◆◆第二章◆◆


 朝、目が覚めて真っ先にすることは持ち物の点検だ。椅子の上で眠る際には必ず胸に抱えている鞄をまさぐり、それがないことに気がついて背筋が凍りついた。

 その直後、飛び起きたのがベッドの上だったことで混乱し、しかも視界が真っ暗で二度混乱した。

 ほどなく、記憶がゆっくりと蘇る。ここは怪しげなカフェのブースではなく、リサとかいうちょっと変わった女の管理する教会併設の家屋だということ。きちんと四肢を伸ばして寝たのが久しぶりなこと。

 多分、あれから、夜になるまで爆睡してしまったこと。

「……くっそ……」

 俺はなんだかわからない罪悪感と敗北感に呻きながら、ベッドに倒れこんで、再び枕に顔をうずめた。このまま永遠に寝ていたい誘惑に駆られるが、窓の外が暗いのだから、昼寝どころではない。半日以上寝ていたことになる。

 こんなに長い時間市場から遠ざかっていたなんて、言語道断だった。見なければならないニュース、データ、検討しなければならない値動きのことが怒涛のように脳裏をよぎり、焦燥感に駆られて胸の内がざわざわする。

 それでも、人の気配に警戒せず、四肢を伸ばして清潔なベッドで眠る心地よさは相当なもので、起き上がるのには結局、さらに二十分を要したのだった。

「おはよう。意外に早起きね」

 服がなかったので、風呂に入った時に借りたぼろっちい古着のまま居間に向かうと、軽口を向けられる。警官にも同じ態度だったので、リサはそういう性格なのだろう。

 今、そのリサは眼鏡をかけて、居間の隅に置いてあるパソコンに向かっていた。書類型の有機ディスプレイも開かれていることから、遊んでいるわけではなさそうだ。

「よく眠れた?」

 頭を掻き、居間を見回してから、答える。

「……見りゃわかるだろ」

 素直に答えるのが恥ずかしく、そっぽを向いた。

「ここ、無線でネットにつながんのか?」

 寝起きでも、俺は鞄を肩に下げている。いつでも出ていけるようにと同じく、いつでも取引ができるように。

「私のじゃだめ? ネットつながってるけど」

 他人の端末で株取引はしたくない。

 というか、株のことは黙っていたほうが得策だろう。俺がまとまった金を持っているとばれたら、面倒が起こるかもしれない。

「……自分のが使いたいんだよ」

「えーっと……私、そういうの疎くて……自分で試してもらってもいい?」

 肩をすくめ、電波が入りやすそうな窓際に腰をおろし、鞄から端末を取り出した。

 電源を入れ、パスを打ち込む作業は目を閉じていてもできる。

 そうしていると、興味深そうに様子を見ていたリサが、少しだけ眉をひそめた。

「ネット中毒者なの?」

 その聞き方が、いかにもデジタルに疎い人間らしくて少しだけ笑う。

「似たようなもん」

 はぐらかしながら投資ツールを開くと、一年ぶりくらいに帰ってきたような気になる。もちろん、そこにあるのは懐かしさではなく、置いていかれたという焦燥感だ。

 時刻は夜の九時過ぎだったので、十時間くらい寝ていたことになる。

「あなた、晩御飯は?」

 未読のニュースを片っ端から見ているところに、声をかけられた。

「いらねえ」

 即答したものの、昼からなにも食べていないことに気が付き、端末に目を向けたまま鞄の中に片手を突っ込み、チョコバーを取り出した。

「それが晩御飯?」

 非難がましいリサの言葉に、むろん返事はしない。

 すると、リサはぎしっという音をさせて椅子から立ち上がると、つかつかと歩み寄り、俺の目の前に立った。

「細かいことは気にしないけれど、この教会に来たからには、最低限の節度ある生活を送ってもらいます」

 小学校の先生を思い出す物言いに、思い切り嫌そうに見上げると、リサは一歩も退くまいという顔でこう言った。

「早寝早起きと、食事をきちんと食べること。少なくとも、朝と夜。それから、毎日シャワーを浴びること」

 ただ、そう聞いて、俺はきょとんとした。

「あ? それでいいの?」

 もっと面倒なことを言われると思っていた。

「俺は朝は早く起きる。シャワーも浴びれるんなら浴びたい。カフェになかったから浴びれなかったんだ」

「へ? あ、そう……」

 リサのほうも俺が抵抗すると思っていたのか、拍子抜けしたようだった。

「飯は……まあ、あったら食う。なんでもいい」

 そして、チョコバーをかじろうとしたら、リサに取り上げられた。

「あにすんだよ!」

「こんなの食べてちゃダメ。作ってあげるから」

「どうでもいいよ……」

「よくありません。健全な生活は、健全な食生活から」

 家出中の奴らを匿っておいて健全もなにもないだろと思うが、下手に逆らって追い出されて困るのは自分だ。

「金、かかんの?」

 そうとだけ聞くと、リサはため息をつく。

「材料費くらいはね。外で食べるより安いわよ」

「じゃあ、頼む」

 そして、俺はさっさと画面に目を戻す。膨大なニュースと合わせて、午後の取引の値動きを確認しておきたい。そうしている間にも地球は回っていて、次々と新しいニュースがやってくるので追いつくのは大変だ。

 頭上のほうで、リサが大仰に肩をすくめている気配が感じられたが、もちろん無視だった。

「ああ、それから、今はいいけど、明日からはきちんと着替えてここに来ること。だらしのない格好をしてうろつくのは許さないからね」

 まるで実家で注意されているみたいだ。

 俺はへいへいと生返事で追い払おうとしたのだが、ふっと視線がよそに引っ張られた。

「聞いてるの?」

 リサがずいっと顔を近づけてくるが、俺の強張った顔に気が付いたらしい。

「なに?」

 と、後ろを振り向いて、リサも仰天していた。

「ち、ちょっと、ハガナ!」

 慌てて駆け寄るリサに対し、当のハガナは目を細め、訝しげに「?」としている。手には神経質に折りたたまれた寝巻きと替えの下着らしいものを持っているが、問題はその格好だ。

 すらりと細くて長い脚が、腰の付け根まで露わになるショートパンツ一枚で、上は今にも脇から胸が見えそうな、薄い袖なしのシャツ一枚だった。

「あなた、そういう格好でうろついてはいけないと何度言ったら──」

「……? 裸ではないわ」

 怒るリサに怪訝そうに答えて、ハガナはさっさと脱衣所に入ってしまう。

 リサはなにをどう言っていいのかわからないようで、脱衣所の扉の前でうなっている。

 俺はというと、情けなくも目を逸らして、こんなことを思っていた。

 下着は白なのかよ……。

 黒尽くめでくそ生意気なくせに、妙な子供っぽさだ。

 悪くないと言えば悪くはないが、とか思いつつ、頭痛を堪えているようなリサにこう言った。

「だらしのない格好は禁止?」

「い、いつもはもっときちんとしてるのよ!」

 どうせ女同士なので、ゆるかったのだろう。

「もう~……。ようやく裸でうろつくのをやめさせられたのに……」

 リサがそんなことを呟き、思わずその様を想像してしまう。確かに、ハガナなら平気でそういうことをしそうな雰囲気があった。

「けど、それ、俺のほうが困るんだけど……」

「困るのは私もよ! はあ……。神は我に試練を与えたもう」

「なにそれ?」

「……なにかしらね」

 聞き返す俺に、リサはげんなりと返事を寄越したのだった。



 晩飯は、豆のスープと魚のムニエルに、パンが出てきた。

 豆は近所の人間が栽培したもので、魚は町を循環している水路に棲み着いている鱒の一種を釣り上げたやつのおすそ分けで、パンはパン屋の売れ残りを安く買ってきたらしい。

 全部誰かのおこぼれじゃないか、と思ったが、味のほうが大変美味だったので黙っておいた。

 それに、よくよく考えれば金を使わずに済ませる賢い方法だ。俺に真似できるかわからないが、今後のサバイバルのために覚えておく。

「一応教会だから、神に感謝するように」

 椅子に座ったリサはテーブルに両肘をつき、両手を組んで額に当て、聞いたことのない言語で何事かを呟いたかと思うと、最後にアーメンと言った。

 そういう様を知識としてはおぼろげに知っていても、実際に目の当たりにしたことのなかった俺は、なんとなく落ち着かない。とはいえ、同じことをしろと強制はしてこないので、こちらからなにか言うこともない。

「はい、お待たせ。どうぞ召し上がれ」

 そして、リサが顔を上げ、スープをよそってくれたところに、俺は言った。

「で、いくら請求するんだ?」

 聞くなら、手を伸ばす前だ。リサは嫌がるだろうなと思ったし、予想どおりに険しい目をした。リサの性格を窺うための質問でもあったので、そんな目を向けられても怯みはしない。

「十ムール」

「……高くねえか?」

 町の食堂で食べたってそんなにしないだろう。外で食べるより安いと言っただろ、と俺が不満げな目を向けると、リサは澄ました顔つきでこう言った。

「宿泊費込み」

「……最初に言えよ」

「でも、金銭感覚はきちんとまともじゃない」

 どうやら、こちらも試されていたらしい。油断のならない女だ。

「当たり前だ。遊んでるわけじゃない」

 宿泊費込みで十ムールと言われたら、遠慮なく飯に手を伸ばす。

 久しぶりに口にするまともな飯に、腹が一気に目を覚ます。

「ふーん?」

 ただ、リサは俺を見つめ、なにか考えているふうだ。パンを口に詰め込み、スープをすすり、魚にフォークを突き立てていた俺は、さすがに警戒する。

「な、なんだよ……」

「もうちょっと綺麗に食べなさい」

「……う、うるせえ」

 子供みたいな注意を受けて、つい子供みたいに答えてしまう。

「で、それもあるんだけど、そうね。お金のこと」

「あに?」

 スープ皿の底に残っている豆の欠片を意地汚く追いかけていたら、リサがなにも言わず皿を手に取って、スープのお代わりを注いでくれた。意外な一言はスープのお代わりと共に俺のもとに届いたわけだが、金、という単語に俺の食事の手が止まる。

「セローのところにどれくらいいたのか知らないけど……セローが私に紹介したってことは、そっちでもきちんと支払いしてたってことよね」

「まあな」

 警戒しつつ答え、ようやくスープをすする。

「けど、この先どうするつもり?」

 ああ、そういうことか、と納得する。

「匿っておいてなんだけど、あちこち見てもらえればわかるように、うちも財政に余裕があるわけじゃなくてね。もしあなたの手持ちが尽きてしまったら、私たちはあなたを支えることはできないのよ」

 祈ったところで金が降ってくるわけでもない。

 俺は頷いてから、言った。

「その心配には及ばない。三日後には出ていくから」

 スープのお代わりをすすり、パンで皿の底を拭って口に放り込み、ようやくひと心地ついた。

 実にすばらしい食事だった。

「……行くあてがあるの?」

「セローだっけ? あのアフロのところ」

 ほかに行く場所もない。

「遠からず、捕まるわよ」

 リサの一言に、俺はすぐに反論ができない。警官はしょっちゅう見回りに来るし、ニアミスをしてヒヤリとしたこともある。このまま例の無銭飲食の馬鹿が捕まらなかったら、夜間にも不意打ちで来る可能性だってある。

 その点、この教会なら、いきなり踏み込まれることはないだろう。

「それに、ろくに休めてなかったんじゃないの? 倒れるように眠りこむ姿なんて久しぶりに見たわ」

 ベッドを見た途端泣きそうになって、抗いようもなく吸い込まれた。自分は平気だと思っていたが、体は思っている以上に疲弊していたらしい。

 とはいえ、飲まず食わずでひたすら端末を覗き込み、あらゆることを株取引に捧げてこそ、たどり着ける境地があるとも思う。

「さっき十分休んだし、これから三日間も休めるからな。また踏ん張れるだろ」

 本気でそう言った。

 ただ、リサはため息をつくと、たんたん、とテーブルを手のひらで小さく叩いた。

「人生は長く、あなたはまだ若い。あんなところ、と言うつもりはないけれど、あなたにはもう少しまともな生活が必要よ」

「……だからここにいろって?」

「ここに限らないけれど、ほかになさそうよね。家に帰るつもりは?」

 俺は、頭の後ろで手を組んで、背をのけぞらせた。

「説教かよ」

 やっぱりそう来るのか、と思ったら、意外な返事だった。

「違うわ」

「へ?」

「提案」

 煙に巻くんじゃねえよと顔をしかめると、リサは欠片も気にしていないふうで、淡々と言った。

「私も法を犯すことに賛成はできないけど、かといって人が法のためにあるわけでもない。だから色々の事情があって道に迷うこともある人たちのために、少しでも力になれたらと思うの」

 いかにも清い心の持ち主が言いそうなことを恥ずかしげもなく言う。

 俺は居心地悪くて椅子の上で体をもぞもぞさせたが、リサはやっぱり突拍子もなかった。

「というわけで、ここに来た人にはいくつかお仕事を紹介しているの。それならここにもいられるでしょ? なにがいい?」

 俺は、たっぷり数秒間リサを見つめて、聞き返した。

「……は?」

「この辺りには苦労している人たちが多いからね、ハルのような人にも理解がある。それに、どこも人手不足なのよ。調理場、配達、建築、清掃……が主なところかな。調理場だと、私と一緒に中華料理屋だけど。どれがいい?」

 リサはテーブルの向かい側でニコニコとしている。今挙げたやつは、全部が低賃金の単純労働だった。人手不足なのは、この月面ではそんな仕事のなり手がいないからだ。

 ただ、リサが中華料理店で働いている様子を想像すると、ちょっと見てみたい気もする。

 俺はそんな自分自身にもげんなりしてパンに手を伸ばすと、軽くその手を叩かれた。

「働かざる者食うべからずよ」

 十ムール払うんだからいいだろ、という理屈が通じなさそうなことくらい、俺にもわかる。

「……その四つの給料って、どのくらいだ?」

「えーと、一番高いのが配達ね。時給で九ムールも出してくれるって言ってたわ」

 俺は自分がどんな顔をしていたのかわからないが、ろくなものではない、というのはリサの反応でわかった。

「文句があるの? 九ムールよ。確かに、若干高低差が大きい場所の配送を任されるけど、あなた、意外に運動得意そうじゃない?」

 ホワイトベルトやニュートンシティみたいな、区画整理された場所ならばともかく、外区みたいなごちゃごちゃした場所で配達なんて考えるだけでぞっとする。

 大体、時給で九ムールだと、どれだけ頑張っても一日にせいぜい百ムールだ。ここのところ投資での結果は芳しくないが、俺は最高で一日に一万ムール以上稼いだことがある。ざっと百日分だ。話にならない。

「それに、日中出なきゃいけないんだろ?」

「当たり前じゃない!」

 その剣幕に危うくパンを喉に詰まらせるところだった。

「子供のお手伝いじゃないのよ? それとも、そういうつもり?」

 まるでお節介な姉に叱られている気分だが、なんとなく嫌な気分がしないのが不思議だ。

 四肢を伸ばして眠れる部屋と、うまい飯で、すっかり籠絡されてしまったのかもしれない。

 うるせぇことを言うなら出て行ってやる、と言えなくなっている自分の腑抜けさに呆れた。

「そうじゃねえよ」

「なら、なに?」

 俺は大きくため息をついて、言った。

「割にあわねえっていうだけ」

 直後、リサがなにかを言おうと口を開きかけたが、俺はポケットに手を突っ込んで、むき出しの札を取り出した。いざという時のための、天使への名刺だ。教会で使うならば、実に正しいネーミングだ。

 そこから一番金額の大きな紙幣を取り出して、テーブルの上に置いた。

 あのアフロの場所は嫌いじゃないが、少なくとも無銭飲食野郎が捕まるまでは、やはりカフェに戻るのは逮捕の危険が大きすぎる。

 かといって低賃金労働で貴重な時間を浪費したくない俺は、月面で最も強力な、金の力を使った。要は、これも投資だ。

「百ムール預けとく。これでしばらく置いてくれよ」

「え……」

 リサは驚いていた。なんとなくリサにはかなわない気がしていたので、鼻を明かしたことにちょっとだけ誇らしくなる。

 しかし、鼻を明かしたのはいいが、その様子が俺の予想していたものと違って、やや怯んでしまう。もしかして、偽札を疑ったりしているのだろうか?

「だめ、か?」

 窺うように尋ねると、リサははっと我に返ったように俺を見た。

「え? ええ……あ、いえ、もちろん、追い出したりなんかしないけど……」

 突然うろたえだしたリサが、俺はやっぱり気になった。

「……汚い金、じゃないぜ?」

 俺の言葉に、リサは少し慌てて首を横に振った。

「ごめん。そうじゃないの」

 じゃあなんだ? と聞き返したい誘惑に駆られたが、糞みたいな手間仕事をやれという会話からうまく逸れていることだし、さっさと話にけりをつけておくことにした。

「問題なければ、受け取って欲しいんだけどな」

 それで、十日間くらいは黙ってここに置いて欲しい。

 リサはそれでもしばらくは、なにか思いつめたような顔で金を見つめていた。

 ただ、結局はゆっくりとうなずいた。

「わかったわ。受け取っておく」

 丁寧な手つきで札を受け取ると、もういつものリサだった。

「しばらくここにいなさいな。戦地から帰ってきた兵士みたいにベッドに倒れこむんだもの。そのうち体を壊すわよ」

 毎日戦場で戦っているのは間違いないので、そう評価されることにちょっとした誇らしさを感じてしまう。

「でも、きちんと今後のことを考えておきなさいよ」

 リサの小言に、俺は肩をすくめただけ。

 けれど、今後のことならば俺はそこいらの奴よりよほど考えている。

 途方もない大金を稼ぎ、前人未踏の地に立つという、夢を叶えるのだ。

「まあ、私も人のこと言えないんだけどね」

 ただ、リサがそんなことを呟いて、俺は意外だった。

「もう、ご飯いい?」

 不意に問われ、俺は問いかける機を逸してしまう。

「あ、ああ。うまかった。ごっそさん」

「どういたしまして」

 食器を片づける姿を見ていると、リサみたいな大人が、先のことも考えずにふらふらしている、というのがうまく理解できない。

 とはいえ、他人は他人だ。気にしている暇もない。早速端末を開き、情報収集に努めた。

 俺には目的があり、進むべき道があり、叶えるべき夢が……と息巻いていたのだが、ニュースの文字は歪み、数字は頭に入ってこなかった。

 あれだけ寝たのに、猛烈な眠気が襲ってくる。

 きちんと飯を食べ、かちゃかちゃという食器を洗う平和な音に、穏やかな居間の空気。

 俺はしばらくねばったが、これまで必死にせき止めていた真っ黒な疲労が、動画で観た油田のように噴き出していた。

「けど、あれよね。早寝早起きって、あなた昼間ずっと寝てて夜きちんと……」

 と、リサは手を拭きながら言って、途中で笑っていた。

「その心配はなさそうね」

「ぐ……」

「歯ブラシの買い置きが洗面所にあるから、歯だけ磨いて寝なさいな」

 正直言って面倒だったが、反抗するのもそれ以上に面倒で、俺は死人のように頷き、ふらふらと洗面所に向かう。

 そして、眠気の向こうにリサの声を聞いたような気がしたが、一刻も早く眠りたくて、洗面所の扉を開けた。その俺の視線の先にあるのは、バスタオルで体を拭いているハガナだった。

「……」

 頭が真っ白の俺に向かい、冷静なハガナは眉をひそめ、こう言った。

「なに」

 俺は即座に扉を閉め、かといってそこから立ち去れるわけでもなく、あほみたいに突っ立っていた。バスタオルのせいでだいぶ体が隠れてはいたが、濡れた黒髪と、露わな細い肩がひどく艶めかしかった。

 扉の前で呆けていた俺は、リサの手に引っ張られ、後ろに下げられる。それからリサは扉を軽く開けてするりと中に入り、歯ブラシを手に取って出てきた。

 俺はそれを無言で受け取って、キッチンのほうで歯を磨き、ふらふらと部屋に戻って、ベッドに潜り込んだ。

 初めて間近に見た女の子の裸。

 ただ、一番ショックだったのは、ハガナが欠片も動揺していなかったことかもしれない。

 俺は妙な敗北感諸共に、原油に飲み込まれるように、黒い眠りに落ちたのだった。



 ぱちっと目が覚めた。さすがにもう鞄を探して慌てるようなこともない。

 それに、目を覚ました瞬間に確信できる、今日は絶好調だという感覚。

 寝返りを好きなだけ打てて、置き引きを警戒せずにベッドで眠るのは、たとえようもない素晴らしさだった。

 廊下に出ると服が畳んで置いてあったので、慣れ親しんだそれに着替えた。

 ただ、ハガナに散々臭いと言われたので、着る前にちょっと嗅いでみた。

 大丈夫。のはずだった。

 そんなことをしてから居間に向かうと、リサとハガナがテーブルについて、パンをかじっていた。二人とも俺に気が付いたが、ハガナはつんとすまし顔ですぐに無視をする。

「おはよう。本当に早起きなのね」

「……そう言っただろ」

「家出中なのにそんなに規則正しいのは珍しいことだと思う」

「大きなお世話」

 リサはそう言われても、楽しそうににこにこしているし、俺も本気で邪険にしているわけではない。なんとなく、恥ずかしいのだ。

「朝ごはんは? 名前からしてご両親は日本人だよね……とそう言ってたか。お米あったかな」

「俺、別にそういうのねえよ」

「あら、そう? じゃあ、同じのでいいかな」

 リサは結局、パンとベーコンエッグを焼いてくれた。

 大昔に地球にいた連中は、地球以外の場所に人類が進出した場合、地球と同じ物を食べられるとは考えていなかったそうだ。つまり、チューブ状のわけのわからない合成食料に、見たこともない色の不気味なサプリメント。実際、わざとそうやって作った物もあるが、ジョークフードの域を出ない。移民がまず驚くことは、月面都市の目に見えるところは、ほとんど地球と変わらないところだという。

 俺にはもちろん、その感動もいまいちわからないのだが。

「ごっそさん。ネット回線借りるぜ」

 部屋でも少し試してみたが、電波の入りが悪い。0.1秒の差ですら、取引が成立するか否かを左右し、莫大な儲けを取り逃すかもしれない。昨晩と同じ、窓際の床に腰をおろしたところに、リサが言った。

「はいはい。いいけど……悪いことしてるわけじゃないのよね?」

 ただの数字の上下に大金を賭け、場合によっては人が一生かけて稼ぐ金額を一瞬で稼いでしまうようなことが、悪いことかどうかは俺にもわからない。

 言えることは、一つ。

「完璧に、合法だ。なにも法は犯しちゃいない。そこだけは保証する」

「……なら、詳しく聞かないわ」

 もう少し食い下がるかもと思ったので、意外そうな目を向けると、リサは小さく笑って首をすくめた。

「男の子は秘密がないと死んでしまう生き物だから」

 絶対にそんなこと思っていないはずだが、なぜだか俺は胸の内がふわふわする。

 だから黙り込み、証券取引口座にログインした。

 その頃にはもう、周りのことなど全て頭から追い出されていた。

 俺の関心は、数字の上下から金を引き出すことに向けられていた。



 市場は若干荒れていた。

 一部地球市場が荒れ模様で、全世界が繋がっている金融世界はその荒れ模様の影響を受けていた。原因は、ロシアがガス田を巡って過去の衛星国に軍を派遣しているせいとかなんとかいう、聞き慣れたものだった。

 月で言われる冗談に、世界史の教科書はコピーアンドペーストで年号だけ変えればいい、というものがある。地球がいつまで経っても馬鹿げたことを繰り返していることへの揶揄だ。

 地球から争いや悲劇がなくならないというのは、月から眺めているとよくわかる。何千年という歴史があり、何十億人と人が住み、過去の因縁や、場当たり的に作ってきたシステムが一日二十五時間にわたってきしみ音を上げている。それが地球だ。

 俺の村にいた、地球の中でも特にやばい地域から来た移民の一人が、こんなことを言っていた。

 ──軌道エレベーターの窓から地球を眺めていると、すべての絶望的な問題が、僕の生まれ故郷と一緒にどんどん小さくなっていくのが見えた。

 未だに地球には、雨よりも多くのミサイルが降り注ぎ、春の草花よりも多くの地雷が花を咲かせる場所があるという。

 単純労働者としてでもいいから月に来たがる人間がいるのは、母なる惑星のはずの地球に住みたくないと考える連中が多すぎるからだ。そして恐ろしいのは、地球に住む先進国の連中は、そんな地球の状況をまったく知らないらしいというところだろう。

 第一、ニュースとして流れる世界情勢を見て、心を痛める奴らがどれだけいるのだろう。真面目にそういうニュースを見ているのは、きっと、揉め事によって原油の産出がどうなるかとか、そのせいで先進国の経済がどうなるかとか、金のことしか考えていない連中だ。

 月面都市は、特にそういう人間が集まっている。

 月が地球に対し同じ面を向けているのも、じっと冷酷な目で監視しているかのようだ。

 俺が、まばたきもせず、数字とニュースの流れを見続けて、そこから少しでも儲けをひねり出そうとするように。

「ふう……」

 そして、取引終了の時間になった瞬間、ため息をついた。ネットの世界からログアウトするためのスイッチで、端末画面に飲み込まれていた魂が体という入れ物に戻ってくる。

 自分の意識が、加速された取引の世界から、重力と時間の存在する世界に急ブレーキをかけて衝突するこの感覚。

 悪くない、といつも思う。

 しかし、それも今日の取引実績を思い返すまでだ。

 朝からずっと画面に張りついて、飯も食わず、水も飲まずに取引しまくって、トータル十七ムールの浮きだった。ここの一日の宿泊費は稼げたが、それをプラスと言えるほど、俺の心は広くない。うまくいく日もあればこんな日もあるとはいえ、相変わらず足踏みが続いている。

 先週からどれくらい増えたか計算するのが怖いくらいだ。

 俺は背中にどっと疲れを感じてしまい、胡坐をかいたまま床にごろんと寝転がった。

「……」

 この瞬間だけは、頭になにも浮かんではこない。俺は夢の中ですら取引していることがあるので、きっと寝ているときよりもリラックスしている瞬間だ。かつて地球で覇権を握った優秀な指導者のほとんどが、一日のうちに睡眠は数分から長くても一時間だったという。俺はその言葉が痛いほどよくわかる。世界を征服しようと思ったら、考えなくてはならないことが多すぎて、眠っている暇などないからだ。

 世界を構成する世界中の人々は常に誰かしらが動いていて、この世界に影響を与え続けている。だから、眠ればそれだけ世界の先端から離れてしまうことになる。

 俺は株式市場を制覇しようとするだけでも、頭脳の稼動域のほとんどをそれに割り当てることになる。そして、制圧からは程遠い。

 しかし、いつかはこの市場を制圧し、そこから無限に金を引き出して、それを積み上げて手を伸ばすのだ。前人未踏の地へと続く扉へ、人類が月の次へ向かう、その最初のステップに滑り込むために。

 俺の脳みそはリラックスをやめて、血の抜け切った脳に新しいたぎった血が巡ってくるのを感じた。足踏みに腐っていては、さらに遅れを取るだけだ。深呼吸をして、体を一息に起こそうと目を開ける。

 そこで思考も含めて全ての動きが止まってしまったのは、本当に純然たる事故だった。

「……」

 目を開けたら、目の前が真っ暗になっていた。

 否。

 正確に言うと、真っ黒い生地があった。一部は独特のすらりとした輪郭を描き、一部はぎざぎざに折りたたまれたプリーツの形を示している。

 そして、その一番奥のほうに、黒い布地の隙間から、白い布地が見えている。

 それらがすいっと自分の頭の上を通っていく。その後に俺の視線が捉えたのは、ふっとなにかに気がついて後ろを振り向いたといったふうの、ハガナの顔だった。

「なに」

 照れるでも恥ずかしがるでもなく、ましてや怒るでもなく、ハガナは俺のことをまるっきり石ころでも見るような目で見ていた。昨晩の風呂の件もそうだが、ハガナは俺のことを人として見ていないらしい。

 そのハガナ様は、どうやらキッチン脇の戸棚に用があったようで、最短距離を進むために、俺の上をまたいだのだ。

 確かに変な場所で寝転がっていたのは俺のほうだが、しかし、スカートとかいう無防備な装備をしているのなら、もう少し気を遣うべきはハガナのほうではないのか。

 というか、なぜ俺のほうが傷ついているんだと、理不尽に苛まれながら体を起こしているところに、まさかのお声がかかった。

「リサは?」

 ハガナは冷蔵庫を開け、化学的に合成するよりもなお素晴らしい栄養効率を誇るという牛乳を飲んでいたらしく、口の周りに白い髭を生やしている。

「知らん」

 人を馬鹿にし腐っているくせに、口の周りに白い髭を生やしている間抜けさが妙に腹立たしい。俺があっさり答えると、ハガナは音がしそうなくらいに露骨に眉をひそめた。

「ずっとここにいたのではないの? なぜ知らないの?」

 馬鹿なの?

 そんな言葉が聞こえてきそうな勢いだ。

 俺がここにずっといたのは間違いのない事実だが、取引に集中していたら頭を叩かれるまで後ろに立たれても気がつかない。俺はそのことを説明しようと思ったが、面倒くさいこともあって無視を決め込んだ。

 ハガナは苛立たしそうに俺のことを睨んでいたが、俺は勝手に怒ってろと胸中で吐き捨て、端末をいじっていた。

 そこに、聖堂へと続く廊下の扉を開けて、リサが戻ってきた。手にはなにやらあれこれが詰まった麻袋を提げている。再生可能な物はとことん再生する、という月面都市の政策にのっとって、麻袋もそういう模様なのかというくらいにあちこちつぎはぎがあてられていた。

「ただいまー……ん?」

 居間に入ったリサは、敏感に場の雰囲気をかぎ取ったらしい。

 というか、ハガナの奴が無言でずっと俺にガンを飛ばしっぱなしなので、あほでもわかる。

 俺はハガナのほうは一切見ずに、端末をいじり続けている。

「ハガナ」

 リサがその名を呼ぶと、犬が飼い主のほうを向くように、視線が移動した。

「怒ると脳細胞が死ぬわよ」

 なんだそりゃ。

 俺がつい顔を上げると、あろうことかハガナはうなずいていた。

 そんな子供だましみたいな言葉に納得するのか?

 呆気に取られる俺をよそに、ハガナはもう俺のことなど眼中にないかのように自分のこめかみを指でぐりぐりとしていた。

 そして、目を閉じたまま器用に牛乳をコップに注ぎ、二杯目を飲もうとする。

 飲む前に、こんな呪文を唱えていた。

「カルシウムは怒りを鎮める」

「その通り」

 冗談、のようなやり取りには見えないが、俺には演技なのか本気なのかよくわからなかった。

 ハガナは牛乳を飲み終え、冷蔵庫に買ってきたものを放り込むリサを見ながら、言った。

「リサ、講堂の鍵」

「え? あれ、渡してなかった?」

「受け取ってないし、思い当たるところは全部探した。残る可能性は、リサが持っているか、あいつが盗──」

「あー、はい、ちょっと待って……えっと……」

 ハガナが寸分の狂いもなく俺のことを指さすのを直前で止めて、リサはポケットや麻袋をかきまわしている。

 どうやら、財布の中にしまっていたらしい。

「細かい物を財布に入れちゃう癖をどうにかしないとね。間に合いそう?」

「遅れても、きちんと事情を説明するもの。悪いのは私ではなくリサだと」

 はっきりきっぱりと言う。

 苦笑い気味ではあるものの、よくあることらしくて、リサはさほど動揺はしなかった。

「……そうよね。ええ、しっかりと私の失敗だと説明して」

「そう。単純な理屈」

 ハガナはそう言って、鍵を受け取って身を翻した。

 スカートの裾が軽く広がって、綺麗な長い髪の毛がそれ以上に綺麗な弧を描く。

 そして、そのままほとんど足音を立てずに居間から出て行って、自室に入る扉の閉まる音がした。残されたリサはやれやれとため息をついて、俺を見ると軽く苦笑している。

 それから、さして間を開けずに再び扉の開閉音がして、居間にハガナが戻ってきた。その手には、小さな黒い鞄を提げている。

「では、行ってきます」

「はい行ってらっしゃい」

 ハガナはリサにだけ挨拶をして、俺にはなにも言わずに居間を突っ切って聖堂に続く廊下を歩いて行った。

 いや、正確には「あらまだいたの?」と言わんばかりの冷たい一瞥を俺に向けていた。

 どうやらハガナは俺を完全に敵だと認識しているようだった。

「やっぱり、ちょっと難しい娘かなあ」

 ただ、リサの呟いたそんな言葉が、一方的に俺が悪いわけではない、ということを支持してくれる。

「ちょっと?」

 俺は、ここぞとばかりに言葉を向ける。

「ちょっと、よ。本当はいい娘なんだけど」

「それって駄目な奴を擁護する典型的な台詞じゃねえの」

 頬に手を当ててうつむきがちだったリサは、少し冷たい目を俺に向けてくる。

「私がどれだけ心が広いかを知らない君ではないと思うけど?」

「……わかったよ。怒るなよ……」

「うん。それでよろしい」

 リサはにっこりと笑って、空になった麻袋を丁寧に畳んだ。

「で、どうしよう。夕食は早いほうがいい?」

「あ?」

 予想していなかった質問に、ちょっと面喰って聞き返す。

「お昼食べてないでしょ? というか、話しかけても全然反応しないんだもの。なにをしてたの?」

 呆れるような顔つきは、尋問をしているという感じではない。

 俺は頭をかいて、もごもごと誤魔化した。

「まあいいわ。それで、早く食べたいなら今から作るけど、どうする?」

「は? あ、いや……つーか、ばらばらに作ったら手間じゃねえの?」

「もちろんそうだけど……意外ね、そういう気遣いできるの」

「家出はしてるけど、俺は別に不良でもなんでもねえ」

 リサは俺の主張を軽いため息で流す。

「言葉づかいはチンピラっぽいけどね」

「……うるせえな……」

「で、早く作るかどうかっていうのは、ハガナを待っているとちょっと遅くなるからね」

「あー……」

 あのハガナと一緒に晩御飯、という様を想像して、口の中が苦くなる。

「それに……さっきの様子を見ると、無理させてもね」

 俺はともかく、ハガナの俺に対する敵意は並々ならぬものがある。

 いったいなにがそんなに気に食わないのかわからんが、裸を見てスカートの中を覗く前からああだった。

「もちろん、最終的には仲良く食卓を囲んでもらうつもりだけど」

「げえ」

 俺は思わずそう言ってしまう。

 そんなお気楽平和主義的意見、聞きたくもねえ。

「まあ、ボールだって地面に落ちた瞬間は激しく跳ねるものだから。でも結局は落ち着くでしょう? こういうのは慣れで解決することが多いのよ」

 いかにも人生の先輩ぶった物言いだが、俺はちょっとほっとした。

「仲直りの握手をしましょう、とか言うのかと思った」

「ん? させてもいいけど……私、意外に現実的なの」

「そりゃあ助かるね」

 俺は言って、軽く深呼吸をしてから、話題を戻した。

「俺としては、早く食えるならそれに越したことはない」

「なら、そうね。作っちゃおうか」

「助かりますよ」

 わざとらしく敬語を使うと、リサは生意気な子供に失笑するように鼻を鳴らしていた。

 そして、リサはエプロンをつけてキッチンに立ったのだが、その後ろ姿を見て、俺は声をかけた。

「なあ」

「ん? なに?」

「あいつ、鞄なんか提げて外になにしに行ってんの?」

 夕方からなら、世間的には学校も終わりで、若者がうろついていても問題ないとはいえ、家出中の身で外におでかけ、というのがあまりにもそぐわない。

「あいつじゃなくて、ハガナ」

「……あいつだって俺のことあいつって言うじゃねえか……」

「歩み寄ったらいいじゃないの。それに、きっとあの娘はちょっと人見知りなのよ。私には本当にいい子なんだから」

「昨日は言うこと聞いているように見えなかったけど?」

「う……とにかく、ハガナよ、ハガナ」

「わかったよ、うっせえな」

「まったく……。で、ハガナだっけ。働いてるの。あの娘、先生やってるのよ」

 俺の息が、たっぷり数秒は止まっていた。

「ま、まじかよ!?」

「まじまじ」

 口調を真似されて、俺は唇を引き結ぶ。

「格好つけてないで普通に喋りなさいよ」

「うるせえな……」

 と、返すことしかできないくらい、子供扱いだ。

 悔しいが、全体的にはリサにはかなわないらしい。

「けど……先生? あれが?」

「そうよ。あの娘、ものすごく頭いいんだから」

「……確かに、あいつすげえ人のこと見下してくるな……」

「そこは、確かに私も否定しないけど……幾分かは、元もとああいう目つきなのよ。本人気にしているところがあるから、私からもお願いするけど、そこはあまり怒らないでやって」

「……はっ」

 俺は軽く鼻で笑って、そっぽを向いた。

 ただ、完全にそれを鼻息で吹き飛ばしたのではなく、自分の目つきの悪さを気にしているハガナ、というのが琴線に触れたのだ。

 ちょっと、可愛い。

「近所の子供たち集めて先生やってるの。すごい一生懸命でね。私も以前そういうことやってたんだけど、だめだった。文系科目ならいけるけど需要がからっきしないから」

「あ? そうなの?」

「ハガナはばりばりの理系。世界中で通用する知識っていいよね。私も一応月の大学出ているのよ? でも、専門が中世欧州におけるカトリシズムと土着信仰の関係、だからね」

「……なにそれ?」

「そうよね……。月まで来て地球の歴史、しかも宗教史を学びたいなんて人はいないのよねえ……。大学の先生も教養科目担当のつもりでこっちに来てたから、私が研究室開いてくれと頼み込んだら驚くのを通り越して呆れてたわ」

「まあ……金払って習うなら、数学か物理かな」

 肉体労働は機械に取って代わられ、その機械はすべて物理学に支配され、物理学は数学を基礎に成り立っている。その二つのうちのどちらかを修めていれば、世界を操る力を持っているのと同じことだ。

 それでなくても、数学は昔から金儲けと相性がいい。大昔にサイコロ賭博の中毒だった貴族が助けを求めたのは数学者のブレーズ・パスカルであり、最初にブラックジャックの必勝法を見つけ出してカジノを潰した男も、数学を駆使していた。

 現代の投資の世界でも事情は変わらず、数学の天才たちは引っ張りだこだ。

 パスカルの研究から数百年分の成果をすべて引っさげた、博士号を持った魔術師たちだけが行える投資というものがある。彼らの頭脳は宇宙を計算するスーパーコンピューターを凌駕するのだから、未来を予測して株で儲けるのもわけはない、というわけだ。なぜなら、彼らこそが、そのスーパーコンピューターを作るような立場の人間なのだから。

 俺も投資のことは大抵調べ、使えそうなものはすべて試した自信があるが、これだけはお手上げだ。もちろん、近所の子供を集めて先生をやる程度の頭の良さでも、到底無理な領域ではあるだろうが。

「ほかには、化学とか生物学とか……医学は学費が高すぎて投資効率も微妙そうだけど。つーかこんなこと、月面に住んでるなら常識だろ」

「そのとおり。金にならずんば学問にあらず、と言わんばかり。嘆かわしいわ」

 嘆かわしいかどうかはわからないが、リサがこの月において人生の選択をだいぶ間違えてきたことだけは間違いがない。月面で成功するには、文学や歴史を学んでいる暇などない。数学を筆頭にした理系科目か、文系ならば経済か経営だ。

 もっとも、やっぱりリサはそれで後悔しているかというと、そういう感じは微塵もない。

 俺がこいつを信頼できるのは、なんだかんだいって、足の裏にきちんと根っこが生えて地面にしっかり立っている感じがするからだ。

「しかし、あいつが先生とか……」

 俺は呟き、ちょっと想像してみる。あの黒尽くめで、人を見下しきった目と口調で、こんなこともわからないの? と教壇に立つ。

 それはそれで需要がありそうなシチュエーションだが、俺はごめん蒙る。大体、動物と変わらないガキども相手とか、あの短気そうなハガナに務まるのか甚だ疑問だ。一言目だけは注意して、二回目からはなにも言わずに棒で殴ったり突いたりしてそうだ。

 似合いすぎて、怖い。

「なにを考えているか大体わかるわ」

「だって……あんな先生嫌だろ……」

「それが、子供たちには懐かれてるのよ」

 リサは内緒話をするように声を潜めて言ってくる。

 どうやら、子供に懐かれるとは、リサ自身思っていなかったようだ。

「まあ、我が教会運営の大切な屋台骨になってくれてるからね。あの娘、稼ぎを全部私に押し付けるのよ。神は貪欲を戒めはしても、行き過ぎの清貧は求めてはいないのに」

「……なんかよくわからんけど……人は見かけによらないということだけはわかった」

「そうね。見かけで判断しているなら、私はあなたを助けていないもの」

「けっ」

 俺はそう言って、金の生る木の選別に戻ったのだった。