※この試し読みは『WORLD END ECONOMiCA』一巻の一部を抜粋したものです。
◆◆序章◆◆
その昔、月の裏側には異世界への入り口があると言われていた。
地球から月の裏側を見ることは叶わず、そんな夢を見ることも可能だったのだ。
道の先、海の果て、大地の底。
この世にはたくさんの、誰も見たことのない場所があり、多くの想像を掻きたててきた。
そして、誰かが必ず、その誰も見たことのない景色を見てきたのだ。
自分もそうしてみたい、と思ったのは自然なことだったろう。
すでに誰かが見たことのある景色ではなく、まだ誰も見たことのない景色を見てみたかった。
自分が生まれてきたことに意味があるのだとしたら、まさしくそのためだと思った。
以来、目に映る物全てが手段となった。未踏の地に自分の足跡を残すという自分の夢を叶えるための、手段になったのだ。
ぐずぐずしてはいられない。
そんなことをしていれば、また誰かに足跡を残されてしまう。
速く。速く。もっと速く。
人類は増え続け、時間は無慈悲に流れていく。
その先頭に立つことができるのは本当に一握りの存在だけ。
先頭に立った時、なにが見えるのかと考えない日はない。
見慣れた場所も、辟易する常識も、つまらない過去もない、まっさらな大地。
自分の一挙手一投足が歴史になる、そんな最前線。
月面の「静かの海」には、人類で最初に月に立った人物の足跡が、今もそのまま残されている。
それは多くのことを物語っていた。
一メートルにも満たない、砂に残された跡。
しかし震えるほど、格好いい足跡だった。
◆◆第一章◆◆
ぷん、という虫の羽音に似た音とともに、多目的携帯端末の電源が入った。
ディスプレイが帯電する独特の音がする頃には、俺の目ははっきり覚めている。
しかし、一晩中椅子の上にうずくまり、荷物を一切合財詰め込んだ鞄を抱えながら眠っていたせいで、体をすぐに動かすことはできない。体中が凝り固まっていて、不用意に動かせばぼきんと折れてしまいそうだった。
それでも、目を覚ましてこの窮屈な姿勢から少しずつ体を伸ばしていく感覚は、たまらなく好きだった。自分は生きているという気がして、今日も目覚めたとはっきり実感できる。自分の手を自分の意志で動かし、自分の足を自分の意志で動かしていると確認できるのだ。
誰かに生かされているのではなくて、自分で望んでここにいて、こんなことをしているのだという確信は誇らしいことであり、家を出るまでは味わえなかったことだ。
俺は汚れたカップに残った偽コーヒーをすすり、まずさとカフェインで脳みそをノックする。
ついでに食べかけのチョコバーを乱暴に口に詰め込めば、それで終わりだ。これで、思考に必要なブドウ糖を確保できる。
不愉快なほどに甘いそれを飲み下す頃には、端末が立ち上がっている。
頭もしゃきっとしてきて、小型の携帯メモリや幾ばくかの現金があるかを確認し、寝ている間に盗まれていないことを確かめる。
昨晩も無事乗り越えたらしい。
家出をして三ヶ月と十二日目になっても、この瞬間だけはほっと安堵のため息をつく。
しかし、俺は今日もまた生き延びて、金を稼がなければならない。
端末では、ようこそ、と愛想だけは良いログイン画面が立ち上がっている。その先には、数多の人間の夢を飲み込み、たくさんの人間の希望を打ち砕いてきた世界が待っている。
株式市場。
何百年も前から、人の強欲が渦巻き続けている火山口だった。
俺はそこに飛び込むため、躊躇なく手を伸ばし、ログインボタンを押した。
その瞬間、時速三百キロメートルの電車に飛び乗ったかのように体が引っ張られ、視界が一気に加速する。たちまち膨大な量の情報が溢れだし、視界と認知機能が埋め尽くされる。
欧州市場は弱含み、続く米国市場は雇用統計を控え様子見ムード。リング・テック第一四半期決算下方修正。南米通貨建て大型債券起債は順調にこなされた模様。エメラルドインダストリーが受注談合に絡む疑いで捜査の可能性。FRB理事がインフレについて言及。シュバイツェルインベストメントに最年少の女性執行役員誕生。WTIと北海ブレントに不可解な価格差。VIXから相場の強気は本物か……。
ほとんどが無意味な雑音だが、荒れ狂う暴風の中には、きらりと光る金の鍵が存在する。
俺が見つけたのは、イギリスかどこかに本社がある企業だ。
イギリスなんて行ったこともないが、その会社にまつわることはなんだって知っている。経営の天才と称された創業者が病気で引退したその年に、ライバルの新製品で市場シェアを奪われ、そのことで焦ったのか誇張気味の広告を打って公正取引委員会から注意が入り、関連事業のテコ入れのため大規模に投資した大型工場には、新たな環境規制がかけられると報告されているような、泣きっ面に蜂を地でいく不運な会社だった。
ネットでは、これで新社長が羊との同衾をスクープされれば完璧だ、とあった。
別に羊と愛し合っていても優秀な経営者であることは可能だろうが、イメージは大事だ。
特に、このなにも確かなことがない世界では、なおさらかもしれない。
お先真っ暗なその会社は、現地時間の午後二時きっかりに決算を発表するらしい。
どう考えても楽しいイベントになりはしないが、イギリス紳士が笑うのはブラックジョークが決まった時だけなので、記者会見の場は笑いに包まれるかもしれない、とも報じられていた。
現在、現地時間の午後一時三十分。こちらでは午前の八時五十五分になる。
俺が注視しているのは、ヨーロッパ市場ではなく、こちらの市場だった。
世界中に株式市場がある中、一つの会社がいくつもの市場に跨って株式を公開することがある。理由は色々あるが、可能な限りたくさんの人間に株を買ってもらいたい、という単純なところに落ち着くだろう。
その意味で、今、俺が注視している市場こそが、世界最大の金融マーケットであり、件の企業もお膝元の市場動向より、こっちの市場の反応を気にしているはずだった。
地球人が太古の昔より見上げ、その魔術的な魅力に畏れと憧れを抱いていた、ここ。
地球を見下ろす黄金の月面に人類が進出し、十六年が経った。全く新しく作られた月面都市には、足を引っ張るばかりの歴史もしがらみもなく、重力すらも低く、成功を追いかける人々の理想郷になった。
ここは、人類の最前線。
月面都市があっという間に世界最大の金融マーケットになったのも、ある種の必然だろう。
なぜなら、投資こそが、世界で一番、手っ取り早く儲けられる方法なのだから。
月面都市の株式市場は午前九時からなので、もう数分で大金が飛び交う狂乱の騒ぎが開始される。ツールに表示されるニュース類も怒涛の勢いで増えていく。ニュースの量そのものが市場の動向を左右することもあるので、俺は秒間のニュースの数を検出するツールも使っている。毎秒十二件。それが十三件に上がり、十六件になった。
主要なメディアのニュースだけを濾しとって眺め、同時にツールに登録してある三百七十二の企業の株価画面を、フラッシュのように入れ替えて確認していく。まだ市場は開いていないのだが、どれだけの注文が集まっているかを見るのはとても重要な行為だ。時折、間抜けな会社のトレーダーが太い指で注文数を押し間違えて、爆安で株が売られたりすることがあるからだ。
月面証券取引市場全体では四千余りの企業の株が登録されていて、取引時間中にはとてもそのすべてをチェック仕切れない。どうしても限定せざるを得ないが、そのせいでチャンスを逃しているのではないか、という強迫観念に駆られるため、死に物狂いで株価画面を切り替えていく。
見るべき情報があまりに多すぎて頭がおかしくなりそうだが、本当は、難しく考える必要なんてない。
ここでなされるのは究極のところ、数字の上下を言い当てるというだけのゲームなのだから。
数年先、数ヶ月先、数日、いや、たった数分先のことでいい。
株価の上下を言い当てられれば、たちまち大金を稼ぐことができる。
だが、それが難しかった。
本当に、難しかった。
「……始まったか」
それまでじっとしていた画面上の数字が、突然慌ただしく動き始める。午前九時になり、世界最大の月面証券取引所が開かれたのだ。
売りと買いが交錯し、一分、二分、と経てば、その時点で全財産を失う奴や、一生かかっても使いきれない大金を手にした奴らが出てくるだろう。
俺は仮想キーボードのショートカットキーを連打して、片時も休まず市場全体を見て回る。十件のニュースのタイトルを読んだら件のお先真っ暗企業に戻り、すぐに別の会社の株価を八件開いて異常な値動きがないかチェックして、また戻る。その繰り返しだ。
件の会社はおそらく創業以来最悪の決算発表になる。株価はここ数ヶ月下がりっぱなしで、先日、先々日はがくっと下げていた。
株というものは、その会社の未来の利益への請求権と定義されることがある。未来が真っ暗ならば、誰もそんなチケットは欲しがらず、誰も欲しがらない物の値段は下がる。
ちなみにその会社の株価は、232、という数字で表現されている。もしかしたらその数字にはとても大事な意味があったのかもしれないが、市場では誰もそんなことは覚えていない。
ここではただの目印以外に、なんの意味も持っていないのだ。
自分の予想した数字より大きいのか小さいのか。
究極的に、俺たちが気にするのは、たったそれだけだった。
「229……? 228か……」
人によってはひきつけを起こしかねないくらいめまぐるしく画面を切り替え続けていた俺は、ちらりと垣間見えた数字を呟いた。
最悪の決算に向けてのカウントが減るように、株価もずるずると下がっていく。
事前の市場予測では、前年度比30%の売り上げ減と、五年分の利益に匹敵する赤字ということだった。株価が上がる理由なんてどこにもない。
だが、俺はキーを叩き、取引画面のボックスに数字を打ち込んでいた。そこに書かれる数字が、運命の女神の持つ価格表と一致した時、人は莫大な富を手にすることができる。そう考えると、こんな数十ピクセルのボックスに詰まっている人間の運命というものは、なんと儚いのだろうと思うことがある。
ここに自分の祈りを書き込み、送信ボタンを押すと、市場ネットワークの神様が抽選して、当たりか外れかを教えてくれる。馬鹿げたことだと思う。
けれど、世の中の大半が狂っているし、ここは月面だ。
地球の人々は、月は人を狂わせる、と信じていた。
「226」
切り替わり続ける画面の中で、俺はふと手を止め、取引画面の価格ボックスにその数字を打ち込んだ。売り、ではない。株価が下がり続ける株を、買おうとしていた。
時刻は午前九時二十分を回ったところ。決算発表まで残すところ数分だ。
俺は相変わらず画面を切り替え続け、片時も休まず情報を収集しながら、深呼吸をする。緊張するな、と自分に言い聞かせる。
投資は感情に揺さぶられると、それだけ負けることが統計的にわかっている。なんとなれば、ひどい鬱状態の患者群のほうが取引で一喜一憂しないので、戦略にぶれがでず、トータルの取引成績が良かった、という実験結果もあるくらいだ。
時速五百kmで画面を切り替えるのをやめた俺は、一つの画面を見据えていた。
決算発表まで二分。株価は227で張り付いている。
株取引は、果物市場での取引と変わらない。売りに出されている林檎に値段がつけられている一方、林檎を買いたいと望む者たちもその買値を提示して待っている。見事売りと買いの値段が一致すれば、取引完了だ。
だが、ここで俺が227で買いを出せば、226で買うよりも0.5%儲けが小さくなる。
しかも、株価がこの先も下がり続けるかもしれないとなれば、わずかでも低い値で買うことは損を最小限に抑えることにもなる。
売り手は、買えよ、と罵り、買い手は、売れよ、と歯ぎしりする。
決算発表まで一分を切った。
俺は、もう無理だと思い、買い注文の値段を書き換える。227。
だが、その瞬間だ。画面にラグが生じたかと思うと、買い注文と売り注文の数字がごそりと動く。誰かが大きな買いを入れていた。棚の上から林檎が一掃される。
228。229。株価が上がっていく。多分、記者会見場にいた誰かが、電子配信される前に結果を聞いて、取引に動いたのだ。株の取引会社の中には、ニュース配信会社からレーザーを直接照射してもらって情報を受け取るところもあると聞く。光回線よりも0.2秒速いのだというが、その0.2秒が命運を分ける。
狂気では負けなくてもそんな設備に資金を投じられない俺のような立場の人間は、ニュース速報欄に企業決算の短信が出るのを待つしかない。しかし、趨勢は明らかだ。俺は買い価格を231にするが、株価はめまぐるしく動き、232。
価格をさらに修正し、233で買い注文を出すが、証券会社の免責条項を記した確認画面が出るそのわずかな処理の合間に、すでに234。
ニューステロップに企業名が出て、数字が出た。
前年比27%の売り上げ減、そして、数々の特別損失で滅多打ちにされ、過去四年分の利益をすべて吹き飛ばす莫大な赤字。
だが、市場予測より一年分ましだった。
その瞬間だ。
「あっ」
俺の呟きをあざ笑うかのように、数字が飛んだ。
世界中でこの取引を見守っていたトレーダーが、鮫のように群がった。
数字はとっくに242になり、あっという間に245になった。価格はまだ上がる。
大幅な売り上げ減と、記録的な赤字が発表された直後に株価が暴騰し、ここ数日の下げをすべて埋めあわせてしまった。この株を売ろうとしていた初心者は、なぜ? と目を点にしていることだろう。株の世界ではままあるが、悪いことがあまりにも重なり続けると、これ以上悪くなりようがない、という反転場面が必ず来る。その、典型例だった。
俺はその典型例を的確に予測することができたが、その速度と、反転するタイミングを見誤った。株価は俺の後悔など追いつかないくらいの速度で上がり続け、買ってもいいと思う値段をとっくに超えていた。そして、時間は巻き戻らない。
251。
けちけちせずに227で買っていれば、10%の儲けになっているはずだった。
ほんのわずかの時間、たった0.5%に迷っていたせいで、10%を逃した。
10%!
俺の全財産は、月面で流通する貨幣単位で七万ムールある。小売業の誰にでもできるアルバイト店員の時給が、七ムールから八ムール。もしも10%の利益を取れていたら、社会の底を支えるアルバイトが千時間働いてようやく稼げる金額を、わずか数分で、額に汗せず、嫌な客に頭も下げず、律儀に出勤もせず、手に入れられるはずだった。
だが、その利益をほんのわずかな差で逃す。
予測は当たっていたのに、そのタイミングによって。
「……くそ!」
俺は天井を仰ぎ、額に浮いた脂汗を拭い、椅子の上でずるずると腰を落とした。
俺の買い注文は、空しく235で出されている。価格は252になっているので、買えるわけもない。
「……なんだよ、それ」
吐き捨てるように呟くが、これで自棄になって無理に取引をするような初心者の時期は、とっくに過ぎた。負けた時に闇雲に手を出しても負けがかさむだけ、とはっきり学んでいる。
なので、俺は深呼吸をして携帯端末を閉じると、頭を冷やすために椅子から立ち上がったのだった。
俺が投宿しているのは、ぼろビルが立ち並ぶ区画の、安っぽいネットカフェだった。
名前はビッグ・ブル・カフェと豪気だが、どこか別の店が提供する無線通信域に、中継器を勝手につなげて室内に引き込んでいるろくでもない店で、客層も大概ろくでもない。どこのブースも長期滞在者の巣で、間仕切りにはタオルがかけられていたり、スリッパが置かれていたりと、自宅気分だ。
「おう、坊主、いい朝だな」
いつもと変わらぬ店内風景の中、顔を洗いに洗面所に向かう途中、汚い身なりの店員に声をかけられた。緑色のアフロヘアーがあまりにも目立つ、長身痩躯の男だった。
携帯ゲーム機をいじくってはいるが、気さくな店員というよりも、声をかけることで監視しているということを強調したいのだろう。正規の出入り口はカウンターの横にしかなく、側の壁には「料金踏み倒しお断り」と書かれている。どぶ川の中に作った生簀のような場所でも、料金はきっちり取ろうというのだ。
もっとも、寝るスペースと水が使えるのはありがたい。それに、年齢でどうのこうのうるさいことを言われず、金さえ払えばどうにでもなる、というので重宝な場所だった。
家出をして困ったのは、とにかく眠る場所だ。俺には多少の金がありつつも、見た目だけは変えられない。
「いい朝ってのはなにかの嫌みか、地球野郎」
言葉を返すと、店員は顔を歪めて笑う。
「ははん? 本物の朝を知らないってのは不幸だな。ここじゃあ天気すらプログラムだ」
店員は暢気に言って、視線をゲーム画面に戻す。
地球から来たらしいが、単純労働力としてやってきて、あっさり首を切られるかなんかしてここに流れ着いた落伍者だろう。このカフェがあるような区画には、遠心力で吹き溜まるゴミのように、こういう連中が集まってくる。
「なら地球に帰れよ」
俺が言うと、店員はちらりと視線だけをこちらに向けて、皮肉げに笑った。
「下よりこっちのがまだましだからな」
そして、店員はこう言った。
「月野郎」
俺は返事をせず、洗面所に向かう。
俺の名は川浦ヨシハル。
生まれも育ちも月面都市の、正真正銘月野郎だ。
顔を洗ってさっぱりすると、俺は自分のブースに戻り、再び端末にかじりつく。
月面証券取引所の、取引画面。
どれだけ失敗を重ねようとも、俺が金を稼ぐにはここしかないのだ。
この、月面のように荒涼とした、数字だけが踊り狂う、無味乾燥な世界で。
「汗水たらさず、金持ちになってやる」
地道に稼いでいる暇など、俺には存在しないのだから。
俺はもっともっと金を稼いで、月面都市の中心部に住むのだと決めている。死ぬほど頭のいい連中が大挙して集まって、この世の富の七割を独占しているといわれる場所。そこで思い切りいい暮らしをするのも悪くないが、俺の目的は、あくまでもそこから始まる。人類の富が積み上げられた、地球から遠く離れた、この都市の最先端から。
俺は自分を鼓舞するため、成功した自分の姿を思い浮かべながら取引を再開した。脳を興奮させる信号のように点滅する数字を見つめ、並行して夢想を爆発させていた頭は、あっという間に木星まですっ飛んだ。アドレナリンで視野が狭まり、血管が収縮し、息が浅く、速くなる。苦しいような心地よさに、口角が上がり、犬歯がむき出しになっているのがわかる。さっきの失敗も忘れ、取り憑かれたように取引を繰り返していた。だから、しばらくそのことに気がつかなかった。ようやく気がついたのは、頭を殴られてからだった。
「おい、坊主」
振り向くと、ブースの扉を開けてあの店員が立っていた。
「なんだよ、忙しいんだっ」
お前のくだらない顔を見ているその時間で、お前の百時間分の賃金を逃すかもしれないんだぞ、と睨みつけると、痩せぎすのトロンとした目つきの店員は、やれやれとため息をついた。
「ほう。そんなこと言うのか? 警察が見回りに来るぞって教えて──」
店員がすべてを言い終わる前に、俺は端末を鞄に突っ込んでいた。
「あ、おい」
押しのけてブースから出ようとする俺の肩を、店員が掴む。細いけれども節くれだっていて、大人を思わせる力強さがある。それでも、俺はこういう時のためにいつも、上着の胸ポケットに決まった金額を入れている。月面ではほとんど使われない、時代遅れの現物の紙幣だが、緊急時には役に立つ。
大好きなマフィア映画では、そういう札のことを、天使への名刺と呼んでいた。
俺はそれを掴んで、押しつける。
「釣りは取っとけ」
帽子をかぶり、鞄を背負い、狭い廊下を走りぬけていく。ブースの中でなにをしているのか、警官に職務質問されたらもごもご言葉を濁しそうな連中が、捕り物かとブースの仕切りから顔をのぞかせて、ごそごそと荷物をまとめていた。
汚いカウンター脇を抜けて、さらに汚い店舗の外に出る。はげまくったペンキと錆びた鉄が、ただでさえ狭苦しい造りのビルを余計に狭苦しく感じさせる。俺は廊下を外に向かって一直線に走る。突き当たりが階段の踊り場になっているが、最後まで速度を落とさない。どう足掻いても曲がりきれる速度ではない。そして、踊り場に足を踏み入れた直後、床を蹴った。
高々とジャンプして、コンクリート製の柵を越え、俺の体はビルの外に飛び出した。カフェはビルの五階にあったから、下を見るとなかなかの景色だ。俺はそのまま反対側のビルの壁に飛びついて、さらに壁を蹴って元いたビルの壁面を目指す。壁面を這っているパイプを足の裏が捕らえたら、思い切り上を目指して飛び上がった。
人間の遺伝子は何百万年もかけて地球用にチューンされているので、負荷トレーニングを欠かさなければ、重力の低い月ではこのくらいの芸当が誰にでもできる。
できないのは、日々のトレーニングを欠かさないというところだ。
壁から壁へと飛びぬけて、一気に隣のビルの、十四階の屋上まで飛び上がる。
さすがに息が上がるが、ちらりと階下を見下ろせば、二人組の青い制服を着た警官が、面倒臭そうに警棒で肩を叩きながら階段を上っているのが見えた。
あの店員には度々多めの支払いをして、便宜を図ってもらっている。今頃、支払いを精算して余った金を使い、鼻歌交じりに店のビールを開けているはずだった。
俺はいったん鞄を開き、端末画面を覗く。取引最中に逃げだしたので、ポジションがそのままになっている。この辺りにまでならぎりぎり無線通信がきているはずだったので、確認しなければならない。運良く上がってくれていれば問題ないのだが、こういう時は大抵──
「うぜえ」
俺はがっくりうなだれてから、損が出ているポジションをすべて手じまった。
朝一番の取引では儲けを取り逃すし、散々だ。
「……また今日も、儲けらんないのか……?」
俺は電源の落ちた端末を鞄にしまい、給水塔の脇で寝転んだ。
家を出て三ヶ月と十二日。
俺は初めて、取引の儲けが伸び悩んでいた。
この世で金持ちになる方法はいくつかある。
金持ちのもとに生まれるか、会社を興して大成功させるか、あるいは、大成功する会社を言い当てるかだ。
俺の実家はどう言い繕っても金持ちではなく、会社を興して世界有数の金持ちになるには何年かかるかわからないし、そもそもなにをしたらいいのかがまったくわからない。だが、最後の方法である、俗に投資と呼ばれる行為だけは違う。ルールが恐ろしくシンプルなのだ。
この投資の世界で、全知全能の神の次に成功したと言われる伝説の投資家が、そのルールを二つに絞り込んでくれた。
一つ、損をしないこと。
二つ、一つ目のルールを絶対に忘れないこと。
しかも、取引に参加するには年齢制限も、資格も必要なく、人種も、性別も、学歴だって関係ない。わずかの種銭とネット回線、それに度胸がありさえすればいい。たったそれだけで、規模は劣るものの、業界最大の企業とほぼ同じ取引ができる。そんな業界、ここにしかない。
そして、最も重要なことが、この世界で最も成功した人物こそ、人類で最も富を手にした少なくとも上位三人には入れるということだった。
現在の世界金持ちランキングの三位までは、人類のあらゆる活動を根底から支えるソフトウェアを開発した会社の創業者か、複数にまたがる新興国の経済をまるごと独占しているどう贔屓目に見てもマフィアの大ボスか、件の伝説の投資家の三人で長い間独占している。トップの額は現状八百億ムールあたりで、五年後には初の一千億ムールに到達するのではと言われている。
平均的な月面の勤め人の生涯賃金が二百万から三百万ムールだから、彼らは自分自身の資産で、二万人もの人々を一生働かせることができるのだ。
それが人類史的にどういう意味を持つかというと、ピラミッドを建てたエジプトのファラオに匹敵する。ファラオは数万人の労働者を数十年働かせてピラミッドを建て、人類の偉業の地図に新しい版図を付け加えた。ファラオはその当時、間違いなく人類の最前線に立っていて、歴史を作っていた。
その、ファラオを超えるほどの金を稼ぐ手段が、ネット回線とわずかの種銭で手に入るのだ!
ちまちまと学校に通うのが光の速さで馬鹿らしくなったのは、当然のことだろう。
そして、月面にはそういう夢を追いかける連中が溢れかえっていた。
元々、月面都市は地球という歴史と重力に縛られたあまりにも不自由な場所から自由になるために人々が見た、途方もない夢の結晶だった。だから、ここでは夢を見ることがある意味義務に近いのだ。
なぜなら、人々が夢を追いかけるというその熱意によってしか、絶対零度の宇宙空間に、快適な都市を維持する方法はないからだ。そうでなければ、軌道エレベーターで各種の資源を送り続け、大きな災害でも起きればほかに逃げ場のない月面に都市を築くなんて、あまりにも馬鹿げている。
人が最も馬鹿になれるのは、夢を見ているその瞬間こそだろう。
俺は家を飛び出してからこっち、その奔流に身を任せることが楽しくて仕方がなかった。月面都市のそんなノリが大好きだし、その波に乗ってどこまでも行くつもりだ。
けれど、取引による儲けはここしばらく伸び悩んでいた。株取引を始めて以来、勝ちしか知らなかった身としては、もやもやとした眠気にも似た苛立ちに苛まれていた。同じことをしているつもりなのに、結果が違うことが腹立たしくて仕方がなかった。
こうしている間にも金持ちはどんどん金持ちになり、人々は前に進んでいく。
ビルの屋上に座り込み、月面の景色を眺めていた俺は、腹筋に力を籠めて両足を上げると、そのまま逆立ちをした。体はこうして自由になるのだから、己の運命もまた然り。悩む暇があれば、頭を捻るべき。それに、俺はまだ伝説の投資家のルールを破ってはいない。儲けが出ていないだけで、損はしていない。
牙を研げ。集中しろ。休むな、怯むな、立ち止まるな。
自分に言い聞かせ、逆立ちをしたまま腕立て伏せをして、心臓に活を入れる。
血管の圧力が増し、血液が循環し、体温が上がる。運動の興奮は取引の興奮と似ていて、やってやる、という気分にしてくれる。
月面では絶対にお目にかからないが、石油で動く機械というのはこんな感じなのだろう。
黒煙を上げ、地球の重力にも負けずに突き進む様は動画で観た。
環境破壊もなんのその、俺が見習うべきは、そういう姿勢だ。
「……警官様も出てきたか」
ビルの屋上からの逆さまの視界に、非常階段をかったるそうに降りて来る警官二人組が見えた。狭い月面では行く場所などさしてなく、ろくでもない連中が逃げ込む場所は限られているので、目をつけられているのだ。
それに、月面は十八歳まで皆教育制が敷かれており、平日の昼間には十代の子供らが町にいない建前になっている。万が一捕まれば、問答無用で実家に送還の上、成人するまで数々の制約を課されることになる。
一刻も早く前に進まねばならない身としては、死刑を宣告されるのと同じことだ。
警官が路地に降り、表通りの喧騒に紛れて見えなくなってから、たっぷり十分は間を開けた。完全にいなくなったと確信してから、俺は鞄を背負う。そして、そのまま飛び降りた。
空中で体を丸めて姿勢を制御し、壁を蹴って向かいのビルに飛びつき、もう一度蹴って元に戻ると、三度目の蹴りで向かいのビル五階の階段踊り場めがけて飛び立った。
勢いを殺さず、欠片の無駄もなく目的地へ。
俺はミサイルのようにビルとビルの隙間を飛びながら、目的地の五階の廊下に文字通り飛び込もうとした、その直後だ。
「うわ!」
目の前に現れたのは巨大な緑。いや、アフロだと気が付いたものの、俺の体は慣性力に従って吹っ飛んでいて、しかも踊り場から廊下に入る扉が閉じていた。
「おわわわわ」
即座に両手を突きだし、手が衝撃を吸収しきる前に肘を折った直後、体を丸めて背中からぶつかりにいき、すぐに腕を開いて接地面を増やす。ジュードーの受け身の要領だ。
実家の近辺は低所得者層が多く、地球の物騒な地域からの移民が多かったので、彼らに教わって体術は一通り身に付けている。勝手に体が動いてくれた。
バン! と盛大な音を立てて扉に張り付いた俺は、頭を斜め下にしたまま、ずるずると踊り場に落ちた。
逆さまになった視界の先には、携帯ゲーム機を手にして目を点にしている、あのアフロの店員がいた。
「……なにやってんだ? お前?」
「……」
俺はすぐには返事をせず、とりあえず助かったことに安堵してから、体を起こした。
「……こっちの台詞だよ。なんで扉が閉まってんだ……」
「ん」
と、アフロの店員はゲーム機をいじってから、肩をすくめた。
「いやあ、すっかり忘れててな」
「なにを」
体に付いた埃を払ってから、扉を開けようとして、鍵がかかっていることに気が付く。
「あれ? おい、鍵なんかかけんなよ」
「だから、今日はもう店じまい」
「はあ!?」
「というか、向こう三日間休み」
俺は店員を振り向き、扉を見返し、もう一度店員を見た。
「なんだって?」
「いやー、すっかり忘れてたわ。今日からビルの害虫駆除でさ。ぼろビルのくせして、スラムにはしないってオーナー様の御意向よ。汚くしてると警官もうるせえしな。そういうわけで、資本家に振り回されるプロレタリアートの俺様は、こうして追い出されたってわけ。他の客も追い出すの大変だったぜ」
かちゃかちゃとゲーム機をいじる店員の横には、毛布とマットレスがあることに気が付いた。
前々から、こいつはあの店に住み着いているのではと疑っていたが、どうやら予想は当たっていたようだ。
「……じ、じゃあ、三日間は入れないってことか?」
「おう」
あっさり答える店員に、俺は口をパクパクとしてから、ようやく文句が出てきた。
「その間、どうしろってんだよ!」
この年齢だと、まともなホテルには泊まれない。野宿もあれはあれで危険なのだ。誰かに襲われるとか荷物を盗まれるとかより、人口密度が高い町なのでどこにでも人目がある。
そして、貧しい移民連中の多い場所ほど、ここを第二の地球にはしない、という月のスローガンに忠実だ。貧しくても高潔さを失わない、というわけで、月面都市の周辺部は見た目ほど荒んでいないし、治安もかなりいい。
平均所得の高い町ならなおさらだ。
だから、細かいことにとやかく言わないこの店の存在をネットでたまたま知ったのは、本当にありがたいことだった。
それが、三日間の休業。
取引中に邪魔をされるし、散々だ。
「最近、この辺は警官の取り締まりも厳しいしなあ」
店員は他人事のように言って、ちらりと俺を見るとにやりと笑う。
「また警官に聞かれたぜ。怪しい小僧を見なかったかってな」
最近この辺りで、無銭飲食やらを繰り返している奴がいるらしい。おそらく、無計画に家出をして、資金のなくなった馬鹿だろう。しかも厄介なのが、特徴が俺にそっくりということなのだ。
「俺は、その馬鹿な家出野郎じゃない」
「わかってるよ。なにやってるか知らないが、お前、ずっとブースから出てこねえからな。アリバイはばっちりだ」
支払いがきっちりしているので、そういう面では俺は信頼されているはずだ。
しかし、だからといってこの状況が改善されるわけではない。
俺は悩んだ後、アフロに言った。
「おい、地球野郎。似たような店に心当たりはないのか?」
月面都市は中心部の摩天楼群から、同心円状に街並みが形成されている。
この辺りは周辺部もいいところで、遠心力の吹き溜まりだ。
似たような店の一軒や二軒くらい、あるはずだった。
「それが人にものを聞く態度かね」
「その分、金は払ってるつもりだ」
チップみたいな非合理な習慣は月面にはないが、地球産の映画で観たうらぶれた通りでは、いつもそれが大きな効果を発揮していた。
アフロ野郎はがしがしと頭を掻いて、肩をすくめた。
「ったく、月野郎は生意気なくそ餓鬼ばっかりだな」
「大きなお世話だ」
吐き捨てる俺に対し、アフロはどこか楽しげだ。
こういう場所の、違法すれすれの店で働いている奴の余裕かもしれない。
あるいは、重力が月の六倍の地球から来た、落ち着きというやつだろうか。
「とはいえ、お前は確かにうちのお得意様だからな、むげにはしたくねえが……他の店に行って、そっちに居つかれてもなあ」
「ああ?」
金の要求かよ、と俺は眉を顰めながらも、支払うしかない。むしろ金で解決できるならそうすべきだ。
俺は喉の奥で唸りながら、命と同じくらい大切な金を、ズボンのポケットから取り出そうとしたら、大きなアフロがもさりと動く。
そして、店員の手には、メモ用紙があった。
「ここに行けよ」
「……は?」
このご時世に、メモ用紙。地球で言えば、魚屋でシーラカンスを売るようなものだろう。
俺はそれを受け取りつつ、訝しがった。
「住所? お前の家か?」
「俺の家は絶賛燻製中だ。違う」
やっぱりこの店員は店に住んでいるらしい。月面の中でも相当の落伍者だ。
「じゃ、なんだ? 役所の福祉課かなんかか」
「んあ、まあ、似たようなもんかな」
「はあ?」
まさか家出をやめて家に帰れなんて説得するつもりかと思ったが、アフロの店員は再びゲーム機に戻りながら、言った。
「昔、俺も世話になったところでな。お前みたいなのを匿うのが趣味な奴がいんだよ」
「……」
夢を追いかける場所、と言えば聞こえはいいが、要は拝金主義のせいで金色に輝いているようなこの月面で、そんな奇特な奴がいるものかと耳を疑った。
しかし、店員が特になにかを企んでいるようにも見えない。
「店の燻製が終わるくらいまでは泊めてくれるだろ。俺からも連絡入れといてやるから」
そう言われても、メモを手にしたまま動かない俺に、アフロはいたずらっぽく笑っていた。
「まあ、怪しいよな。わかるぜ。俺も最初は信じられなかったからな」
「ここになにがあるんだよ」
「さてね」
俺が尋ねても、アフロははぐらかす。
「だが、行けばわかる」
「おい、真面目に──」
「俺たちは、そうやって月に来たんだぜ」
アフロの下から、思いのほか鋭い視線が向けられて、俺は言葉を続けられなかった。
だが、アフロはすぐに視線を緩めると、半笑い気味に言った。
「お前みたいな荒んだ小僧に必要なのは、他人の厚意を受け入れる余裕というやつだ。こんな場所で働いている、俺みたいな奴にできる数少ない助言だ」
「……」
アフロはそう言って、ゲームに舞い戻る。
ぴこぴこという、いかにも古臭い電子音が、妙に大きく響いている。
「ああ、それと、店が開いたらすぐ戻って来いよ。稼ぎがないと飢え死にだからな」
不敵な笑みは妙な厚みを持っていた。こういう場所で長く暮らしている地球人によく見られる特徴だった。彼らのほとんどが、重力のきつい、ろくなことのない地球から、苦労の果てに月面にやってきている。たとえ月面で挫折したとしても、なにかしらの重みが感じられる。
俺は、そこのところにわずかながら敬意を表し、メモをポケットにしまってやった。
「いたずらだったら、ここから下に投げ落とすからな」
「へっ。このアフロがあれば大気圏から落ちてっても怪我しねえよ」
「言ってろ」
俺は吐き捨て、鉄製の柵に足を乗せた。
「階段使えよ」
アフロが、視線も向けずに言ってくる。
「ちまちまそんなことしてられるか。俺は忙しいんだ」
「いいね。どこまでも飛べ、月野郎ってか」
明らかなからかいだったが、なぜかそこには本当に励ましのようなものが感じられた。
俺はついそちらを振り向き、動きが止まる。
すると、アフロがもさりと動き、視線が向けられる。
「どした?」
「なんでもねえよ」
ぶっきらぼうに答え、ぐいっと体を柵の上に持ち上げて、向かい側のビルに向かって飛んだ。
反対側のビルの壁に飛びつき、再び壁を蹴る時に見ると、踊り場から俺のことを見上げていた店員が笑っているように見えた。
「どこまでも飛べ、か」
俺には夢があった。俺の夢は、前人未踏の地に立つことだ。
そこは前しか見る場所がなく、進むことで存在するこの世の端なのだ。
そして、その夢が実現しなければ、俺は生きている意味がないと本気で思っていた。
俺が心配するのは金がどれだけ増えて、どれだけ早く目標に達するかであり、手段を選んだり、後ろを振り向いている場合ではない。あのアフロの言うとおり、どこまでも飛ばなければならない。誰よりも早く、誰よりも高く。
俺は風の中で鼻を鳴らし、書かれた住所に向かったのだった。