月面では重力が低いので、筋力トレーニングにはバネの力を借りるのが一般的だ。

 それ用の棒とコイルも通販で売っていて、大人気商品になっている。

 しかし、買ってみて実際に使っている人間がどれほどいるかは非常に疑わしい。なにせその棒とコイルのセットで一財産築いた健康器具会社は、似たような商品のシリーズを出して累計の売り上げで三百万セットくらい売っているはずだが、どう考えたってそのシリーズのどれか一つを持っているだけで事足りる。

 しかも、月の人口が七十万人程度で、観光客を入れたって百万がいいところ。買ってもろくに使わず、また新しいのを買う人間がどれほど多いかということだ。一つの道具をきちんと使い続けることは、その道具を使う上で最も難しいことの一つ。そして、取り扱い説明書にそのことは載っていない。

 俺はあの堅物で時代遅れの父親から聞いた言葉が勝手に頭の中で繰り返されるのを聞きながら、いつものトレーニングを終えた。腕、肩、脚、腰、腹筋、と負荷をかけて、逆立ちや軽い宙返りでバランス感覚を養うトレーニングは、長くても二十分。アスリートを目指すわけではないので、それ以上は必要ない。

 そもそもこんなことをしているのは、「体だけは鍛えておけ。必ず役に立つ」と、実家の村にいた、嘘や見栄を絶対に口にしないタイプの連中が、口を揃えて言うことだったからだ。

 ネット全盛で重力も低く、電力が安定してほぼ無限にある月面では、力仕事など下の下の下に分類される。力仕事で大金持ちになった者はいない。せいぜいが、その力を見世物にしたショービジネスだが、それでも結局最大の利益を手にするのは力持ちの男ではなく、その男を雇う経営者だ。

 しかし、家出をして社会のルールから外れてみると、なるほど彼らの言葉には真実がたくさん含まれていた。俺が警官に捕まらず実家に送り戻されずに済んでいるのも、彼らの助言があったからだと思う。さすが、ゲリラや秘密警察や軍閥なんていう、現代の恐竜から逃げてきた連中だった。

 タオルで汗を拭いて、リサやハガナに臭い臭いと言われた服を着る。

 二度洗濯してようやく匂わなくなったらしいが、俺はなにかこう、この三ヶ月間でようやく服に染み付いた大事な気構えみたいなものも、一緒に洗い流されてしまったような気がした。

 家を出て気がついたことの一つは、洗剤の匂いは人を弛緩させるということだ。

 清潔、という言葉にはいかにも弱そうなイメージがある。

 しかしまあ、これも悪くない。

 俺は居間に行って朝食を取り、リサに外出の旨を告げてから、部屋に戻って鞄を背負った。

 今日は日曜日なので、取引関連の市場は閉まっている。なにより学校も休みなので、俺が外を出歩いても咎められない貴重な日だ。ついでに例の窃盗犯も見事捕まったらしいので、誤認逮捕から実家に送還、という可能性もなくなった。

 ちなみにリサがご近所のネットワークから聞きこんできた話では、犯人は家出少年だったようだ。なんの手立てもなく家を出て、罪を犯して迷惑をかけるという、いかにも典型的な馬鹿だ。多分、地球移民ではなくて、月で生まれ育った奴だろう。自分が月生まれの月育ちだからわかるのだが、月野郎は地球から来た奴らに比べ、重力の低さのせいか頭の中がぼんやりした連中がとても多い。

 月面では都市の維持のために働くことがなによりも重要視されるが、実際のところはニュートンシティの天才や秀才たちが莫大な金額を稼いでくれるので、プライドさえ関係なければおこぼれに与って暮らすことは一応できる。実際に、外区でぶらぶらしている連中は、そういう寄生虫に近い存在だ。

 ただ、月野郎が馬鹿にされる本当の原因は、そういう経済的な話ではないだろう。

 地球から月に来る奴らは、観光客も含めて皆ものすごく目的意識を持ってやってくる。彼らは月で何事かを成すためにやってくるからだ。

 それは地球では得られなかった平穏な生活を送るためかもしれないし、同じように地球では得られない刺激に満ちた毎日を送るためかもしれない。

 なんにせよ、彼らは目的のために前に進むということがどういうことか、よく知っている。

 軌道エレベーターに乗るにはまともな方法だと安くない金がかかるし、料金の割引や免除を受けるにはものすごい難関を努力でクリアーするか、あるいは運に頼るしかないから、月に来るというのは特別なことなのだ。

 だから地球野郎たちは自分がどこから来てどこにいて、なにをすればいいのかをきちんとわかっている奴らがとても多い。文字通り、地に足がついている。

 対して、月野郎たちは望んで月に生まれたわけではないから、月でやりたいこととか、月への憧れとかは存在しない。地球から来た人々が月に持っている熱狂のほとんどを、理解することができない。

 結果、月野郎はぼんやりしているだとか、地に足がついていないだとか言われてしまうのだ。

 俺はもちろん地球野郎に負けない目的意識の塊だと思っているが、どうしても月生まれだという負い目がある。

 俺の地球野郎嫌いは、そういうところに起因していた。

 靴紐を結んで廊下に出ると、家は静まり返っている。リサは朝飯を食べると、大学から呼ばれたとかなんとか言って、出かけていった。ハガナの野郎がいるのはわかっているが、トイレ以外はずっと自室に籠っているらしく、そこからはことりとも音が聞こえない。なにをしているのかわからないが、やや不気味な感じがする。野良猫の解剖をしていても驚かない。

 なので、鞄にはこれまでどおり俺の身の回りの品を全て詰めている。ハガナが俺のいない間に端末を金槌でぶっ壊さないとも限らない。

 加えて、俺は廊下をそのまま居間の方に歩いて行くことはしなかった。

 代わりに、二階へと続く階段を上った。この教会は、二階と三階部分が崖に張り付くようにして上に延びている。狭くて急な階段を上ると、崖を削ってできたわずかなスペースに小さな庭があり、崖にへばりつくようにして作られた部屋が二つある。どちらも急斜面にあるので部屋自体は狭いが、一つはリサの部屋らしい。小さな庭には白く塗られた椅子とテーブルが置かれている。

 さらに上に続く階段は、階段というより梯子になっている。リサはこの梯子を器用に上り、洗濯物を三階の庭で干していた。

 三階の建物部分は部屋というより物置で、そこを抜けると屋上に近い敷地がある。扉は木造だが生意気にオートロック錠がついていて、リサの手書きで「出るときは鍵を忘れずに」とある。きっと何度か締め出されたのだろう。俺はもちろん帰りは正面入り口から入るつもりなので、そのまま外に出る。

 月面は二週間続く「昼間」の真っ最中なので、月面都市を覆うドームが光を透過しているこの時間はとても気持ちがいい。今日も同じ位置に地球が見える。この庭は場所柄やや贅沢なくらいの広さで、背後の崖に寄り添うようにして大きな木も生えている。木陰ではリサかハガナがくつろぐためなのか、折りたたみ式の椅子が置かれていて、花壇では百合が揺れていた。今は洗濯物も干されているが、どれが誰の物か一目瞭然なので、俺はそっと視線を逸らす。

 とにかく、ここは崖があまりに急なせいで、周りからは視線を遮断されている一方、すべてを見下ろせるよい場所だった。

 足元からはごちゃごちゃした第六外区の町並みが見渡せて、屋上に出てのんびり端末で読書をしている人もいるし、屋根を直している人も見えた。パン屋かクリーニング屋でもあるのか、不格好な煙突から水蒸気を出している建物もあるし、建設中の家もある。

 ただ、俺の目的はそこいら辺を探索することじゃない。

 ここの背後の崖を駆け上って台地の上を走っていくのもよかったが、多分誰かの家の敷地に出るから、警察を呼ばれるだろう。

 俺は軽く屈伸をして、この庭から見える家と家の隙間を窮屈そうに通る、台地の上に続く道を探し出し、そこに向けて助走して庭から飛び降りた。

 向かう先は庭から見えたもっともっと先。

 地球への反逆かのように鋭く伸びる、ニュートンシティのビル群だった。



 俺は第六外区の繁華街に出て、電車に乗った。月面開発列車という素っ気ない名前だが、文字通り月面が開発されたときの列車で、駅の始点と終点にはいかにもな宇宙服を着た人形が、いわゆる月面の砂漠で作業をするジオラマが展示されている。ネット上でいくらでも追体験できるのに、観光客たちはありがたそうにそのジオラマに群がって写真を撮っているのがいつ見ても奇妙だ。

 以前、頭のいい誰かが思い付きで小さな切れ込みの入った箱を置いたら、寄付箱だと勘違いした観光客が山のように小銭を入れたらしい。ただ、頭のいいそいつが見抜けなかったのは、たった数時間で箱が一杯になるくらい金を入れた観光客たちの馬鹿さ加減で、金が溢れて入れられないと駅員に苦情を申し出た観光客のせいで、いたずらが露見した。

 以降、頭のいい馬鹿の失敗を生かして、駅員がでかい箱を置いて、寄付ともなんともうたっていないそれで観光客から小銭を徴収していた。詰めが甘いとうまい儲け話もふいになる、というよくできた見本と言えた。

 月面では人類が住める環境になっている土地はとても少ないので、月面開発列車は申し訳なさそうなくらい体を縮めて町中を走っていく。

 電車は猥雑に密集した建物のすぐ側を通り、窓からはその生活の内部がよく見えた。観光客たちは自分の国の文化様式の建物や生活なんかが垣間見えると、楽しそうにはしゃいでいる。

 当然、俺が見て嬉しい文化様式なんてどこにもありはしない。

 月は移民たちのごった煮で、しかも地球の重力を振り切りたくて仕方がなかった連中ばかりが集まる場所だから、余計に色が薄いところがある。だから、線路沿いの諸々は、ちょっとしたパフォーマンスだとも言える。自分の生まれ故郷の文化生活を貫徹したがる奴は、ここでは思い切り白い目で見られることになる。ここは月であり、地球ではないからだ。

 いくつかの駅を越えていくと、やがて町並みが変わってくる。

 猥雑な雰囲気から秩序だった町並みに変わり、どんどん無国籍になっていく。自然界には存在しない、直線と優雅な曲線を描く建物が増えて、綺麗に刈り込まれた木が多くなる。ホワイトベルトに入ったのだ。

 車内の電子広告も企業で働く勤め人向けのものになって、マイホームだの家族のための保険だのといったものが多くなる。

 また、ここからは地面が急激に低くなっていき、列車は地面から離れていく。綺麗な町並みがやがて眼下に広がるようになって、最終的にはビルの十階程度の高さになる。

 建物は綺麗で、ところどころに公園の緑があったり、大きめの水路が顔を覗かせたりする。

 写真を撮って額に入れたら、タイトルは「調和」だろう。

 そのはるか向こうには、レッドバレーの猥雑な町が見えているから、とても対照的だった。

 そんなことをしていると、列車はさらに高度を稼ぐようになる。眼下の町並みも住宅街から商業施設ばかりが目立つようになり、無機質なビル街になってくる。

 電車はビルの二十階分くらいの高さまで来ているはずなのに、側を通り過ぎるビルで天辺の見えるものが少なくなってくる。ニュートンシティが近づいているのだ。硝子張りの窓の向こうに、忙しなく働く人たちの姿が見え、あっちこっちに電子広告の看板が現れ始める。

 やがて電車はうっそうとした森の中に入ったように陰に包まれ、視界は一気に悪くなる。

 林立するビル群の中を縫うように進み、大きく弧を描いて迂回すると、急激に視界が開けた。

 ニュートンシティの、セントラルステーション前大広場だ。

 巨大な吹き抜けのようにそこだけくりぬかれた空間は、地球から来た者たちのみならず、月育ちの人間たちの度肝も抜く。地上百六十二メートルに存在し、ナノワイヤーで吊るされた巨大な時計とホログラフ画面がその広大な空間のど真ん中に浮いている。

 列車は大広場の隅に沿って進み、やがてターミナルステーションの中に吸い込まれる。

 月面都市のみならず、人類世界において最高の富と栄誉の集まる場所。

 俺は列車を降りて、目に入る広告の数を数えてみる。ナノテクの企業が三つ。ソフトウェアの大手企業のものが四つ。バイオ企業が二つ。保険会社が二つ。銀行が六つ。そして、投資銀行が五つ。どれもこれも世界に名だたる収益率と売り上げを誇り、地球上の富を月面都市に吸い上げる掃除機の役目を果たしている。世界の企業のうち時価総額のでかい順に並べると、上位百社のうち三十七社が月面にある。ロンドンよりもニューヨークよりもその数は多い。

 地球を見捨ててこっちに本社を構えた会社も多いし、ここで一旗あげた会社はもっと多い。

 新天地は優秀な頭脳を集め、この時代は優秀な頭脳とネット回線があればいくらでも世界を出し抜ける。

 地球では古い歴史があるゆえに、目に入るほぼ全ての場所が開発されつくし、爺どもがでかい面をしていつまでも権力構造の上に居座っている。月面はどこかの国が独占的に権利を主張できるような状況ではなかったし、同盟を結んででも月面を支配する、という大昔の戦争期のような発想を実行に移すには、地球人たちは領土というものに愛着を持っていなかった。

 だから、月面は文字通り邪魔の存在しない更地となった。一番乗りにここにやってこなくても、二番三番でも十分に都市の立役者の一人になれた。

 彼らは、「静かの海」記念館で展示される足跡は残さなかったが、間違いなく人類の最前線に立った者たちだった。

 たとえば、セントラルステーションの中央出口前にはブロンズの胸像がある。

 真面目くさった顔で通行人を見下ろしている像のモデルであるE・J・ロックバーグも、地球にいたら単なる優秀な銀行員で終わっていただろうといわれている。

 今や月面で三本の指に入る投資銀行の最高経営責任者で、わずか二十九歳の時に月面開発列車の出資に一役買った。当時としても勢いでやってしまったと皆が薄々思っていた月面開発に、人生のキャリアと全財産を懸けたうちの一人だ。

 そんな事例がごろごろある。

 都市をゼロから作る、ということが地球では久しくなかったから、その本当の意味が皆わかっていなかったんだ、と立役者の多くが言う。我々はその流れにうまく乗っただけだ、と。

 俺はその言葉に賛成しつつも、全員がうまくやれるわけではない、ということをよく知っている。

 なにせ、うちの両親はE・J・ロックバーグと同時期に月面に着いたのに、収入の差は歴然だ。やってる仕事といえば岩を取り除いて土を作り、木を育てて加工する。

 何兆年前の仕事なのだ? というか、それならば地球でやればいいのに。

 だから、俺は大事なことを忘れないようにと、ときたまわざわざ電車に乗って、ニュートンシティにやってくる。特に、ここ最近は取引がうまくいっていないので、気合を入れるためでもあった。

 そこは大広場とは逆の方向に駅を出て、目の前に聳え立つ月面行政府ビルの右横を通りぬけたところにある。硝子張りのビルが多いニュートンシティの中、くすんだ岩を削り取ったような材質で造られたビルが多い。そのために一見すると、地味にも見える。

 ただ、それはどちらかというと、ほかに比類のない強力な重力のような物を感じさせる威圧感があった。そこは銀行と投資銀行が軒を連ねる金融街なのだ。

 通りの入り口には、素っ気無い道路標識が立っている。そこには、科学史上重要な貢献を成した者たちの名前を付ける月面の習慣に倣って、シュレーディンガーストリート、とある。

 そして、その脇には小さな猫のブロンズ像があった。猫はこすっからそうに目を細め、一枚の金の板に足を乗せて寝そべっている。金の板には、こう書かれている。

 蓋を開けてみるまでわからない。

 金融街にはこれ以上ないくらい相応しいものだと俺は思う。月面でなにかにお祈りするほど俺も落ちてはいないが、この猫の頭を撫でると運が上向くという迷信にだけは逆らえない。

 俺は猫の頭を撫でて、その指で金の板をなぞる。

 蓋を開けてみるまでわからない。

 俺はその言葉を自分に言い聞かせるためにここにやってくる。使い走りからキャリアを始めて、やがてこの通りで軒を連ねる巨大ビルの主になった者が何人もいる。

 俺はここに、英気を養いに来たのだった。



 休日のシュレーディンガーストリートは、概ね俺みたいな物見遊山の連中ばかりだった。

 スーツを着て忙しそうに歩き回る人間もいるにはいるが、高さ五メートルはあろうかというビルの正面玄関を守る守衛たちも暇そうに欠伸をしていた。

 通りではホットドッグ屋の屋台が出ている。この近辺で仕事をし、荒稼ぎをする大物銀行家や凄腕トレーダーの月収は軽く百万ムールを超えるが、彼らもこの屋台で時給六ムールの駆け出しメッセンジャーに交じってホットドッグを食べると、その筋では有名な店だ。

 注文して十秒で出てきて、片手で食えるのがいいらしい。屋根つきの店で飯を食うのは二流がやることで、弁当なんて買って腰を下ろしていたら物笑いの種だ。

 だから、俺もこのストリートでの駆け出しを気取って、いつもホットドッグを買う。

「休日出勤かい」

 なんて言われて、太いソーセージを入れてくれた。

 外区でやられたら、馬鹿にすんな俺には少なくない収入があるんだ、なんて思うところだが、このストリートの一員として見られることに鼻の穴が膨らみかけてしまう。

 俺にとって、金稼ぎは手段であり目的ではない。けれど、俺が考えに考え抜いて、最速で大金持ちになるにはこれしかない、と決めた道の先をひた走る連中には、どうしたって憧れと尊敬の念を持ってしまう。なにより、どんなことであれ、多くの者が望んでできないことを成し遂げる者には、特有の偉大さがある。

 だから俺は礼を言って、この通りの住人よろしくいつもよりもせかせかと歩き出した。

 ニュートンシティは土地の有効活用のために、大抵三層に分かれている。

 地下層、地上層、空中層。

 今俺がいるのが最も人気の空中層で、どこのビルも正面入り口はここにある。

 月面の経済を支えるE・J・ロックバーグ銀行の本店のみならず、ハラルド・ブロスや、プラチナ・スミスといった大手の投資銀行のビルも負けず劣らずどっしりと居を構えている。

 空中層の下は地上層で、ここは関連会社や賃貸部分になる。このストリートの下部分ともなれば、金融市場からどうにかして金をもぎ取ろうとする会社がひしめきあっている。

 ホットドッグをかじりながら歩いていると、時折肩身が狭そうなこぢんまりとしたビルもあるが、看板は金ぴかで、ホールの吹き抜けにはシャンデリアや絵画が飾ってあったりする。

 ここは金を扱う場所ではなくて、巨額の金を扱う連中が法のお墨付きを得る場所だ。大手の弁護士事務所、会計事務所、それに、地球にある各国政府の出向機関。

 そのまま進むと、交差点の手前にローマのコロッセオみたいな形をした建物が見えてくる。入り口は通りから階段を何十段も上った場所にあり、階段部分だけで一つの広場になっている。この都市でこんな無駄な空間の使い方をできるのは、そこが特別な場所だからだ。

 ソフトウェア会社やメディア企業が軒を連ねるガウスストリートとの交差点に陣取るそれは、月面総合証券取引所で、この都市の富の源泉とも呼べる場所だった。月のみならず世界中のそうそうたる企業が上場して、世界で一番の取引高を誇っている。毎日何兆ムールという巨額の金が行き交っているそこは、資本主義と人類発展の極みといえた。

 観光客も多く、階段を上った先の入り口にある、お決まりの銅像の前で写真を撮っている者たちを眺めながら、俺は取引所の巨大な階段の中ほどに腰掛けて、ホットドッグの残りをゆっくりとかじった。

 ここでは全てのものが大きくて、重厚だ。

 俺はここでは鼻紙ほどの価値もない小僧で、ホットドッグを買うのがせいぜいだ。

 ただ、俺は背中に背負った鞄の中にある端末一つで金を稼ぎ、いつかここの主要プレイヤーの一人にならなければならない。彼らと比肩し、捻じ伏せ、テーブルの上から金をもぎ取らなければならないのだ。

 そのことは、俺が夢を叶えるための前段階に過ぎないのだが、いざその場所に身を置いてみると、足が震えるほど無謀なことだと思えてくる。

 なにせ、相手になるのは超有名大学を首席で卒業し、金融の世界で三十年も戦っている奴らとか、十歳の時に世界最先端の数学の論文を書いたことがある天才とか、圧倒的な資金を持つ大金持ち一族だとかなのだ。

 だが、魑魅魍魎が跋扈するこの世界で、学も後ろ盾もないままに戦い抜いて大金をもぎ取った偉人が、過去に何人も存在する。

 ならば、俺がその中の一人になれない理由などどこにもない。

 蓋を開けてみるまでわからないのだ。

 金。とにかく金。

 俺が欲しくてたまらないものが、ここには渦巻いている。

 俺はいてもたってもいられなくなり、ホットドッグの包み紙をくしゃりと握りつぶすと、立ち上がった。ここしばらくの取引の不振など、宇宙に飛んでいった塵の一つにしか思えなくなった。

 帰って金の生る木を探しまくろう。

 そして、いつかここで一目置かれる存在になる。

 その先にある、自分の夢を掴みとるために。

 俺は鼻息荒く、ストリートを駆け抜けたのだった。



 帰りの電車の中で、離れつつあるニュートンシティの巨大ビル群を眺め、鞄を抱きなおした。やはりニュートンシティに行くと、一週間の取引で擦り切れた精神力が全快する。

 一方で、電車から見える景色はすぐに同じ月面とは思えないほど変わったものとなり、今にも崩れそうな建物ばかりが多くなる。

 終点で降りれば、水路に釣り糸を垂れる者や、食費を浮かすためになにかを育てている者。ふかした饅頭を売る者や、刃物の研ぎ師や靴の修理請負なんていう者まで目に入る。生活感に満ち満ちて、決して莫大な儲けとは縁のない場所。俺は誰に向けるともなく舌打ちをして、いくつかの建物を飛び越えて近道をした。

 屋上で昼寝をしていたおっさんに怒鳴られながら四階の屋上を蹴って飛び上がると、遠くに第七外区との境界になる崖が見えた。もっと高く飛べば、ビッグ・ブル・カフェのある並びの汚いビル街も見えるだろう。

 しかし、いつまでも空を飛ぶことはできず、俺は地球の六分の一の重力に引かれてゆっくりと落ちていく。膝を曲げてたっぷりと慣性を吸収させ、最後のひと飛びでさらに距離を稼ぐ。

 人通りの少ない道でしかできないし、場合によっては危険行為の廉で警官に追いかけられる。

 それでも、このスピード感はたまらない。

 ニュートンシティで興奮している俺にはぴったりだ。

 あっという間に教会に到着した。

 さて、俺に富をもたらしてくれる銘柄選定に勤しむかな、とでかい扉を開けて中に入った、その瞬間だった。

「おい!」

 男の怒鳴り声が響き渡った。

 一瞬、別の教会に勝手に入ってしまったのか? と思ったが、違うらしい。

 直後に、聞き覚えのある声もしたのだ。

「触らないで!」

「くそっ、おとなしくしろ!」

 母屋に続く廊下から、恫喝が聞こえてくる。俺は数瞬頭が空回りして、直後にかっとした。

 リサは大学に出かけ、教会にはハガナだけがいたはずだ。ソファーやらが倒れ、争う音がしてくる。

 心臓が猛烈に血液を送り出そうとする一方、頭は冷静に状況を見極めようとする。

 警察?

 それなら、今すぐ踵を返し、一目散に逃げるべきだ。あのくそ生意気なハガナがどうなろうと、俺の知ったことではない。

 しかし、もしもそうではなかったとしたら。

「ここにはお金なんてない!」

 ハガナの必死な叫び声に、俺はほとんど無意識に体を動かしていた。

 鞄を放り投げずらりと並ぶ長椅子の背もたれに飛びのり、飛び越え、母屋に続く扉を蹴り開けた。

 直後に目に入ったのは、小柄な男の後ろ姿だ。

 男はハガナの細い両手首を掴み、尻もちをついたハガナにのしかかるような姿勢だった。ひっくり返ったソファーや、めくれたカーペット、それに、男の向こうに見えるハガナの細い足が、ひどく胸糞の悪いなにかを予想させた。

 ハガナは、くそむかつくとはいえ、女の子なのだ。

 頭の毛穴から、直接アドレナリンが噴き出そうなほど、怒りが湧いた。

 一瞬後には、全力で飛びかかり、思い切り右足を踏み込んでいた。重力の低い月面では、打撃はあまり有効ではない、でも、俺の体は怒りを拳に乗せることをどうしても望んでいた。

 踏み込んだ足音か、あるいは実際には、扉を蹴り開けた時にこちらに気が付き、男は振り向いていたのかもしれない。

 とにかく、俺の拳は突然のことに驚いてこちらを振り向いた相手の頬に、見事にクリーンヒットした。

 が、俺の怒りは物理法則を凌駕できず、ほとんど抵抗なく通り過ぎた。

 とはいえそれでも十分だったようで、俺が自分の拳の慣性に引っ張られるのを、軸足とは逆の足で踏ん張って体を捻り終わる頃、相手は冗談のように回転しながら、その場に崩れ落ちた。

 気絶はしていないが脳震盪でも起こしているのか、焦点のあっていない目と、なにかを掴もうとする手はぶるぶると震えて強張っていた。

 一撃食らわせたことで幾分冷静になった俺は、倒れたそいつをいつでも蹴り飛ばせるように構えつつ、ハガナに声をかけた。

「大丈夫か?」

 そして、俺は気が付いた。

 ハガナは尻もちをつき、未だに変な姿勢ですくみ上がっている。ただ、顔色は血の気が引いて真っ白なのに、目だけが異様な光を湛えていた。どんな手を使ってでも相手を殺そうとするような、危うい目つきだった。

 なにかされたのかもしれない。

 俺はそのことに再び怒りが湧き、なんとか立ち上がろうと横倒しにされたソファーに手をかけた男の、その手を取って力任せに捻りあげた。

 体が簡単に転び、激痛が侵入者の意識をはっきりさせたらしい。

「おああああ!」

 盛大な悲鳴が上がったが、俺は負けじと声を張り上げた。

「黙れ!」

 腕を背中に回し、いつでも絞り上げられる体勢にする。もう、相手の反撃は不可能だ。

 俺は深呼吸をして、腕をねじりあげているおっさんに、殺意を込めて言った。

「おい、強盗野郎。覚悟しろよ」

「ひぃぃぃ」

 今度ははっきりと悲鳴を上げた。

「ま、待って、待ってくれ、殺さないでくれっ」

「黙れ」

「ぐあああ!」

 腕をさらに絞ると、アヒルのように鳴いた。

 ハガナがびくりと体をすくませるのがわかった。

 見ると、我に返ったような顔をしていて、あの危うい光は目から消えていた。

「ご、誤解だ、誤解だ。俺は泥棒じゃない、違う、違うんだ」

「じゃあなんだ? ご近所さんがお茶しに来て、気に食わなかったからソファーを倒してテーブルを蹴っ飛ばして、カーペットをはがすのか?」

 部屋はまさにそんな感じで、解体前のビルみたいだ。

 それに、ハガナの悲鳴をこの耳で聞いた。金はない、みたいな不穏な言葉だった。

「い、いや、それはつまずいた拍子だ」

「ああ?」

「本当だって! 誤解だ! というか、よく状況を見てくれ! 被害者は俺のほうだ!」

「はあ?」

 苦し紛れに見え透いた嘘を、と思ったが、おっさんも必死にこう続けた。

「そ、ソファーに座ろうとしたところを……花瓶で、殴りつけられたんだ……本当だって!」

 俺はそのまま腕を折ってやろうとも思ったが、おっさんの頭が濡れていることにも気が付いた。床には散らばる百合の花と、花瓶。

「ひい!?」

 おっさんの頭を後ろから覗きこむようにすると、確かに額の上のほうにでかいたんこぶができていた。

「だが、強盗に出会ったら花瓶で殴りつけようともするだろ」

「だ、だからそれが誤解だって言うんだよ!」

 悲鳴のようにおっさんは叫ぶ。

「俺は金貸しだ、金を取り立てに来たんだよ!」

「……金貸し?」

「そ、そうだよ! 金を取り立てに来てただけだ! 仕事なんだよ!」

 嘘とも思えないが、俺は一応ハガナに視線を向ける。

 ハガナはさっきほどの鋭さはないものの、相変わらずおっさんを睨みつけている。

「……そうなのか?」

 尋ねると、目を逸らす。

 そして、散々ためらった後に、うなずいた。

「ちっ……」

 俺は舌打ちして、男を解放してやった。

 男は逃げるように床を這って俺と距離を取ると、振り向いた。

「ま、まったく、ひどい話だ!」

 強盗でないとしたら、話の流れがよくわからない。

 俺は頭を掻き、言った。

「どういうことなんだ?」

「リ、リサさんに会わせて欲しいと言ったら、中に通したのは、そこの娘っこだ」

 おっさんはハガナを指さす。ハガナは、無言で睨み返す。

「こっちはそもそも手荒なことなんかするつもりはないんだ。一銭にもならんのだから……」

 心底疲れたようにおっさんは言った。

「さっきも言ったが……俺は、金貸しなんだ。リサさんに貸した金の、利子を取りに来ただけなんだよ」

「リサは大学に行ってる。なんかの用事で呼ばれたんだと」

「はあ?」

 おっさんはかすれた声を上げ、視線を向けた先は、ハガナだ。

「そ、それならそう言ってくれれば出直したよ。お、俺は無理に借金を取り立てはしないと言っただろう」

「口ではどうとでも言えるけどな」

 俺が横から言うと、おっさんは勘弁してくれと眉尻を下げた。

「リサさんに聞いてくれ。前回も取っ組み合いでひどいもんだったんだ。けどリサさんから謝られたし、俺が悪徳業者なんかじゃないってことも説明してくれたってことだから……」

 必死に説明するおっさんは、だんだん目の前の理不尽に腹が立ってきたらしい。

 俺は肩をすくめ、ため息をついた。

「じゃあ、取り立てに来たら、こいつが嘘をついてあんたを誘い込み、突然花瓶で殴りつけた。あってるか?」

 なんとも馬鹿げたシナリオだが、ハガナを振り向くと、おっさんを睨みつけていた視線がいくらか揺らいだ。そして、顎を引く。頷いたというよりは、最後まで罪を認めようとしない抵抗に見えた。

 状況的には、おっさんの言い分のほうが正しいように思えてくる。

「突然花瓶で殴られたら、取り押さえようとするだろ? 地球なら殺人未遂だよ……。あんちゃんが見たのは、そこからだ」

「じゃあ、ソファーやらは、いきなり襲われて、文字通りひっくり返ったってことか」

 つじつまがあってしまう。

 なにより、ハガナはずっと黙っている。

 怖さのあまりに口を開けないというより、口も開きたくないという顔だった。

 勇んで突入した身としては、居心地が悪い。

「んじゃあ……俺は、どうしたらいいんだ?」

「ええ? いや……まあ、傍から見たら、誤解を受けてもしょうがなかったとは思う。それに、あんちゃんは俺を殺さなかった」

 あんなことをされたのに、金貸しのおっさんは苦笑いでそう言った。

 俺の唇がひん曲がるのは、この冴えない風貌のおっさんに、それなりの度量みたいなものを感じたからだ。

「うー……とにかく、リサさんに連絡を取りたい。今日は家にいると思ったんだが」

「大学に呼ばれたって言ったろ。朝飯の後に出てったよ。その後は知らない」

 ハガナは口を開こうとしないので俺が代わりに答えると、おっさんは大きくため息をつく。

「ふう……。なら、多分、大学に講義料の前借りに行ったんだな」

「あ?」

 俺は口の中の苦い物をかみつぶすように顔をしかめながら、聞いた。

「もしかして、滞納してんの?」

「返済二回目からすでに、ちょくちょくな」

 呆れた話だ。

「きりがないから複利にはしてないが、滞納されると俺も困るんだ。儲かっているわけじゃないからね」

「……確かに、あんたの見てくれは、月面の金貸しには見えない」

 金がなさそう、という意味だ。

「よく言われるよ」

 おっさんは、怒るでもなく肩をすくめていた。

 おっさんの話を聞くと、どうやら俺は盛大に早合点していたらしいのだが、おっさんは俺のことを一言も責めはしない。俺の腕力にびびっているというより、その必要がないのでそうしない、という感じだった。

 子供なのは俺で、大人なのは相手。

 このままでは、さっきのことが貸しになってしまう気がした。

 俺は、不貞腐れるように、口を開いていた。

「いくらだよ」

「え?」

 おっさんが、聞き返した。

「リサの借金と、利子」

 おっさんは俺を見て、ぼんやりと頭を掻いていた。

「三万ムールで……年利12%だ」

「利率安いな!」

 思わず呻くと、おっさんも驚いていた。

「あんちゃん金利がわかるんか」

「絶対確実の国債だって、国を選べば6%はいくし、リスクを負ったら10%以上のだっていくらでもあるだろ……それとも、そんなに低利ってことは、どっかの銀行員なのか?」

「はは、これは驚いた。いや……銀行員だったのは昔の話だ。今はしがない町の金融屋だ」

 おっさんは疲れたように笑い、言った。

「私の名前はトヤマだ。あんちゃん、ただもんじゃないな」

 褒められても嬉しくねえよ、と唇を尖らせると、トヤマはやっぱり笑っていた。

「この歳になると、儲けよりも人の役に立つほうが楽しいんだ。ほとんど一人でやってるから、なんとかこのくらいで回せる。けど、商売は商売だから、そこのところははっきりさせないとな」

「……」

 俺は呻き、馬鹿げていると思ったが、胸元から札を取り出していた。

 百ムール札を三枚。一ヶ月分の金利だ。

「これ、は?」

 俺に押し付けられた札を手に、トヤマがきょとんとしていた。

「早とちりで、悪いことしちまったから」

 それに、リサが大学に向かったのが、借金のための前借りと聞いたのも原因だった。

 俺がここの滞在費として百ムールを出した時、リサが変に躊躇っていたのは、このせいだろう。大体、そこまで金に困っているのなら、十ムールなんていう破格で人を泊めているのはいよいよ馬鹿げた行為でしかない。どう考えても合理的ではない。

 けれども、俺はそのおかげで、ものすごく久しぶりに、深い眠りにつけた。警官に追われる心配もしなくてよくなったし、食事だってまともな物を作ってくれた。

 利子の立て替えは、トヤマへの詫びとともに、リサへのちょっとした礼の意味もあった。

「もちろん、リサから返してもらうけどな。一回分の取り立ての手間、俺が取ってやる」

 不貞腐れた物言いになってしまったが、言いたいことは伝わったようだ。

 トヤマは肩を揺らして笑い、うなずくと札を小さく掲げ、放り出されたままの鞄を拾って、その中にしまっていた。

「確かに受け取った」

「けっ」

 トヤマはそれから家具を直そうとしたので、俺は言葉を投げた。

「いいよ。こっちで直しとく」

「そうか? すまんね」

 トヤマは気負いもせずに言う。

「じゃあ、今日の私の仕事はここまでだ。リサさんによろしくな」

 そして、あっさりと帰って行った。そのしょぼくれた背中が聖堂から出て行くのを見送って、俺は大きなため息をつく。

 視線を向けたのは、ほかならぬハガナに、だ。

「なにしてんだよ」

 それくらい言って然るべきだと思った。

 金貸しから金を返せと迫られたら、うるさい黙れと殴りつけたくなる気持ちも想像できないではないが、実際に花瓶で殴りつけるのは明らかに狂っている。たとえ相手が悪辣だろうとも、法は金貸しに味方するだろうし、相手に付け入る隙を与えることにしかならない。ましてや女の身であれば、ろくでもない結果を招くことだってあるだろう。

 それに、ハガナのあの時の目つきは、本気で殺すつもりだったようにしか思えない。刺し違える覚悟、とでも言うのか、後先考えているようにはとても思えなかった。

 そして、ハガナは俺のことを睨みつけた。

「うるさい」

「はあ?」

「お前に関係ない」

 思い切りの喧嘩腰に、呆気に取られてしまう。

 ハガナは口を引き結び、思いつめたような顔で家具を直し始めた。六分の一の重力とはいえ、そこに慣れてしまうと、それなりの力しか出せなくなる。ハガナの華奢な腕ではソファーなどの大物は大変そうだったので手伝おうとしたら、鋭い声が飛んだ。

「触らないで!」

「な」

 言葉に詰まる俺に、ハガナは刺すような視線を向けてくる。

「利子まで払って……なんのつもりなの?」

 意味が分からず立ち尽くしていると、ハガナは俺の鈍さに耐えきれないかのように、頭を振る。

「私の邪魔をしないで」

 邪魔?

 聞き返したかったが、そうしたところで視線すら向けてこないだろう、というのは雰囲気からわかった。しかし、怒れもしないのは、言葉の意味がまったく分からないからだ。あのトヤマが悪漢ではなかったので、危ないところを助けた……というわけではないものの、俺は礼の一つくらい言われてしかるべきところではないのだろうか。

 そんな考えがぐるぐると頭を巡ったが、ハガナにこれ以上付き合うことは馬鹿馬鹿しく感じられたので、やめておいた。勝手にしろ、と。こんなことで無駄な時間を費やさず、すべてを株取引のために捧げるべきだ。ニュートンシティの光景を思い出せ。俺は、そこの住人になるのだから。

 小さいため息とともに頭を切り替え、聖堂に置いてきた鞄を取りに戻り、部屋に向かう。取引をするわけではないので、回線速度が遅い部屋でも十分だった。というか、ハガナのいる居間にいたくなかった。

 必死に家具を直すハガナの横を通り過ぎる時、もう手伝いは申し出なかったし、ハガナもこちらを見なかった。

 しかし、部屋に入ると尿意を感じ、やれやれとトイレのために戻る。

 その頃にはハガナもなんとか家具を直し終えたようで、今は花瓶に花を戻している。

 その様子だけを見れば、それなりに可愛く見えるのに、とそんなことを思って、通り過ぎようとした時だった。

「どう、しよう……」

 押し殺した、消え入るような声が聞こえてきた。幻聴かとも思ったが、ハガナは花瓶の前でうつむいていた。立ち尽くしていたと言ってもいいかもしれない。

 しかも、その手には茎が折れ、踏みつぶされたかしてぐしゃぐしゃになった百合がある。

 ハガナはおずおずとその百合を花瓶に入れようとしては、やめている。その様には、戦争映画の中で、ふっとばされた自分の腕を拾い、くっつけようとしている兵士のような哀れさがあった。

 それでも、俺は無視してトイレに行こうとした。また声をかければ、理不尽な敵意を向けられるだろうと思ったからだ。

 だから、トイレの扉に手をかけた瞬間、後ろから聞こえてきた声は幻聴かと思った。

「花が、足りないの」

 振り向いて、俺はぎょっとした。

 俺を見ていたハガナが、潰れた花を握りしめて、思いつめたような顔をしていたのだ。

「お、おい……」

 さっきの理不尽な仕打ちも忘れ、俺は慣れない展開に戸惑いながら、必死に言葉を選んだ。

「え、あ……な、泣くな」

「泣いてない」

 ハガナはきっぱりと答えるが、どう見ても泣く寸前だ。

 しかし、なぜ? 手にしている百合がそんなに大事なのか?

「な、なんだよ。花が、なんだって?」

 問い返すと、ハガナはうつむき、唇を引き結んでから、言った。

「花が、足りない。リサが、飾っていたのに……」

 ハガナはさらにうつむき、苦しむかのように身を縮めている。

 どうやら、さっきの騒ぎのせいで百合が何本か駄目になり、その百合はリサが活けていたものなので、足りないと困る、ということのようだ。まるっきり、後先考えずに行動し、窓硝子を割ってしまって顔を真っ青にしている子供そのものだった。

 それに、ついさっきはあれだけ理不尽な敵意を見せていたくせに、そんなことで頼ってくる精神構造も不可解だった。

 さもなくば、ハガナのほうもあれこれ動転していただけなのかもしれない。

 俺はため息をついてから、仕方なく聞いた。

「何本足りないんだ?」

「……二本……」

 言われ、花瓶のほうを見ると、踏んづけた際にもげてしまったのか、花と茎がローテーブルに置かれていた。

「で、どうしろって?」

 状況からしてなにを求めているのかは明らかだが、こっちから問題を解決してやるのは少し癪だった。

 耳の穴に小指を突っ込み、ハガナの前で明後日の方向を見ていると、ハガナはうつむいたままこちらをちらりと見て、またすぐに目を伏せている。口元が、なにかを言おうとして、言えないでいる。

 その気弱な様子は、さっきまでと同じ人物とはとても思えなかった。

 たかが百合の花だし、リサは正直に謝れば簡単に許してくれるだろうと俺でも想像がつく。

 こんなにしょげかえるほどのことではないと思う。少なくとも、もっと気にすべきことはたくさんあったはずだ。

 俺は、打ちひしがれているハガナを見て、やっぱり変な奴だ、と思った。

 毒気を抜かれて、さっきのことも気にならなくなった。

「百合の花なら、上にあった」

 結局、教えてやった。

「……う、え?」

 ハガナは顔を上げ、そのまま天井を見て、首を傾げている。

「天井に生えるかよ。三階の庭だ」

 はっとしたハガナは、視線を下ろして俺を睨む。

 が、長続きはしなかった。

 視線が徐々に下がり、俺の足を見るくらいに下がってからようやく、小さく言った。

「忘れていた」

 そして、ハガナは小走りに駆けて居間から出て行った。

 今度もまた礼の一つも言われなかったが、必死な感じだったので、怒りはしなかった。

 変な奴だ、と改めて思うだけだ。

 肩をすくめ、俺も部屋に戻り、端末を開いたあたりでふと気が付く。

 さっきの一言は、もしかしてあいつなりの礼だったのではないか。

「んなわけないか」

 俺は呆れるように呟き、株取引のための情報収集に取り掛かった。

 日曜日なので新規に配信される量こそ少ないが、一週間の間にどういうニュースが配信され、その結果どういう値動きになったのか、ということを調べたりするには、時間がいくらあっても足りはしない。

 しかも、それらはすべて「もしかしたら」とか「これが原因かも」という程度の確証しか得られず、それですら望めないことがほとんどだ。端末の中に頭を突っ込むようにして情報を漁っていると、ふと、無意味なことをしているのではないかという不安に駆られることもある。

 しかし、俺はこういう投資の方法こそが最善手だと思っていたし、実際に過去の偉人は株取引のことを、ある種の美人投票になぞらえていた。だとすれば、俺がすべきは、人々がどの銘柄を美しいと感じているかを探ることであり、それは彼らがどういうニュースに目を通し、どういうものを好むかを調べまくることに尽きた。

 それに、これまではそれでうまくいっていた。

 これからもまた、うまくいくはずだ。

 俺は端末が処理落ちするほどに画面を切り替えていき、がむしゃらにデータの海を泳いでいた。それがふと、メールボックスに届いている一通のメールに気が付き、手が止まった。

 投資系のメーリングリストやらニュースサービスやらに手当たりしだい申し込んであるので、俺のメールボックスは常にメールで溢れている。そのほとんどがクソだとわかっているし、広告の類ばかりだから普段は開きもしないのだが、妙に惹かれたのだ。

「投資……コンテスト?」

 株の世界では、企業主催の投資コンテストなんていうのが珍しくない。そのほとんどが賞金つきだが、要は自社のサイトに人を集め、口座を作らせようという広告の別形態なのだが、中には純粋な競技に近いものもある。こちらは賞金の額がでかく、ほとんどが招待制だ。

 俺が開いたメールは、人集めや宣伝目的のメールとは、一線を画していた。

『ラッツィンガー経済研究所主催投資コンテストのご案内。当コンテストは仮想市場における取引に参加していただき、その運用成績を競うものです。取引ログはすべて協賛企業、研究機関へと提供され、新しいサービスや研究へと利用されます。コンテストの目的上、完全招待制であり、実際の市場での取引額、および取引頻度などを参考に選ばれた方のみのご参加となっています。参加権の譲渡はできません。賞金額は、一位二十万ムール、二位五万ムール、三位二万ムール……』

「なお、副賞として、上位入賞者に、は……?」

 呟く俺の視線の先。

 そこには、信じがたい文字があった。

『協賛企業からのヘッドハンティングがあります。大手投資銀行、ヘッジファンド、財団の運用部門への採用実績があります。シュレーディンガーストリートへの就職をご希望の方は、奮ってご参加ください』

「……本当、なの、か?」

 単に参加者に真面目に取引をさせるための餌、と取れなくもない。

 賞金額は確かにでかいが、俺にはその一文のほうが大きかったし、文面からも、参加者にはそちらのほうを餌としてアピールしたがっているように見えた。

 シュレーディンガーストリートへの就職は、地球人が月面に来ること以上に難しいと言われている。超有名な大学を好成績で卒業した程度では書類審査で落とされ、経営学修士、あるいは超複雑な取引市場を分析するための理系の博士号を持っていることが求められる最難関だ。

 なにせ、世界で一番手っ取り早く儲かる業界の最先端なのだから、世界中から天才と呼ばれるような連中が大挙して押し寄せてくる。

 俺も自分の夢を叶えるためには、将来的にその一員になる必要があったが、どう考えても自分の頭では正攻法でいくにはあまりにもハードルが高すぎた。そもそも、うちの親の財力では、大学に行けるかどうかすら怪しかった。

 それで俺は、端末とネット回線だけで種銭を増やしまくる方法に出た。それがある程度の規模になったら、その実績をもとにどこかの投資会社に潜り込む。そして、金融業界の本物のノウハウとコネを手に入れ、さらにでかい獲物を狙っていく。それが理想形だった。

 もちろんこのままファラオ級の金持ちになれるに越したことはないが、個人の力ではどうしても届く範囲が限られてくる。人類の中でも指折りの巨富を築くには、システムの内側に入る必要があった。

 となれば、このコンテストはうってつけだ。

 俺は喜び勇んで参加登録のためのURLをクリックしようとして、はたと手が止まる。

 参加への注意事項だ。

「……取引は、登録からの六十日間?」

 注意書きを読むと、投資コンテストはすでに数ヶ月前から始まっているらしい。

 そして、全員が一斉にコンテストに参加するのではなく、順次招待メールが送られ、それぞれが好きなタイミングで投資を開始してよいとのことだった。ただし、一度始めたら、六十日後には取引が終了する、とあった。

 仮想市場の様子をうかがって、慎重に参加したがる者たちへの配慮か、さもなくばなにかの研究目的として、そういう変則的なルールを設けているのかもしれない。

 ただ、俺が日付を確認すると、投資コンテストそのものは残り七十日を切っていた。

 つまり、さっさと参加を決めないと、六十日間をフルに使えなくなってしまう。

 それでもなお俺が登録を躊躇ったのには、理由がある。

 招待文にあった、取引ログを協賛企業に渡すというところと、ヘッドハンティングの文字。

 これは要するに、単に運で儲けた奴らには用がない、ということだろう。取引を分析し、真に能力のある奴に声をかけるというわけだ。

 となると、どうしても俺は手を動かせない。

 ここしばらくの、自分の取引の不甲斐なさのせいだった。

 このコンテストは定期的に行われるものではなく、次の開催があるかどうかは不明で、もしかしたら、これが最初で最後のチャンスかもしれない。

 俺は、じっと画面を見つめたまま、動けない。

 勝算がない以上、下手に動くのは危険だ。

 万全を期して、臨む必要があった。

「……とは、いえ……」

 俺は唸るように喉の奥から声を絞り出し、歯を食いしばりながら、目を閉じる。

 自分も半端な気持ちで投資をしているわけではない。出来うる限りのことをして、持ちうるすべてを費やして取引に臨んでいる。それでもなお、ここしばらくの取引でうまくいかない原因がわからない。これは裏返すと、今までのことはすべて単に運の良さだった、ということになりかねない。俺には投資の才能などなく、いやそもそもそんなものはこの世になく、だからこそ皆がこぞって真面目に学校に通うのだ、と。

 いつも必死に頭から追い出していた不安が、ぼこりと蓋を押し上げようとする。

 俺は慌てて頭を振り、自分に言い聞かせた。

「方法を見つければいい。それだけの話だ」

 蓋を押し付け、釘を打ちつける。

「第一、前に進むしかないんだ」

 そして、蓋の上に胡坐をかいて座り込む。それで、ようやく不安が静まった。

 参加しない、という選択肢はあり得ない。可能な限り、戦略を練る必要がある。

 俺は心に目標を定め、メールをじっと見つめていた。

 不意に扉がノックされたのは、そんな時だった。