」

 リサは軽く口をすぼめて、続けて、とばかりに手で促してくる。

「でも、私は株なんて知らない」

 口を挟んだのはハガナだ。気丈そうに俺を睨んでいるが、不安げな感じが見て取れた。

 なにか、そのちぐはぐなところに気がついてしまうと、ハガナは本当に危なっかしくて脆そうだった。

「お前、頭いいんだろ?」

 ただ、俺の軽口を受け止めるくらいの力は残っていたらしい。

「お前よりは」

「ハガナ」

 リサが小さく注意する。ハガナは「う」と言葉を詰まらせるようにしてリサを見る。

 それから、俺のことを見た。

「ハ、ハル……より、は……」

「なら、問題ない。ルールはすごく単純だからな」

「そうなの?」

 尋ねてきたのはリサ。

「基本的に、安く買って、高く売ればいい。簡単だろ?」

 リサとハガナの二人は軽く顔を見合わせて、揃って俺のことを見てくる。

「本当にそれだけだ。もちろん、方法としては高く売って安く買い戻す方法もある。でも、そんなのは後だ。話の根幹は、もっと別のところにある」

 俺は喋りながら端末をいじって、株の銘柄の情報一覧を出す。

 月で一番有名な企業、エメラルドインダストリーだ。

「株を突き詰めれば、根っこのところは一つ。この企業の株が明日、明後日、あるいは数分後でもいい。とにかく未来において、高くなるのか安くなるのか言い当てることができれば、それだけ利益を得ることができる」

 画面をぐるりと回転させて、リサとハガナの前に置く。

 リサはちょろっと見ただけで数字やグラフに頭痛を感じるようなしぐさを見せたが、ハガナだけは鏡を覗き込む猫みたいに見つめていた。

「手掛かりは、いくつかある」

 身を乗り出して、端末を半分こちらに向ける。

 ハガナは俺を見てから、端末を見る。

「まず……」

「ハル、こっちに来たら?」

「ん……?」

「そっちだと説明しづらいでしょ」

 リサは言って、椅子から立ち上がるとテーブルの反対側、つまり俺のほうに回ってきて、隣に座る。

「私はそういうの本当にダメだもの」

 リサが心底嫌そうに言う。月にまで来て宗教の歴史を学ぶような変人には、月面都市最大の錬金術は肌に合わないかもしれない。

「一応聞いとけよ」

 俺は言いつつ、椅子から降りて、今しがたまでリサが座っていたところに回る。一瞬、ハガナが嫌がらないかと思ったものの、ハガナは俺のことなんて気にせずに、じっと銘柄情報を見つめている。その真っ黒い瞳に、画面の白い光が映りこんで、宝石みたいに光っていた。

 俺は隣に座り、端末をこちらに向ける。

 それにつられて、ハガナの顔が猫みたいに引き寄せられる。

 ようやくハガナが俺のことに気がついたが、ちょっと見つめてきただけで、すぐに画面に視線を戻す。

「いいか? 株には値段がある。平日の朝九時から午後五時まで取引されて、買う人間が多ければ当然値段が上がって、売る人間が多ければ当然下がる。野菜や果物の市場と同じだ」

「当たり前」

「そう。でも、その当たり前を予測すんのが大変なんだよ」

 ハガナは好奇心旺盛な猫のように見開いた目を、じっとこちらに向けてくる。

「なぜ?」

「なぜなら、その企業が儲かるかどうかなんてのは皆よくわかんないからな。株ってのは簡単に言うと会社の所有権みたいなもんだ。その会社が発行する株式を全部買うと、その会社の持ち主になれる。会社が儲かってて、その会社を所有しているのだとしたら、金持ちにならないとおかしいだろ? だから、儲かっている会社の株は上がる」

「儲からないと下がる」

「そう。でも、毎日毎日その会社が儲かっているかどうかなんて、その会社の人間だってわからない。たとえばエメラルドインダストリーであれば、月面と地球あわせて社員が三十万人くらいいて、関係会社が地球のも含めて千六百くらいある。それらすべての取引を知るなんて無理だ」

「じゃあ、どうするの?」

「わからん。皆あてずっぽうで取引する」

 ハガナは端末から顔を上げて、俺を睨みつける。

「嘘」

「本当」

「だって」

 ハガナは言って、もう一度画面を見て、再度俺を見る。

「これは、皆が、お金を賭けてることでしょう?」

「そう。だから、真剣にあてずっぽうするんだよ」

 対面の席で話を聞いていたリサが、小さく笑う。

「あてずっぽうの方法はいくつかある。一つは、会社の情報を調べて、儲かりそうかどうか判断する。このエメラルドインダストリーは、軌道エレベーターを修理する唯一の会社だ。毎年確実に莫大な金額が入ってくる。それに加えて、月面の開発事業の大半に噛んでる。超優良企業だ」

「ドームを造ったのも?」

 服を買いに行った時の話だ。

 俺は、その話を覚えていてくれたのだと思うと、ちょっと嬉しかった。

「そう。空を二つ作ったのもここ」

「……すごい」

「そう。そのすげえ会社だから、儲かると皆が思う」

「なら、それを買えばいいの?」

「基本的には。だけど、儲かっているのは一目瞭然だから、皆が買う。皆が買うと、値段が上がる。すると、会社の正しい価値以上に値段が上がることがある。ここに、PERってあるだろ?」

「……ある」

「株が会社の所有権なら、株式を百枚発行している会社は、株式一枚当たりで会社を百分の一所有していることになる」

「うん」

「なら、その会社が儲けた金を、株式一枚当たりで分割して計算すれば、株の値段が高いのか低いのかなんとなくの指標になる。つまり」

 俺は画面をいじって、指標の部分を拡大する。

「株式一枚当たり十ムール稼ぐが、一枚の値段が百万ムールの会社と、株式一枚当たり十ムール稼いで、一枚当たり二十ムールの株式だったら、どっちを買いたくなる?」

 リサはすでに椅子の上で頭を抱えている。

 対するハガナは、欠片も怯まずに、俺のことをしっかりと見据えて言った。

「二十ムールの株」

「そう。投資する金額に対して、稼いでくる金の量が違う。どれだけ優秀な会社だって、儲けが大きくなる以上に株式の値段が上がり続ければ、いつか必ず、見合わないなって値段になる」

「それで、私はそれを予測するの? 数学で?」

「いや」

 俺が言うと、ハガナは眉根にしわを寄せる。まるで俺が意地悪をしているか、回りくどい説明をしているみたいだが、多分ハガナは見た目ほど不快に思っていない。

 リサが言っていたように、元々眼つきがちょっと悪いのだ。

 なんとなく、そう思えてきた。

「でも、多少は株がどんなもんかわかっただろ?」

「……お前の……ハルの、説明の部分だけは」

 ハガナは自力で俺の名前を言いなおす。

 リサがすごく嬉しそうに笑っていて、ハガナも当然そのことに気が付いている。

 ちょっと恥ずかしそうにちらちらリサのほうを見ていたが、リサが椅子から立ち上がってテーブルから離れたので、ほっとしたように俺のことを見てくる。

「で、大本のところでは株の値段の予測は、その会社が儲かるかどうかで判断する。でも、さっき言ったみたいに毎日どうなってるかなんてのはわかんないし、ましてや来月、来年どうなってるかはわかんない。超優秀な企業がすげえ事故起こして死ぬほど賠償金払って潰れちまったこともある」

「……そんなことが?」

「結構ある。だから、皆他にも色々な方法で株価の予測をする」

「……数学?」

「はは。ちょっと落ち着けよ」

 俺が笑って言うと、ハガナは鼻先を爪弾かれたような顔をした。

 そして、我に返ると、キッと俺を睨んでくる。

 恥ずかしいのだというのが、尖った唇からわかった。

「一応ほかの方法も話しとかないと、説明しづらいんだよ」

 俺の言葉に、ハガナはしばしためらっていたが、やがてこくりとうなずいた。

「これ、株価のグラフなんだけどな」

 情報一覧に戻り、画面中のジグザグの線が書かれたグラフを示す。

「毎日の株価をプロットして、つなぎ合わせた奴。チャートって言うんだけど」

「……ぎざぎざだけど」

「そう。でも、エメラルドインダストリーは儲かってるから、全体的に右肩上がり」

「うん」

「別の会社だとこうはいかない。例えば、これとか、これとか、いろいろ」

「うん」

「で、こういう図形が株の種類と、取引されている時間分だけあるわけ」

「うん」

「何千種類、何十年分ってな」

「それで?」

「それで、暇な奴らがある日気がついた。このチャートの形の中には、特徴的なものがいくつかあるって」

 ハガナは俺をじっと見つめ、それから、端末画面のチャートを見る。

「有名なのだと、こういうのかな。ヘッドアンドショルダーっつって、真ん中に大きい山があって、両脇に小さい山がある。人の頭と肩みたいだろ?」

「……一応」

「こういう形の時は、この大きな山のところがピークの値段のことが多い。だから、この株はこの先ずるずると値を下げる公算が高い」

「そうなの?」

「そう言われてる。ああ、怒んなよ。そういうふうに、過去のチャートの形と見比べて、この先どうなるかって予測方法があるんだよ」

「……」

 ハガナは騙されまくった子供みたいに用心深いが、なんとかうなずいてくれる。

 そこに、椅子を立ってシンクでなにかやってたリサが、ココアを作って持ってきてくれた。

「で、この図形をあれこれ使った予測方法にも、一応数学が使われてる」

「たとえば?」

 ハガナの顔つきが変わる。

「このぎざぎざの線の後ろに、滑らかな線があるだろ?」

「これも、株価?」

「これは、移動平均線って呼ばれてる。たとえば、五月一日を基準にして、五月一日から過去三十日分の株価を平均した値をプロットする。その隣には、五月二日から過去三十日分の株価を平均して、プロットする。そうすると、かなり滑らかな線ができる」

「うん」

「毎日の動きで見るとすげえジグザグでも、こんなふうに平均すると、長期にわたって上昇基調なのか、下降基調なのか、それとも横ばいなのかがなんとなくわかる。で、この大きな動きを信じて売買する方法がある。この大きな線が右肩上がりなら、なんかこの先もずっと上がりそうな気がするだろ?」

 ハガナはじっとグラフを見て、律義にうなずく。

「やっぱり暇な奴が統計取って、日々の株式のチャートと、この移動平均線の交わり方で、この先は上がるとか下がるとか予測する方法が作られた」

「そんな計算なら難しいことじゃない。私はそれをするの?」

「それでもいいけど、俺だってそんくらい時間をかければできる」

 チャート分析は、株の入門者が最初にやることだろう。口座を開くと、チャートの有名な分析手法が山ほど入ったツールを無料で使わせてくれる。

 だが、実際に取引を始める前に自分であれこれ使ってみて、これはどれもあてにならんと確信した。

「で、お前に試してもらいたいのは、こういう方法の、もっと先のこと」

「先?」

「そう。軌道エレベーターの運行案内って見たことあるか?」

 俺の質問に、ハガナは目をぱちくりとさせる。

「軌道、エレベーターの?」

「そう。あれって、エレベーターに衝突する塵の予報が出てるじゃんか」

「うん」

「衛星軌道上の、秒速数十キロとかで飛ぶ小さい塊の動きを死ぬほど正確に予測できる。物理学ってそういうあれなんだろ? 未来が予測できるような」

「……私は、物理は詳しくない。でも、多分そう」

「だとしたら、株価も数学で天体の動きみたいに予測できるんじゃないのかって考えがある。らしい」

 ハガナは俺をじっと見て、それから端末を見る。

「つまり、この図形を描くような数式を見つけるってこと?」

「その通り」

 そんなことが可能なのかどうか俺には分からない。

 でも、世の中にはそういった方法で莫大な利益を上げている連中がいるのだ。

「できるの?」

 ハガナの質問は当然のもの。

 俺だって、半信半疑だ。

 ただ、なにもしないよりかはまし。圧倒的に、まし。たどりつけるかわからなくても、やらなければ前には進まない。

 俺はそうやって、実家の村から飛び出してきた。

「わからん」

 答えると、ハガナは顔をしかめて俺を見る。

 俺はハガナの視線を頬に受けながら、端末画面を見つめたまま言った。

「けど、できるかできないかじゃない」

「え?」

「うまくいくまでやるんだよ」

 俺の視界の隅で、ハガナが呆気にとられているのがわかる。

 そして、なにかを言おうとして口を動かすが、それは言葉にならず、ただ空気を唇で食むだけだった。

「それに、賞金は二十万ムール。参加費はなし。これに参加しない理由ってなんだ?」

 黒尽くめの少女は、自分の数学の力が現実の問題の前であまりにも非力であると、嘆いていた。この投資コンテストは、そんなハガナがほんの少しでも前に進むための、とっかかりになるはずだった。もちろん、うまくいけば俺にとっての直接的な利益にもなる。

 ハガナが俺のことを見つめ、しゃっくりをするように、固唾を呑んだ。それから、横目で端末画面を見つめ、もう一度俺を見直してくる。顔が強張って、肩をそびやかして、極寒の冷凍庫の中に置き去りされたようにかちかちだ。

 でも、ハガナの目は俺のことを見つめている。真っ黒い目でじっと俺のことを見つめている。

 自分の足で歩こうとしない者を背負って歩けるほど、月の世界は甘くない。

 俺はじっとハガナの目を見つめ返す。

 そして、ハガナはこう言った。

「私は、たくさん解いてきた」

「あ?」

「千百二十一個中、八百四十一個目まで、地球の数学の歴史を逆算した。解けなかったものは、一つもない」

 それが、ハガナが部屋の中で延々と解き続けているという、人類の数学の歴史を刻む定理のことだと気がつくのに、たっぷりと十秒はかかった。

 ハガナはその時間を根気よく待った。

 あるいは、月に売られてきた少女がさらに言葉を続けるのには、それくらいの勇気が必要だったのかもしれない。

「なら、解けるはず」

 リサは、ハガナをまじめな娘だと言った。

 俺はただ単に頑固なだけではないのかとも思っていたのだが、ハガナがテーブルの下で必死に拳を握りしめているのに気がついて、リサの言を受け入れることにした。

「解けるはず」

 ハガナはもう一度言って、目を閉じる。

 その姿に力強さを感じたのは、ハガナがどれほど傍若無人か知っているからだ。

 その目が開いたとき、ハガナは明確な一歩を踏み出した。

「ルールを、全部教えて」

 俺はその言葉を受け止めて、答えた。

「わかった」

 ココアを淹れた後、ソファーのほうに座っていたリサが、そんな俺たちを見て微笑んでいたような、そんな気がしたのだった。